2013年12月22日日曜日

入間金子の滝山古街道

鎌倉古道を回るようになってたびたび参考にさせていただいている「道・鎌倉街道探索日記」というサイトがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html

このサイトの中をふらふらとサーフィン(?)していたところ、次の地図を発見。



この地図のあたりは日ごろよく愛車で通りかかっているんで割と知っているんですが、こんなところに古道がある?

地図に「滝山古街道」として載っているこの古道、地図を書かれたサイト主さんによると「新編武蔵風土記稿」にある後北条時代の滝山城から鉢形城への往来であった「瀧山街道」「瀧山古海道」に該当するのではないかということなのです。

それで、まず古道の位置関係を見てみると・・・

この地図の下方にのっているJR八高線金子駅、その北西方向500mほどにある瑞泉院(この地図にも載ってますが)には、金子十郎家忠(1138~1214) 一族の墓があり、境内一帯は金子氏の館跡であったといわれています。

金子氏というのは武蔵七党村山氏のひとつ。

金子十郎家忠は保元・平治の乱で活躍、宇治川合戦や一ノ谷・屋島の戦いでも源義経に従って戦功をあげるなど、「保元物語」や「吾妻鏡」「源平盛衰記」にも登場する、鎌倉幕府初期の有力武将であるようです。

当然、その館があったというこの土地から「いざ鎌倉」の道があったはず。
もしかしたらそれがこの「滝山古街道」なのかもしれない・・・?


そして、金子駅の西側に向かって霞川(この川の名前も実は気になってます)沿いに豊岡街道(現在の県道63号線)を1kmほど遡っていくと、以前ブログでも書いた今井城があります。

 ★「東京都のはずれの謎な城跡」(今井城)  ← コチラもご覧ください♪
     http://natchdes3.blogspot.jp/2013/02/blog-post_7.html

豊岡街道は現在の埼玉県入間市扇町屋と東京都青梅市の間を東西に走る「青梅街道」です。
この街道をたどって金子から今井城の前を通りながらさらに西にいくと、青梅の名族三田氏の勝沼城のそばに出ます。

今井城の今井氏は三田氏に属していましたので、この豊岡街道を使って勝沼城と行き来していたのではないでしょうか・・・

地図に載っている「滝山古街道」はこの豊岡街道と金子のあたりで南北にクロスしています。

なので、この古街道がそのまま三田氏滅亡後後北条氏の傘下に入った今井氏を始めとして、後北条氏の軍事道として使われたかもしれない・・・?

そう考えたら矢も盾もたまらずに古道散策に飛び出してしまったのでした(^^;)


******


さて、電車を降り立ったのは地図にも出ていたJR八高線金子駅の、いかにも田舎めいたカワイイ駅舎。

地図を片手に真っ直ぐ東に向かって500mほど、「金子支所」をの前を通り過ぎたさらに先は一面の茶畑。
そう、このあたりは「狭山茶どころ~」の中心地なのです。




そしてその茶畑の真ん中にすっと伸びる1本の農道こそが目指す「滝山古街道」です。

写真は古街道を南側(地図の下方)に向かって撮ったもの。この場所から北へ転じて、まずは「馬頭坂」に向かいます。




北側に向いたとたん、もう切り通し(笑)

すっかり舗装されてしまってわかりにくいですが、左右は平地になっているところを掘り割って、霞川に向かうなだらかな下り道になっています。

坂を降りきった右側にこの坂の名前「馬頭坂」の由来を書いた碑が建っています。
金子十郎ゆかりの馬頭観音堂に通じていたからだとか・・・やはり関連がないわけではなさそう。

そのままいかにも「古道っぽい?」住宅の間のご機嫌なクランクを抜けて、豊岡街道を渡ると、昔懐かし火の見櫓の下に小さくて古くからありそうなお堂。

その向こうには加治丘陵が横たわっていて、地図では「古街道」はその中へ入っていきます。




加治丘陵というのは入間からお梅にかけて東西に伸びる標高200mほどの丘陵地です。
「滝山古街道」はこの丘陵の中を南北に横切っています。

豊岡街道と「滝山古街道」が交差するこのあたりは古くからの三ツ木という集落で、和田義盛の乱に敗れて逃げる途中当地に土着した三木氏が名主だったということです。

このお堂のそばには「高札場」があると書かれた看板があって、古街道はその名主三木氏の高札場のあたりを通っている・・・ようなんだけど、ちょうどお堂の前で道が左右に分かれていて、どっちに行ったらいいんだろ?

