2015年10月28日水曜日

鳩ヶ谷あたりの鎌倉街道中道

このところ、じいちゃんの容態が思わしくなくて、土日祝日や泊つきの城攻めは自粛状態。

で、何かあってもすぐ連絡がとれて動きがつくような、近場&お手軽な城・歴活はないか~?

ということで、目をつけていたいくつかの展示会。
行けそうなチャンスが巡ってきたので、さっそくそのうちの1つに飛んでいくことにしました~!





で、しゅたり(←忍者が降り立つときの擬音w) 鳩ヶ谷!

お目当ては、埼玉県川口市の川口市文化財センター分館郷土資料館「企画展 戦国時代の川口ー武蔵東部の戦乱のはざまでー」(10/6~12/6)

この郷土資料館は、川口・・・といっても合併前には鳩ヶ谷市だった地域、江戸時代に整備された脇街道「日光御成道」の鳩ヶ谷宿の高札場のすぐそばにあります。




「川口」という名称は、この地域が旧入間川(現在の荒川)の河口に臨んでいたから、といわれています。治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に加わるため義経が鎌倉に向う途中、川口の渡しで兵をあらためたことが「武蔵国足立群小川口に着き、兵を閲したところ八十五騎になっていた」と『義経記」に記されているそうです。




江戸時代になるとほとんどが幕府直轄領になり代官の支配下となった川口。特に有名な武将の出身地や合戦の舞台となったわけでもないようです。

ですが戦国時代の川口は、北条氏や太田氏、扇谷・山内上杉氏など有力武将により争奪戦が繰り広げられた江戸城と岩付城を結ぶ鎌倉街道中道の中間に位置していることから、太田氏や北条氏の支配を受け、進軍の際の兵糧米の供出や人夫の徴発などがされていたようです。




これは展示パネルにあったもので、北条氏政家臣・宮城四郎兵衛尉泰業の知行地と負担すべき軍役を書き上げた文書。
「大間木」「小渕之内中居」「川口」「沼田」「舎人」といった川口市および周辺の地名が見えます。

宮城氏は岩付太田氏の有力家臣でしたが、北条氏の進出により岩付衆として北条氏家臣団に組み込まれました。

そして、この文書の題に「改定着到の事」とあるとおり、この前年に北条氏政が「本城様」=父氏康の死去によって名実ともに北条氏の当主となり、代替わりにともなう着到(軍役)の改定が行われ、改めて知行地として認められたようです(黒田基樹編「北条氏年表」より)。

次の写真は、天正7年(1579年)6月20日付けの北条家裁許朱印状(複製)です。




川口市鳩ヶ谷地区の農民が、岩付城に属する北条氏政の家臣・笠原氏の圧政に反抗し、逃散を企てたことに対する北条氏評定衆の判決文が記されています。当地のことを「笠原助八郎私領」としており、鳩ヶ谷地区が笠原氏の知行地であった可能性があります(展示パネルより)。

また、天正13年(1585年)7月、岩付城主北条氏房と太田氏資の娘との祝言のために、氏房の父・氏政は次の通り江戸から岩付へ向う輿入れ行列の指示を出しています。




この印判状によると、婚礼道具と思われる長持や屏風などの「御物」を先頭に、御輿添衆20人、氏政の輿と夫人の輿、夫人付きの女房衆、そして警護役と続き、その行列の長さは約200mに及んだと想像されます。

この行列がどのような行程で進んだのかは不明ですが、こんなにもきらびやかな輿入れ行列ですから、江戸からであれば鎌倉街道中道を通行したのではないでしょうか。

江戸(城)と岩付(城)を結んでいた鎌倉街道中道。
それが川口のどのあたりを通っていたかというと・・・?

