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2014年6月18日水曜日

「ココロの目で見よ!」阿津賀志山防塁、日帰り旅

4月に韮山の陣城攻めをやったときに、打ち上げ飲み会の席で、その日ご同行いただいたナワバリスト(城郭研究家)の西股総生先生から「阿津賀志山の防塁は非常にすばらしいので、一度見に行ったほうがいい」というお話を伺いました。

で、その場で「ぜひ行きたい、行こう行こう!」という話になり、そのとき一緒に参加していた東海の城好きさんたちも含めて秋に踏査に行くという話がその場でまとまった・・・ようなんですが。

以前はそんなことなかったのに、近頃お酒を飲むと記憶が吹っ飛んでしまうワタシ☆

今回もまた「やっちゃった」らしく、「秋に行く」話が思いっきりアタマからすっぽ抜けてて、秋の予定では都合が悪いので早めに行こうというツイッターフォロワーのtantanさんのお誘いにちゃっかり便乗することにしちゃったのでした。。。

ま、どちらにしても、秋のその時期はワタシも都合がどうなるかまだわからないし・・・秋の踏査にもご一緒できるのなら、これが「下見」ということで(^^;)


そんなわけで、阿津賀志山防塁まではるばる車で片道4時間の行程を日帰り爆走旅と相成りました☆

阿津賀志山防塁は福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、平安時代末期の防塁(防御用の堀や土塁、またそれらをめぐらせた砦)の跡です。

鎌倉幕府による文治5年(1189年)の奥州征伐(奥州合戦)で、源頼朝軍と迎え撃つ奥州藤原氏の軍が、福島盆地の北端に位置する阿津賀志山(現:厚樫山 標高289m)の周辺で戦った「阿津賀志山の戦い」の際に、奥州藤原氏の防御施設として使用されたもので、阿津賀志山の中腹から阿武隈川までの約4kmの距離に築かれていたと推定されています。





ワタシと同じく埼玉県民のtantanさんの車で東北道をひた走り、途中那須高原SAでメープルシロップがたっぷり入った「もちもちドーナツ」とコーヒーを堪能しながらひとやすみなんぞしながら、まずは福島県国見町観月台文化センターに到着。

実はtantanさんが事前に国見町に問い合わせて資料を取り寄せてくれてたのですが、そのときに親切に対応してくれたのがこの観月台文化センターだったのだそうです。

また、ブログでいろいろ検索したら、どうもこの文化センターの歴史資料室には防塁のジオラマがあるらしいのです♪

ならば最初に立ち寄って、ジオラマや資料でお勉強してから現地に臨もう!と中に入ってみると・・・なんか様子が変?

なんかパーテーションでいろいろ区切られてごちゃごちゃしてるし、振り返るとそこにあったドアの上に掲げられた表札に書いてあるのが「町長室」?!

よくよく受付らしきところで聞いてみると、東日本大震災で町役場が被害を受けてしまい、この文化センターに避難してきてるのだそう。

よって、歴史資料室も現在非公開、だそうです。。。残念!

後でもともとの町役場の場所を通りかかりましたが、敷地内に重機が入っているものの、すっかり更地になっていました。秋にみんなが行くときもまだダメかもなぁ・・・

一刻も早く復興しますように・・・!(>人<)


さて、それではいよいよ阿津賀志山防塁です。



奥州軍は、阿津賀志山中腹から阿武隈川に至る長大な三重の防塁を築き、堀に阿武隈川の水を引いて、国見町のある伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境とする大防衛線を築きました。

総大将は藤原泰衡の異母兄藤原国衡で、二万の兵を配備して迎撃体制をとったと言われています。

阿津賀志山防塁が築かれた一帯は現在も東北本線・国道4号線・東北自動車道が並行して走っている通り、地形上、古くから北上するには必ず通らなければならない交通の要衝なので、南からの攻撃に対する奥州藤原氏の本拠・平泉守備の最前線基地として重要視されていたポイントだろうと思われます。

一方、藤原氏の討伐のために鎌倉を出立した鎌倉幕府の軍勢は三手に別れ、頼朝の大手軍は鎌倉街道中道から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤の東海道軍は岩城岩崎方面へ、比企能員の北陸道軍は越後から出羽方面へ、それぞれ進攻しました。

