2013年3月18日月曜日

始まりは前橋(厩橋)城。

・・・と、宇都宮城のことを書いたところで、はたと気がつきました。

あれ?今回の「県庁所在地城攻め」シリーズ(といっても、シリーズになるとはまったく想像してなかったんですが)で、一番最初に行った前橋城のことを書いてないぞ~

・・・と思いおよんだのも、私のアタマの中では宇都宮と前橋ってなんとなく位置づけが双子のように似てるんですよね。

まず両方とも北関東の県都(県庁所在地)だし。
そちら方面に向かう宇都宮線と高崎線は両方とも大宮から分かれていて、しかも使われている車両がとてもよく似てる。

なんて書くと、栃木や群馬の人たちに認識不足!と怒られちゃいそうですね・・・(^^;)
特に群馬は前橋と高崎がアタマの中でごっちゃになっちゃってる感もあるし。


さて、話は前橋城に戻って・・・

前橋城は利根川を外堀とする平城で、古くは厩橋城と呼ばれて関東七名城のひとつにも数えられていたということです。

また、在原業平の子孫とされる長野氏の拠点、箕輪城の市場として築かれた「石倉城」が前橋(厩橋)城の始まりとされているようです。

後北条氏の上野国侵攻により後北条氏方についた前橋(厩橋)城ですが、越後上杉氏に攻め取られて関東進出の足がかりとして使われたり、後北条氏・武田氏連合軍に攻め落とされて後北条氏や武田氏の勢力圏になったり・・・と、上杉・武田・後北条の勢力圏の最前線であった上野国を物語るような変遷を遂げた後、天正18年(1590年)の小田原征伐時に豊臣方に攻め落とされ、関東を任された徳川家康が家臣を置くこととなりました。

以後、酒井氏、松平氏といった名門の譜代大名が置かれたのですが、利根川の浸食がひどくて一度明和4年(1767年)に一度廃城になっています(幕末にちょっとだけ復活)。



現在の前橋城は、宇都宮城同様市街地化の波に洗われて遺構の保存状態はあまりよくないのですが、宇都宮と違って、本丸御殿に前橋県庁(現在の群馬県庁)が置かれたため、群馬県庁やその周辺に土塁や堀が残っています。

さて、このところ仕事でたまたま関東近県の県庁所在地に行くことが重なったんですが、その皮切りが群馬県庁での仕事でした。

仕事自体は朝から入って一日缶詰めだったんですが、唯一お昼ご飯を食べる時間はフリーだ!

地図で確認すると、遺構は県庁の中や周辺にあるようなので、昼休みを使えば主なところは回れそう・・・

というわけで、一緒に仕事していた人たちは県庁の食堂に行ったんですが、私は「遺構を見ながら公園で食べよ!」とコンビニでおにぎりと飲み物を買って飛び出したのでした。



で、まずはwebや地図で当たりをつけておいた県庁舎裏の駐車場へ。
そこで、目に飛び込んできたのが・・・



駐車場を取り巻く見事な土塁!

まさか天下の県庁の建物真下にこんな大きくて立派な遺構があるなんて・・・いきなり感動しちゃいました (((>▽<)))

すぐそばに停まっている車と比べると、その大きさがよくわかりますよね。





実はこの駐車場の土塁、県庁一階食堂そばのイベントスペースからガラス越し真正面に、どーん!とよく見えるんです。

たぶん、多くの人は「遺構」だなんて知らずに眼にしているのだと思いますが、そうと知って眺めると、本当に贅沢~な眺めですよね☆

さて、時間もないので、次の遺構をさがして地図を片手に県庁の外へ。

・・・ところが。

群馬県庁のまわりって、表側から見るとすごくきれいに整備されちゃってて、遺構がどこにあるかわからない。。。

で、県警本部の前をうろうろしていたら、玄関の前で警備をしていた県警のおまわりさんが「どうしたんですか?」

いや、かくかくしかじかで、と遺構をさがしていることを伝えたら、県警の裏側の土塁を(ついでに「ここを登って下さいとまで!)親切に教えてくれました~
(^^)v

で、おまわりさんの教えてくれた県警裏の土塁登り口が、これ。



ちょっと待て?「土塁保護のため、歩かないでください」の立て札が立ってるんですけど!
私のお城師匠のサイガさんも以前登ろうとして怒られたとtwitterで言ってましたが・・・

登るための階段だってあるし、おまわりさんが案内してくれたんだからOKでしょ?

