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2014年7月12日土曜日

吉野街道そぞろ歩き・・・ 鎌倉街道山ノ道その4 



ちっくりちっくりと少しずつ進めてきた鎌倉街道山ノ道歩き。

地図の黒い線がその鎌倉街道ですが、3月には埼玉の飯能から青梅に抜けて、私の大好きな青梅三田氏と小田原北条氏の合戦エリア(辛垣城・軍畑)に入り、いよいよ佳境。

それでは軍畑の決戦場に向けて北条軍の進軍ルートもたどってみようと、八王子から秋川を渡った北側の武蔵増戸から梅ヶ谷峠を越えるルートもたどってみて・・・


そのまましばらく放置したまま、ふと気づいたら梅ヶ谷峠を越えた吉野梅郷から軍畑までのルート、すなわち肝心の辛垣城攻めのために北条氏照が陣を置いたとされる柚木のあたりがすっぽりと抜けている~!

これはやっぱりちゃんと歩いてみないとでしょ~と思いつつほかの事にとられている間に日々が過ぎてしまったので、春が過ぎ、山城シーズンが終わったところで改めて歩いてみることにいたしました。



というわけで、朝、愛車を飛ばして前回歩いた小沢峠~松ノ木峠~榎峠と越えて、軍畑に到着。
軍畑の渡しの上にかかる軍畑大橋で多摩川を南側に渡ったところに車を停めて、徒歩での街道散策にいざ出発☆


車を停めたパーキングに立っていた案内図によれば、本日の行程はこんな感じ。

「現在地」のところを横に通る赤い(ピンク?)線は現在の吉野街道(都道45号奥多摩青梅線)ですが、古道(鎌倉街道山ノ道)はその西側を平行して、丘陵地帯沿いに山際をずっと通っています。





案内図では多摩川・吉野街道と古道の間は平坦に見えるのですが、実際には吉野街道は多摩川の河岸段丘上にあり、吉野街道から古道まではさらにぐいっと登っていて、古道は山際とは言いながらも結構高いところを走っています。

古道から吉野街道方向を見ると、こんな感じ。
結構高低差があるのが、わかりますか?






北条氏照が辛垣城の三田氏を攻めた際に陣を置いたのは、柚木村の「陣屋跡」であるといわれています。

「陣屋跡」の場所には後に北条氏家臣の野村豊後が屋敷を構えて、その末裔の方もいらっしゃるようなのですが、今回、この「陣屋跡」がどのあたりになるのか、(予習が足りなかったせいもあって)特定できずに現地に臨んでしまいました。



この写真は現在の青梅市柚木町あたりです。辛垣城の真下で三田氏の菩提寺の海禅寺(三田氏が陣を置いていたとも)のある二股尾のちょうど対岸にあたります。

川を挟んで、辛垣城や支城の枡形山城、海禅寺が一望の下に見渡せる・・・このあたりに北条軍は陣を置いたんではなかろうか・・・と勝手に推測したりして☆

そして、古道はさらに北条軍が越えてきた梅ヶ谷峠の峠道に向って続いていきます。



古い街道なので、所々にその名残が残っています。
「柚木三名水」のひとつ(だという)堂の下の?泉。

石碑の字が読み取れない上、ふたがされちゃってます(^^;)



堂の下からしばらく進んで、これまた道沿いにあるお稲荷さんの境内にも少し掘り下げて作られた井戸らしきものが・・・

これも三名水のひとつなのかな?注連縄が張られて大事にされている様子。
ふたの下には水があるようです。

観光客向けなのか、道沿いに「鎌倉街道」という立て札が・・・
あ、まちがってないんだと、ちょっとほっとしたりして(笑)




道は山の際を丘陵の地形に沿って走っているので、くねくねと曲がりながらすすんでいきます。
これは吉川英治記念館の裏手のクランク。道から記念館のお庭が垣間見れます☆

地元の方たちはこの鎌倉街道を題材にして句会なんぞも行っているようです。



古道は続くよ~、どこまでも~♪

そして・・・こんな道標がいくつか立っている分かれ道に遭遇。



ひとつは、欠けてしまってまったく読み取れません。



そのかたわらの小さくて丸みを帯びた石には「宝暦十○年 左八王子○ 右山みち」の文字が。
(○は読み取れなかった文字です)

それにしても「山みち」って・・・(笑)

その2つの石から1mほど離れた角にはもっと時代が下った追分の道標があって、その字はしっかり読み取れるので、右の「山みち」は「琴平山をへて御岳山に至る」のがわかるんですが(汗)

