小田原城は巨大なお城です。
15世紀末に伊勢新九郎盛時(北条宗雲)が小田原の大森氏から小田原城を奪取し、以後、後北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。
2代氏綱の時代に居城を小田原城に移して以降は、関東支配の中心拠点として拡張整備され、3代氏康の時代には上杉謙信、武田信玄の攻撃に耐えています。
そして、次の写真の図が、小田原城総構えの全体像。
天正15年(1587年)ごろから、豊臣秀吉の来攻に備えて、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁・空堀ですっぽり取り囲む「総構え」が築かれ始め、天正18年(1590年)の「小田原征伐」に至っています。
この時点での総構えの規模は、後の豊臣大阪城の総構えをしのいでいたということです。
その後、慶長19年(1614年)小田原城の総構えは徳川家康により撤去されており、現在、小田原城址公園として整備されているのは近世に大久保忠世・稲葉正勝によって改修された部分です。
なのでたいていの観光客は、小田原城といえば城址公園の復興天守や常盤木門、銅門などを中心とした城址公園をイメージするんですが、実は総構えは完全には撤去されておらず、現在も北西部を中心に遺構を見ることが出来ます。
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さて、3月にワタシの「城攻めのお師匠サマ」サイガさんこと新津竜一さんのご案内で、それら北西部の遺構のうち残存状態が良好な総構え(外郭)を回るオフ会ツアーを企画して、ツイプラで参加者を募ることになりました。
で、その今回はサイガさんとTwitterフォロワーのしみずさん、tantanさん、それにワタシの4人でそのツアーの下見に小田原城へ~!
●小峯御鐘ノ台大堀切
城山陸上競技場に車を置いて、まずは小田原城外郭でいちばん有名?な小峯御鐘ノ台大堀切へ。
小峯御鐘ノ台大堀切は東堀・中堀・西堀の三本の堀切の総称です。
西から本丸方面へと続く八幡山丘陵の尾根を分断して城を防御するために、後北条時代末期に構築されたものだということです。
先ほどの全体図でもわかるように、外郭のうち西方向に向って、尻尾のように突き出した部分があるのですが、この大堀切はその尻尾の付け根部分にあたります。
この異様に突出した部分については、もともとはこの堀切までを外郭と考えて、三重の堀切で厳重に尾根を分断したものの、尾根続きの攻撃を計画してさらに外郭を延ばしたのではないか、という説もあるようです。
<東堀>
小峯御鐘ノ台大堀切東堀は案内本やパンフレットでもよく取り上げられていますが、幅が約20~30m、深さが土塁の頂上から約12mあり、法面は50度という急勾配。
現在堀底が遊歩道になっているので、土の城のダイナミックさを手軽に味わえる場所になっています。
・・・写真だとこのダイナミックさは写しきれないんですけど、人が入ると大きさがなんとなくわかるかも。むやみに斜面を登ったら危ないですよ~☆
その足元(堀底)をよく見ると、なんとなく畝状に地面が凸凹していて、両側の斜面(法面)もそれにあわせて波打っているようです。
北条氏が拡張した部分ですし、もともとは畝堀なのかもしれないですね!
堀自体も途中にしっかりクランクがあって、見通しが利かなくなっています。
堀底に敵が侵入してきてもしっかり横矢がかかる、というか十字砲火が集中しそう!(笑)
<中堀>
小峯御鐘ノ台大堀切中堀は、現在は車も通れる通路になっています。
中堀もまたしっかりクランクがかかっていて見通しが利かないとともに、東堀に直接つながる枝堀の「御鐘ノ間堀」もあって、一種迷路のようになっています。
また、「御鐘ノ間堀」と東堀がT字にぶつかっている交差点部分は、3~4mほどの高低差で東堀の方が深くなっています。
東堀と中堀の間にある郭は、どれも中堀側に向って土塁が築かれています。
なぜか東堀側には土塁はありません。
<西堀>
小峯御鐘ノ台大堀切西堀は、看板はあったのですが、私有地の畑の中にあるようで、土塁を遠めに見るしかできませんでした。
もしかしたら西堀が外郭の堀に落ち込んでいるところが見れるかも?
ということで、みかん畑の間を下りていくと・・・
ありました!