と、スーツとブーツのスタイルでがしがし登ってみたら、土塁の上は植え込みがあってまっすぐ歩けない~!(真ん中の写真)

それでも、歩きにくいブーツでずるずる滑りながら植え込みの脇を通って土塁上を進むと、少し広くなった(櫓台でもあったかな?)土塁の折れの部分に「前橋城跡」の石碑発見☆

そして、別途そこに上る道もちゃんとあるし~ (^^;)

なぁんだ、無理して土塁の上を歩いて、土塁を痛めちゃったかも。
ごめんなさい。。。 m(_ _)m



今度はそのまま前橋公園へ。

ここにも 利根川に沿って前橋城の遺構である土塁が残っています。
この土塁の上には桜が並木になっていて、普通の川の土手といってもわからないかも?(笑)

でも、この土塁の川側は、地形を活かしてかなりの高さになっています。

ここで上州名物赤城おろしの空っ風を土塁の陰でよけながら、コンビニおにぎりをかじってお昼ごはん。

一人だし、寒かったけど、古に思いをはせながらのご飯は庁舎内の食堂で食べるよりよっぽど美味しかったです♪

一緒に行った同僚からは、ちょっとあきれられているか変人だと思われているかもしれませんけど・・・ (^◇^;)

今までは「出張途中で抜け出して城を見に行くのは、他の人の手前、ムリだろうな」とか「スーツ姿で城攻めは難しいよね」と、出張時に合間を見て城攻めしようなんてことは考えもしなかったのですが、な~んだちゃんと調べて、周りにも話をすればできないこともないじゃん、とすっかり味をしめてしまったのでした(笑)


で、そのあとたまたまお城が近くにある「県庁所在地出張」が続いたので、怒涛の(?)「県庁所在地城攻め」と相成ったわけでございます。

そう、始まりは、前橋(厩橋)城。
そしてこれからも隙をみて?行けるとこには行きますよ~!(笑)




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2013年3月13日水曜日

宇都宮城址は・・・

このところ続いている「県庁所在地城攻め」、またまた今度は宇都宮への出張が入ったので、仕事が終わってから宇都宮城址公園まで行ってみることにしました。


宇都宮城は関東七名城のひとつといわれ、平安時代に宇都宮氏の祖、藤原宗円が居館を構えたことに始まり、以来530年にわたって宇都宮氏の居城であったそうです。

天正18年(1590年)の小田原征伐直後には豊臣秀吉の「宇都宮仕置」(関東や奥羽諸大名の戦後所領措置を行った)の舞台にもなっています。

宇都宮氏の時代まではいわゆる中世城郭だったようですが、元和5年(1619年)に本多正純が入ると城と城下の大幅な改修を行い、輪郭と梯郭を合わせた土塁づくりの近世城郭に生まれ変わったといいますが、反対にこの大改修が謀反の噂につながり、有名な「宇都宮釣り天井事件」に発展して正純は改易されました。

その後、幕末の慶応4年(1868年)宇都宮は戊辰戦争の戦地となって、宇都宮城の建造物はそのほとんどが、残念ながら宇都宮城下の町並みとともに焼失してしまったのでした(宇都宮戦争)。


そして現在。

平成初期までは残された本丸土塁の一部のみの遺構が「御本丸公園」として整備されていたものが、平成19年(2007年)には発掘調査や文献調査に基づいて櫓や土塁が復原され、宇都宮城址公園として整備されたというので、どうなったんだろう?とちょっとわくわくしながら公園のある宇都宮市役所のあたりまで行ってみると・・・


いきなり、どーん!と現れた巨大な土塁とその上の櫓&土塀☆
土塁の周囲の堀らしき部分には水はなく、堀底(?)はコンクリートらしきもので塗り固められてるし。。。

そして・・・あの土塁の真ん中にあいている「穴」はなんだ?
どうみても埋門には見えないし・・・





この「穴」の中には、実は小さな「ビジターセンター」があって、宇都宮城の模型や古図が展示されていました。


この模型のうち、右側の写真の赤線で囲ってある部分が、城址公園として整備された部分に該当するそうです。

図に落とし込むとこんな感じ?


そして、この「穴」をくぐって反対の広場側からこの土塁を見ると・・・


うむむむ~!土塁の、文字通り「どてっ腹」にいくつもの「穴」が・・・!
せっかく復原されても、これじゃどこかの野球場や陸上競技場の土手みたい☆

なんでもこの城址公園は防災公園に指定されていて災害時には市民の避難場所になるため、一説には土塁の中は防災用品の倉庫になっているのだとか・・・

まぁ、宇都宮市の市街地真っ只中にこれだけのものを復原するわけですからね~
市民の方々のご理解ご協力を得るには、こういうのも仕方がなかったのかな?




土塁の上には、「なんちゃって」ではなく漆喰を使ってサマしっかりと復原された土塀と二層二階の2つの櫓、富士見櫓と江戸時代に天守代わりに使われていたという「清明台」が復原されています。



2つの櫓の中も木造で、挟間もちゃんとつくられており、きちんと復原されているようにみえました。
せっかく階段があるのに、二階には登れませんでした・・・残念!


