2012年8月21日火曜日

マイナーな城めぐり@埼玉北東部

以前から地元の郷土史的なことには興味はあったものの、あまり城郭跡や館跡に目を向けることはなかったんですが・・・

以前mixiで出会った城好きさんに、この春にTwitter中心のコミュニティ「城ガール隊」に誘っていただいてメンバーになってから、一気に地元の「お城」に目が向くようになりました。

「城ガール隊」の詳細については、ぜひブログをご覧くださいませ。

(城ガール隊ブログ)
http://blog.livedoor.jp/yositugu_o-siroga/

「お城」というと、一般には姫路城とか松本城とかのような天守閣や石垣のあるものを想像しますし、そういった「お城」はどちらかというと西国の方に多くて、関東にはお城らしいお城がほとんどないと思われがちですよね。

ですが、関東には後北条氏が構築した小田原城を中心とする100を越える支城群や平安~鎌倉の豪族城館跡など、実は「お城」跡がやたらあるんです。

もちろん小田原城を始め岩槻や川越、宇都宮といった江戸期まで残ったり名前を知られたお城もありますが、土塁や堀跡がかすかに残るだけの名もない「お城」跡が多数です。

前回1月8日のブログ「マイナーな城めぐり@埼玉北西部」(http://natchdes.blogspot.jp/2012/01/blog-post_08.html)でも埼玉の北の方にある菖蒲城、騎西城、忍城をご紹介しましたが、先日お盆で埼玉北東部の親戚を訪ねたついでに、近くにあったそんな名もなきお城を訪ねたので、ご紹介。




まずは加須市油井ヶ島にある油井ヶ島城。

このあたりの集落一帯を「油井ヶ島」といい、油井ヶ島集落の南方には長方形の「油井ヶ島沼」があります。

かつてはこのあたりは自然沼や沼沢地だったもので、江戸時代に沼を堀りあげて新田開発をしたということです。現在の油井ヶ島沼は、かつての堀りあげをおこなってできた広大な沼を、現代になってから耕地整理で方形にしたものだそうです。

油井ヶ島集落のあたりは、きっと古くにはそんな沼沢地の中に浮かぶ島のような場所だったのかもしれません。



現在、地元に「油井ヶ島城」というものはどこにも残っていないのですが、城かも?という遺構として「鐘撞山」があります。

上の写真が、油井ヶ島集落の中にある「鐘撞山」。
まわりの田んぼの中にぽっかりと浮かんだ「島」のようなたたずまいですが、それほど地面が高いというわけでもありません。

近づいてみると、周りの田んぼより1mほど盛り上がった感の長方形の土地の周りを、幅2~4mほどの浅い水堀と空堀がぐるりと囲んでいる感じです。





この鐘撞山については、前回の騎西城のところでも書いた騎西城うっぷん晴らし落城事件?(永禄6年(1563年)上杉方の松山城(現・埼玉県東松山市)を北条氏康と武田信玄の連合軍が包囲した際に、上杉謙信は救援の兵を差し向けたものの間に合わず、松山城は落城してしまったので、上杉謙信が逆上してすぐそばにあった騎西城を攻め落とした事件)のところで出てきます。

騎西城を攻め落とすことになったとき、油井ヶ島城は騎西城の支城ででもあったのか、一緒に攻められることになったようです。



案内板によると、このとき城への攻撃があまりに急だったので、城中の兵がしきりに鐘を鳴らして騎西城に救援を求めたけれども、当の騎西城も上杉謙信の本隊に攻められていたので、救援することができなかったといいます。
この鐘撞山の堀に囲まれた長方形の敷地内はほぼ平坦で、堀に沿ったあたりにごくごくわずかに土塁かな~・・・と思われる盛り上がりがある程度です。

が、南西によった一ヶ所だけ7~8m四方くらいの場所に3mほどの高さの塚状の盛り上がりがあります。ここに、もしかしたら「鐘撞山」の名前の由来になった鐘があったのかもしれません。

現在はてっぺんに「鐘撞山の碑」が建っているだけです。


 