ちなみにこの道標の「左大久野及五日市方面」の「大久野」というのは、梅ヶ谷峠の南側の集落(現在は日の出町)で、そこから鎌倉街道と分かれて平井川に沿って下っていくと北条氏の軍事道だった滝山街道にぶつかります。

辛垣城の戦いの前哨戦である青梅三田氏の本拠勝沼城攻めには、この滝山街道も使われていたんじゃないかと思われるので、なんか感慨深いものがあったりして・・・ってちょっと話題が飛びすぎか(笑)

この追分の道標群を通り過ぎると、一気に山道めいてきます。




そして、最後はぐいぐいっと道は登っていって、その先はひたすら梅ヶ谷峠に向けて登っていきます。

本日はそっちへ行ってしまうと帰れなくなるので、この梅ヶ谷峠の入り口で散策はおしまい。
のんびりと多摩川を渡って、JR日向和田駅へ。ところが・・・



・・・目の前を通り過ぎる電車!

やっちゃいました~☆ 乗るべき電車の時間を10分間違えて、電車に乗り遅れてしまいました。
そして、次の電車は40分後。。。

う~ん、愛車を置いた駐車場まで4kmか・・・40分待ちでその先3駅なら行けちゃうか?



えーい、行ってしまえ~!
と、すでに高く上って暑さを増してきた陽射しの中を、日向和田駅から軍畑駅の南岸の駐車場まで猛ダッシュ!

道は間違えるし、汗でどろどろになるし、散策本体よりも帰り道のほうがキツかった。
お疲れ様でした!

2014年7月6日日曜日

古のハイウェイ? 霞丘陵七国峠

前日まで梅雨らしいしとしと雨降りが続いていたのが、この日は朝から貴重な梅雨の中休み。
twitterをのぞくと、フォロワーさんたちがあちこち歴史散歩に繰り出しているのがTLに流れています。

当の自分は、というとこの土日は入っていた仕事が流れたこともあって、ぽかーんと予定が空いている・・・

やらなきゃいけない家事はそれなりにあるけれど、大急ぎで片付けて前々から狙っていた近所の古道くらいはお散歩できるね!

・・・というわけで、午前中にしゃかりきになって炊事選択お掃除に水回りのカビ取りもがんばって、午後も多少回ってから到着したのが、笹仁田峠。





慶長11年(1606年)、江戸城大改修のために徳川家康から青梅の成木村で採れる石灰を供給するよう命じられた八王子代官の大久保長安が作った、成木から江戸城までの道が成木街道です。


笹仁田峠というのは、この成木街道の峠のひとつです。この頃の成木街道は成木から小曾木を通り、この笹仁田峠を越えて箱根ヶ崎に出て、現在の東大和あたりの青梅橋で青梅街道に入っていました。


幕末の飯能戦争の際には、振武軍そして官軍もここを通ったようです。


成木街道はこの笹仁田峠で東西に走る霞丘陵を越えるわけですが、この霞丘陵の尾根上にはこれまた「旧上州道」といわれている古道が走っています。


次の地図上の赤線がその尾根道で、笹仁田峠で赤線の道とクロスして南北に走っている道が成木街道です。



この赤線の尾根道は現在「霞丘陵ハイキングコース」として整備されていて、笹仁田峠から入っていくことが出来ます。

そして地図を見れば判るとおり、この尾根道を笹仁田峠から西に進むと青梅三田氏の帰依を受けて栄えた塩船観音寺、そして三田氏の居城だった勝沼城址があります。

また東に向うと、この尾根道とリンクする道沿いに遺構が明瞭だけど由来が謎の今井城があり、そして舌状台地の先の入間川「阿須の渡し」で、以前別の記事でも書いた「滝山古街道」と合流します。

今回は時間もないことなので、家に戻ることも考えて笹仁田峠から東側に「上州道」をたどって、阿須に下りることにしました。





これが笹仁田峠からの古道入り口です。

現在は都道となって車のばんばん通る笹仁田峠からハイキングコースに入ったとたん、こんなご機嫌な掘割状の道が継続的に続いています!

このあたりの山は某宗教団体の持ち山であるらしく、非常に手入れが行き届いていて綺麗ですし、道も歩きやすく整備されています。

所々元の地形が堀割られることによって道の傾斜が一定になっていて、アップダウンもほとんどなく歩きやすいことといったら!