そばで立ち話をしていたおじさんに聞いてみたら、このあたりに住んでいる方のようなんだけど、なんと「高札場」のことを知らなかった!

で、仕方なく同じく古道にある「金子神社」への行き方を聞いてみたら右側の道を指し示し・・・




「金子神社ならその家の間を通って行けばその前に出るよ~♪」



えええっ?舗装路どころか人一人通るのがやっとそうな山道の中に入っていくんですか~?!


・・・後で帰ってから地図を再確認したら、実は左側の道がちゃんと舗装されたまま金子神社まで通じていて、しかもその道沿いに「高札場」もあったという・・・Orz

まあ、はらはらドキドキしながらも、ちょびっとだけ古道っぽい山道通れたから、よしとするか。

でも、この道は絶対単なる通路だと思う、うん。(^^;)



さて、金子神社。

舗装路はここで終わり。道はこの金子神社を挟んで左右に分かれており、「滝山古街道」はいよいよ古道らしさを増して右側の方へと延びています。

神社の前には古い道標が建っています。




道標の表面には薄~く「向」「左」「右」などの字が見て取れるのですが、何て書いてあるのか判別できません。
拓本でもとればあるいは行き先が浮かび上がってくるのかもしれないですね☆

そして、右側の道を進んでいくとまもなく・・・




とっても素敵な掘割状の道が出現~!

この加治丘陵内の古道は今井城や金子十郎の館址から見ると北側(鎌倉とは反対側)にあたるので、「鎌倉街道」と言っていいのかどうかわかりませんし、「鎌倉街道上道」のような幹線道よりはかなり狭い(幅2~3mくらい)のですが、しっかりとした掘割状の街道遺構が残っています。

そして、尾根を掘り割っているだけでなく、ところによっては左右に土塁を築いているところもあります。





こんな道、誰も通らないだろうと思って浮き浮き歩いていたら、なんと反対側からマウンテンバイクの2人連れ。どこから来たんだろう・・・?

・・・思わず「人間スケール」にしてしまいました。人が入るとこの堀割りの規模感がよくわかりますね♪





この先もずっと・・・掘割は続く~よ、どこまでも~☆






と、ひたすら突き進んで行ったら、いきなり・・・




すこん!と道がなくなって、眼下にひろがる駿河台大学の敷地~!

方向にすると大学校舎の向こう側真正面に、地図上でこの古道の続きにあたる阿岩橋があるはず。

この尾根と大学敷地の形状を見るに、もともとはこの尾根は入間川の渡しのあった現在の阿岩橋方向に向かって、緩やかに下っていたものが、大学敷地造成のためにざくっ!と整地されたのではないかと思われます。


途切れてしまっては仕方ないので、古道の東側を通る自動車道まで下りて駿河台大学の北側に回り、阿岩橋までたどり着きました。


阿岩橋というのは、飯能市の阿須と岩沢を結ぶ橋なので「阿」「岩」橋という名前なのですが、もともとこの場所には入間川を渡る渡し舟がありました。




阿岩橋を駿河台大学のある阿須から対岸の岩沢へ渡ったところ。

ちょっと前までは渡し舟のあったところから段丘の上に上がる、人目でそれとわかる古道然とした切り通しがあったのですが、阿岩橋の架け替えに伴って切りくずされ埋め立てられ、道の端の切り岸のカーブに面影を残すのみとなってしまいました・・・(TT)




橋の袂にはかろうじて古い案内板が残っていて、渡し舟のことと、この道が鎌倉街道の裏街道にあたっているが地元ではむしろ「大山街道」として知られていることが書かれています。

そして、道は古道特有のクランクを残しつつそのまま真っ直ぐ飯能市内へ入って行き、六道や中宿といったいかにも古い地名の字を通り抜け、八王子城落城時に奮戦した北条氏照の家臣中山氏の館址のある中山・中居をかすめて宮沢湖・日高方面に向かっていきます。

もしかしたら中山氏も滝山城や八王子城との往還に、この「滝山古街道」を使っていたのかもしれませんね・・・☆

********


後日大山街道のことについて調べてみたところ、江戸時代に相模国大山阿夫利神社への参詣者が通った多くの古道のうちのひとつが、飯能の宮沢から双柳、入間川阿須の渡し、入間市の南峯、金子、箱根ヶ崎、拝島、甲州街道八王子宿、片倉、御殿峠、橋本と抜けて、相模川中津川を渡り大山へ向かっていました。

この大山街道こそ、まさに今回の「滝山古街道」とオーバーラップしています!

