2013年7月27日土曜日

次の戦場は・・・小手指ヶ原古戦場

近場の古戦場めぐり、女影ヶ原古戦場をまわったら今度は小手指ヶ原です。

1335年(建武2年)7月、後に「中先代の乱」とよばれる戦いで、鎌倉幕府再興のため挙兵して鎌倉街道上道を信濃から鎌倉に向けて進軍する北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行の軍は、女影ヶ原古戦場で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を打ち破ります。

さらに勢いに乗って鎌倉街道を進む高時軍と、鎌倉将軍府の足利直義が次に差し向けた今川範満の軍とが激突するのが、この小手指ヶ原(同県所沢市)です。

女影ヶ原からは鎌倉街道を南下して15kmほど。

さすが古道の名残らしく、入間川を渡るまでのところどころの交差点に「鎌倉街道」とか「奥州道」といった名前が残っていたりします。

国道299号線から国道463号線所沢入間バイパスに入り、誓詞橋交差点を右折して入っていきます。

私の愛馬・・・ならぬ愛車を駆っていけば女影ヶ原から小手指ヶ原まではおよそ40分くらいで到着。
ですが、古の戦人たちはどれくらいかけて進軍してきたのでしょうね・・・


女影ヶ原の記事で「鎌倉街道では多く戦いが行われた」ようなことを書いたかと思いますが、この小手指ヶ原も街道の要衝地に近いことから、たびたび戦場となっています。

中先代の乱で敗北し逃亡した北条時行はその十数年後、今度は観応の擾乱において新田義貞の遺児新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢とともに足利尊氏ら北朝方の軍勢と戦って(武蔵野合戦)、最後にはとらえられて処刑されますが、その戦いの中でも小手指ヶ原は戦場となっています。

しかし、なんといっても小手指ヶ原の合戦と言えば、中先代の乱に先立つ2年前、1333年(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めにおいて、鎌倉を目指す新田義貞軍とそれを迎え討つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した戦いです

この時、新田荘の生品明神で旗挙げした新田軍はわずか百五十騎ほどでしたが、武藏国に入った頃には二十万七千騎になっていたと『太平記』に記されています。

一方鎌倉方は金沢貞将が五万騎をつれて東方より新田軍の背後に廻り、桜田貞国を大将とする六万騎は鎌倉街道上道を入間川へと向かい、この地で両軍が戦ったのでした。






西武池袋線の小手指駅からほど近いこの場所で、戦いがあったことを偲べるものとしては「小手指ヶ原古戦場碑」と「白旗塚」があります。

碑と塚のまわりは、いまでも何もない(~って、畑はありますが・・・)とても開けた場所で、合戦のあった時代もこんなだったのかなぁ・・・と想像しちゃいます。



碑の傍らを南北に走る道が鎌倉街道上道だったようです。
この碑から畑の方へ入っていくと、そこに新田義貞が源氏の白旗を掲げたという白旗塚があります。

何もない平らな土地にこんもりと盛り上がった、文字通りの「塚」です。
高さは5mくらい?てっぺんはこんな感じであまり広くなく、石碑が数基あるだけです。



周りは藪だらけで、まったく展望がききません。
ここに陣を置いたとしても、まわりはぜんぜん見えないなぁ・・・と思ってしまいます。

当時はこんなに木々や藪がなかったのでしょうか?
そもそもこの塚が当時あったのかどうか・・・ここに白旗を立てたという伝承に基づき後世塚を作ったのか・・・定かではありませんし。

ただ、この塚の近くにはいくつかの供養塔や関係のありそうな地名(誓詞橋など)が残っているので、このあたりで太平記に記されたような大規模な戦いがあったことは確かなのでしょう。

今回塚の裏側には藪がひどくて入れませんでしたが、どうも土塁や堀様の地形が見えたので、次回は藪のなくなる冬に来て、潜り込んでみたいものだと思います(笑)




にほんブログ村

2013年7月25日木曜日

お城ではないけれど・・・女影ヶ原古戦場

仕事を休んで病院に行った日の午後、ぽかっと時間が空いたので、秋に城好きさんたちの案内をする下見をしようかなと思い立って、またまた何も用意せずにふらっと地元近くの古戦場に行ってみることにしました。

これまでもその近くはよく通っているので場所はわかっていたのですが、ちゃんと行くのは初めてです。

城好きさんたちをご案内するのなら、ちゃんと駐車できるかどうかも見ておかないと・・・

病院が毛呂山だったので、その近くの出雲伊波比神社(畠山重忠が造営したという流鏑馬で有名な延喜式社)と斉藤美濃守館(源為義・義朝に仕えた斉藤実盛の子孫(?))を車でぐるっと回って、駐車できそうなところの当たりをつけたあと、そのまま日高の女影ヶ原古戦場に向いました。