その他の展示パネルを眺めていたら、こんな文言が。

「芝川の西側の自然堤防上を北上する少し小高くなった道がかつての鎌倉街道中道と推定されています」 
「地元の郷土史家によって、現在の鳩ヶ谷氷川神社参道が鎌倉街道中道と推定されています。ただし、江戸時代初頭に鳩ヶ谷宿の町並みが形成されたため、その前後で道筋はかなり大きく変化したと考えられます。」

常設展示にあるジオラマを見てみると、芝川はちょっとわからなかったのですが、右側をくっきりと走る道と町並みは「日光御成道」と鳩ヶ谷宿。

これまたわかりづらいですが、ジオラマの茶色の部分が高台になっていて、御成道は左右に走る見沼代用水の橋を渡り、坂道を登りながら北上していきます。




そうすると、鳩ヶ谷氷川神社とその参道は・・・?

ジオラマを見ながらうろうろしていたら、資料館の方が親切にも地図を持ってきて、現在推定されている鎌倉街道中道の道筋を赤線で教えてくださいました♪

こうなったら、期間限定特別公開の「伝真田幸村所持 太刀 銘長光」を見るのもそこそこに(スミマセン!太刀なヒトではない上に、撮影禁止だったので・・・)、いただいた地図を持って古道を探しに外へGO!

まずは、ジオラマにもくっきり描かれていた見沼代用水。
いただいた地図にひかれた赤線のいちばん下端になります。




用水自体は江戸初期の利根川東遷と干拓事業によりできたものですから、それ以前の戦国時代には一面の湿地帯だったと思われます。

ここから道は台地を緩やかに登っていきます。




鳩ヶ谷氷川神社の参道。これが鎌倉街道中道と推定されている道らしい☆
鳥居の向って左手側に、「東照宮様御床机御跡」の大杉があったと伝えられているそうです。

そっか、「日光御成道」が成立するのは徳川家康が日光に祀られてからだから、まだ存命の時に来て床机を使ったんだとしたら、鎌倉街道の方になるわけだな(^^;)




坂を上りきって氷川神社にお参り。御朱印も頂戴して・・・
さて、道の続きはどこだ?




地図を見ながら神社の東側に出ると・・・
ありましたありました、道の続き!





参道と同じく幅2~3mほどの道がまっすぐ北へ続いています。

鎌倉街道の特徴のひとつとして「なるべく平坦で最短距離を結び、そして高低差の少ない坂道を選んでいて、部分的には曲がっていても全体としてみれば直線的な道」であるというのがあります。

なので、こんな緩やか~に台地に上ってまっすぐな道だと、やっぱり鎌倉街道!とうれしくなっちゃいます♪




親水公園のあたりまでやってくると、道の西側が急な高低差になっていることに気づきます。
地図で見ると道と法性寺は同じ高さに思えるけど、実はこの坂の下☆

下手すると道から家の屋根の上が見えちゃう(笑) 
道が台地の縁を走っているので、その昔湿地帯だっただろう低地部の見晴らしがとても利いていて、この感じは、以前歩いた「座間・ほしのや」あたりの河岸段丘を通る道によく似ているな~と思ったりして。
(→ そのときの記事はこちら!)

これも「台地・微高地の尾根を多く通り、また河川流域の段丘を多く通っている」という鎌倉街道の特徴に合致してるようですね!

さて、いただいた地図の赤線たどりは最後まできてしまいました。
今回は偶然知った道だったので、次回はちゃんと調べた上で来なきゃだなぁ~!


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2015年3月6日金曜日

毛呂龍ヶ谷城はゴルフ場ど真ん中!

さてさて、前記事で「いわくがあって未訪」と書いていた毛呂龍ヶ谷(要害)城です。

前記事「ちょっと寄り道、毛呂氏館跡」でも触れたように、大永4年(1524年)交通の要衝を押さえる毛呂氏が北条氏に服属したのをみた管領山内上杉憲政は扇谷上杉朝興とともに上州兵を率いて毛呂に進攻、毛呂要害に制裁的攻撃を加えました。

これが毛呂合戦と呼ばれる戦いで、この攻撃に対し北条氏綱は直ちに救援の兵を送り、小競り合いがあり、結局和議が成立したのですが、北武蔵が北条氏勢力下に組み込まれていくこととなる事件となりました。

この毛呂合戦の舞台となった「毛呂要害」がこの毛呂龍ヶ谷城であろうといわれています。

で、何が「いわく」かというと・・・

この神社、実は「鶴ヶ島ゴルフクラブのど真ん中」で、ゲートの中に入ってゴルフ場を突っ切っていかないとたどり着けないらしい!

