2012年8月30日木曜日

ちょっと寄り道、お昼ご飯・・・!


群馬の城攻め、午前中いっぱいで後閑城を攻めて程よくお腹もすいたので、車に乗って次の箕輪城に移動がてらお昼ご飯にすることに。。。

事前に、当日はどこでお昼を食べようか、どうせならその土地の名物があるといいね~と、あいすさんとtwitterで会話していたら、これまた一緒に城攻めに参加したロームさんから「タルタルかつ丼の有名な店があるらしいよ!」と速攻ツイート。



「タルタルかつ丼」・・・?

どうやら、自分でタルタルソースを練って作って、かつ丼にかけて食べるらしい・・・

面白そう!

ちょうど後閑城と箕輪城の中間、岩鼻というところにあるというので、行ってみることに。

この写真がその「タルタルかつ丼」のお店、岩鼻館。
もともとは街道沿いの宿屋だったのかなぁ・・・という感じの名前とたたずまい。

なによりも、車を降りて路地を歩く私たちを見たなりお客と見破り「いらっしゃいませー!」と声をかける店のおじさんの眼力がすごい(笑)


お店の雰囲気は「昭和レトロがいっぱい」。

土間に数席と小あがりの席数席。ふと見上げるとTVで高校野球をやっている・・・よくよく見ると、いまでは目にすることも亡き?チャンネルがついてるー!


TVの脇の壁にはこれまたレトロな電話・・・その下には昔々の電話番号が貼ってあるし。。。


ちなみに店の外には待合用のいすが置いてあるんですが、そこにも自在鍵に土瓶(汗)


お昼を過ぎると、それまで閑散としていたお店にどんどんお客が入ってきて、あっというまに満員御礼です。


やっぱりwebでの評判どおりで、なかなかに人気のあるお店みたい。






さて、さっそく全員で名物「タルタルかつ丼」を頼んで待つことしばし。お店のおねえさんがそれぞれに1つの小鉢をもってきた。

中には切ったゆでたまごとマヨネーズソース?

まわりの席の人を見ると、同じような鉢の中身をぐにぐに混ぜつぶしています。

どうやら、これが「自分で作るタルタルソース」らしい。

さっそくみんなで同じようにゆでたまごを細かく砕きながらマヨネーズソースとよーく混ぜ合わせ・・・これがなかなかうまくいかない(><)

ゆでたまごを細かくするほどソースとうまく混ざっていくんですが、これがなかなか細かくならないんです




これがソースカツの乗った丼の定食です。このカツの上に自分で混ぜ混ぜしたタルタルソースを乗せます。

これは乗せ方もしっかり「薀蓄」のご案内が各テーブルに乗ってます。
なんでもいっぺんにたくさんタルタルソースを乗せてしまうとカツやご飯が冷めてしまうので、少しずつ乗せて・・・

ぱくり!
美味し~い!(^~^)v

食べる前はカツに対してタルタルソースが淡白に思えていたんですが、実際にはカツのほうにもソースで味付けがされているので、ちょうどいい感じ。

一気に食べてしまった・・・!評判がいいのがなんかわかる気がしました。
知る人ぞ知る、なのかな?地元の美味しいものを食べられて英気を養って、さあ次は箕輪城攻略です!



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2012年8月28日火曜日

後閑城は、討ち死に続出?

さて、その「城ガール隊」を通じて知り合った群馬在住のあいすさんと、ある日Twitterを通して話しているうちにどちらからともなく「群馬か埼玉のお城攻めたいね!」という話になりました。

お互い「城攻め初級」なので、さぁどこを攻めようか・・・?