おそらく鎌倉初期の金子氏の時代からの道が、江戸時代になっても大山街道として引き続き利用されたと考えられるので、拝島の対岸が滝山城ですから、中山氏や今井氏が滝山城往還にこの道を使ってた可能性はおおいにありそうですね!

2013年8月15日木曜日

霞ヶ関の江戸城外堀跡石垣

虎ノ門で打ち合わせのあった帰り道。

ちょっとお茶でもしてひと息入れてから帰ろうか・・・ということで、そういえば虎ノ門交差点のそばが再開発されて霞ヶ関コモンゲートという一角に整備されていたな・・・というのを思い出し、話のタネに行ってみることにしました。

霞ヶ関コモンゲートはもともと文部科学省とか会計検査院の庁舎があったところを再開発した一角です。

東館(文部科学省や会計検査院が入居)・西館(1階が金融庁)の高層ビル2棟と2階建ての店舗棟「アネックス」、それに登録有形文化財の「旧文部省庁舎」(文化庁が入居ww)が、隣接する霞ヶ関ビルや東京倶楽部ビルとともに広場を囲んで立ち並んでいます。

で、虎ノ門交差点側から地下鉄虎ノ門駅からの出口に沿って階段とエスカレーターを上って広場に出ると・・・



正面に、どど~ん!と打ち込みハギも麗しいこの石垣が現れます!

これが実は江戸城外堀跡の石垣なのです。
・・・が、こんなところに整備されているせいか、みんな単なるビルの植え込みだと思って、誰も着に留めない(T_T)

この江戸城外堀の石垣は、寛永13年(1636年)に、家康の代から続いた江戸城整備の総仕上げとして三代将軍徳川家光が命じたいわゆる天下普請で、60家の大名を6組に分け、それぞれ区域を分担し、はるか伊豆から花崗岩を船で運んで、現在のほぼ外堀通りに相当する全長14kmを積み上げたものだといいます。

ちょうどこの石垣の下、地下鉄虎ノ門駅の連絡通路には、この石垣の立派な(!)展示コーナーが作られていて、そこからすぐ近くに石垣を見ることができます。





ここの窓の下面(黒い部分)が昔の水面の高さだそうですが、この天下普請でこの石垣の工事を担当した豊後佐伯藩毛利家の家紋を模した、矢筈の刻印もすぐ近くにばっちり見えます☆





この展示コーナーの案内板によると、霞ヶ関コモンゲートの工事でこの石垣が出土した際には、この刻印と、向かって右隣の区域を担当していた備中庭瀬藩戸川家の刻印の有無で、両方の担当場所の境界(丁場割)がしっかりわかったのだといいます。

・・・が、その丁場割部分、現在は埋められちゃって全く見ることができません・・・残念!



で、しばし石垣や展示パネルに見入っていると・・・おや?
パネルに「敷地内に石垣の展示は3ヶ所・・・」と書いてあるではありませんか!

これは探すっきゃない!

「石垣の続き」になるわけですから、この石垣の表面ライン延長上のどこかにあるはず・・・
またはもともとの外堀にあたる外堀通り沿いか?

と、適当に当たりをつけて、よく調べもせずにまずアネックスの前に出てみると・・・



ありました~☆ 背は低いけど石垣の一部!