小心者のワタシとしては、もうこれだけで怖気づいてしまってました。

が、毛呂氏館に行ったすぐ後くらいに、たまたまTwitterでこの龍ヶ谷城の話題になって、フォロワーさんでサイト「儀一の城館旅」管理人の儀一さんや、同じく「埋もれた古城」のウモさんがいろいろ教えてくれて後押しをしてくださったので、勇気を奮って登城することに・・・☆

で、まずは龍ヶ谷城の本郭があるという、ゴルフ場ど真ん中の雷電神社へ。





龍ヶ谷城へはこの雷電神社の参道(一応、町道!)をたどっていくのです。
・・・が、どう見てもこのまま車が通れるのかどうか定かではない細い道☆

このまま車で進んでいってにっちもさっちもいかなくなったら困るし、いっそ参道の前に駐車して歩いて登ろうか・・・と車を降りてうろうろしていたら、ちょうどいいところに参道前の民家からオジサンが出てきてくれました~♪

で、道を尋ねると、なんと行き方から駐車場の有無、ゲートの抜け方まで懇切丁寧に教えてくれたので、安心して参道に車で突入!

でも、ずーっと「対向車が来たらアウト!」な道で、ヒヤヒヤもの☆






そして、これが件の「ゲート」。その向こうはいよいよ「鶴ヶ島ゴルフクラブ」です。
何も知らずにこのゲートを見ると、ゴルフクラブの敷地内に入るのを拒否されてるみたいでとてもビビッてしまうのですが・・・

この道は歴とした町道なので大手を振って通行可能、ゲートは単にイノシシ除けなだけなので、鍵もかかってないし開けたらちゃんと閉めておけばOKとのこと。

ゲートの中に入るとやっぱり思いっきりゴルフ場なんですが、一応「町道」の案内板が雷電神社の方を指し示しながら、点々と立てられています。







でも、やっぱりゴルファーさんの視線が痛かったです・・・一度路上に停車してたゴルフカートを追い立てて脇に避けさせちゃいましたし(^^;)

で、最後にゴルフコースの脇に現れた小山にぐいっと登ると・・・



そこが、毛呂龍ヶ谷城の遺構が残っているあたりになります。
(スミマセン、儀一さんの縄張図を掲載させていただきました・・・儀一さんのブログ「儀一の城館旅」もぜひご覧ください! ← PR)

車だと縄張図の左下から登っていきます。大きな三角形の郭に車が10台程度駐車可能。

右下の曲がりくねった道は徒歩専用の参道です。最後の階段を登りきると細長くてなだらかに傾斜した削平地になり、奥に鳥居が見えて、その上に社務所のある郭があります。





社務所はなかなか立派で、古びた神楽殿もあるのですが、どうも普段は無人のようです。
お祭とかがあると、麓から神主さんや氏子さんたちが登ってくるのでしょうか?

とりあえず社務所を横目に通り抜け、まずはいちばん高所にある神社にお参り。

この神社本殿のある場所が、毛呂龍ヶ谷城の主郭です。
本殿裏手には土塁も多少残っていて、その外側は切立ってかなり高さのある切岸。その先は・・・ゴルフコース(笑)




次の写真は主郭の東側に一段下がって造られている郭から、主郭を撮ったものです。
見ての通り、この主郭部分は実は結構狭くて、神社の建物だけでいっぱいいっぱいという感じ☆




一方で、この東側の郭はかなりの広さがあって、しかも超絶景!
むしろ、主郭は広めの櫓台的な機能であって、コチラのほうが主郭の機能をもっていたのでは?

