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2014年8月25日月曜日

さくっと会津鶴ヶ城♪

ワタシの別ブログ「つれづれなるままに・・・natchdesの雑記帳」でも書いてるんですが、この夏の家族旅行は南会津方面から始まって、「塔のへつり」や大内宿を経て会津若松に入りました♪

で、会津若松では雨にたたられながらも、2日間のんびりと町を楽しんだのですが・・・

なんたって会津若松といえば、やっぱりトピックスは鶴ヶ城!

というわけで、これは城ネタでもありますし、他の話題とは別に特出しでこちらの「お城備忘録」ブログに書くことにいたしました☆

   ※ちなみに、鶴ヶ城以外の状況はこちらをクリック!
      → 1日目「大内宿と塔のへつり」 ・ 2日目「涙ナミダの飯盛山」
         ・ 3日目「会津武家屋敷と日新館」


で、当日朝。
前夜宿泊した湯野上温泉を出発して、阿賀川沿いに国道118号線を走ってまっすぐ御城下へ。

鶴ヶ城は、幕末に戊辰戦争で激戦地となりました。
慶応4年(1868年)8月、会津若松に侵攻した新政府軍に対する会津藩主松平容保以下5000名は鶴ヶ城にひと月籠城し、城は1日に2500発もの弾丸を浴びたそうです。

開城後に、砲弾で傷ついた天守は破却され、その他の建物も全て解体されたため、現在の天守および走長屋は昭和40年(1965年)に、南走長屋と干飯櫓は平成13年(2001年)に、古写真を元に再建されたものです。




で、現在の鶴ヶ城の案内板。この図は普通の地図と違って左側に北が来ているので、車で来ると方向感覚が少々混乱するのですが・・・

地図の一番下に左右に走る国道118号線を右から左方向に「北上」してきて、現在駐車場となっている西出丸に直接入ろうとしたら、「一方通行出口」のため入れません!(><)

で、仕方なく通り過ぎて次の信号を右折(地図の上方向)すると、駐車場の案内が見えたので、それに従って城方向に曲がると・・・

何の心の準備もなく、いきなりお堀端を鍵の字に曲がって、立派な石垣の虎口から北出丸へ!

きゃー!すごいすごーい☆

と叫びながら、でも車は次の瞬間にはまたも虎口を通り抜けて外へ・・・
この間、写真撮れず(^^;)

で、そのまま車はお堀端からまたも立派な石垣の虎口を通って、今度はそのまま西出丸駐車場へ。




この写真は西出丸駐車場を取り囲む土塁の上から撮ったものです。





本当は、お城の大手は車で通り過ぎてきた北出丸からまっすぐ椿坂を上がっていくのですが、駐車場は西出丸だったので、車を降りてそのまま本丸に向って梅坂を登ると・・・




真正面にそびえる見事な石垣!本丸西の帯郭に続く枡形の虎口になっています。
そして左手の石垣上(櫓台?)には鐘楼が。

この鐘撞堂の鐘の音は、会津戦争の際の籠城戦で時守が撃たれても、別の者がこれを鳴らして正確な時を告げ続けて、開城の時まで止むことがなかったといわれています。




見事な石垣に、あっちでもこっちでもみんな写真やビデオを撮ってる(笑)

そのまま天守閣めざして歩いていくと、、帯郭から本丸に向って少し上がるようになっていて、そこが「蒲生時代の表門」です。




鶴ヶ城は、もとは黒川城といって、至徳元年(1384年)の築城以来、戦国期を通じて蘆名氏の居城でした。

天正18年(1590年)小田原北条氏攻めの奥州仕置きにより入封した蒲生氏郷により、文禄元年(1592年)より改修に着手され、望楼型7重の天守が竣工するとともに城の名も「鶴ヶ城」に改められています。

そして城主は上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明・明成と変遷。
寛永20年(1643年)に徳川3代将軍家光の庶弟である保科正之が入封し、以後、会津松平(保科)家の居城となって明治維新を迎えます。




嘉明の子の明成の時に西出丸・北出丸の増築や空堀から水堀への変更、会津地震により倒壊した天守を現在の層塔型5層天守に組み替えるなど城域全体におよぶ大改修が行われました。

ただし、天守の改修は加藤嘉明の時ですが、天守台の石垣は、石蔵入口の石積み方法から蒲生氏郷時代のものと推定されているそうです☆




天守の上からは、大手門の枡形や、渡り櫓に簡単に上り下りできるように工夫された「武者走り」のV字階段がばっちり見えます!

