2014年6月18日水曜日

義経の腰掛松 経由 石母田城 阿津賀志山防塁番外編 

福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、阿津賀志山防塁に行ってきました。

その様子は当ブログの別記事(「ココロの目で見よ!」阿津賀志山防塁、日帰り旅)に詳しく書いてありますので、そちらをご覧いただくとして・・・


食堂やコンビニくらいどこにでもあるだろうと高をくくって、お昼ごはんを持たずに散々防塁遺構を歩き回ったのですが、ぺこぺこにお腹が空いたときにふと気がつくと、どこにもお昼を調達できるところがない!

それで、町役場からいただいたパンフレットに写真つきで載っている史跡なら、付近に何かしらあるんじゃないか~?とさ迷い歩いていたところ、行き着いたのが「義経の腰掛松」。

そのパンフレットによれば、「義経の腰掛松」というのは阿津賀志山防塁遺構のある石母田地区の鎮守国見神社の西側にある赤松の名木で、源義経が奥州平泉に行くときに腰掛けて休んだと伝説があるそうです。

で、パンフレットの写真では、こ~んな立派な松がある・・・はず。


ところがところが・・・

「義経の腰掛松」の看板のそばには松の若木とちょっと傾いたような小屋?があるばかり。
小屋の中をのぞくと、どうやら古木の切り株様のものがあるようです。




小屋のそばに立っていた看板によると、確かにここには江戸時代に植樹された樹齢200年の松の古木があったようなんです。

ところが、松くい虫にやられてしまい平成25年にはすっかり枯れてしまったということです・・・Orz
で、そばに立っていた若木が、元の木から接穂して育成しているという「腰掛松」の幼木なのでしょう。





そして、腰掛松のあたりは斜面に果樹園の広がるのどかな風景があるばかり。
「お店」らしきものの影も形もありません・・・

で、今度はそこから600mほど離れた石母田城跡へ。
この城跡は町史跡らしいし、パンフレットの写真ではちょっと公園ぽい上、地図では集落の中にあるらしい。。。





集落には入ったものの、通り過ぎる車はあっても歩く人はなく「なんで今ごろこんなところを歩いてるんだ?」的なアウェー感をなんとなくひしひしと感じながら、たどり着いた石母田城跡。



やっぱりお店らしきものの影も形もなし。

そのかわり、とても素敵な「石母田城復元図」の看板!

見ると自分たちのいる場所は、どうやら「的場虎口」であるらしく、舗装路になってしまってはいますが土橋が残っています。

そして土橋の左手、的場のあたりは民家になってしまってますが、うっすらと堀の形跡が残っていて、土塁も「出角」の折れが確認できます。

そして、土橋の右手方向には「外堀」と思しき水路が。。。

これはいい感じじゃん~♪と再度「復元図」を見直してみると、本郭の入口は2ヶ所。1ヶ所は橋を渡って翳土塁の虎口、もう1ヶ所は馬出郭からの土橋!

そして本郭周囲の土塁には屏風折れも見られるようだし・・・☆

これはもうお腹の空いたのなんかどこかへすっ飛んでしまって、まずは翳土塁の虎口への橋を探しに、「的場虎口」からまっずぐ南下。

・・・ところが行けども行けども民家。その向こう側に本郭らしきこんもりとした茂みが見えるんですが、その前に大きな農家?が並んでいて、そちらへ行く道が見当たらない。。。

気がつくと、いつのまにか「三の郭」のあたりまでスルーしてしまってる?
え?橋に行く道なんてなかったよ?

念のためもう一度もと来た道を戻ってみたけど、どうやら位置的には民家のお庭に入っていった先になるらしい。

で、家の脇の畑のふちから行けないかと入っていったところ、藪に埋もれた丸堀には行き着きました。が、橋は確認できず。

仕方なく、今度は最初の土橋から右方向に、土塁の屏風折れを確認しに外堀?の水路に沿って進みました。

・・・確かに丸堀から先、金網の柵と猛烈な藪の向こうにかなり高さと厚みのある土塁が見えます。
しかし、まったく手も足も「ココロの目」さえも出ません・・・!