「吾妻鏡」によれば、大手軍は騎馬武者では先人の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員、さらに道中で各地の豪族を加え、推定される総勢は二万五千以上の兵力だったと言われています。



二万と二万五千の兵がここで激突したのか~☆

結局大激戦の後、幕府軍の一部が鳥取越(現:小坂峠)から迂回して奥州軍の後陣を奇襲し、奥州軍は混乱。

出羽方面に逃れようとした藤原国衡は、追撃した和田義盛に討たれて勝敗が決し、自軍の大敗を知った藤原泰衡は多賀城から平泉方面に退却しました。

この戦いの大打撃により、奥州藤原氏に大規模な合戦を行う余力はなくなって、散発的な抵抗は続くものの、最後には本拠地の平泉が陥落して滅亡に至ります。





さて、いよいよ阿津賀志山防塁を、南の阿武隈川に近い下二重堀地区から北の阿津賀志山に向かって遡っていくことにしました。

これが下二重堀地区の防塁遺構です。。。





・・・やったー!二重堀三重土塁~!!!
薄いながらもしっかりと綺麗に土塁と堀が残っています♪

そして、写真の奥にかすんで見えるお饅頭形の山が、阿津賀志山ですが、遠い~☆
あんな遥か彼方まで防塁を築いていったなんて・・・その労力たるや、想像もつきません。



調査によれば、もともとはこのような断面になっていたのだそうです。
図面でもすっかり薄くなってしまっている様子が書かれていました。

土塁と堀は地形をよく活かして作っている様子がここでもよくわかります。



防塁遺構の一番南側は、欠下橋のあたりで滝川という川に接しています。

写真で、真正面奥から遺構が川に向かってまっすぐ来ているのがわかりますでしょうか?(わからないかも・・・)

ちなみに阿津賀志防塁の外堀側は水堀だったという説もあります。

地図をよくよく見ると、滝川は川内地区で東側の牛沢川とT字路状に合流して、非常に人工的な流路で阿武隈川に流れ込んでいます。

欠下橋の辺りは古河道だという話もあるので、古には阿武隈川は今よりずっと北側を流れていて、現在の欠下橋から下流の阿武隈川までの流路は、阿武隈川の流れが変わった後で作られたものなんじゃないかな、と想像できます。

そして、もし本当に防塁の外堀に水を引き込んでいたのなら、この地点から直接阿武隈川の水、ということなんだろうな、という形状です。

ただし、この場所は阿津賀志山防塁では一番低い場所にあたります。

いかに阿武隈川が大河であったとしても、阿津賀志山に向かって徐々に上がっていく長大な防塁の堀に低いところから水を引き込むというのは、かなり自分の中ではギモンです・・・☆

とりあえず、今回は「下見」なので(笑)このギモンは秋に持ち越すとして。。。


阿津賀志山防塁の遺構は全長約4kmすべてが残っているというわけではないので、所々残っているところをたどって行きます。


で、次に行ったのは、下二重堀地区から県道320号線を北に渡ったところにある、高橋地区。

行ってみると・・・あった~!
tantanさん号よりも背の高い土塁が阿津賀志山に向かって伸びています!



下二重堀地区からちょっと北上しただけなのに、阿津賀志山が少し大きく見えるようになった気がします。

ただし、二重土塁の堀底はひたすらこーんな藪やぶ。
少し入ってみましたが、腰まである雑草群に足元はぬかるんでずぶずぶ。

ちなみにワタシは半分くらいで挫折して外側から出口に向かいましたが、tantanさんは堀底から土塁に上がって出口まで歩き通しました。さすが!

