2014年9月14日日曜日

思いもかけずに永田城

ワタシの別ブログ「つれづれなるままに~natchdesの雑記帳~」にも書いたんですが、この土日で急に思い立って秩父34ヶ所の札所めぐりに出かけまして。

それで、札所について以外に何の予備知識もなしに札所第22番の永福寺(童子堂)というところにお参りしまして、境内に立っていた案内板をふと見ると、「この童子堂は永田城の城址に建っている」とのこと。


・・・それにしても、永田城って?



伝承によれば、永田城は武蔵七党(坂東八平氏)の丹党中村氏によって室町初期よりも以前に築城されたと城だということです。

中村氏は代々鎌倉幕府に仕えて秩父郡での勢力を確保しましたが、応永2年(1416年)上杉禅秀の乱で上杉方に加わったことで衰退し、永田城には同族の永田氏、寺尾氏が入ります。

その後、永禄2年(1569年)武田信玄の秩父侵攻とともに、その代官として三原午之助なる人物が配置され、武田氏衰退後は北条氏邦の家臣になり井上三河守と名乗ります。

そして天正18年(1590年)の北条氏滅亡により永田城は廃城となり、井上三河守は徳川家の旗本となったのだそうです。

ただ、ブログやHPによって書いてあることも異なっていたり(たとえば築城者は永田氏とあるものもあったり)するので、確たるところはわからないのですが、北条氏邦の支城のひとつではあったようです。


さて、この永田城。童子堂がその城址ということで、お堂の前に立ってぐるりと見渡してみると、お堂自体は後ろに荒川へ向って落ち込む崖を背負って西向きに建っています。

そして、お堂のある場所は東西と北側の三方向が落ち込んでいる高台。
荒川に向って南側から突き出している三角形の半島のような地形の上にお堂があるようです。

何か遺構が残ってないかと納経所の方に聞いてみましたら、童子堂の南方に土塁と空堀が残っているとのことで、丁寧に場所を教えてくださいました。

そして、北側の建物の裏をのぞいてみると、奥が墓地となっているだだっ広い平地がありました。
もしかしたら、ここが本郭かもしれない?





そうすると、お堂のあるあたりが2郭に相当するのか、でも間には建物以外に郭をわけるようなものは見当たらないので、そもそも半島の根っこを土塁と空堀で仕切った単郭のお城なのか・・・?

とりあえず教わった場所に土塁と空堀を見に行ってみると。。。



なかなか見事な土塁と空堀はっけーん!
だたし、草ぼうぼうのため、ただの土手と田んぼ道にしか見えない(笑)

なので、場所を変えていろいろ見てみると、こんな感じ。



んむむ・・・なんとか空堀に見えなくもないか・・・(笑)

土塁の切れ目(虎口?)から続いているこの空堀は、札所第22番から第23番へ向う巡礼古道でもあるようです。

この場所から武甲山を眺めると、ちょうど秩父公園橋も目に入って、めっちゃ「秩父らしい~!」景色ですね♪



これだけだとちょっとばかり寂しかったので、念のため今度はこの空堀の両端を見てみることに。

空堀の西側の端は、藪がひどくて覗き込むのに苦労しましたが、どうやら荒川に向って南北に流れ込む沢が天然の堀となっているようです。

うん、写真でもよくわからん(笑) でも、現在永福寺(城域)にはこの沢を渡って入るような形になっています。

それでは東側は?





空堀の東端に出てみると、非常に大きな谷で仕切られているように見えます。
天然の谷だろうな、と思って行って見ると・・・

この写真の道の左側が先ほどの大きな谷の上端、左側が空堀の東端。
つまり、この道が土橋になってる!





てことは、もしかして天然の谷ではなくて、人工的にもとの地形を掘り広げている可能性もアリか?わくわく☆

しかしながら・・・やっぱり、藪だらけで、中に踏み込むこともできないし、よくわからない~(泣)

今回は札所めぐりがメインで、お城歩きは全く想定していなかったので、この辺でタイムアップ。

でも、この谷の様子、ワタシの乏しい知識の中でも、見ようによっては名胡桃城の般若郭チックな感じがしてしまってるので、できればもう1度「藪のない時期に!」見に来たいなぁ~と思いながら後にしたのでした☆