そのうちに西虎口のあたりまで来てしまって、また民家が並んでいます。
あまりに不毛なのでお腹が空いてるのも思い出してしまい、ここでココロが折れました☆

まぁ、空腹のほうはこの後車まで戻って、そこから5kmほど離れたコンビニまで行って食料調達したので解決できたのですが。。。

石母田城。パンフレットにも紹介しているし「復元図」もしっかりしてるのに、遺構を確認できるようには整備されてないのがものすごく残念でした・・・Orz

国見町役場さん、観光資源が整備されて観光客が増えれば復興にも役立つと思うので、ぜひがんばってくださいませ!


「ココロの目で見よ!」阿津賀志山防塁、日帰り旅

4月に韮山の陣城攻めをやったときに、打ち上げ飲み会の席で、その日ご同行いただいたナワバリスト(城郭研究家)の西股総生先生から「阿津賀志山の防塁は非常にすばらしいので、一度見に行ったほうがいい」というお話を伺いました。

で、その場で「ぜひ行きたい、行こう行こう!」という話になり、そのとき一緒に参加していた東海の城好きさんたちも含めて秋に踏査に行くという話がその場でまとまった・・・ようなんですが。

以前はそんなことなかったのに、近頃お酒を飲むと記憶が吹っ飛んでしまうワタシ☆

今回もまた「やっちゃった」らしく、「秋に行く」話が思いっきりアタマからすっぽ抜けてて、秋の予定では都合が悪いので早めに行こうというツイッターフォロワーのtantanさんのお誘いにちゃっかり便乗することにしちゃったのでした。。。

ま、どちらにしても、秋のその時期はワタシも都合がどうなるかまだわからないし・・・秋の踏査にもご一緒できるのなら、これが「下見」ということで(^^;)


そんなわけで、阿津賀志山防塁まではるばる車で片道4時間の行程を日帰り爆走旅と相成りました☆

阿津賀志山防塁は福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、平安時代末期の防塁(防御用の堀や土塁、またそれらをめぐらせた砦)の跡です。

鎌倉幕府による文治5年(1189年)の奥州征伐(奥州合戦)で、源頼朝軍と迎え撃つ奥州藤原氏の軍が、福島盆地の北端に位置する阿津賀志山(現:厚樫山 標高289m)の周辺で戦った「阿津賀志山の戦い」の際に、奥州藤原氏の防御施設として使用されたもので、阿津賀志山の中腹から阿武隈川までの約4kmの距離に築かれていたと推定されています。





ワタシと同じく埼玉県民のtantanさんの車で東北道をひた走り、途中那須高原SAでメープルシロップがたっぷり入った「もちもちドーナツ」とコーヒーを堪能しながらひとやすみなんぞしながら、まずは福島県国見町観月台文化センターに到着。

実はtantanさんが事前に国見町に問い合わせて資料を取り寄せてくれてたのですが、そのときに親切に対応してくれたのがこの観月台文化センターだったのだそうです。

また、ブログでいろいろ検索したら、どうもこの文化センターの歴史資料室には防塁のジオラマがあるらしいのです♪

ならば最初に立ち寄って、ジオラマや資料でお勉強してから現地に臨もう!と中に入ってみると・・・なんか様子が変?

なんかパーテーションでいろいろ区切られてごちゃごちゃしてるし、振り返るとそこにあったドアの上に掲げられた表札に書いてあるのが「町長室」?!

よくよく受付らしきところで聞いてみると、東日本大震災で町役場が被害を受けてしまい、この文化センターに避難してきてるのだそう。

よって、歴史資料室も現在非公開、だそうです。。。残念!