女影は「おなかげ」と読みます。「おんなかげ」とか「めかげ」ではありませんww
でも、何をかくそう私も最初は読めませんでしたwww

女影ヶ原古戦場は埼玉の西部、日高市にあります。近くには霊亀2年(716年)駿河以東の渡来人たちが集められた高麗郷があります。だから地名にもその影響があるのかもしれません。

また、この女影ヶ原には鎌倉時代から鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道の上道が通っていました。

この鎌倉街道上道は鎌倉を出て藤沢、町田、府中、所沢を通って狭山で入間川を渡って日高に入り、この女影ヶ原を通って坂戸をかすめて毛呂山→鳩山→児玉→藤岡(このあたりは現在の八高線沿い)と通って、高崎に続いていたそうです。




写真は、鎌倉街道上道、大谷沢から女影に向かう古道沿いにある上道の石碑です。

このあたりは道こそ舗装されてるものの、道幅は狭く、周囲は畑や林、野原が散在しており、切り通しなどもあって、昔はこんなだったのかなぁ・・・と想像されるような場所が広がっています。

物資の行き来もですが、鎌倉武士たちが「いざ鎌倉」に馳せ参じるための道でもあったためか、この道筋には古戦場が点々と残っています。

女影ヶ原の古戦場もそのひとつで、ここでは建武2年(1335年)に北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱(中先代の乱)で、渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を打ち破ったと言われています。

この合戦の後、勢いづいた時行軍は小手指ヶ原、武蔵府中と勝ち進み、ついには井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣した足利直義をも破って鎌倉に入ることになります。

現在、この女影ヶ原にはこのあたりの村社である霞野神社があり、境内の南側に「史跡女影ヶ原古戦場址」の石碑が建っています。




 この霞野神社の前は南北にのびる鎌倉街道上道古道の五叉路になっています。



 左の写真が霞野神社の鳥居前から見たその五叉路ですが、このうち南に向かってまっすぐのびて登っていく一番広い道が上道です。

その右側に伸びていく細い道との間の電信柱の下に、目立たない小さな古い道標石がありました。

読むのにめちゃくちゃ苦労したのですが、どうやら「右 扇町屋 八王子道、左入間川 所沢道」と刻まれているようです。

この古道を下りきった霞野神社の北側は小さな川が流れていて、その川にかかる小さな橋を渡ると、道は今度は右の写真の通り、女影交差点方向に向かって北に登っていきます。





時行軍は北側から鎌倉へ向かってくるわけですから、きっとこの古道に沿って女影交差点方面の高台から攻めてきたのでしょう。

一方、右の写真は霞野神社の境内ですが、北側の川を天然の堀とした砦様の高台地形になってますので、迎撃側の鎌倉将軍府の軍はこの神社のあたりに陣をはって退治したのかもしれないな・・・などと妄想したりして(笑)

じゃあ、勝ち進んだ時行軍についていこうかな♪ということで、次の合戦地、小手指ヶ原に愛馬ならぬ愛車を駆っていくことにいたしました。。。

長くなりましたので、小手指ヶ原の様子はまた次回(^^;)




にほんブログ村

2013年7月11日木曜日

江戸城外堀土塁歩き♪

所用で麹町に出かけたある日。

用事自体は午前中で終わったのですが、麹町あたりはあまり土地勘がないので、昼食をどうしようかな~とお店を物色しつつぶらぶら永田町方面に歩いていたら・・・

・・・ん?




どうも、右手方向、放送会館の手前に「土塁」にしか見えない高さ2~2.5m、幅25mほど、厚み3mくらいの土盛りがある?

どうも気になって、その前をしばし行ったり来たりして写真を撮って(どうもその土塁のある路地の奥は高級マンションらしく、通路の掃除をしていたおじさんに胡散臭そうな目でじろじろ見られてしまった・・・)Twitterで様子をつぶやいてみたら・・・

 すぐにフォロワーでもある私のお城歩きのお師匠サマから、「それは江戸城内にあった紀州藩屋敷の土塀ではないか」とリプが飛んできました!

後で調べたら、この土塁の隣の敷地にある放送会館、赤坂プリンス跡地、そして土塁の後方に広がる清水谷公園にかけては、古地図の上で「紀伊殿」の屋敷があったと記されているようです。

そして、古地図上で屋敷の脇を通る道として描かれている道が、ちょうどこの土塁の前をとおっている「プリンス通り」として残っているようです・・・!