きっと晩秋くらいになれば、ここも草が枯れて遺構もよく見えるようになるし歩きやすくなるんでしょうね~☆

ちなみに次の写真は、高橋地区の意向を北(阿津賀志山側)に抜けたところから阿津賀志山方面を眺めたところです。


畑が広がっていて、遺構はすっかり見当たらなくなってしまってるんですが、よくよく見ると左側の道路から畑に向かって盛り上がっているラインが、実は土塁ラインの続きになっているようです。

畑の中にも「ここが土塁だったんじゃないか」という盛り上がりがうっすらと・・・

いや、ぱっと見ではよくわからないです。「ココロの目で見よ!」

今回の散策では、はっきりと遺構が残っている場所のほかに「もしかして」というところがいっぱいあって、いつのまにか「ココロの目で見よ!」が口癖になってました♪


さて次は、遠矢崎地区。地図には「遠矢崎舘跡」と書いてあります。

ナビもあてにならないような田んぼの中の田舎道。
ところどころにある→看板をたよりに、「あっちだ」「こっちだ」「ここはどこ?」と2人で迷い迷いたどり着いた、それこそtantanさん号がはみだして落ちてしまいそうなあぜ道の先にあったのは・・・






・・・遺構はいったい、どこ?

一応案内看板はあったのですが、そこに書いてある図がまた、どっち向きに書かれているのかよくわからない。

2人であれか、これか、と言いあったあげく、「ココロの目で見ると」たぶん写真奥の盛り上がりが土塁遺構ではないか~?
看板の図面によると堀もあるはずなんだけど・・・藪やぶでまったくわからないです。

これも秋に持ち越しか(笑)


ここからちゃんとした(笑)農道にもどり、さらに北上して森山地区。
地図ではPマークがついているので、駐車場がある~!とちょっと期待。

・・・が、地図の地点まで行ってもそれらしいものが見当たらず、思いっきりスルー。
駐車場はどこ?

と、道路の端っこにこんな看板が。。。



その看板から入っていく坂の下のほうに何台かの車が・・・駐車場ってあれか~!

まさしく、車が2~3台停まれる、あれが町営の防塁見学者用駐車場。
その真向かい(写真右側の)の林の中には・・・



遺構、発見~!

木が生い茂ってしまって写真では様子がわかりにくいのですが、ここも二重堀三重土塁になってます。「ココロの目で見て」ください(笑)

実地に行ってみれば、堀が浅くなってしまってますが、それでも一番内側の土塁はtantanさんの背丈を遥か越えた高さで、しっかり堀と土塁が確認できます。

ただし、木々の間はくもの巣とやぶ蚊がいっぱ~い!

というわけで、土塁&堀底ウォークは早々に切り上げ、駐車場に入る坂から遺構を追いながら元の看板のところへ。

ここで遺構は道路に一度ぶち切られて、その先へ。
だから看板に「横断地点」と書いてあったのか・・・それにしてもこのイミって、遺構が道路を横断してるのか、道路が遺構を横断してるのか(笑)

そして、道路を渡った続きはこんな感じで続いています。


この写真の場所は、以前ワタシの城師匠で古戦場研究家のサイガ(新津竜一)さんにTwitterで教えてもらっていました。

細道の右側の盛り上がったところが、長土塁の断面なのだそうです。
ここまでくると、いよいよ真正面に阿津賀志山がくっきり!

このあたりはもう阿津賀志山の山すそになるので、山に向かって地形がどんどん上がっているのがよくわかります。



地図で見ると、この先国道4号線を越えた石母田地区までは遺構がないように書いてあって、しかも車で移動するとかなりぐるっと回るルート。

反対にこの細道はまっすぐ行くと遺構の土塁ラインに沿ってるようだし、方向的に国道4号線に直行できるかも☆

ちょっとチャレンジ!と入っていきましたところ・・・

ちゃんとかすかに地面に高低差があって、土塁(だった)ラインがわかるではないですか~!