清明台の下の土塁が切れたあたりの道路が、将軍が日光社参の際に御成御殿に向かうのに使ったといわれる清水門の跡です。

復原はされていないのですが、案内板には「地面に位置を表示」してあると書いてあります。
どうも、この写真の道路に書いてある「線」がそれらしいんですが、この線だけでは実際どこにどのように建物があったのか、まったく検討もつきません(^^;)

ぐるっとまわって、この城址公園でみるべきところはこんなもんのようです。

今後は、徳川将軍家の日光社参時の宿泊所として本丸敷地内に建てられたといわれる「本丸御成御殿」、御殿北側の本丸櫓門であった「清水門」、同南側の櫓門であった「伊賀門」を外観復元する計画があるということなので、そうなるとまた様相も変わるのかもしれません。

そうなったら、また来て見ようかな。。。今は、これまで(笑)。


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2013年3月8日金曜日

控えおろう~☆ 水戸城ご登城

千葉(亥鼻城)を走り抜けたまさにその次の日、今度は水戸への出張が続いたんです!

水戸といえば~♪

そう、TV時代劇「水戸黄門」でおなじみの(?)水戸のご隠居こと徳川光圀公と助さん格さんが有名ですよねー!

水戸駅を降りると、ペデストリアンデッキの上にお三方の像があったりなんかもするんですが、この「水戸黄門」、幕末の講談「水戸黄門漫遊記」が元になっているんだそうで、実在の水戸藩主であった水戸光圀公ご自身は漫遊されたということはないようです。。。

国史(「大日本史」)編纂のためにお抱えの儒学者たちを各地に派遣したことと、その時代の名君と評されていたので、こういった講談物に発展していったのかもしれませんね☆

確かに私も小さい頃、ストーリーが勧善懲悪でわかりやすくて、東黄門サマ大好きだったですもんね~♪

まぁ、そういうことでお三方の漫遊は実際にはなかったんだとしても、この水戸には徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城であった水戸城がある~!

しかも、水戸駅からすぐ近く。この黄門さまご一行の像の左後方にさりげなく映っている高台(斜面)は、実はその水戸城二の丸なんですね v(^^)v

せっかく水戸まで来たんだから、これは走り抜けるっきゃない・・・じゃなくて見て回らなきゃ~!
ってわけで、仕事を早々にやっつけて三の丸から順に本丸に抜けて帰ることにしました。



水戸城の築城自体は平安時代末期にまで遡ります。常陸国大掾であった平国香の子孫である馬場氏が築城し「馬場城」とよばれていたのですが、室町時代に「上杉禅秀の乱」により江戸氏の居城となり、豊臣秀吉の小田原攻め後の文禄3年(1594年)に佐竹義重・義宣父子が後北条氏に加担した江戸氏の籠城する「馬場城」を攻めて入城したのだということです。

佐竹義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めて、それまでの居城であった太田城から本拠を移したのですが、関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、慶長7年(1602年)には徳川家康によって水戸から出羽国秋田(久保田藩)に転封させられたのだということです。

で、まずは家康の五男・武田信吉ついで十男の徳川頼宣が入城し、頼宣が駿府に去った慶長14年(1609年)に十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

次の写真は現在の水戸市街図に水戸城の位置を重ねたものです。


水戸城は水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城され、北側を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていました。また、本丸、二の丸、三の丸の間は空堀で仕切られており、石垣がなくて全て土塁と空堀で構成されていました。

同じ徳川御三家の居城だった尾張藩名古屋城などは、以前外郭をめぐったときに「さすが天下普請!」現在わかるだけでも非常に大規模な城域と巨大な堀や土塁、刻印のされた多くの石材がみられる石垣をもっています。

が、水戸城はそれに比べるとかなり質素な印象です。

城域も徳川の代表的な平城によくみられるような梯郭式(名古屋城)や輪郭式(駿府城)の平城ではなくて、中世の雰囲気をよく残した、地形を活かした連郭式の平山城です。

石垣も見られず、自然地形の川や湿地帯による防御のほかは、土塁と空堀で成り立っています。




三の丸には現在、茨城県庁の旧庁舎があります(県庁自体は現在水戸駅の南方に移転)。
で、その旧庁舎の前には「旧水戸城三の丸空堀跡」 ・・・空堀だぁ~!