というのも、実はこの絶景の中を、城から1kmのあたりに左(北)から右へ(南)へと、前記事「ちょっと寄り道、毛呂氏館跡」で触れた「鎌倉街道上道に平行して鉢形~毛呂~勝沼~八王子~当麻と結ぶ戦国時代の主要幹線」が通っているんです。

この街道はこの郭から、まさに丸見えです(笑)




大永4年の両上杉vs後北条の「毛呂要害」争奪戦の直前、4月10日に後北条氏から当麻宿に出された制札は「玉縄、小田原より武蔵国石戸(現在の北本市)、毛呂へ往復のもの、虎の印判を持たざる者、伝馬押立ていたすべからず」(当麻宿 関山文書)という内容で、この時点では小田原から当麻を通る街道については、毛呂にまで後北条氏の影響が及んでいたと思われます。

この街道上の毛呂以南には勝沼(青梅三田氏の本拠・勝沼城)・由井(八王子・浄福寺城)・椚田(八王子・椚田(初沢城))などの、政治的にも重要な拠点が存在しています。

そして毛呂要害争奪戦の20年前にあたる永正元年(1504年)12月に山内上杉顕定が扇谷上杉方の「椚田塁」を攻め落としている(本朝通鑑)とあるように、もともと両上杉氏の勢力下にあった地域なので、このルートは椚田方面への交通路として両上杉氏も使っていたものと思われます。

また、長享の乱で両上杉の力がそげていく間隙をぬって、南の小田原から北武蔵方面へと後北条氏が勢力を広げてきたルートでもあるわけです。

だから、この毛呂郷をしっかり押さえることは、後北条氏が武蔵国に勢力を伸ばすにあたって必要不可欠だったのでは、と想像むくむく。

そして、上州や鉢形からは小田原までの最短ルートでもあるわけで・・・

特に、当時鉢形城を拠点として上州を勢力範囲としていた山内上杉氏にとって、鉢形までほど近い毛呂までもこのルートを南から押さえられてしまうということは、目と鼻の先まで軍勢を動かすことが容易になるということで、のど元に刃を突きつけられたような危機感ではなかったでしょうか。


で、当麻宿に制札が出されたすぐ後、上杉憲房が上州勢を率いて「毛呂要害」に取り懸った旨、11月23日付けで北条氏綱から長尾為景にあてた書状に記述があります。(山形県米沢市教育委員会所蔵上杉文書)

ま、結局「取り懸か」った数日後には和議が成立したのではありますが・・・☆






主郭東側の郭から外側には小さな段郭が2つほどしかみられないのは、あるいは長く前線であったとか大規模な戦闘があったということではないからなのでしょうか。

たぶん竪堀だろうという窪みは見つけたのですが、うっかりブーツを履いていたので、そばまで行って確認することはできませんでしたが(^^;)

一方で、主郭の反対側、西南方向には山城らしい遺構が残っています。





社務所のある郭。建物の裏手にごそごそ入っていくと、若干下がった削平地が続いていて、そのいちばん奥(北側)に1本竪堀が。

その落ちている先は・・・ゴルフ場のカート道(笑)




社務所郭の一段下には、結構な高さの切岸の下に「この城でいちばん山城らしい遺構」な、横堀が残っています。






この横堀自体はそれほどの距離が残っているわけではないのですが、この横堀の下にある車を停めた郭から参道に向って登る道が、もしかしたらこの横堀の続きかもしれません。

後世に造られた道かもしれませんが(^^;)

ちなみに、この横堀の土塁から下の車のある郭を眺めたところ。かなり高さがあります。





そして、ぐるりとまわりはすべてゴルフ場・・・

実際の城域がどこまでで、どこが本来の登城ルートだったのか、お城初心者のワタシにはよくわかりません。

ゴルフ場造成のときにかなり手を加えられていることも考えられますし・・・

それでもやはり、地元で尊崇されている神社であったが故に本郭周辺だけでも遺構が残っていてくれたこと、整備がされていることに奇跡のようなものを感じますね~!

もうゴルフ場に造成されてしまったところは、地形からは以前どうだったのか判らなくなってしまってますが、残された遺構とともに地元での研究が進んで、毛呂氏やその城、毛呂合戦も含めた毛呂の歴史がもっと解明されるといいなぁと思いながら、またゴルフ場を突っ切って毛呂龍ヶ谷城を後にしました。

・・・このお城、次は初日の出登城もいいかも!