決めかねながらTweetを重ねていたら、その会話をフォローしていた2人の城好きさんが一緒に参加してくれることになり、あいすさんが車を出してくれることになって、4人で群馬の山城を回ることになりました。


で、日帰りで回ることにしたのが後閑城と箕輪城。


当日は高崎駅に集合し、あいすさんの車に乗り込んで、まずは後閑城へ向かいました。



後閑城は群馬県安中市にあります。

あいすさんに調べていただいた「歴史」によると、後閑城の築城は嘉吉、文安の頃(1445年頃)、依田忠正で、その後新田氏(後閑氏)、武田氏、後北条氏と移り、天正18年後北条氏滅亡とともに廃城となったと推定されているようです。

この後閑城のある西上野(こうずけ)のあたりは、越後上杉氏の勢力下にあったところに武田氏の侵攻が行われ、また武田氏滅亡後は滝川一益、そして後北条氏の勢力が伸びてくるなど、各勢力の最前線に位置していたのではないかなぁ・・・という土地です。

確かにすぐ近くに松井田城や安中城、板鼻城といった城跡が集中してますね。

左の写真は後閑城の縄張り図です。

縄張り図というのは、いわば城の測量図というか土地造成の設計図というか、地図というか・・・

今回はこの図を見ながら実際に後閑城跡を歩いてみました。

縄張り図の右側の方に車を停めて登っていくと、ちょうど縄張り図中二手に曲輪が分かれて書かれている間を登っていくことになります。

ということは、実際にはそこから攻め上っていく軍勢の両側上方に曲輪があって、そこからの攻撃をもろに喰らってしまうということで・・・

先頭きって登っていった城好きさん2人は、世が世ならそこで討ち死に?(笑)


 

坂を登り切ると、そこは真ん中の写真の堀切です。
そして本丸の北側(縄張り図の上側)にまわると、すごく綺麗に整備された堀と曲輪が出現します。
今回案内をしていただいた城好きさんの1人、城郭研究者のサイガ先生によると、後閑城の北側から攻めやすい地形になっているので、そちら側に対して堀と土塁を何重にも巡らせて防備を固める構造になっているのだということです。






実際、この堀や曲輪を見た後に次の写真のこの堀切までやってきて、縄張り図を手にしていたにもかかわらず「この斜面をかけのぼったら本丸近道だ!」と思い込んで、一目散に駆け上っていった私・・・




いざ土塁の上までたどり着いてみたら・・・実はそこは本丸直下の堀切に面した土塁の上。
その上の本丸から狙い撃ちだぁ!




左の写真が、私の駆け上った土塁をぐるりと回ってくるサイガさんとあいすさん。
そして真ん中の写真の高台が本当の本丸。
右側の写真は本丸から当の土塁を見下ろしたところ・・・

つまり私めは世が世なら、一番槍の手柄を立てようと焦って、土塁の上に立ったところを本丸から狙い撃ち。

あえなく討ち死に第2号となった訳でした(笑)



この3枚の写真は後閑城の本丸跡です。
百基の庚申塔が立ち並んでいて、あずま屋も建っています。
また、焼き物の立体模型も置いてありました。



本丸から今度は反対側に降りていくと、本丸と二の丸を分断する大堀切に出ます。


 

真ん中の写真右側の高台が本丸です。
そして大堀切を挟んで向かい側が左の写真、二の丸になります。

物見櫓らしき建物が建っている二の丸と本丸の高台は元は続いていたのが、人工的に大堀切によって分断されているようなのが見て取れます。
そして不用意にこの大堀切に入ってしまうと・・・右側の写真、あいすさん物見櫓の上にいる私から討ちとられてしまいました~!


歩いてみると、敵に攻められたときに必ず複数方向から狙うことができる構造になっていて、すごく戦いを意識した造りになっているのがよくわかるお城でした。


この後、箕輪城へ向かうのですが、長くなりましたのでまた次回に・・・



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2012年8月21日火曜日

マイナーな城めぐり@埼玉北東部

以前から地元の郷土史的なことには興味はあったものの、あまり城郭跡や館跡に目を向けることはなかったんですが・・・

以前mixiで出会った城好きさんに、この春にTwitter中心のコミュニティ「城ガール隊」に誘っていただいてメンバーになってから、一気に地元の「お城」に目が向くようになりました。