かなり「ココロの目で見る」ことが必要ではありますが(笑)

ちなみにこの細道の左側(防塁線の外側)は、一気に地形が低くなっていて、ここに塁を築くというのは、敵を「通せんぼ」するにはかなりよいのではないかと思われます。。。



細道を通り抜けると、いきなり車がばんばん走っている国道4号線にぶつかります。
渡った真正面が、今度は石母田地区の遺構です。

看板も何もないのでどこにあるかわからなくて、もしかしてこれか?と半信半疑でよじ登った排水路の先が、実は堀でした(^^;)



わーい、草が刈ってあって見やすい~!
山の方に向かって、堀底も土塁上もずーっと歩いて登っていけます。

ただし石母田地区はこの先東北本線の線路と東北自動車道で途切れてしまうのですが。。。

写真で見ると土塁と堀が1本ずつ・・・に見えます。私も最初そのつもりでずっと歩いていました。

ところが、石母田地区の最高地点にあった看板によると、こんな高い場所になってもやはり二重堀三重土塁だったようです。


うーん、そういわれてみれば、この看板のある地点のあたりの道路や土地のうねりとか高低差を見ると土塁がそうなっていた・・・かもしれないかなぁ?

これもかなり「ココロの目で見よ!」(笑)



ここまで来て、すでにお昼を回っておりまして、ただでさえ朝が早かったのでお腹がぺこぺこ。

ところが、「田舎」をちょっと侮っておりまして、昼食を調達していなかったのにお店がひとつもない~!

近くの「旧跡」を回ってみればもしかして・・・と、そのまま徒歩で「義経の腰掛松」や公園化してると思われる「石母田城」(この2つは当ブログの別記事で紹介しています)に行ってみましたが、何にもないどころか、「なんでこんなところ歩いている人がいるの」というアウェー感がひしひし。。。(><;)

しかたなく車に戻って5kmほど離れた藤田宿のコンビニで水と食料を調達、昼食をとって線路と高速を渡り、いよいよ阿津賀志山中腹、展望台下の遺構へ♪

またしてもナビも迷うような細道を通って「本当にこの道でいいんだっけ?」という高速の側道に、その案内の杭は立っていました。



杭の脇にはくっきりと堀が阿津賀志山の上に向かって伸びています!

ただし、例によって膝丈くらいまでありそうな草がぼうぼう・・・
でもこれだけ堀の形が見えてるし、行けるかな?

「ココロの目」では道が見える・・・!行けるところまでいってみよ~☆





と、がしがし入っていってみましたら・・・草の中にしっかりちゃんと道がある!

同じことを考える人がいるんですね☆
しかもちゃんと階段様になっていて、歩きやすいこと!結局そんなに苦労しないで「防塁始点」の看板まで通り抜けてしまいました。

あ、でも勾配は結構あるので、しっかり山登りではありますのでご注意です☆
「始点」の看板で舗装道路とぶつかって、遺構はおしまいのようです。

この先、山の上には展望台があるとのこと。車にもどって行って見ました。




展望台には駐車場もあって、一応観光客受入れ対応のようです。
遺構の方向に阿津賀志山防塁の案内版があって、その前にベンチもあります。

が、ベンチに座っても目の前は藪です。何も見えません。
そもそも防塁始点はこの展望台の遥か下方です(笑)

ベンチの後方には割りと新し目の(でもその登り口までの道が超わかりづらい)鉄の展望台があります。

登ってみると、ど~ん!



遠く南の方角の阿武隈川までの景色が、鎌倉幕府軍が攻めてきた方角(本陣を置いたといわれる藤田城)から奥州藤原軍が守っていた方角まで、ずーっと見渡せます。



とりもなおさず、眼下真正面にこれまで通ってきた阿津賀志山防塁線も全部見えているということで。。。

ちょっと霞んじゃってますが(笑)ここに立つと、どのように攻めてきたのか、どの方角が守ろうとしていた平泉の方角なのか、そして背後を突こうと回った峠の高さもすべて実感することができて、大感動!

このような地点だからこそ、奥州藤原氏はこの阿津賀志山を基点に防塁線を築いたのかなぁ・・・?