大手門の反対側には、天守から南に向って伸びる走長屋。
途中で鉄門の渡り櫓で折れて、さらに南走長屋が干飯櫓まで続いています。




反対に干飯櫓から鉄門越しに見た天守。平成23年(2011年)に、幕末に近い姿に葺き替えられた赤い瓦が美しい~♪

表面に鉄分を含んだ釉薬を塗って焼いた赤瓦は、水がしみこみにくく強度が高いため、会津の厳しい冬の寒さや凍結への耐久性が高いのだそうで、鶴ヶ城天守の瓦は、加藤時代には黒瓦であったものが、保科正之が藩主だった慶安元年(1648年)ごろに赤瓦に葺き替えられたのだとか。




干飯櫓からは堀沿いにずっと土塁の石垣上を歩くことができます。
石垣には所々に横矢掛かりの折れや櫓跡があって、なかなかゴキゲン♪




城下南方の物見櫓で、常に武器が納められていた「月見櫓」。
櫓にかかる月が一際美しかったことから、そのように呼ばれたそうな。




そして、茶室「燐閣」の上に位置し、主として貴重な茶器類が納められていた「茶壷櫓」。
「茶壷櫓」からは、二の丸から本丸に通じる朱塗りの「廊下橋」が真横から見えます。




蘆名時代には屋根のついた廊下造りだったので「廊下橋」と呼ばれたそうで、加藤明成の大改修までは、ここが大手口だったそうです。

そのため、橋自体も有事の際にはすぐに落とせるように木橋になっており、「茶壷櫓」が廊下橋の横矢掛かりとして側面からしっかり守りを固めていました。

また、堀側の石垣の高さは20mもあり、橋を落としてしまうと容易には本丸に近づけなかったものと思われます。



石垣上を廊下橋のすぐ上まで近づいてみると、橋の本丸側は高い石垣でがっちり固められた枡形虎口。

この石垣上から枡形虎口にすぐにでも降りていけそうに見えるのですが・・・
実は一度石垣から本丸側に降りないと、この廊下橋の虎口にたどり着くことはできません。(>o<)

しかたなく、くるりと石垣の内側を向くと、木々の向こうに天守閣と走長屋の赤瓦が綺麗だぁ~!





石垣を降り、本丸内を突っ切って「蒲生時代の表門」から外に出て、北側の帯郭を通り抜け・・・
廊下橋の真上からの移動のはずなのに、虎口まで結構遠い!!




ちなみに、右側の石垣の上の柵のあたりから橋と虎口を見下ろしていたわけですね☆
飛び降りれそうにも見えますが・・・人と比較すると、実はめっちゃ高い石垣だということがわかります(^o^;)






橋を渡って二の丸側から虎口を見たところ。
攻めて行って、生きて帰れる気がしません(笑)

さて、廊下橋から再度帯郭に戻り、ほっかむりをした狛犬ならぬ狛狐のいる鶴ヶ城稲荷神社へ。




このお稲荷様の裏手から、太鼓門が見えます。
北出丸から本丸に通じる大手門のことで、この石垣の上に多聞櫓が建てられ大太鼓が置かれていたようです。




天守の上から見えていた「武者走り」。
鶴ヶ城では、石垣に登る向かい合わせに造った石段(合坂)のことをそう呼ぶようです。




ここでは太鼓門に容易に昇り降りができるように設置されているようですが、実際には石段の横幅がかなり狭くて、冬は雪が降ったり凍りついたりしたら滑り落ちそうで怖いです☆

太鼓門を出て椿坂を下ると「みなごろし丸」との異名をもつ北出丸。
堀沿いに進むと、敵を迎え撃つための「大腰掛」が今でも残っています。




そのまま北出丸から土橋を渡って外へ。
北出丸はぐるりと堀に囲まれて島のようになっていて、出入りは三方向の土橋のみです。




そして、駐車場の西出丸まで戻ってきました~!
さくっと鶴ヶ城ひと回り。お疲れ様でした(^o^)ゞ




ちなみに、今回の鶴ヶ城での戦利品(?)