堀の三の丸側には立派な土塁・・・
さっそく登ろう~っと喜び勇んで行って見たら、しっかり「はいってはいけません」の立て札で通せんぼ。。。

仕方なく、郭の内側から土塁を見学~♪
内側からでも、こんなに高さがあります。さすがに立派なもんだ☆

そのまま三の丸郭内を旧県庁舎の裏手に回っていくと・・・


水戸弘道館の裏手の鹿島神社の境内(真ん中の写真)に出ます。

左の写真は、この境内の一角にあって水戸藩の建学の精神を記した弘道館記碑が納められているという「八卦堂」です。

また、右の写真は水戸城の数少ない現存建築物のひとつ「孔子廟」の門です。
現在は入れなくなっていますが、門両側の土塀が崩れかけてしまってるのが痛々しいです・・・(;;)




鹿島神社から外に出てくると、旧県庁舎前から続いている堀の続きにかかる小さな土橋に行き当たります。

三の丸を取り巻いている堀と土塁は、このあたりでは旧県庁舎前のものよりも高くも深くもなく、緩やかに二の丸方向に向かって続いています。

水戸城の旧県庁舎方向は台地の続きなので守りを強固にする必要があったのだと思いますが、こちらの方向はもともと高台をかなり上ったところに位置するので、土塁や堀そのものを大きくする必要はなかったのかもしれません。

ちなみに土塁の前から撮ったこの左側の写真の坂の下方向には那珂川が流れていて、天然の防禦になっています。

土塁に沿ってそのままいくと弘道館の前に出ます。


弘道館は水戸藩九代藩主徳川斉昭公が創設した藩校です。
水戸城の数少ない現存建物のひとつで国の重要文化財に」指定されているこの正門の中には、やはり重要文化財に指定されている正庁があるのですが、今回は時間もないのでスルーして・・・




弘道館の真正面にあるのは大手橋。この橋の二の丸側には、かつて大手門がありました。
今は土塁のみが残っています。

この橋の下は三の丸と二の丸を分ける堀切です。



真ん中の写真は橋の上から堀切を見下ろしたところ。
堀底から橋を見上げると右の写真のような感じ。

堀切自体あまりに巨大すぎる上に何気なく普通に県道が通っているので、知らなければ自然地形か、現代になって道路を通すために造った切りとおしかと思ってしまいそうです(^^;)


さて、やっと二の丸(笑)





大手門跡から二の丸に進むと、しっかりとした土塁に囲まれた枡形が出迎えてくれます。

二の丸には天守代わりの御三階櫓や御殿、奥御殿等があったらしいのですが、第二次世界大戦時に空襲で焼けてしまって現在は残っていない上、その跡も現在は茨城大学付属小学校や県立水戸第三高校が建ってしまって、一般に見ることはできません。

道のところどころにある案内板にて往時を偲ぶのみです・・・




よって、二の丸をまっすぐに突っ切る道をスルー☆

途中、市立水戸第二中学校の前に「大日本史編さんの地」の碑があり、そのそばにできたばかりの小さな資料館があります。

右側の写真はその中学校の門と碑です。水戸城の郭内にある学校はみんな非常にレトロです♪

そして、そのちいさな資料館にさりげなく展示されているのが・・・


じゃーん! 水戸の黄門様が編纂を命じたという、大日本史~!!
こんなのがさりげなく、しかも無料で、見れちゃうんだから侮れませんね(笑)

しばらくこの資料館で展示物を見た後、そのまま道を進むと、今度は二の丸と本丸を隔てる堀切に出ます。

堀切にかかる橋を渡れば本丸! しかしながらここも、現在は県立水戸第一高校の敷地になってしまっていて、一般には開放していません。

そして橋の下には、これまた巨大堀切!堀底にはJR水郡線が走っています☆




この橋を渡って土塁を横目に高校の敷地に入ると、入り口に現存建造物の旧水戸城の薬医門がお出迎え・・・



ご登城、お疲れ様でした!  ふぅ!


 

ところで、余談ですが・・・

この日、水戸出身の同僚にお昼に つれていてもらったラーメン屋さん。

壁に貼られていたお店イチオシの「福助ラーメン」、写真はなくて「邪道だけどおいしいよ!理由は聞かないで・・・」という文面に妙~に惹かれて、ためしに頼んでみたら・・・


ラーメンの上に、たたき梅の乗ったおにぎりがどーん!


大きなゆで卵のほかにふわふわ玉子も入っていて、ラーメンだけでもたっぷりなのに、麺を食べ終わったあとおにぎりを崩すとお雑炊まで楽しめて、二度美味しいというわけ。

相当なボリュームなのにあっさり塩味スープと梅干のおかげでさっぱりと食べられて・・・結局完食しちゃいました(^^;)

一緒に行ったほかのメンバーも同じ「福助ラーメン」中盛り(1.5玉分)をぺろりと平らげていました。ここはなかなかオススメです!

めんや 福助  http://ramendb.supleks.jp/s/7783.html


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