後でもともとの町役場の場所を通りかかりましたが、敷地内に重機が入っているものの、すっかり更地になっていました。秋にみんなが行くときもまだダメかもなぁ・・・

一刻も早く復興しますように・・・!(>人<)


さて、それではいよいよ阿津賀志山防塁です。



奥州軍は、阿津賀志山中腹から阿武隈川に至る長大な三重の防塁を築き、堀に阿武隈川の水を引いて、国見町のある伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境とする大防衛線を築きました。

総大将は藤原泰衡の異母兄藤原国衡で、二万の兵を配備して迎撃体制をとったと言われています。

阿津賀志山防塁が築かれた一帯は現在も東北本線・国道4号線・東北自動車道が並行して走っている通り、地形上、古くから北上するには必ず通らなければならない交通の要衝なので、南からの攻撃に対する奥州藤原氏の本拠・平泉守備の最前線基地として重要視されていたポイントだろうと思われます。

一方、藤原氏の討伐のために鎌倉を出立した鎌倉幕府の軍勢は三手に別れ、頼朝の大手軍は鎌倉街道中道から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤の東海道軍は岩城岩崎方面へ、比企能員の北陸道軍は越後から出羽方面へ、それぞれ進攻しました。

「吾妻鏡」によれば、大手軍は騎馬武者では先人の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員、さらに道中で各地の豪族を加え、推定される総勢は二万五千以上の兵力だったと言われています。



二万と二万五千の兵がここで激突したのか~☆

結局大激戦の後、幕府軍の一部が鳥取越(現:小坂峠)から迂回して奥州軍の後陣を奇襲し、奥州軍は混乱。

出羽方面に逃れようとした藤原国衡は、追撃した和田義盛に討たれて勝敗が決し、自軍の大敗を知った藤原泰衡は多賀城から平泉方面に退却しました。

この戦いの大打撃により、奥州藤原氏に大規模な合戦を行う余力はなくなって、散発的な抵抗は続くものの、最後には本拠地の平泉が陥落して滅亡に至ります。





さて、いよいよ阿津賀志山防塁を、南の阿武隈川に近い下二重堀地区から北の阿津賀志山に向かって遡っていくことにしました。

これが下二重堀地区の防塁遺構です。。。





・・・やったー!二重堀三重土塁~!!!
薄いながらもしっかりと綺麗に土塁と堀が残っています♪

そして、写真の奥にかすんで見えるお饅頭形の山が、阿津賀志山ですが、遠い~☆
あんな遥か彼方まで防塁を築いていったなんて・・・その労力たるや、想像もつきません。



調査によれば、もともとはこのような断面になっていたのだそうです。
図面でもすっかり薄くなってしまっている様子が書かれていました。

土塁と堀は地形をよく活かして作っている様子がここでもよくわかります。



防塁遺構の一番南側は、欠下橋のあたりで滝川という川に接しています。

写真で、真正面奥から遺構が川に向かってまっすぐ来ているのがわかりますでしょうか?(わからないかも・・・)

ちなみに阿津賀志防塁の外堀側は水堀だったという説もあります。

地図をよくよく見ると、滝川は川内地区で東側の牛沢川とT字路状に合流して、非常に人工的な流路で阿武隈川に流れ込んでいます。

欠下橋の辺りは古河道だという話もあるので、古には阿武隈川は今よりずっと北側を流れていて、現在の欠下橋から下流の阿武隈川までの流路は、阿武隈川の流れが変わった後で作られたものなんじゃないかな、と想像できます。

そして、もし本当に防塁の外堀に水を引き込んでいたのなら、この地点から直接阿武隈川の水、ということなんだろうな、という形状です。

ただし、この場所は阿津賀志山防塁では一番低い場所にあたります。

いかに阿武隈川が大河であったとしても、阿津賀志山に向かって徐々に上がっていく長大な防塁の堀に低いところから水を引き込むというのは、かなり自分の中ではギモンです・・・☆

とりあえず、今回は「下見」なので(笑)このギモンは秋に持ち越すとして。。。


阿津賀志山防塁の遺構は全長約4kmすべてが残っているというわけではないので、所々残っているところをたどって行きます。


で、次に行ったのは、下二重堀地区から県道320号線を北に渡ったところにある、高橋地区。

行ってみると・・・あった~!
tantanさん号よりも背の高い土塁が阿津賀志山に向かって伸びています!