ワタシは当初、もっと短い距離で防塁線を築けるところがあるんじゃないかと思っていたのですが・・・(^^;)

そして、こんなに長大な防塁を築いた奥州藤原氏の必死さがひしひしと伝わってくる遺構群でもありました。

・・・本当にここに来てよかった♪

今度は草や藪のない時期に、もう一度「ココロの目」を磨いてじっくり歩いてみたい阿津賀志山防塁でした。








2014年1月29日水曜日

分倍河原古戦場あたり

たまたま府中あたりに行く用事があったので、終わってからちょいとばかりふらふら寄り道することにしました。

というのも、実はこのところハマッている鎌倉街道(古道)の上道、この街道を舞台とした新田義貞の鎌倉攻めの中で大きな戦いの舞台となった古戦場が、府中からほど近い分倍河原にあるんです。

というわけで、まずは京王線の中河原駅に下車、分倍河原駅までのひと駅間の鎌倉街道を古戦場経由でのこのこと歩き抜けることに。

・・・ただし、仕事が終わってからの散策なので、日暮れとの勝負!
さくさくと歩かなくっちゃ(笑)





これが本日の「ぷち散策ルート」♪
道に沿って転々とおいてある小さな案内板から撮ったので、あまりよく見えませんが・・・(^^;)

街道に沿った商店会の名前にも「鎌倉街道」がついてるし、一応地元でも知られているんですね☆

途中「東大山道」という案内板のある通りと交差して、ということは江戸時代の大山道のひとつなんだろうなぁ・・・と思いながら歩くこと1kmほどでしょうか。

分倍河原古戦場址に到着!




元弘3年(1333年)、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた新田義貞は鎌倉街道上道沿いに南下し、迎撃に出た鎌倉幕府軍を小手指ヶ原の戦い、久米川の戦いで撃破。
幕府軍は武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原に撤退して体制を立て直しました。

そして分倍河原での一度目の戦いの時には幕府軍が逆に新田軍を撃破、新田軍は狭山の掘兼あたりまで退却を余儀なくされたのですが、翌日未明に新田軍が幕府軍を急襲、幕府軍は多摩川対岸の関戸にて壊滅的打撃を被り、鎌倉に篭って最後の合戦(東勝寺合戦)と、幕府の滅亡を迎えることとなったのでした・・・。





分倍河原は多摩川の北岸側にあります。

太平記によれば、早朝の奇襲攻撃に不意をつかれた幕府軍は多摩川へ追い落とされた・・・ということですが、ワタシ的には、北から南下してきた新田軍に対する幕府軍が、多摩川を背にした相手からも低い位置に、文字通り「背水の陣」を敷くなんて想像ができないので、まぁ南岸の関戸に陣をおいて対岸に撃って出た戦いなんだろうなぁと勝手に解釈しているのですが・・・

ちなみに関戸の天主台といわれる高台の空き地は幕府軍の見張り台とされていたようで、幕府軍北条泰家は一時ここに立て篭もろうと考えたものの、家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命をとりとめ鎌倉に敗走。

関戸古戦場跡の標柱が建っているあたりには横溝八郎や安保入道父子、そのた無名戦士の墓と伝えられる塚が残っているそうです・・・


話がすっかりそれてしまいましたが。。。(^^;)


この一番有名な戦いの後にもこの分倍河原では永享10年(1483年)に鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の合戦が、康正元年(1456年)には両者の子の足利成氏と上杉房顕の合戦が行われています。

何度も合戦が行われているというのは、この多摩川両岸が重要な軍事防衛線であったことを物語っていると考えられます。



その分倍河原古戦場址の碑は、いまや多摩川からかなり離れた住宅地のど真ん中「新田川緑道」という散策路の中に建っています。



中世のころはもちろん多摩川に堤防などなく、今よりもかなり北側を流れていたと考えられますが、それにしても河岸段丘のあとのような坂道も見当たらず、妄想力たくましいワタシをもってしても想像できるものが何もないというのも、なんだかなぁ・・・(笑)


もしかしたら中河原駅よりもう少し南下するとなにか地形があるのかもしれませんが・・・

新田川緑道の「新田川」も、ここに新田義貞にちなんで名をつけられた川があったのかもしれません。

だとしても今はすっかり暗渠です。
川の名残か緑道の前を通る鎌倉街道の信号の名前は「分梅橋」、同じ名前の橋の欄干だけが道端に残っていました。。。



そのまま道をぐいぐいまっすぐ北上して、やがて現れるゆるやかな坂を上っていくと旧甲州街道に行き当たります。

この道は軍勢が行き来した道ということで「陣街道」とも呼ばれているそうです。



冬の日も釣瓶落とし・・・

さくさくと、とか言いながらあっちに寄りこっちに寄りちんたら歩いていたら、このあたりでとっぷり日が暮れて、だんだん写真も見難くなってきました。

それどころか、道や看板もだんだん見えなくなってきた~☆

この陣街道のあたりには確か「高倉古墳群」という6世紀くらいの古墳があって、分倍河原合戦の戦死者を葬ったとの伝承が残る首塚・耳塚があるはず・・・と探したんですが・・