ここは備中松山藩池田家が担当した部分だということですが、上に植栽がされているので、どう見ても生け垣にしか見えない(笑)



実はこの石垣と道路をはさんで向かい側の虎ノ門三井ビルの前の歩道には、因幡鳥取藩が築いた外堀唯一の櫓台跡が残っています。

これまた道路から見ると、どう見ても生け垣にしか見えません・・・が、回り込んでみると、高さ1m位の石垣の角がつきだしています。

一瞬「これが3つめか?」と思ったのですが、この櫓台跡があるのはコモンゲートの敷地内ではないので「3つめ」ではない・・・ということで気をとりなおし、またコモンゲートの敷地を外堀が続いていたと思われる溜池方向に向かって、歩いて行きました。



・・・が、敷地の途切れる特許庁との間の道まで来ても、それらしいものが見当たらない・・・
念のため、特許庁とコモンゲートの間の道を三年坂の方に登っていっても、やっぱりない・・・

と、ひょいっと道ばたの案内板を見ると・・・最初に行った展示コーナーのすぐそば、旧文部省庁舎の裏側の文部科学省新庁舎との間の細長い中庭に石垣がある~!

結局コモンゲートの敷地を一周しちゃったよ~(>。<)





というわけでとんで行ってみると、通路からちょっと入り込んだところにある上に地面を細く掘り込んだところに展示してあって、しかもそこまでの道案内も見当たらず、植栽までしてあってちょっと見生け垣風なので、そばにいくまで全然わからない~!


もうちょっとPRしてほしいです、文化庁さん・・・(T◇T)


でも、そばに行ってみると先ほどの展示コーナーよりもさらに石垣が間近に見れる上、対面には石垣発掘調査の報告が展示されています。










ここの石垣は摂津三田藩九鬼家が担当したということですが、刻印や楔の跡だけでなく、細部を鑿で削った跡なんかもよく見えます。




そして、この展示場所にむかって点々と飛び石のように石が埋め込まれているのですが、この石は実は石垣の石で、石が配置されているラインが外堀の縁だったそうです。。。




お茶するつもりで来たコモンゲート、結局当初の目的はどこかにすっ飛んでいっちゃいましたけど(笑)東京のそれも官公庁のど真ん中に、歴史がひっそりと埋もれているんだなぁ~と感慨にふけってリフレッシュしちゃいました♪

巨大広大な江戸城、遺構は都内のあちこちにまだまだあるようなので、このコモンゲートの遺構も含めていろいろ探して訪ねると楽しいですね!




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2013年8月10日土曜日

鎌倉街道上道と苦林野古戦場

先日、女影ヶ原古戦場小手指ヶ原古戦場を回ったときに、それぞれの古戦場と鎌倉街道上道古道の関わりにおおいに興味をそそられてしまったので、ほかにも埼玉県内の鎌倉街道沿いに古戦場がないかな~☆と探してみたら・・・

ありましたありました!女影ヶ原から鎌倉街道を北上すると、毛呂山町に「苦林野古戦場」。
南北朝時代の北朝貞治2年(1363年)に鎌倉公方足利基氏の軍勢と下野の豪族芳賀入道禅可が戦った古戦場とのこと。

さらに調べると・・・女影ヶ原から苦林野へと北上する途中の鎌倉街道は非常に良好な状態で遺構が残っているとの情報が・・・!

これは行ってみるっきゃないでしょー☆

ということで、日を改めてのこのこと車を飛ばして出かけました。

まずは東武越生線の西大家駅のあたりに鎌倉街道の遺構があるらしいというネット情報をたよりに行ってみると・・・

西大家駅というのは単線の非常にひなびた駅で、車の置けそうな場所も見当たらない!
それどころか、お目当ての場所の方向には車の通れるような道もなさそうな・・・

しかたなく、駅から少々南にある「町屋自治会館」の庭にそっと車を停めて歩きだしたところ・・・
いきなり?!



「鎌倉街道(上道)」の看板!
しかも「ここの南北に掘り割り状になっている所」って、これのことですか~?