下二重堀地区からちょっと北上しただけなのに、阿津賀志山が少し大きく見えるようになった気がします。

ただし、二重土塁の堀底はひたすらこーんな藪やぶ。
少し入ってみましたが、腰まである雑草群に足元はぬかるんでずぶずぶ。

ちなみにワタシは半分くらいで挫折して外側から出口に向かいましたが、tantanさんは堀底から土塁に上がって出口まで歩き通しました。さすが!

きっと晩秋くらいになれば、ここも草が枯れて遺構もよく見えるようになるし歩きやすくなるんでしょうね~☆

ちなみに次の写真は、高橋地区の意向を北(阿津賀志山側)に抜けたところから阿津賀志山方面を眺めたところです。


畑が広がっていて、遺構はすっかり見当たらなくなってしまってるんですが、よくよく見ると左側の道路から畑に向かって盛り上がっているラインが、実は土塁ラインの続きになっているようです。

畑の中にも「ここが土塁だったんじゃないか」という盛り上がりがうっすらと・・・

いや、ぱっと見ではよくわからないです。「ココロの目で見よ!」

今回の散策では、はっきりと遺構が残っている場所のほかに「もしかして」というところがいっぱいあって、いつのまにか「ココロの目で見よ!」が口癖になってました♪


さて次は、遠矢崎地区。地図には「遠矢崎舘跡」と書いてあります。

ナビもあてにならないような田んぼの中の田舎道。
ところどころにある→看板をたよりに、「あっちだ」「こっちだ」「ここはどこ?」と2人で迷い迷いたどり着いた、それこそtantanさん号がはみだして落ちてしまいそうなあぜ道の先にあったのは・・・






・・・遺構はいったい、どこ?

一応案内看板はあったのですが、そこに書いてある図がまた、どっち向きに書かれているのかよくわからない。

2人であれか、これか、と言いあったあげく、「ココロの目で見ると」たぶん写真奥の盛り上がりが土塁遺構ではないか~?
看板の図面によると堀もあるはずなんだけど・・・藪やぶでまったくわからないです。

これも秋に持ち越しか(笑)


ここからちゃんとした(笑)農道にもどり、さらに北上して森山地区。
地図ではPマークがついているので、駐車場がある~!とちょっと期待。

・・・が、地図の地点まで行ってもそれらしいものが見当たらず、思いっきりスルー。
駐車場はどこ?

と、道路の端っこにこんな看板が。。。



その看板から入っていく坂の下のほうに何台かの車が・・・駐車場ってあれか~!

まさしく、車が2~3台停まれる、あれが町営の防塁見学者用駐車場。
その真向かい(写真右側の)の林の中には・・・



遺構、発見~!

木が生い茂ってしまって写真では様子がわかりにくいのですが、ここも二重堀三重土塁になってます。「ココロの目で見て」ください(笑)

実地に行ってみれば、堀が浅くなってしまってますが、それでも一番内側の土塁はtantanさんの背丈を遥か越えた高さで、しっかり堀と土塁が確認できます。

ただし、木々の間はくもの巣とやぶ蚊がいっぱ~い!

というわけで、土塁&堀底ウォークは早々に切り上げ、駐車場に入る坂から遺構を追いながら元の看板のところへ。

ここで遺構は道路に一度ぶち切られて、その先へ。
だから看板に「横断地点」と書いてあったのか・・・それにしてもこのイミって、遺構が道路を横断してるのか、道路が遺構を横断してるのか(笑)

そして、道路を渡った続きはこんな感じで続いています。


この写真の場所は、以前ワタシの城師匠で古戦場研究家のサイガ(新津竜一)さんにTwitterで教えてもらっていました。

細道の右側の盛り上がったところが、長土塁の断面なのだそうです。
ここまでくると、いよいよ真正面に阿津賀志山がくっきり!

このあたりはもう阿津賀志山の山すそになるので、山に向かって地形がどんどん上がっているのがよくわかります。



地図で見ると、この先国道4号線を越えた石母田地区までは遺構がないように書いてあって、しかも車で移動するとかなりぐるっと回るルート。

反対にこの細道はまっすぐ行くと遺構の土塁ラインに沿ってるようだし、方向的に国道4号線に直行できるかも☆

ちょっとチャレンジ!と入っていきましたところ・・・

ちゃんとかすかに地面に高低差があって、土塁(だった)ラインがわかるではないですか~!