斜面を登りきって尾根の頂上に出ると、道はそのまま尾根の一番高いところをまっすぐ進んでいきます♪

左右は結構深い谷。アップダウンがないのでさほど高いところに登ったとも思えないのに、尾根道からは秩父方面の山々がよく見えて、とてもご機嫌です♪

しばらくそのまま進むとちょっと開けた場所に出ます。そこが「七国峠」です。

「七国峠」と名のつく峠はこの近辺では八王子と町田の間、川崎と稲城の間、平塚、そしてこの青梅と飯能の間の4ヶ所あります。

青梅と飯能の間にあるこの「七国峠」は標高220m。青梅市教育委員会の「青梅文化財地図・青梅を歩く」によれば、青梅・勝沼(三田氏の勝沼城址があるところ!)と上州・白井(現在の渋川市、白井城址のあるところ)を結ぶ「上州道」の峠だとのこと。




ここから南に下ると今井城にアクセスします。
つまり、言ってみればここは今井城からこの「上州道」ハイウェイに乗るためのいわばインターチェンジといったところ?

峠には「弥兵衛松」という石碑と小さな松があります。

この「弥兵衛松」というのは二代目だそうなのですが、昔この峠を往来する人を見守った弥兵衛という人の仮小屋があったところなのだという昔話が伝わっています。

弥兵衛は追いはぎにあった女の人を救ったり、年をとると鉦をたたいて峠の安全を見守ったのだそうで、亡くなった後、小屋のあった跡に一本松が生えて身代わりのように峠を見守ったのだと言うことです。




しかし、こんなところの道が「上州道」?
しかも上州は北の方向なのに、この尾根道「ハイウェイ」は東西に走ってるんだけどな・・・?

そんなギモンを抱きつつも、掘割状道はまだまだ続きます。




「山道」って・・・いったいどこにつながってるの?(笑)
駅への近道って書いてあっても、どこに道があるのかわからない~(笑)





そして、青梅から県境を越えて飯能に入ったあたりから、どうやら某宗教団体の敷地からも離れたらしく、なんとなく山の様子があまり手入れをされていないような感じに・・・

古道も先ほどまでの歩きやすく整備されて快適だったところから、掘割状の道も埋もれてしまって狭く判りにくく歩きにくくなってきて・・・




いきなり古道の交差点!
丘陵の両側にある集落を結ぶ道とのクロスです。この尾根道古道からはこのように両側に降りていく道とところどころでクロスしています。

そして、尾根道の走っている丘陵も、県境を越えたあたりから霞丘陵から阿須丘陵へと名前も変わっているのですが、七国峠あたりをピークに東に向って尾根道はだんだん標高を下げて、このあたりまで来るといよいよ幅も狭まっているようです。



さらに進むと、尾根も道もいよいよ細くなり、ついに木々も途切れて・・・

じゃーん!


見よ、あれが飯能の町だ~!




ここまで来ると、まだ高低差はあるもののもう尾根は舌状台地となって川へと降りていきます。

視線の先には八高線の走っている土手と、その向こうの入間川にかかる橋が見えます。
この橋の場所が鎌倉街道の脇街道にあたる「滝山古街道」の阿須の渡しにあたります。

この「滝山古街道」は北上すると飯能の中山から高麗川を抜けて鎌倉街道上つ道に合流して上州方面に向かいますので、おそらくそこまでひっくるめて「上州道」と言っていたのではないでしょうか。

あくまで、私の想像ですが☆

というわけで、まっすぐ尾根道を降りてきて、JR八高線の「土塁」。
阿須丘陵から入間川対岸の飯能丘陵(高麗丘陵)に向って土塁を築いて、高低差をつけずに入間川の広い河岸段丘を渡っています。

・・・相当な土木量ですよね(^^;)





そして阿須の渡し、つまり現在の近くの阿岩橋のそばのセブンイレブンのアイスコーヒーでゴール!

お散歩といいながらも、なんだかんだですっかり夕方になってしまいましたが、整備されたハイキングコースでの山の中の遺構散策は快適でした!

お疲れ様でした~!次はどこに行こうかな・・・?(笑)

2014年3月23日日曜日

行ってきました!企画展「戦国時代の青梅」~三田氏の滅亡と北条氏~

直接「城攻め」というわけではありませんが、このところハマッていてこの「城攻め備忘録」ブログにも載せている「鎌倉街道山ノ道」や青梅三田氏と北条氏に関連した展示に行ったので、一緒にこちらのブログに書き込むことにしました。

お彼岸のお墓参りついでにご先祖様縁で「鎌倉街道山ノ道」を少々歩いた次の日。

特に何も予定を入れてなくて、家中掃除機をかけまくりながら何の気なしにひょいっとTwiterのTLをチェックしたら・・・

誰かがRTした記事で、青梅市郷土博物館の企画展「戦国時代の青梅」~三田氏の滅亡と北条氏~ の案内ツイが。

しかも、この日が最終日。午後5時にはすべての展示が終わってしまいます。。。

これは・・・!神様のお導きに違いな~い!