 前(左)の写真が看板からみて「南」で女影ヶ原の方角、後ろ(右)の写真は「北」で、まっすぐ行けば西大谷駅にぶつかる・・・はず。

でも、確かに鎌倉街道の「掘割状遺構」と言われればそうかもしれませんが、素人目にはどうみても、単なる用水路(笑)

とりあえずこの「掘割状遺構」を横目に見ながら、当初予定通り西大谷駅に向うと・・・ありました!
西大谷駅の前の県道74号線の踏み切り脇に鎌倉街道の説明板と、先ほどの続きの「掘割状遺構」。



ここまでくると、もうなんだか普通の水路(笑)

地図をみると、「鎌倉街道」はこのあと西大谷駅の北側からは舗装道路(後(左側)の写真の奥の道)となって続いているようです。

なので、また自治会館にもどって、今度は車で道の先をたどることにしました。

道は緩やかに下っていき、森戸橋で高麗川を渡って、田んぼの中を緩やかに上っていきます。
そして河岸段丘の斜面でぐっと右にカーブするのですが、そのカーブの入り口あたりに民家の間をまっすぐに入っていく道があります。

これがどうやら鎌倉街道の「切り通し跡」のようです。

車の轍もみえるし、一見軽トラも入っていくような普通の畑道にもみえるので、車で入ろうかどうしようか迷ったのですが、民家の庭に入り込んじゃったら大変なので、またも車を降りて歩いてみることに。




・・・いや、車降りてよかったっす。
歩き始めて50mもしないうちにこのとおり、道なき道(後(右側)の写真)ですもん。

はっきりいって轍どころか膝丈まである草ぼうぼう!
一足歩くたびに足元からバッタぴょんぴょんで、とてもサンダルシューズで歩く道ではなかったですね~(笑)

というか、いくら車で回るといってもちょっと侮りすぎではあったんですけど・・・(汗)

この「道なき道」をさらに北に進むと、県道川越越生(114号)線につきあたります。

道は県道を越えた先にもつながっているようなのですが、これまた車で行くには狭そうで、しかも地図を見ると途中で本来の「鎌倉街道」ルートから大きくそれてしまうようなので、再度車に戻り、次の「掘割状遺構」へ。


この場所には、鎌倉街道の遺構としては県内でももっとも良好な状態で残っている場所だそうです。

鎌倉街道をたどってはいけないので、県道114号線を多少西に行って、「市場」という地名の農家の立ち並ぶ一角の細い道に地図をたよりにくねくねと入り込み、なにか学校の寮のような(地図には「光風寮」とありましたが・・・)建物の前の道がくねっと曲がったあたりに、突然この「鎌倉街道遺跡」の道標が現れます。

道標には「ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」とあります。



んむむむむ~!
いったいこの標識「向って右」とは、どの面にむかって右側なんだろう~?

再度地図に向うと、どうもこの標識の後ろに広がる林を突き抜けて行くと、先ほどの「切り通し跡」から県道114号線を通り越して続いている道にぶつかりそうな気配。

道標にも「林中の道」と書いてあるしなぁ、と林の右側に視線を転じると・・・




どーん!と広がるのは、どうみてもこれが街道の遺構なんじゃないかって思えるような切り開かれた場所。。。

玉川学園多賀譲治さんのサイト「これが最初(ホント)の鎌倉街道」や「道・鎌倉街道探索日記」というサイトの鎌倉街道の説明ページに引用されている埼玉県教育委員会の歴史の道調査報告書によると、鎌倉街道の規格は道幅約6メートル、両側または片側に幅・高さとも約2メートルの崖状の塁または土手を築いているもののようです。

これは乗馬した状態でも進軍が分からないための目隠しとも言われています.なので、台地や原野では道の両側に土手を築くことがあるし、尾根や坂道では掘割状の凹道となっているようです。

・・・というところからすると、この場所はちょっと広すぎるような気もするけれど、両側に塁があるようにも見えるし、もしかしたら元は林の中にあったものを見えるように切り払ったのかもしれませんね。

この道を、もしかしたら新田義貞や北条時行が軍勢を率いて駆け抜けて行って、その後の女影ヶ原や小手指ヶ原の戦いに望んだのかと思うと、身震いするような感動を覚えます・・・☆


さて、この場所でくるりと後ろを振り向くと、道は低い土塁を伴いながら林の中をさらに北の方角に続いています。




この先は、道は細いながらもなんとか車1台分の広さで続いているので、少し乗っては降りて歩いてまた乗って・・・を繰り返しながら進んでいくと、やがて県道39号線に突き当たります。

