http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html
このサイトの中をふらふらとサーフィン(?)していたところ、次の地図を発見。
この地図のあたりは日ごろよく愛車で通りかかっているんで割と知っているんですが、こんなところに古道がある?
地図に「滝山古街道」として載っているこの古道、地図を書かれたサイト主さんによると「新編武蔵風土記稿」にある後北条時代の滝山城から鉢形城への往来であった「瀧山街道」「瀧山古海道」に該当するのではないかということなのです。
それで、まず古道の位置関係を見てみると・・・
この地図の下方にのっているJR八高線金子駅、その北西方向500mほどにある瑞泉院(この地図にも載ってますが)には、金子十郎家忠(1138~1214) 一族の墓があり、境内一帯は金子氏の館跡であったといわれています。
金子氏というのは武蔵七党村山氏のひとつ。
金子十郎家忠は保元・平治の乱で活躍、宇治川合戦や一ノ谷・屋島の戦いでも源義経に従って戦功をあげるなど、「保元物語」や「吾妻鏡」「源平盛衰記」にも登場する、鎌倉幕府初期の有力武将であるようです。
当然、その館があったというこの土地から「いざ鎌倉」の道があったはず。
もしかしたらそれがこの「滝山古街道」なのかもしれない・・・?
そして、金子駅の西側に向かって霞川(この川の名前も実は気になってます)沿いに豊岡街道(現在の県道63号線)を1kmほど遡っていくと、以前ブログでも書いた今井城があります。
★「東京都のはずれの謎な城跡」(今井城) ← コチラもご覧ください♪
http://natchdes3.blogspot.jp/2013/02/blog-post_7.html
豊岡街道は現在の埼玉県入間市扇町屋と東京都青梅市の間を東西に走る「青梅街道」です。
この街道をたどって金子から今井城の前を通りながらさらに西にいくと、青梅の名族三田氏の勝沼城のそばに出ます。
今井城の今井氏は三田氏に属していましたので、この豊岡街道を使って勝沼城と行き来していたのではないでしょうか・・・
地図に載っている「滝山古街道」はこの豊岡街道と金子のあたりで南北にクロスしています。
なので、この古街道がそのまま三田氏滅亡後後北条氏の傘下に入った今井氏を始めとして、後北条氏の軍事道として使われたかもしれない・・・?
そう考えたら矢も盾もたまらずに古道散策に飛び出してしまったのでした(^^;)
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さて、電車を降り立ったのは地図にも出ていたJR八高線金子駅の、いかにも田舎めいたカワイイ駅舎。
地図を片手に真っ直ぐ東に向かって500mほど、「金子支所」をの前を通り過ぎたさらに先は一面の茶畑。
そう、このあたりは「狭山茶どころ~」の中心地なのです。
そしてその茶畑の真ん中にすっと伸びる1本の農道こそが目指す「滝山古街道」です。
写真は古街道を南側(地図の下方)に向かって撮ったもの。この場所から北へ転じて、まずは「馬頭坂」に向かいます。
北側に向いたとたん、もう切り通し(笑)
すっかり舗装されてしまってわかりにくいですが、左右は平地になっているところを掘り割って、霞川に向かうなだらかな下り道になっています。
坂を降りきった右側にこの坂の名前「馬頭坂」の由来を書いた碑が建っています。
金子十郎ゆかりの馬頭観音堂に通じていたからだとか・・・やはり関連がないわけではなさそう。
そのままいかにも「古道っぽい?」住宅の間のご機嫌なクランクを抜けて、豊岡街道を渡ると、昔懐かし火の見櫓の下に小さくて古くからありそうなお堂。
その向こうには加治丘陵が横たわっていて、地図では「古街道」はその中へ入っていきます。
加治丘陵というのは入間からお梅にかけて東西に伸びる標高200mほどの丘陵地です。
「滝山古街道」はこの丘陵の中を南北に横切っています。
豊岡街道と「滝山古街道」が交差するこのあたりは古くからの三ツ木という集落で、和田義盛の乱に敗れて逃げる途中当地に土着した三木氏が名主だったということです。
このお堂のそばには「高札場」があると書かれた看板があって、古街道はその名主三木氏の高札場のあたりを通っている・・・ようなんだけど、ちょうどお堂の前で道が左右に分かれていて、どっちに行ったらいいんだろ?
そばで立ち話をしていたおじさんに聞いてみたら、このあたりに住んでいる方のようなんだけど、なんと「高札場」のことを知らなかった!