写真ではちょっと判りづらいですが、土留めのブロックの上方が西堀。下方の外郭横堀との間に3m程度の高低差で合流しています。
土留めブロックのところに登って下を見たところが次の写真。人のいる場所が堀底に当たります。
みかん畑の間の道に戻り、そのまま関東学院大学の方へ向うと、小田原城外郭の切岸がよく見えます。
すっかり大学の敷地内になってしまったようで、どこから仕寄り遺構が出てきたのかは全くわかりませんでした・・・が外郭の切岸から割とすぐのところまで豊臣軍が押し寄せていたんだなぁ、と感無量☆
この尾根は関東学院大学のある谷を挟んだ反対側の丘陵と尾根続きになっています。
そちらの丘陵には羽柴秀次・秀勝などの豊臣勢が陣を張っており、尾根伝いに攻められる可能性があることや、尾根でいちばん高い場所である御鐘ノ台の先端部分を敵に取られると、三重堀で厳重に防御を行っていても防御しづらくなるということで、小峯御鐘ノ台部分に縄張りを伸ばしたものと考えられます。
「御鐘ノ台」という名はこの場所に陣鐘が置かれたことからきているようです。
先端に向って細い道がずっと続いているのですが、入りやすい場所があったので道を逸れて斜面を降りてみると・・・
おそらく水ノ尾口につながる御鐘ノ台南側の外郭堀と思われる切岸と土塁に遭遇♪
北条氏得意の二重土塁?横堀がずっと御鐘ノ台に沿って続いています。
そして、その一角に四角く区切った空間をとりまく土橋様の土塁を発見!
位置をちゃんと把握し切れてないのですが、もしかしたら張り出しのひとつなのかもしれません☆
小峯御鐘ノ台の先端まで行くと、尾根で一番高いところなだけあって、外郭の北側の空堀や切岸が続いている様子が見えます。そして、その向こうの海まで!
天正18年(1590年)の小田原の役の際には、守備をしている兵はどんな気持ちでこの風景を眺めていたんでしょうね・・・
●総構稲荷森
小峯御鐘台大堀切から北側の尾ね伝いに、車が1台通れるくらいの細道をずっとたどっていくと、看板に気がつかなかったら、うっかり通り過ぎてしまいそうな細い道があります。
その細道を入っていくと・・・
竹林の奥に、いきなりどかーん!と壮大な横堀が。
堀底に人がいると、その壮大さがよくわかります☆
この稲荷森は小田原城をぐるっと取り囲む外郭総構えの一部を構成する横堀で、後北条氏の城でよく見られる二重土塁になっています。
この稲荷森から東側にずっと小田原城の外郭の総構え遺構がよく見えます。
そして、豊臣軍がひしめいていたであろう反対側の尾根も・・・。
●山ノ神堀切
稲荷森からさらに東に向かうと、道の北側にいきなり尾根が幅の広く堀状に抉られて?いる場所が現れます。
この堀切は次の地図の赤丸部分にあたりますが、内側にも谷が入り込んでいるので、その谷に向って堀を横断させることで、この谷津丘陵を東西に分断しています。
何か、丘陵上をそれぞれ独立させる意図があったのでしょうか・・・
この山ノ神堀切から外側に出ると、外郭をめぐる総構が看板で示されたように二重土塁になっているのがよく見えます♪
・・・ですが、埋まって浅くなってしまっているので、写真だとよくわからないですね(汗)
現地に行くと、もっとよく判るんですが☆
●慈眼寺の横の道
総構えのある谷津丘陵から、ぐるっと回って城の内側に降りてみました。
実は小田原城の西側部分は一様に高くなっているわけではなくて、一番高くなっている御鐘ノ台から北の谷津丘陵、真ん中の八幡山丘陵、南の天神山丘陵、と三方向に丘陵が伸びていて、その間に谷が深く入り込んでいます。
この谷が、本郭のある八幡山の、いわば南北の「堀」のような位置関係になっているようにも見えます。
この「北側の防衛線」にあたる谷津丘陵を分断していたのが山ノ神堀切でしたが、地図を見るとその延長線上に、丘陵の内側に向って伸びる一本の竪堀があります。
上の写真の道が、その竪堀にあたります。
ちょうど、城山陸上競技場に向って伸びる谷にある、慈眼寺というお寺のすぐ横になります。
(写真の左側がお寺方向)
このお寺の前、実は不自然にぐいっと登る坂道になっています。
丘陵を分断する意味はやっぱりよくわからないです☆
というわけで、ぐるりと回ってオフ会ツアーの下見終了!
といっても、小田原城のほんの一部ですが・・・見どころ満載なので、参加者のみなさんをうまくご案内できるといいなぁ♪