たまたま売店をのぞいたら、「鶴ヶ城の御朱印」があってびっくり!
他のお城では見たことがないのですが、歴代城主の家紋が押されていて、いい「登城記念」です♪




そして、平成17年(2005年)に開催された「若松城天守閣再建40周年記念企画展」の図録があったので、これもGET♪

蒲生氏郷、上杉景勝、松平容保の3人にスポットを当てたものだったようで、展示物もかなり充実していたようです。行きたかったなぁ・・・

・・・ということは、50周年はもしかして平成27年(2016年)?!

2014年6月18日水曜日

義経の腰掛松 経由 石母田城 阿津賀志山防塁番外編 

福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、阿津賀志山防塁に行ってきました。

その様子は当ブログの別記事(「ココロの目で見よ!」阿津賀志山防塁、日帰り旅)に詳しく書いてありますので、そちらをご覧いただくとして・・・


食堂やコンビニくらいどこにでもあるだろうと高をくくって、お昼ごはんを持たずに散々防塁遺構を歩き回ったのですが、ぺこぺこにお腹が空いたときにふと気がつくと、どこにもお昼を調達できるところがない!

それで、町役場からいただいたパンフレットに写真つきで載っている史跡なら、付近に何かしらあるんじゃないか~?とさ迷い歩いていたところ、行き着いたのが「義経の腰掛松」。

そのパンフレットによれば、「義経の腰掛松」というのは阿津賀志山防塁遺構のある石母田地区の鎮守国見神社の西側にある赤松の名木で、源義経が奥州平泉に行くときに腰掛けて休んだと伝説があるそうです。

で、パンフレットの写真では、こ~んな立派な松がある・・・はず。


ところがところが・・・

「義経の腰掛松」の看板のそばには松の若木とちょっと傾いたような小屋?があるばかり。
小屋の中をのぞくと、どうやら古木の切り株様のものがあるようです。




小屋のそばに立っていた看板によると、確かにここには江戸時代に植樹された樹齢200年の松の古木があったようなんです。

ところが、松くい虫にやられてしまい平成25年にはすっかり枯れてしまったということです・・・Orz
で、そばに立っていた若木が、元の木から接穂して育成しているという「腰掛松」の幼木なのでしょう。





そして、腰掛松のあたりは斜面に果樹園の広がるのどかな風景があるばかり。
「お店」らしきものの影も形もありません・・・

で、今度はそこから600mほど離れた石母田城跡へ。
この城跡は町史跡らしいし、パンフレットの写真ではちょっと公園ぽい上、地図では集落の中にあるらしい。。。





集落には入ったものの、通り過ぎる車はあっても歩く人はなく「なんで今ごろこんなところを歩いてるんだ?」的なアウェー感をなんとなくひしひしと感じながら、たどり着いた石母田城跡。



やっぱりお店らしきものの影も形もなし。

そのかわり、とても素敵な「石母田城復元図」の看板!

見ると自分たちのいる場所は、どうやら「的場虎口」であるらしく、舗装路になってしまってはいますが土橋が残っています。

そして土橋の左手、的場のあたりは民家になってしまってますが、うっすらと堀の形跡が残っていて、土塁も「出角」の折れが確認できます。

そして、土橋の右手方向には「外堀」と思しき水路が。。。

これはいい感じじゃん~♪と再度「復元図」を見直してみると、本郭の入口は2ヶ所。1ヶ所は橋を渡って翳土塁の虎口、もう1ヶ所は馬出郭からの土橋!

そして本郭周囲の土塁には屏風折れも見られるようだし・・・☆

これはもうお腹の空いたのなんかどこかへすっ飛んでしまって、まずは翳土塁の虎口への橋を探しに、「的場虎口」からまっずぐ南下。

・・・ところが行けども行けども民家。その向こう側に本郭らしきこんもりとした茂みが見えるんですが、その前に大きな農家?が並んでいて、そちらへ行く道が見当たらない。。。

気がつくと、いつのまにか「三の郭」のあたりまでスルーしてしまってる?
え?橋に行く道なんてなかったよ?

念のためもう一度もと来た道を戻ってみたけど、どうやら位置的には民家のお庭に入っていった先になるらしい。

で、家の脇の畑のふちから行けないかと入っていったところ、藪に埋もれた丸堀には行き着きました。が、橋は確認できず。

仕方なく、今度は最初の土橋から右方向に、土塁の屏風折れを確認しに外堀?の水路に沿って進みました。

・・・確かに丸堀から先、金網の柵と猛烈な藪の向こうにかなり高さと厚みのある土塁が見えます。
しかし、まったく手も足も「ココロの目」さえも出ません・・・!