左側の写真は、その土塁っぽいかなという盛り上がり(判りづらいですが・・・)、真ん中が「鐘撞山」のも塚状の盛り上がりです。

この塚状の盛り上がりのあたりからは、遠く遙かに現在の騎西城の模擬天守が見えます。
小さくてわかりにくいですが、右側の写真のど真ん中、木々の茂みと茂みのあいだにほんのわずかに写ってるのがそれです。

この場所から騎西城まで直線距離にして3kmほど。
当時の騎西城には天守はなかったということですが、それでも、もしかしたら当時お互いが微かに見えていたのかもしれません。

どちらにしても、当時周囲の沼沢地がどの程度のモノだったのか判りませんが、少なくともこの程度の堀しかなかったとしたら、上杉謙信軍に来られたらひとたまりもなかったでしょうね~☆





次は、花崎城です。

野球で有名な花咲徳栄高校の近くに「花崎城山公園」という公園があり、そこが「新編武蔵風土記稿」にある「花崎城」があったところだと考えられています。

昭和55年(1980年)から昭和56年(1981年)にかけて発掘調査が行われ、畝堀、馬出し、障子堀などが出土したということです。

実は以前、所沢の滝の城に行ったときに、たまたま花崎城の発掘現場の写真があって、障子堀がくっきり写っていたので花崎城にぜひ来てみたかったんです。

まさか保存して見学できるようにはなってないよね~と思いながら来たんですが、やっぱり障子堀は埋め戻しちゃってあって、すでにありませんでした(笑)



それで、この写真がその状況がかすかにわかるもの。花崎城山公園の入り口の看板に載っている写真です。

茶色く土が見えている発掘現場の左端に、微かに障子堀が写って見えます。


ちなみに余談ですが、この写真を元に余湖さんという方が鳥瞰図を書いてHPに載せています。

余湖さんの鳥瞰図はいつも大変に参考にさせていただいていて、今回もHPで予習復習をさせていただいたのですが、今回の鳥瞰図はどうも配置が違っているようなのです。

というのは、現在、線路をはさんで北側に自動車教習所、南側に花崎城山公園があり、花崎城趾全体のど真ん中を線路が分断しているような形になっていて、余湖さんはこの写真をそのまま上を北、下を南ととらえて図を書いているのですが、よくよく見ると写真の左端、線路の下側に教習所の敷地が写っているんです。

つまり、この写真は上が南、下が北の方向で撮られたもので、写真の左側方面が花崎駅、線路の上側の木々がこんもり茂っているところが現在の花崎城山公園、発掘現場と教習所の間の細長い林が城跡公園(馬出し跡?)ではないかなぁ・・・と思われます。

素人がぱっと見で考えているので、間違っていたら申し訳ありません。

(余湖さんの鳥瞰図)
http://homepage3.nifty.com/azusa/saitama/kazosi.htm



さて、その花崎城ですが、久喜市の栗原城の支城として築城されたと考えられているそうです。

永禄4年(1561年)、長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻の際に家臣の木戸宮内少輔に栗原城と花崎城を攻めさせたということです。

この時、栗原城主の細萱民部少輔光仲は小田原城に詰めていて、花崎城には弱冠11歳の子息 半左衛門泰秀が守っていたのですが、花崎城栗原城とも落城したといわれています。

この栗原城にも行ってみたくてどこにあるのか調べてみたのですが、そもそも栗原城とあったり粟原城とあったり、場所も「らき☆すた」で有名な鷲宮神社の近くらしいんですが結局特定できず・・・で、今回行くことはできませんでした(^^;)





で、その花崎城跡公園。
公園内には堀跡や土塁が残されています。油井ヶ島城と同様に土塁はたいして高くはなく、むしろひょうたん型をした平坦地のまわりに堀が巡らされている感じです。

変にコンクリートの橋がかけられたり遊歩道ができていたりするので、私のような素人にはこの場所が城の縄張りの中でどんな役割をはたす場所なのかさっぱりわかりませんでした(笑)


今回の二ヶ所の城跡は、縄張り図の書き方の復習をしながら見て歩いたのですが、やっぱり修行が足りなくて全然ちゃんと書けませんでした (^◇^;)
見るべきポイントもまだまだわからないし・・・

ちょっとマイナーすぎたかな。
もう少しいろいろと見て歩きたいな~と思いながら城跡を後にしました。。。




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