しかしながら、江戸城内とはいえ「屋敷」の土塁なのにこれほどの規模だなんて、さすが「御三家」ですね☆

さて、それなら江戸城の土塁はどんな規模・・・?

というわけで、お昼ごはんは土塁の隣のローソンで調達し、清水谷公園で蚊にくわれてぼこぼこになりながらほおばった後、公園にある江戸水道玉川上水幹線の分水に使われていた石桝と、大久保利通公暗殺の哀悼碑を眺めた後、のこのこと土塁を求めて出発~☆

まずは清水谷公園から外に出て、ホテルニューオータニの脇の紀尾井坂を登って行きました。

「紀尾井」という地名は、このあたりに「紀州家」「尾張家」「井伊家」の屋敷があったことに由来していて、「尾張家」は現在の上智大学、「井伊家」はニューオータニの付近にあって、ちょうど清水谷のあたりで境を接していたのだそうです。

で、かんかん照りの日差しの中をえっちらおっちら登りきるとそこに大きな土塁が・・・

ここが江戸城外堀の土塁と喰違見附(御門)跡です。





このあたり、眼下に広大な「外堀」が眺められる巨大な土塁がずっと数kmにわたって続いていて、その上をずっと散策することができます。
(うちの家族は、この土塁はどうみても「土手」だろう、というのですが・・・)



この上を歩いて四谷まで、ずっと土塁の上はこんなご機嫌な並木道です。
土塁の内側は上智大学のキャンパス。土塁の高さも3mほど?一番右の写真くらいなのですが、土塁の外側は・・・


・・・かなり高いです。
堀底には今は水がなくなっていて、上智大学のグラウンドが広がっています。

ちなみに堀の向こう側は迎賓館のあたりで、そちらがわにも紀州家の屋敷が広がっていたのだそうです。

どこまですごいんだろう、御三家。

さて、土塁を堪能しながらさくさく歩いていたら、あっという間に四ッ谷駅前についてしまいました。
ここは、江戸城の四谷見附跡です。



この四谷は甲州街道や青梅街道につながっていて、甲信地方への出入り口となっていたということです。



ここには四谷門の枡形の石垣の一部が残っています。

この先、市ヶ谷・飯田橋方面に向けてはいまだに堀に満々と水がたたえられていて、土塁の一部を削ってJR中央・総武線が走っています。

これだけでも、いかにこの外堀と土塁が壮大なものか、おわかりいただけるかと思います!

さて、あまりにも暑い日だったので多少へろへろしていたのですが、ひとやすみしたらこの先もう少し歩いてみようかな、という欲が出まして・・・



引き続き、今度は四谷から市ヶ谷へ向けて土塁の上をのこのこ。



ここも土塁の上はひろくて整備されたごきげんな散歩道。
土塁の内側はそれ程高さはなく、お屋敷の土塀と同じくらい・・・ですが、外側は高くて広~い外堀。

土塁の外側を望む真ん中の写真では、四ッ谷駅の向こうに残っている四谷見附跡の大きな土橋が見えます。

ここもさくさく歩くと、あっという間に市ヶ谷駅=市ヶ谷御門跡。
橋の上から歩いてきた四ッ谷駅の方向を眺めると、これまた外堀の大きさに感嘆です。。。



この市ヶ谷御門跡、枡形は全く残っていません・・・が発掘された橋台の石垣の一部の石が、ごろんと転がっています。



ここからまた飯田橋へ向って歩いていきますと・・・


これは、途中の土塁上からみた新見附橋の土橋。



ところどころ石垣に使われていたような石がごろんと転がってますが、法政大学の前あたりにはこんな灯篭だったような石がごろごろん☆

なんだったんだろう・・・これ?


何も計画を立てずにふらふら歩き続けましたが、江戸城の土塁を結構堪能できました。
・・・が、このあたりまで来るとさすがに疲れてきて、足が棒。

それ以上散策する気力もなくなったので飯田橋で地下鉄にフェイドアウトしました。

それで足が痛いな~と思ってふと足元を見ると、パンツスーツのすそがほこりだらけ。
おろしたてのパンプスもかかとがすっかり痛んで、おしゃかになりかけてる。。。まだおろしたてなのに。

よって、教訓。

いくら足にフィットして歩きやすかったからといって、買ったばかりのパンプスで土塁なんか歩き回ってはいけませんな(笑)








にほんブログ村