2015年2月17日火曜日

ちょっと寄り道、毛呂氏館跡。


今年に入ってから埼玉の毛呂山町にある病院に定期的に通っているのですが、今回は予約時間よりもちょっと病院に早く着きすぎてしまったので、待合室に入る前にどこか寄り道をしようかな~とつらつらと考えていて・・・

そういえば、病院のすぐ近くに毛呂氏館があったな~☆

実は、案外地元のお城って、いつでも行けると思うと後回しになってしまうもんで、この毛呂氏館も実はまだ未訪だったんです(^^;)

時間的にもちょうどよさそうなので、寄り道してみることに♪





毛呂氏館はJR八高線毛呂駅から1kmくらいのところにある、長栄寺の境内と裏山がその城域になりますが、外秩父山地の末端部にあたる石尊山の麓にあたります。

長栄寺の前に余裕で車を停められるスペースがあるので、ちょっと停めさせてもらって案内板に沿って山の中へ。

でも案内板に沿ってるのに、結構、藪?





小道をたどりながらガサガサと歩いていくと、明らかな土塁を乗り越えて郭様のスペースに。
緩斜面を削ってつくった広めの削平地。ここが毛呂氏館の主郭です。


毛呂氏は毛呂山町あたりの毛呂郷の在地領主でした。
その歴史は古くて、毛呂氏の祖の季光は源頼朝の側近として仕え、毛呂郷の地頭職を務めていたようです。

この館跡はもしかしたらその頃のものなのでしょうか。
主郭は四角い削平地の三方を土塁で囲み、その外側に空堀をめぐらした簡素な造りで、およそ戦いには不向きに思われるので、戦国時代に入ってからのものではなさそうです。

写真は、土塁を乗り越えた外側にある空堀。
元はもっと深かったのかもしれませんが、今はうっすら・・・といった印象です。





場所によっては腰郭ともとれるかも?

時代が下って室町末期~戦国時代に入ると、毛呂氏の当主顕繁(顕重)は山内上杉氏に属して、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長享の乱では永正元年(1504年)の立河原の戦いに参戦しているようです。

しかしながら、大永4年(1524年)後北条氏が扇谷上杉氏から江戸城を奪取すると、顕繁はいち早く後北条氏に服属したので、山内・扇谷両上杉氏は毛呂郷に進攻し、毛呂要害に制裁的攻撃を加えました。

齋藤慎一先生の「中世を道から読む」によると、毛呂郷には、鎌倉街道上道に平行して鉢形~毛呂~勝沼~八王子~当麻と結ぶ戦国時代の主要幹線が通っていて、当時鉢形城を拠点としていた山内上杉氏もしばしばこの道を使用していたとみられるなど、交通の要衝地であったため、両上杉氏にとって毛呂郷を新興の後北条氏に抑えられるのはイタかったのかもしれません☆

ただし、この時の「毛呂要害」はこの毛呂氏館からさらに西に1kmほど入った所にある龍ヶ谷(要害)城をさしているものと思われますので、やはりこの毛呂氏館には平時の居館のみがあったのでしょうか。

そして、毛呂要害争奪戦後の毛呂氏は、後北条氏に従って天文16年(1547年)の松山城攻めや永禄6年(1563年)の国府台合戦など各地を転戦するとともに(関八州古戦録)、越生の各寺院に保護を加えたり、この毛呂館の敷地内の長栄寺を開基したりと、この毛呂郷で着々と在地領主としての立場を強化していきました。

が、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して、毛呂土佐守秋重は北条氏に味方して八王子城に籠城。一族とともに討ち死にし、鎌倉時代より続いた毛呂氏の在地領主としての歴史は幕を閉じました。

この毛呂氏館がいつまで城館として使われていたのかは、定かではありません。
ちなみに、毛呂氏自体はその後、土佐守秋重の後裔は徳川家に召されて旗本として存続、秋重の弟秋綱の流れも大谷木氏と改め、やはり徳川家旗本として続いています。


一方、毛呂要害争奪戦の舞台となったと思われる龍ヶ谷城も、ちょっといわくがあって未訪なのですが、次の診察の時には行ってみよう!とココロに誓った?お館訪問でした♪