そのうちに西虎口のあたりまで来てしまって、また民家が並んでいます。
あまりに不毛なのでお腹が空いてるのも思い出してしまい、ここでココロが折れました☆

まぁ、空腹のほうはこの後車まで戻って、そこから5kmほど離れたコンビニまで行って食料調達したので解決できたのですが。。。

石母田城。パンフレットにも紹介しているし「復元図」もしっかりしてるのに、遺構を確認できるようには整備されてないのがものすごく残念でした・・・Orz

国見町役場さん、観光資源が整備されて観光客が増えれば復興にも役立つと思うので、ぜひがんばってくださいませ!


「ココロの目で見よ!」阿津賀志山防塁、日帰り旅

4月に韮山の陣城攻めをやったときに、打ち上げ飲み会の席で、その日ご同行いただいたナワバリスト(城郭研究家)の西股総生先生から「阿津賀志山の防塁は非常にすばらしいので、一度見に行ったほうがいい」というお話を伺いました。

で、その場で「ぜひ行きたい、行こう行こう!」という話になり、そのとき一緒に参加していた東海の城好きさんたちも含めて秋に踏査に行くという話がその場でまとまった・・・ようなんですが。

以前はそんなことなかったのに、近頃お酒を飲むと記憶が吹っ飛んでしまうワタシ☆

今回もまた「やっちゃった」らしく、「秋に行く」話が思いっきりアタマからすっぽ抜けてて、秋の予定では都合が悪いので早めに行こうというツイッターフォロワーのtantanさんのお誘いにちゃっかり便乗することにしちゃったのでした。。。

ま、どちらにしても、秋のその時期はワタシも都合がどうなるかまだわからないし・・・秋の踏査にもご一緒できるのなら、これが「下見」ということで(^^;)


そんなわけで、阿津賀志山防塁まではるばる車で片道4時間の行程を日帰り爆走旅と相成りました☆

阿津賀志山防塁は福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、平安時代末期の防塁(防御用の堀や土塁、またそれらをめぐらせた砦)の跡です。

鎌倉幕府による文治5年(1189年)の奥州征伐(奥州合戦)で、源頼朝軍と迎え撃つ奥州藤原氏の軍が、福島盆地の北端に位置する阿津賀志山(現:厚樫山 標高289m)の周辺で戦った「阿津賀志山の戦い」の際に、奥州藤原氏の防御施設として使用されたもので、阿津賀志山の中腹から阿武隈川までの約4kmの距離に築かれていたと推定されています。





ワタシと同じく埼玉県民のtantanさんの車で東北道をひた走り、途中那須高原SAでメープルシロップがたっぷり入った「もちもちドーナツ」とコーヒーを堪能しながらひとやすみなんぞしながら、まずは福島県国見町観月台文化センターに到着。

実はtantanさんが事前に国見町に問い合わせて資料を取り寄せてくれてたのですが、そのときに親切に対応してくれたのがこの観月台文化センターだったのだそうです。

また、ブログでいろいろ検索したら、どうもこの文化センターの歴史資料室には防塁のジオラマがあるらしいのです♪

ならば最初に立ち寄って、ジオラマや資料でお勉強してから現地に臨もう!と中に入ってみると・・・なんか様子が変?

なんかパーテーションでいろいろ区切られてごちゃごちゃしてるし、振り返るとそこにあったドアの上に掲げられた表札に書いてあるのが「町長室」?!

よくよく受付らしきところで聞いてみると、東日本大震災で町役場が被害を受けてしまい、この文化センターに避難してきてるのだそう。

よって、歴史資料室も現在非公開、だそうです。。。残念!