で、仕方なく同じく古道にある「金子神社」への行き方を聞いてみたら右側の道を指し示し・・・
「金子神社ならその家の間を通って行けばその前に出るよ~♪」
えええっ?舗装路どころか人一人通るのがやっとそうな山道の中に入っていくんですか~?!
・・・後で帰ってから地図を再確認したら、実は左側の道がちゃんと舗装されたまま金子神社まで通じていて、しかもその道沿いに「高札場」もあったという・・・Orz
まあ、はらはらドキドキしながらも、ちょびっとだけ古道っぽい山道通れたから、よしとするか。
でも、この道は絶対単なる通路だと思う、うん。(^^;)
さて、金子神社。
舗装路はここで終わり。道はこの金子神社を挟んで左右に分かれており、「滝山古街道」はいよいよ古道らしさを増して右側の方へと延びています。
神社の前には古い道標が建っています。
道標の表面には薄~く「向」「左」「右」などの字が見て取れるのですが、何て書いてあるのか判別できません。
拓本でもとればあるいは行き先が浮かび上がってくるのかもしれないですね☆
そして、右側の道を進んでいくとまもなく・・・
とっても素敵な掘割状の道が出現~!
この加治丘陵内の古道は今井城や金子十郎の館址から見ると北側(鎌倉とは反対側)にあたるので、「鎌倉街道」と言っていいのかどうかわかりませんし、「鎌倉街道上道」のような幹線道よりはかなり狭い(幅2~3mくらい)のですが、しっかりとした掘割状の街道遺構が残っています。
そして、尾根を掘り割っているだけでなく、ところによっては左右に土塁を築いているところもあります。
こんな道、誰も通らないだろうと思って浮き浮き歩いていたら、なんと反対側からマウンテンバイクの2人連れ。どこから来たんだろう・・・?
・・・思わず「人間スケール」にしてしまいました。人が入るとこの堀割りの規模感がよくわかりますね♪
この先もずっと・・・掘割は続く~よ、どこまでも~☆
と、ひたすら突き進んで行ったら、いきなり・・・
すこん!と道がなくなって、眼下にひろがる駿河台大学の敷地~!
方向にすると大学校舎の向こう側真正面に、地図上でこの古道の続きにあたる阿岩橋があるはず。
この尾根と大学敷地の形状を見るに、もともとはこの尾根は入間川の渡しのあった現在の阿岩橋方向に向かって、緩やかに下っていたものが、大学敷地造成のためにざくっ!と整地されたのではないかと思われます。
途切れてしまっては仕方ないので、古道の東側を通る自動車道まで下りて駿河台大学の北側に回り、阿岩橋までたどり着きました。
阿岩橋というのは、飯能市の阿須と岩沢を結ぶ橋なので「阿」「岩」橋という名前なのですが、もともとこの場所には入間川を渡る渡し舟がありました。
阿岩橋を駿河台大学のある阿須から対岸の岩沢へ渡ったところ。
ちょっと前までは渡し舟のあったところから段丘の上に上がる、人目でそれとわかる古道然とした切り通しがあったのですが、阿岩橋の架け替えに伴って切りくずされ埋め立てられ、道の端の切り岸のカーブに面影を残すのみとなってしまいました・・・(TT)
橋の袂にはかろうじて古い案内板が残っていて、渡し舟のことと、この道が鎌倉街道の裏街道にあたっているが地元ではむしろ「大山街道」として知られていることが書かれています。
そして、道は古道特有のクランクを残しつつそのまま真っ直ぐ飯能市内へ入って行き、六道や中宿といったいかにも古い地名の字を通り抜け、八王子城落城時に奮戦した北条氏照の家臣中山氏の館址のある中山・中居をかすめて宮沢湖・日高方面に向かっていきます。
もしかしたら中山氏も滝山城や八王子城との往還に、この「滝山古街道」を使っていたのかもしれませんね・・・☆
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後日大山街道のことについて調べてみたところ、江戸時代に相模国大山阿夫利神社への参詣者が通った多くの古道のうちのひとつが、飯能の宮沢から双柳、入間川阿須の渡し、入間市の南峯、金子、箱根ヶ崎、拝島、甲州街道八王子宿、片倉、御殿峠、橋本と抜けて、相模川中津川を渡り大山へ向かっていました。
この大山街道こそ、まさに今回の「滝山古街道」とオーバーラップしています!
おそらく鎌倉初期の金子氏の時代からの道が、江戸時代になっても大山街道として引き続き利用されたと考えられるので、拝島の対岸が滝山城ですから、中山氏や今井氏が滝山城往還にこの道を使ってた可能性はおおいにありそうですね!