かなり「ココロの目で見る」ことが必要ではありますが(笑)

ちなみにこの細道の左側(防塁線の外側)は、一気に地形が低くなっていて、ここに塁を築くというのは、敵を「通せんぼ」するにはかなりよいのではないかと思われます。。。



細道を通り抜けると、いきなり車がばんばん走っている国道4号線にぶつかります。
渡った真正面が、今度は石母田地区の遺構です。

看板も何もないのでどこにあるかわからなくて、もしかしてこれか?と半信半疑でよじ登った排水路の先が、実は堀でした(^^;)



わーい、草が刈ってあって見やすい~!
山の方に向かって、堀底も土塁上もずーっと歩いて登っていけます。

ただし石母田地区はこの先東北本線の線路と東北自動車道で途切れてしまうのですが。。。

写真で見ると土塁と堀が1本ずつ・・・に見えます。私も最初そのつもりでずっと歩いていました。

ところが、石母田地区の最高地点にあった看板によると、こんな高い場所になってもやはり二重堀三重土塁だったようです。


うーん、そういわれてみれば、この看板のある地点のあたりの道路や土地のうねりとか高低差を見ると土塁がそうなっていた・・・かもしれないかなぁ?

これもかなり「ココロの目で見よ!」(笑)



ここまで来て、すでにお昼を回っておりまして、ただでさえ朝が早かったのでお腹がぺこぺこ。

ところが、「田舎」をちょっと侮っておりまして、昼食を調達していなかったのにお店がひとつもない~!

近くの「旧跡」を回ってみればもしかして・・・と、そのまま徒歩で「義経の腰掛松」や公園化してると思われる「石母田城」(この2つは当ブログの別記事で紹介しています)に行ってみましたが、何にもないどころか、「なんでこんなところ歩いている人がいるの」というアウェー感がひしひし。。。(><;)

しかたなく車に戻って5kmほど離れた藤田宿のコンビニで水と食料を調達、昼食をとって線路と高速を渡り、いよいよ阿津賀志山中腹、展望台下の遺構へ♪

またしてもナビも迷うような細道を通って「本当にこの道でいいんだっけ?」という高速の側道に、その案内の杭は立っていました。



杭の脇にはくっきりと堀が阿津賀志山の上に向かって伸びています!

ただし、例によって膝丈くらいまでありそうな草がぼうぼう・・・
でもこれだけ堀の形が見えてるし、行けるかな?

「ココロの目」では道が見える・・・!行けるところまでいってみよ~☆





と、がしがし入っていってみましたら・・・草の中にしっかりちゃんと道がある!

同じことを考える人がいるんですね☆
しかもちゃんと階段様になっていて、歩きやすいこと!結局そんなに苦労しないで「防塁始点」の看板まで通り抜けてしまいました。

あ、でも勾配は結構あるので、しっかり山登りではありますのでご注意です☆
「始点」の看板で舗装道路とぶつかって、遺構はおしまいのようです。

この先、山の上には展望台があるとのこと。車にもどって行って見ました。




展望台には駐車場もあって、一応観光客受入れ対応のようです。
遺構の方向に阿津賀志山防塁の案内版があって、その前にベンチもあります。

が、ベンチに座っても目の前は藪です。何も見えません。
そもそも防塁始点はこの展望台の遥か下方です(笑)

ベンチの後方には割りと新し目の(でもその登り口までの道が超わかりづらい)鉄の展望台があります。

登ってみると、ど~ん!



遠く南の方角の阿武隈川までの景色が、鎌倉幕府軍が攻めてきた方角(本陣を置いたといわれる藤田城)から奥州藤原軍が守っていた方角まで、ずーっと見渡せます。



とりもなおさず、眼下真正面にこれまで通ってきた阿津賀志山防塁線も全部見えているということで。。。

ちょっと霞んじゃってますが(笑)ここに立つと、どのように攻めてきたのか、どの方角が守ろうとしていた平泉の方角なのか、そして背後を突こうと回った峠の高さもすべて実感することができて、大感動!