後でもともとの町役場の場所を通りかかりましたが、敷地内に重機が入っているものの、すっかり更地になっていました。秋にみんなが行くときもまだダメかもなぁ・・・

一刻も早く復興しますように・・・!(>人<)


さて、それではいよいよ阿津賀志山防塁です。



奥州軍は、阿津賀志山中腹から阿武隈川に至る長大な三重の防塁を築き、堀に阿武隈川の水を引いて、国見町のある伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境とする大防衛線を築きました。

総大将は藤原泰衡の異母兄藤原国衡で、二万の兵を配備して迎撃体制をとったと言われています。

阿津賀志山防塁が築かれた一帯は現在も東北本線・国道4号線・東北自動車道が並行して走っている通り、地形上、古くから北上するには必ず通らなければならない交通の要衝なので、南からの攻撃に対する奥州藤原氏の本拠・平泉守備の最前線基地として重要視されていたポイントだろうと思われます。

一方、藤原氏の討伐のために鎌倉を出立した鎌倉幕府の軍勢は三手に別れ、頼朝の大手軍は鎌倉街道中道から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤の東海道軍は岩城岩崎方面へ、比企能員の北陸道軍は越後から出羽方面へ、それぞれ進攻しました。

「吾妻鏡」によれば、大手軍は騎馬武者では先人の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員、さらに道中で各地の豪族を加え、推定される総勢は二万五千以上の兵力だったと言われています。



二万と二万五千の兵がここで激突したのか~☆

結局大激戦の後、幕府軍の一部が鳥取越(現:小坂峠)から迂回して奥州軍の後陣を奇襲し、奥州軍は混乱。

出羽方面に逃れようとした藤原国衡は、追撃した和田義盛に討たれて勝敗が決し、自軍の大敗を知った藤原泰衡は多賀城から平泉方面に退却しました。

この戦いの大打撃により、奥州藤原氏に大規模な合戦を行う余力はなくなって、散発的な抵抗は続くものの、最後には本拠地の平泉が陥落して滅亡に至ります。





さて、いよいよ阿津賀志山防塁を、南の阿武隈川に近い下二重堀地区から北の阿津賀志山に向かって遡っていくことにしました。

これが下二重堀地区の防塁遺構です。。。





・・・やったー!二重堀三重土塁~!!!
薄いながらもしっかりと綺麗に土塁と堀が残っています♪

そして、写真の奥にかすんで見えるお饅頭形の山が、阿津賀志山ですが、遠い~☆
あんな遥か彼方まで防塁を築いていったなんて・・・その労力たるや、想像もつきません。



調査によれば、もともとはこのような断面になっていたのだそうです。
図面でもすっかり薄くなってしまっている様子が書かれていました。

土塁と堀は地形をよく活かして作っている様子がここでもよくわかります。



防塁遺構の一番南側は、欠下橋のあたりで滝川という川に接しています。

写真で、真正面奥から遺構が川に向かってまっすぐ来ているのがわかりますでしょうか?(わからないかも・・・)

ちなみに阿津賀志防塁の外堀側は水堀だったという説もあります。

地図をよくよく見ると、滝川は川内地区で東側の牛沢川とT字路状に合流して、非常に人工的な流路で阿武隈川に流れ込んでいます。

欠下橋の辺りは古河道だという話もあるので、古には阿武隈川は今よりずっと北側を流れていて、現在の欠下橋から下流の阿武隈川までの流路は、阿武隈川の流れが変わった後で作られたものなんじゃないかな、と想像できます。

そして、もし本当に防塁の外堀に水を引き込んでいたのなら、この地点から直接阿武隈川の水、ということなんだろうな、という形状です。

ただし、この場所は阿津賀志山防塁では一番低い場所にあたります。

いかに阿武隈川が大河であったとしても、阿津賀志山に向かって徐々に上がっていく長大な防塁の堀に低いところから水を引き込むというのは、かなり自分の中ではギモンです・・・☆

とりあえず、今回は「下見」なので(笑)このギモンは秋に持ち越すとして。。。


阿津賀志山防塁の遺構は全長約4kmすべてが残っているというわけではないので、所々残っているところをたどって行きます。


で、次に行ったのは、下二重堀地区から県道320号線を北に渡ったところにある、高橋地区。

行ってみると・・・あった~!
tantanさん号よりも背の高い土塁が阿津賀志山に向かって伸びています!



下二重堀地区からちょっと北上しただけなのに、阿津賀志山が少し大きく見えるようになった気がします。

ただし、二重土塁の堀底はひたすらこーんな藪やぶ。
少し入ってみましたが、腰まである雑草群に足元はぬかるんでずぶずぶ。

ちなみにワタシは半分くらいで挫折して外側から出口に向かいましたが、tantanさんは堀底から土塁に上がって出口まで歩き通しました。さすが!