「城ガール隊」の詳細については、ぜひブログをご覧くださいませ。

(城ガール隊ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yositugu_o-siroga/

「お城」というと、一般には姫路城とか松本城とかのような天守閣や石垣のあるものを想像しますし、そういった「お城」はどちらかというと西国の方に多くて、関東にはお城らしいお城がほとんどないと思われがちですよね。

ですが、関東には後北条氏が構築した小田原城を中心とする100を越える支城群や平安~鎌倉の豪族城館跡など、実は「お城」跡がやたらあるんです。

もちろん小田原城を始め岩槻や川越、宇都宮といった江戸期まで残ったり名前を知られたお城もありますが、土塁や堀跡がかすかに残るだけの名もない「お城」跡が多数です。

前回1月8日のブログ「マイナーな城めぐり@埼玉北西部」(http://natchdes.blogspot.jp/2012/01/blog-post_08.html)でも埼玉の北の方にある菖蒲城、騎西城、忍城をご紹介しましたが、先日お盆で埼玉北東部の親戚を訪ねたついでに、近くにあったそんな名もなきお城を訪ねたので、ご紹介。




まずは加須市油井ヶ島にある油井ヶ島城。

このあたりの集落一帯を「油井ヶ島」といい、油井ヶ島集落の南方には長方形の「油井ヶ島沼」があります。

かつてはこのあたりは自然沼や沼沢地だったもので、江戸時代に沼を堀りあげて新田開発をしたということです。現在の油井ヶ島沼は、かつての堀りあげをおこなってできた広大な沼を、現代になってから耕地整理で方形にしたものだそうです。

油井ヶ島集落のあたりは、きっと古くにはそんな沼沢地の中に浮かぶ島のような場所だったのかもしれません。



現在、地元に「油井ヶ島城」というものはどこにも残っていないのですが、城かも?という遺構として「鐘撞山」があります。

上の写真が、油井ヶ島集落の中にある「鐘撞山」。
まわりの田んぼの中にぽっかりと浮かんだ「島」のようなたたずまいですが、それほど地面が高いというわけでもありません。

近づいてみると、周りの田んぼより1mほど盛り上がった感の長方形の土地の周りを、幅2~4mほどの浅い水堀と空堀がぐるりと囲んでいる感じです。





この鐘撞山については、前回の騎西城のところでも書いた騎西城うっぷん晴らし落城事件?(永禄6年(1563年)上杉方の松山城(現・埼玉県東松山市)を北条氏康と武田信玄の連合軍が包囲した際に、上杉謙信は救援の兵を差し向けたものの間に合わず、松山城は落城してしまったので、上杉謙信が逆上してすぐそばにあった騎西城を攻め落とした事件)のところで出てきます。

騎西城を攻め落とすことになったとき、油井ヶ島城は騎西城の支城ででもあったのか、一緒に攻められることになったようです。



案内板によると、このとき城への攻撃があまりに急だったので、城中の兵がしきりに鐘を鳴らして騎西城に救援を求めたけれども、当の騎西城も上杉謙信の本隊に攻められていたので、救援することができなかったといいます。
この鐘撞山の堀に囲まれた長方形の敷地内はほぼ平坦で、堀に沿ったあたりにごくごくわずかに土塁かな~・・・と思われる盛り上がりがある程度です。

が、南西によった一ヶ所だけ7~8m四方くらいの場所に3mほどの高さの塚状の盛り上がりがあります。ここに、もしかしたら「鐘撞山」の名前の由来になった鐘があったのかもしれません。

現在はてっぺんに「鐘撞山の碑」が建っているだけです。


 

左側の写真は、その土塁っぽいかなという盛り上がり(判りづらいですが・・・)、真ん中が「鐘撞山」のも塚状の盛り上がりです。

この塚状の盛り上がりのあたりからは、遠く遙かに現在の騎西城の模擬天守が見えます。
小さくてわかりにくいですが、右側の写真のど真ん中、木々の茂みと茂みのあいだにほんのわずかに写ってるのがそれです。