青梅市郷土博物館はJR青梅駅から南に下った多摩川の河川敷にある「釜の淵公園」の中にあります。

うちからなら車を飛ばして30分強。なんとか間に合いそう~!
というわけで、大慌てで仕掛かっていた家の雑用をやっつけて、愛車の「オッサン号」に好きな曲と行き先をセットして・・・
気がついたのが遅かったの家を出るのが少々遅くなってはしまったけど、いざ出立!


ところがところが・・・

山を越えて青梅の町に入り、道の所々に点在している「青梅市郷土博物館→」の案内看板に従って多摩川を渡って、対岸の吉野街道から「かんぽの宿」への道に入ると・・・

え?行き止まり?

正確に言うと、「かんぽの宿」の裏側に10台ほど停められる「釜の淵公園利用者専用駐車場」があり、そこで道路は行き止まり。
その先は遊歩道が川に向かってぐうっと落ち込んでいて、「青梅市郷土博物館」らしき建物は影も形も・・・?

え~?案内看板にしたがってやってきたのに?

そう思いながら下の方をのぞき込んでみると、河川敷が公園になっていてその中に古民家風の建物が。

そしてその向こうにちょっとそれっぽい建物も。

あれかぁ~☆結構距離あるなぁ・・・

行ったとしたら帰りに河川敷から駐車場までの登りがしんどそうwww

ちょっと腰が引けながら、それでも気を取り直して行ってみると・・・

古民家風の建物は昭和53年に国の重要文化財に指定されて移築された「旧宮崎家住宅」。

建築様式からみて19世紀初頭(っていうと江戸時代文化文政の頃?)の建物だということです。

そしてその奥に・・・あった~、青梅市郷土博物館!
ちゃんと入り口のところには企画展の看板も♪



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入場料無料!さっそく中に入って、それから一時間ほどどっぷり堪能♪
30分山道を車とばしてきた甲斐はあったかな?

というわけで、今回の展示の一部を(こっそり?)ご紹介☆


*********

辛垣城落城時の当主、三田綱秀が用いたとされる兜の前立てと軍旗

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北条氏照より青梅の金剛寺と野口刑部丞にあてた朱印状。三田氏滅亡後も以前と同じ寺領や所領を安堵しているものです。

北条氏照より青梅金剛寺あての書状。いわゆる「制札」にあたるのかな?

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そして、今回は特にこれが見たくて飛んでいった・・・という北条氏照から三田氏旧家臣にあてた「清戸三番衆状」!

昔からすごく気になってたんです。本物が見られて、超感激♪



この「清戸三番衆状」は三田氏旧家臣の代表である三田治部少輔と師岡采女佑にあてたもので、三田氏旧臣達に箱根ヶ崎(瑞穂町)に集合を命じ、そこから清戸(清瀬市)に移動して番所の警備をするように命じているものです。

この清戸番所というのは所沢の滝の城の対岸にあったといわれているもので、今でも志木街道がとおっているあたりを警護していたのだと思われます。

この街道は当時北条氏に敵対していた太田氏の岩槻城方面にも通じており、当時の防衛面でも最前線の大事な番所であったのでしょう。

この書状には三田氏旧家臣の名前も連ねられており、当時どのような武士達が従っていたのかよくわかります。

それから・・・
北条氏が青梅の愛染院に出した禁制。


よくよく見ると、虎朱印(禄寿応隠)だぁ~!!!!


他にも他にも・・・いろいろ展示がありました。
くわしくは図録が出ていますので、そちらをご購入いただければもっと鮮明に見られます。

1冊900円なり。購入方法は次のHPをごらんくださいませ(笑)

http://www.ome-tky.ed.jp/kyodo/sengokuzuroku.html


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そして~!展示を一通り見終わった後は事務所に行って、以前出席できなくて涙を飲んだ今回の企画展関連講座「三田氏と小田原北条氏」の資料もゲット!♪ヽ(´▽`)/

北条氏や三田氏大石氏など八王子青梅近辺の戦国史を研究されている駿河台大学の黒田基樹先生が講師だったのだ。

行きたかったなぁ・・・(;_;)



本当に小さな企画展ではあったのですが、自分的には大満足!して帰ってきたのでした。

また、本当にそのうち機会があったら黒田先生のお話聞きたいです!

同様の企画があったら・・・今度こそは講座も逃さないようにしっかりチェックして参加するぞ~!

と、心に誓って帰ってきた企画展示だったのでした。