きっと晩秋くらいになれば、ここも草が枯れて遺構もよく見えるようになるし歩きやすくなるんでしょうね~☆

ちなみに次の写真は、高橋地区の意向を北(阿津賀志山側)に抜けたところから阿津賀志山方面を眺めたところです。


畑が広がっていて、遺構はすっかり見当たらなくなってしまってるんですが、よくよく見ると左側の道路から畑に向かって盛り上がっているラインが、実は土塁ラインの続きになっているようです。

畑の中にも「ここが土塁だったんじゃないか」という盛り上がりがうっすらと・・・

いや、ぱっと見ではよくわからないです。「ココロの目で見よ!」

今回の散策では、はっきりと遺構が残っている場所のほかに「もしかして」というところがいっぱいあって、いつのまにか「ココロの目で見よ!」が口癖になってました♪


さて次は、遠矢崎地区。地図には「遠矢崎舘跡」と書いてあります。

ナビもあてにならないような田んぼの中の田舎道。
ところどころにある→看板をたよりに、「あっちだ」「こっちだ」「ここはどこ?」と2人で迷い迷いたどり着いた、それこそtantanさん号がはみだして落ちてしまいそうなあぜ道の先にあったのは・・・






・・・遺構はいったい、どこ?

一応案内看板はあったのですが、そこに書いてある図がまた、どっち向きに書かれているのかよくわからない。

2人であれか、これか、と言いあったあげく、「ココロの目で見ると」たぶん写真奥の盛り上がりが土塁遺構ではないか~?
看板の図面によると堀もあるはずなんだけど・・・藪やぶでまったくわからないです。

これも秋に持ち越しか(笑)


ここからちゃんとした(笑)農道にもどり、さらに北上して森山地区。
地図ではPマークがついているので、駐車場がある~!とちょっと期待。

・・・が、地図の地点まで行ってもそれらしいものが見当たらず、思いっきりスルー。
駐車場はどこ?

と、道路の端っこにこんな看板が。。。



その看板から入っていく坂の下のほうに何台かの車が・・・駐車場ってあれか~!

まさしく、車が2~3台停まれる、あれが町営の防塁見学者用駐車場。
その真向かい(写真右側の)の林の中には・・・



遺構、発見~!

木が生い茂ってしまって写真では様子がわかりにくいのですが、ここも二重堀三重土塁になってます。「ココロの目で見て」ください(笑)

実地に行ってみれば、堀が浅くなってしまってますが、それでも一番内側の土塁はtantanさんの背丈を遥か越えた高さで、しっかり堀と土塁が確認できます。

ただし、木々の間はくもの巣とやぶ蚊がいっぱ~い!

というわけで、土塁&堀底ウォークは早々に切り上げ、駐車場に入る坂から遺構を追いながら元の看板のところへ。

ここで遺構は道路に一度ぶち切られて、その先へ。
だから看板に「横断地点」と書いてあったのか・・・それにしてもこのイミって、遺構が道路を横断してるのか、道路が遺構を横断してるのか(笑)

そして、道路を渡った続きはこんな感じで続いています。


この写真の場所は、以前ワタシの城師匠で古戦場研究家のサイガ(新津竜一)さんにTwitterで教えてもらっていました。

細道の右側の盛り上がったところが、長土塁の断面なのだそうです。
ここまでくると、いよいよ真正面に阿津賀志山がくっきり!

このあたりはもう阿津賀志山の山すそになるので、山に向かって地形がどんどん上がっているのがよくわかります。



地図で見ると、この先国道4号線を越えた石母田地区までは遺構がないように書いてあって、しかも車で移動するとかなりぐるっと回るルート。

反対にこの細道はまっすぐ行くと遺構の土塁ラインに沿ってるようだし、方向的に国道4号線に直行できるかも☆

ちょっとチャレンジ!と入っていきましたところ・・・

ちゃんとかすかに地面に高低差があって、土塁(だった)ラインがわかるではないですか~!