この場所から騎西城まで直線距離にして3kmほど。
当時の騎西城には天守はなかったということですが、それでも、もしかしたら当時お互いが微かに見えていたのかもしれません。

どちらにしても、当時周囲の沼沢地がどの程度のモノだったのか判りませんが、少なくともこの程度の堀しかなかったとしたら、上杉謙信軍に来られたらひとたまりもなかったでしょうね~☆





次は、花崎城です。

野球で有名な花咲徳栄高校の近くに「花崎城山公園」という公園があり、そこが「新編武蔵風土記稿」にある「花崎城」があったところだと考えられています。

昭和55年(1980年)から昭和56年(1981年)にかけて発掘調査が行われ、畝堀、馬出し、障子堀などが出土したということです。

実は以前、所沢の滝の城に行ったときに、たまたま花崎城の発掘現場の写真があって、障子堀がくっきり写っていたので花崎城にぜひ来てみたかったんです。

まさか保存して見学できるようにはなってないよね~と思いながら来たんですが、やっぱり障子堀は埋め戻しちゃってあって、すでにありませんでした(笑)



それで、この写真がその状況がかすかにわかるもの。花崎城山公園の入り口の看板に載っている写真です。

茶色く土が見えている発掘現場の左端に、微かに障子堀が写って見えます。


ちなみに余談ですが、この写真を元に余湖さんという方が鳥瞰図を書いてHPに載せています。

余湖さんの鳥瞰図はいつも大変に参考にさせていただいていて、今回もHPで予習復習をさせていただいたのですが、今回の鳥瞰図はどうも配置が違っているようなのです。

というのは、現在、線路をはさんで北側に自動車教習所、南側に花崎城山公園があり、花崎城趾全体のど真ん中を線路が分断しているような形になっていて、余湖さんはこの写真をそのまま上を北、下を南ととらえて図を書いているのですが、よくよく見ると写真の左端、線路の下側に教習所の敷地が写っているんです。

つまり、この写真は上が南、下が北の方向で撮られたもので、写真の左側方面が花崎駅、線路の上側の木々がこんもり茂っているところが現在の花崎城山公園、発掘現場と教習所の間の細長い林が城跡公園(馬出し跡?)ではないかなぁ・・・と思われます。

素人がぱっと見で考えているので、間違っていたら申し訳ありません。

(余湖さんの鳥瞰図)
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/kazosi.htm



さて、その花崎城ですが、久喜市の栗原城の支城として築城されたと考えられているそうです。

永禄4年(1561年)、長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻の際に家臣の木戸宮内少輔に栗原城と花崎城を攻めさせたということです。

この時、栗原城主の細萱民部少輔光仲は小田原城に詰めていて、花崎城には弱冠11歳の子息 半左衛門泰秀が守っていたのですが、花崎城栗原城とも落城したといわれています。

この栗原城にも行ってみたくてどこにあるのか調べてみたのですが、そもそも栗原城とあったり粟原城とあったり、場所も「らき☆すた」で有名な鷲宮神社の近くらしいんですが結局特定できず・・・で、今回行くことはできませんでした(^^;)





で、その花崎城跡公園。
公園内には堀跡や土塁が残されています。油井ヶ島城と同様に土塁はたいして高くはなく、むしろひょうたん型をした平坦地のまわりに堀が巡らされている感じです。

変にコンクリートの橋がかけられたり遊歩道ができていたりするので、私のような素人にはこの場所が城の縄張りの中でどんな役割をはたす場所なのかさっぱりわかりませんでした(笑)


今回の二ヶ所の城跡は、縄張り図の書き方の復習をしながら見て歩いたのですが、やっぱり修行が足りなくて全然ちゃんと書けませんでした (^◇^;)
見るべきポイントもまだまだわからないし・・・

ちょっとマイナーすぎたかな。
もう少しいろいろと見て歩きたいな~と思いながら城跡を後にしました。。。




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