このような地点だからこそ、奥州藤原氏はこの阿津賀志山を基点に防塁線を築いたのかなぁ・・・?

ワタシは当初、もっと短い距離で防塁線を築けるところがあるんじゃないかと思っていたのですが・・・(^^;)

そして、こんなに長大な防塁を築いた奥州藤原氏の必死さがひしひしと伝わってくる遺構群でもありました。

・・・本当にここに来てよかった♪

今度は草や藪のない時期に、もう一度「ココロの目」を磨いてじっくり歩いてみたい阿津賀志山防塁でした。








2014年6月13日金曜日

たとえひと目でも・・・太鼓曲輪&殿の道の石垣♪ ~八王子城オフその3~

なんとか詰めの城の大堀切まで行きついたものの、いよいよ「もうそれ以上奥に進むのは無理!」な雲行きになってしまい、「勇気ある撤退」をはじめた八王子散策オフの一行でしたが、詰めの城から下り始めたところで空からポツリポツリ・・・

雨だぁ~!

あわてて登り石垣の尾根を駆け下り、駒冷やしの大堀切をスルーして、雨宿りのできる本丸直下の東屋まで急ぎ足でGO!


が、不思議なことに、上を見上げるとかなり雨が降っているのが見えるにも関わらず、体に当たる雨はほとんどなくて、結局雨具は必要なし。

木々の中を通る道だったので、しっかり雨がさえぎられていたんですね。助かりました~☆

東屋について昼食をとっているうちににわか雨の通り過ぎ、いっそう蒸し暑くなってきたものの空は晴れてきて、時折ほほをなでる心地よい風~♪

このまま御主殿曲輪のある居館地区までもどってもよかったんですが、「せっかく本丸まで戻ってきたから、先ほど本丸に来たときに行かなかった小宮曲輪に行ってみるか」という西股先生とサイガさんについて、八王子神社脇の細道を登っていきました。




縄張り図の④のところまで来て、西股先生が「ここに小さくテラス状の平地が書いてあるだろう。ここがおそらく小宮曲輪の虎口になってるはずなんだ。」とおっしゃって、いきなり道から斜面の藪の中にごそごそ!

続いてサイガさん、tantanさんもごそごそ!私もあわてて後に続きましたが、この日最大の藪こぎでありました。

なんたって、写真の藪のど真ん中に西股先生とサイガさんが映っているんですが、わかりますか~?(笑)

そして、この藪こぎの成果は・・・先生方によれば「テラスと土塁様の地形はわかったけれど、虎口かどうかはっきりとはわからなかった。ただし抵抗なく登れる斜面になっているので、ここが通路であったとしてもおかしくはなさそう。」とのこと。

いやいや~、藪を通り抜けるのに必死で「抵抗なく」なんてよくわかりませんでした~☆
これはまた、藪の薄くなる冬に再確認の必要あり、かな。。。



小宮曲輪まであがったら、お宮(?)の前にいる珍しい親子の狛犬をみて、ちゃんとハイキングコースになっている現在の曲輪の出入り口からもとの東屋方面へ降ります。

縄張り図の青丸が書いてある部分がその小宮曲輪からの出入り口なんですが、図でもわかるとおり変な形に出っ張っています。

これは、現地で見るとさきほどの「虎口があるはず」だというテラスのある藪をちょうど真正面に見下ろす「横矢がけ」になっています。

現地では「なるほど~!」という感じに見えたのですが、写真に撮ってみると・・・うーん、ただの藪でまったく判らない!

なので、これもやっぱり藪の薄くなる冬に再確認の必要あり、ですね(笑)




さて、小宮曲輪をごそごそ歩き回った?後、当初予定では大雨のあとで足元もぬかるんでるだろうし、午後から荒れる天気という予想だったので、これで本日の行程終了!ということだったのですが・・・

時計を確認すると時間がたっぷり余っていて、しかも1日歩いてみて、思った以上に足元は乾いていて大丈夫だし、天候もすっかり回復しちゃってる。

これは急げば太鼓曲輪に行けちゃうんじゃないの~?