かなり「ココロの目で見る」ことが必要ではありますが(笑)

ちなみにこの細道の左側(防塁線の外側)は、一気に地形が低くなっていて、ここに塁を築くというのは、敵を「通せんぼ」するにはかなりよいのではないかと思われます。。。



細道を通り抜けると、いきなり車がばんばん走っている国道4号線にぶつかります。
渡った真正面が、今度は石母田地区の遺構です。

看板も何もないのでどこにあるかわからなくて、もしかしてこれか?と半信半疑でよじ登った排水路の先が、実は堀でした(^^;)



わーい、草が刈ってあって見やすい~!
山の方に向かって、堀底も土塁上もずーっと歩いて登っていけます。

ただし石母田地区はこの先東北本線の線路と東北自動車道で途切れてしまうのですが。。。

写真で見ると土塁と堀が1本ずつ・・・に見えます。私も最初そのつもりでずっと歩いていました。

ところが、石母田地区の最高地点にあった看板によると、こんな高い場所になってもやはり二重堀三重土塁だったようです。


うーん、そういわれてみれば、この看板のある地点のあたりの道路や土地のうねりとか高低差を見ると土塁がそうなっていた・・・かもしれないかなぁ?

これもかなり「ココロの目で見よ!」(笑)



ここまで来て、すでにお昼を回っておりまして、ただでさえ朝が早かったのでお腹がぺこぺこ。

ところが、「田舎」をちょっと侮っておりまして、昼食を調達していなかったのにお店がひとつもない~!

近くの「旧跡」を回ってみればもしかして・・・と、そのまま徒歩で「義経の腰掛松」や公園化してると思われる「石母田城」(この2つは当ブログの別記事で紹介しています)に行ってみましたが、何にもないどころか、「なんでこんなところ歩いている人がいるの」というアウェー感がひしひし。。。(><;)

しかたなく車に戻って5kmほど離れた藤田宿のコンビニで水と食料を調達、昼食をとって線路と高速を渡り、いよいよ阿津賀志山中腹、展望台下の遺構へ♪

またしてもナビも迷うような細道を通って「本当にこの道でいいんだっけ?」という高速の側道に、その案内の杭は立っていました。



杭の脇にはくっきりと堀が阿津賀志山の上に向かって伸びています!

ただし、例によって膝丈くらいまでありそうな草がぼうぼう・・・
でもこれだけ堀の形が見えてるし、行けるかな?

「ココロの目」では道が見える・・・!行けるところまでいってみよ~☆





と、がしがし入っていってみましたら・・・草の中にしっかりちゃんと道がある!

同じことを考える人がいるんですね☆
しかもちゃんと階段様になっていて、歩きやすいこと!結局そんなに苦労しないで「防塁始点」の看板まで通り抜けてしまいました。

あ、でも勾配は結構あるので、しっかり山登りではありますのでご注意です☆
「始点」の看板で舗装道路とぶつかって、遺構はおしまいのようです。

この先、山の上には展望台があるとのこと。車にもどって行って見ました。




展望台には駐車場もあって、一応観光客受入れ対応のようです。
遺構の方向に阿津賀志山防塁の案内版があって、その前にベンチもあります。

が、ベンチに座っても目の前は藪です。何も見えません。
そもそも防塁始点はこの展望台の遥か下方です(笑)

ベンチの後方には割りと新し目の(でもその登り口までの道が超わかりづらい)鉄の展望台があります。

登ってみると、ど~ん!



遠く南の方角の阿武隈川までの景色が、鎌倉幕府軍が攻めてきた方角(本陣を置いたといわれる藤田城)から奥州藤原軍が守っていた方角まで、ずーっと見渡せます。



とりもなおさず、眼下真正面にこれまで通ってきた阿津賀志山防塁線も全部見えているということで。。。

ちょっと霞んじゃってますが(笑)ここに立つと、どのように攻めてきたのか、どの方角が守ろうとしていた平泉の方角なのか、そして背後を突こうと回った峠の高さもすべて実感することができて、大感動!

このような地点だからこそ、奥州藤原氏はこの阿津賀志山を基点に防塁線を築いたのかなぁ・・・?

ワタシは当初、もっと短い距離で防塁線を築けるところがあるんじゃないかと思っていたのですが・・・(^^;)

そして、こんなに長大な防塁を築いた奥州藤原氏の必死さがひしひしと伝わってくる遺構群でもありました。

・・・本当にここに来てよかった♪

今度は草や藪のない時期に、もう一度「ココロの目」を磨いてじっくり歩いてみたい阿津賀志山防塁でした。