この39号線を左側、西に向かって3~4kmほど行ったところには流鏑馬で有名な延喜式内社の出雲伊波比神社があります。

もともとこのあたり「毛呂山」という地域は、源頼朝の側近として使えた季光を祖とする毛呂氏が代々地頭として治めた地です。

毛呂氏はその後戦国末期には小田原北条氏に属し、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城の支城の八王子城の守備を任じられ、その落城とともに滅びてしまうのですが、それまでの間、鎌倉幕府、室町幕府の鎌倉府、そして小田原とをつなぐ重要な道として整備され、使われ続けていたのではないでしょうか。

ちなみに県道39号線を反対の右側、東に向かってすぐのところには毛呂山町歴史民族資料館があって、鎌倉街道についても多少展示物があります。



この地図も、展示されていたものを撮ってトリミングしたものです。
赤い線の部分が鎌倉街道の今回歩いた部分になります。

県道39号線を横切ってさらに鎌倉街道古道の細道を北上すると、まもなく左手にとっても気になる土塁様の構造物が・・・?



土塁の向こう側はどうやら埼玉医科大学川角キャンパスらしいのですが、しっかり折れもあるし姿かたちといい何かいわくありげでなんですが、手元の資料にはこれに触れたものが何もないので、余計に気になります。何なんだろう?

この先はまた低い土塁を伴った道が林の中にまっすぐ続いていきます。

またのこのことゆっくり車を走らせたり降りて歩いたりしていると、東西に走るこれまた古そうな道に交差します。

この道を西に進むと「延慶の板碑」があるそうです。

鎌倉時代延慶年間の紀元銘が刻まれた3メートルもある大きな板碑で、今あるのは移設された場所だそうなのですが、もとあった場所を発掘したところ刀傷のある火葬骨の入った古瀬戸の瓶子が出てきたそうです。

いかにもこの地が鎌倉時代に「武士の地」として栄えていたのか・・・なんて、こんなところでも想像力を働かせてしまいます(笑)




この「延慶の板碑」に続く道と鎌倉街道が交差するあたり、どうも妙に人工的な塚がいくつもあるな・・・と思ったら、このあたりは「川角古墳群」なんだそうです。

そして、その塚の1つのてっぺんには庚申塔が。。。

中世の道「鎌倉街道」とその傍らの古代の古墳群、そしてその古墳の上の近世の庚申塔・・・
この道の機能してきた「時間」をしみじみと感じてしまう光景です。

このままこの鎌倉街道を北に向かっていくと、やがて道は県立毛呂山特別支援学校の脇をとおり、鎌倉街道苦林宿のあった場所ではないかといわれている堂山下遺跡のある大類グラウンドの先で舗装道路にぶつかって途切れています。

本来ならば、道はこの先の越辺川を渡ってさらに北上し、畠山重忠の居城のあった菅谷を通って上州へと続いていたといいます。

そう考えると、名だたる武将たちが「いざ鎌倉」と行きかっていた重要な道だったんだなぁ・・・と改めて実感です・・・!




で、この大類グラウンドの東側に広がる畑地が、実は苦林野古戦場だった・・・らしいのです。

苦林野合戦というのは最初にも書いたとおり、当時関東最強の武士だった宇都宮氏の家臣で越後守護職だった芳賀入道禅可が一方的に守護職をおろされたことへの不満から、入間川御所に滞陣していた鎌倉公方・足利基氏と激戦を繰り広げたもので、その合戦の模様は太平記の合戦絵巻にも残されているようです。

・・・が、今は写真の「神明台の石仏群」数基の庚申塔や馬頭観音、板碑の他にはなーんにもありません。

まぁ、こういう川を背後にしただだっ広いところで戦ったんだなぁ・・・と想像するにとどまります。。。



苦林野古戦場の案内板と追悼碑はちょっと離れた別の場所にあります。

行ってみるとちょっとした塚の上にのっていて、案内板によれば太平記に「小塚の上に打ちあがりて」とあるのはここのことかもしれない、ということですが、この塚よくよくみると・・・

実に見事な前方後円墳!

案内板めがけて塚を登っていって、そこで改めて塚を見渡してみて初めて気がつきました☆

案内板のあるところが前方部分で、江戸時代に建てられた追悼碑があるのが後円墳部分。。。

あー、びっくりした・・・!(笑)







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