というわけで、さっさと要害地区から金子曲輪経由でビジターセンターまで一気に駆け下りて、深沢川を南側へ渡り、縄張り図の⑧へ。

この⑧には大手門跡があります。
昭和64年(1988年)の発掘調査で礎石や敷石などが出てきたことから「薬医門」形式の門があったのではないかといわれていますが、現在は埋め戻されちゃっていてよくわかりません。

この⑧の場所は土塁が明確で、門があったという土塁の切れ目から外側を見ると、どう見ても地形が枡形様になっています。

おそらくこの枡形の中に石段が埋もれていて、降りた先で川を渡っていたのではないかと明確に想像で来ちゃうような形です。

わくわく(笑)



⑧の場所からは御主殿曲輪に大手道(古道)が続いていて、曳橋を渡って御主殿曲輪に入るはず(それにそって橋や石垣の整備などもされている)なのですが、この記事現在、曳橋は無期限通行止めなので、大手道も行き止まりになってしまっています。

大手道の小さな橋の脇から細い山道を上がっていった尾根上に展開しているのが太鼓曲輪です。


曲輪、といっても尾根にざくざくと切れ込ませた堀切群といったほうがわかりやすいかもです。

尾根に上がって、まずは「片堀切」。
上方から見ると切岸にしか見えないのですが、下に降りて振り返ると、左右の縦堀が目に入って「あ、堀切?」「もしかして土橋?」という気になります



そして、第1堀切。いつ来ても気持ちよく切れています(笑)
堀底の西股先生とサイガさん。こんなに小さく見えるということは、堀の深さはどれだけでしょう!



第一堀切には石積みがみられます(⑨の場所)。

このあたりの地形を見ると、尾根から堀切に降りる道のようになっていて、途中階段様に積まれた石もみられることから、どうもこの場所には虎口があって、写真の石積みは虎口を固めるものだったのではないかと思われます。

また、虎口を少し降りたところから堀切の反対側に木橋をかけていたのではないか、という感じでもあるようです。




今回は時間もあまりないということで第1~第3堀切までしか見ませんでしたが、やっぱりいつみてもこのざっくり感はたまりませんね~☆

朝、八王子城散策を始めたときには太鼓曲輪まで来れないだろうと思っていたので、ホントひとめだけでも?来れてよかったです♪

それにしてもこの太鼓曲輪の位置には、なぜ詰めの城周辺のような防衛線を置かずに尾根にざくざく切込みを入れたんでしょうね・・・?不思議です。


そして、「時間がない」といいながらもこれだけはひと目だけでも!ということで太鼓曲輪のあとにやってきたがここ。



はい、殿の道にある4段の石垣群です~!
やっぱ、八王子城に来たらここには来たいですね♪御主殿曲輪からも近いし・・・




別記事でご紹介した柵門台下の石垣同様、高さ2mごとのセットバックがはっきりしています。

でも、よくみてください。柵門台下の石段と比べると・・・



石垣の顎石の下に隙間ができてしまってる!

実は八王子城のあたりの土質は非常に崩れやすいこともあって、別記事でも紹介しましたが元は八王子城の縄張りをぐるりと取り巻いていたであろう石垣も、崩壊してしまって石がごろごろしているばかり・・・という状況です。

ここも風雨に流されるだけでなく、人が通ることによって削れていることもあるかもしれません。
自分もがさがさ歩き回っているのになんですが、柵門台下の石垣同様しっかりと整備・保護して後世に残していたけることを切に願っています。


で、最後におまけ。

いつもはちょろちょろとしか流れてなくて「八王子城落城時に、こんなところで本当に身投げしたのか?」とギモンに思えるほどの御主殿の滝。

この数日、近来まれに見る大雨の日々が続いたせいか、この水量!

 

すばらしい滝となって流れておりました。
そばに寄ると、マイナスイオンが心地よい~♪






これで、今回の八王子オフ全行程終了!
御主殿滝や八王子城のマンホールを堪能しながら、八王子の町に出ていつもの通り乾杯です。

そして、この八王子城散策はまだ第1日目。次の日は今度は滝山城めぐりです。
引き続き、がんばってまいりましょ~☆