陣街道沿いに看板はみつけたものの、住宅地の中をさ迷い歩いた挙句、思いっきり迷子になって結局見つけられず~!

八雲神社境内にあるという「抱き板碑」(木にすっぽりくるまれてしまった元応元年(1319年)銘の板碑)も、真っ暗な八雲神社の中(めちゃめちゃ怖かった!)をごそごそと歩きまわってすっかりアヤシイ人になってしまったにもかかわらず、見つけたのはしっかり陣街道の道路沿い。

なんだかな~ Orz

本当はこの先この陣街道は旧甲州街道と交差するのですが、冬の夜の寒さにすっかり冷え切ってしまって気持ちが萎えてしまったので、ここらでこの日の「ぷち散策」は終了~!

この続きはまた今度とすることにしたのでした。。。


ところでところで。。。

実はこの「ぷち散策」の途中、途中経過をTwitterでつぶやきながら歩いていたのですが、そのつぶやきを近くにお勤めのフォロワーのこばたかさんが捕捉してくれたので、しばらく会話をしてたんです。

そうしたら、その会話を元にどうも途中私の通りそうなところで待ち伏せのトラップをしかけていたらしい。。。

結局は私が迷子になって経路からはずれてしまったので行き違ってしまい、こばたかさんの待ち伏せトラップを知ったのは電車に乗ってしまってからだったので、会うことはできなかったんですが、こんなのもTwitterの楽しさですね・・・♪

2013年8月10日土曜日

鎌倉街道上道と苦林野古戦場

先日、女影ヶ原古戦場小手指ヶ原古戦場を回ったときに、それぞれの古戦場と鎌倉街道上道古道の関わりにおおいに興味をそそられてしまったので、ほかにも埼玉県内の鎌倉街道沿いに古戦場がないかな~☆と探してみたら・・・

ありましたありました!女影ヶ原から鎌倉街道を北上すると、毛呂山町に「苦林野古戦場」。
南北朝時代の北朝貞治2年(1363年)に鎌倉公方足利基氏の軍勢と下野の豪族芳賀入道禅可が戦った古戦場とのこと。

さらに調べると・・・女影ヶ原から苦林野へと北上する途中の鎌倉街道は非常に良好な状態で遺構が残っているとの情報が・・・!

これは行ってみるっきゃないでしょー☆

ということで、日を改めてのこのこと車を飛ばして出かけました。

まずは東武越生線の西大家駅のあたりに鎌倉街道の遺構があるらしいというネット情報をたよりに行ってみると・・・

西大家駅というのは単線の非常にひなびた駅で、車の置けそうな場所も見当たらない!
それどころか、お目当ての場所の方向には車の通れるような道もなさそうな・・・

しかたなく、駅から少々南にある「町屋自治会館」の庭にそっと車を停めて歩きだしたところ・・・
いきなり?!



「鎌倉街道(上道)」の看板!
しかも「ここの南北に掘り割り状になっている所」って、これのことですか~?




 前(左)の写真が看板からみて「南」で女影ヶ原の方角、後ろ(右)の写真は「北」で、まっすぐ行けば西大谷駅にぶつかる・・・はず。

でも、確かに鎌倉街道の「掘割状遺構」と言われればそうかもしれませんが、素人目にはどうみても、単なる用水路(笑)

とりあえずこの「掘割状遺構」を横目に見ながら、当初予定通り西大谷駅に向うと・・・ありました!
西大谷駅の前の県道74号線の踏み切り脇に鎌倉街道の説明板と、先ほどの続きの「掘割状遺構」。



ここまでくると、もうなんだか普通の水路(笑)

地図をみると、「鎌倉街道」はこのあと西大谷駅の北側からは舗装道路(後(左側)の写真の奥の道)となって続いているようです。

なので、また自治会館にもどって、今度は車で道の先をたどることにしました。

道は緩やかに下っていき、森戸橋で高麗川を渡って、田んぼの中を緩やかに上っていきます。
そして河岸段丘の斜面でぐっと右にカーブするのですが、そのカーブの入り口あたりに民家の間をまっすぐに入っていく道があります。

これがどうやら鎌倉街道の「切り通し跡」のようです。

車の轍もみえるし、一見軽トラも入っていくような普通の畑道にもみえるので、車で入ろうかどうしようか迷ったのですが、民家の庭に入り込んじゃったら大変なので、またも車を降りて歩いてみることに。




・・・いや、車降りてよかったっす。
歩き始めて50mもしないうちにこのとおり、道なき道(後(右側)の写真)ですもん。

はっきりいって轍どころか膝丈まである草ぼうぼう!
一足歩くたびに足元からバッタぴょんぴょんで、とてもサンダルシューズで歩く道ではなかったですね~(笑)

というか、いくら車で回るといってもちょっと侮りすぎではあったんですけど・・・(汗)

この「道なき道」をさらに北に進むと、県道川越越生(114号)線につきあたります。

道は県道を越えた先にもつながっているようなのですが、これまた車で行くには狭そうで、しかも地図を見ると途中で本来の「鎌倉街道」ルートから大きくそれてしまうようなので、再度車に戻り、次の「掘割状遺構」へ。


この場所には、鎌倉街道の遺構としては県内でももっとも良好な状態で残っている場所だそうです。

鎌倉街道をたどってはいけないので、県道114号線を多少西に行って、「市場」という地名の農家の立ち並ぶ一角の細い道に地図をたよりにくねくねと入り込み、なにか学校の寮のような(地図には「光風寮」とありましたが・・・)建物の前の道がくねっと曲がったあたりに、突然この「鎌倉街道遺跡」の道標が現れます。

道標には「ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」とあります。



んむむむむ~!
いったいこの標識「向って右」とは、どの面にむかって右側なんだろう~?

再度地図に向うと、どうもこの標識の後ろに広がる林を突き抜けて行くと、先ほどの「切り通し跡」から県道114号線を通り越して続いている道にぶつかりそうな気配。

道標にも「林中の道」と書いてあるしなぁ、と林の右側に視線を転じると・・・




どーん!と広がるのは、どうみてもこれが街道の遺構なんじゃないかって思えるような切り開かれた場所。。。

玉川学園多賀譲治さんのサイト「これが最初(ホント)の鎌倉街道」や「道・鎌倉街道探索日記」というサイトの鎌倉街道の説明ページに引用されている埼玉県教育委員会の歴史の道調査報告書によると、鎌倉街道の規格は道幅約6メートル、両側または片側に幅・高さとも約2メートルの崖状の塁または土手を築いているもののようです。

これは乗馬した状態でも進軍が分からないための目隠しとも言われています.なので、台地や原野では道の両側に土手を築くことがあるし、尾根や坂道では掘割状の凹道となっているようです。

・・・というところからすると、この場所はちょっと広すぎるような気もするけれど、両側に塁があるようにも見えるし、もしかしたら元は林の中にあったものを見えるように切り払ったのかもしれませんね。

この道を、もしかしたら新田義貞や北条時行が軍勢を率いて駆け抜けて行って、その後の女影ヶ原や小手指ヶ原の戦いに望んだのかと思うと、身震いするような感動を覚えます・・・☆


さて、この場所でくるりと後ろを振り向くと、道は低い土塁を伴いながら林の中をさらに北の方角に続いています。




この先は、道は細いながらもなんとか車1台分の広さで続いているので、少し乗っては降りて歩いてまた乗って・・・を繰り返しながら進んでいくと、やがて県道39号線に突き当たります。

この39号線を左側、西に向かって3~4kmほど行ったところには流鏑馬で有名な延喜式内社の出雲伊波比神社があります。

もともとこのあたり「毛呂山」という地域は、源頼朝の側近として使えた季光を祖とする毛呂氏が代々地頭として治めた地です。

毛呂氏はその後戦国末期には小田原北条氏に属し、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城の支城の八王子城の守備を任じられ、その落城とともに滅びてしまうのですが、それまでの間、鎌倉幕府、室町幕府の鎌倉府、そして小田原とをつなぐ重要な道として整備され、使われ続けていたのではないでしょうか。

ちなみに県道39号線を反対の右側、東に向かってすぐのところには毛呂山町歴史民族資料館があって、鎌倉街道についても多少展示物があります。



この地図も、展示されていたものを撮ってトリミングしたものです。
赤い線の部分が鎌倉街道の今回歩いた部分になります。

県道39号線を横切ってさらに鎌倉街道古道の細道を北上すると、まもなく左手にとっても気になる土塁様の構造物が・・・?



土塁の向こう側はどうやら埼玉医科大学川角キャンパスらしいのですが、しっかり折れもあるし姿かたちといい何かいわくありげでなんですが、手元の資料にはこれに触れたものが何もないので、余計に気になります。何なんだろう?

この先はまた低い土塁を伴った道が林の中にまっすぐ続いていきます。

またのこのことゆっくり車を走らせたり降りて歩いたりしていると、東西に走るこれまた古そうな道に交差します。

この道を西に進むと「延慶の板碑」があるそうです。

鎌倉時代延慶年間の紀元銘が刻まれた3メートルもある大きな板碑で、今あるのは移設された場所だそうなのですが、もとあった場所を発掘したところ刀傷のある火葬骨の入った古瀬戸の瓶子が出てきたそうです。

いかにもこの地が鎌倉時代に「武士の地」として栄えていたのか・・・なんて、こんなところでも想像力を働かせてしまいます(笑)




この「延慶の板碑」に続く道と鎌倉街道が交差するあたり、どうも妙に人工的な塚がいくつもあるな・・・と思ったら、このあたりは「川角古墳群」なんだそうです。

そして、その塚の1つのてっぺんには庚申塔が。。。

中世の道「鎌倉街道」とその傍らの古代の古墳群、そしてその古墳の上の近世の庚申塔・・・
この道の機能してきた「時間」をしみじみと感じてしまう光景です。

このままこの鎌倉街道を北に向かっていくと、やがて道は県立毛呂山特別支援学校の脇をとおり、鎌倉街道苦林宿のあった場所ではないかといわれている堂山下遺跡のある大類グラウンドの先で舗装道路にぶつかって途切れています。

本来ならば、道はこの先の越辺川を渡ってさらに北上し、畠山重忠の居城のあった菅谷を通って上州へと続いていたといいます。

そう考えると、名だたる武将たちが「いざ鎌倉」と行きかっていた重要な道だったんだなぁ・・・と改めて実感です・・・!




で、この大類グラウンドの東側に広がる畑地が、実は苦林野古戦場だった・・・らしいのです。

苦林野合戦というのは最初にも書いたとおり、当時関東最強の武士だった宇都宮氏の家臣で越後守護職だった芳賀入道禅可が一方的に守護職をおろされたことへの不満から、入間川御所に滞陣していた鎌倉公方・足利基氏と激戦を繰り広げたもので、その合戦の模様は太平記の合戦絵巻にも残されているようです。

・・・が、今は写真の「神明台の石仏群」数基の庚申塔や馬頭観音、板碑の他にはなーんにもありません。

まぁ、こういう川を背後にしただだっ広いところで戦ったんだなぁ・・・と想像するにとどまります。。。



苦林野古戦場の案内板と追悼碑はちょっと離れた別の場所にあります。

行ってみるとちょっとした塚の上にのっていて、案内板によれば太平記に「小塚の上に打ちあがりて」とあるのはここのことかもしれない、ということですが、この塚よくよくみると・・・

実に見事な前方後円墳!

案内板めがけて塚を登っていって、そこで改めて塚を見渡してみて初めて気がつきました☆

案内板のあるところが前方部分で、江戸時代に建てられた追悼碑があるのが後円墳部分。。。

あー、びっくりした・・・!(笑)







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