2016年6月5日日曜日

真田の郷に向って・・・ -信玄棒道歩き(大屋駅~信綱寺)-

上田から「信玄棒道」をたどって松代・川中島へ抜ける歩き旅(?)2日目。

前日の1日目に、先に真田から地蔵峠を越えて松代まで25kmほどの行程を歩いてしまったので、2日目は軽めに参ります。

千曲川の渡しあたりから10km程度歩いて、1日目の出発点にほど近い旧真田町の信綱寺まで♪

 ☆1日目(真田~地蔵峠~海津(松代)城)の様子
     →  <前編> <後編

ルートは、上田市観光課が作成したパンフレット「信州上田 真田氏ゆかりの山城案内」の中の地図に、赤い線で落とし込んでみました。

実は今回の行程中、大門峠を越えて千曲川までと、真田の里からの地蔵峠越え部分はいろいろ資料があって、ほぼ特定できたのですが、この2日目部分については資料がない・・・

で、じーっと地図をにらんでいたら・・・赤線の通り、真っすぐ道がつながってる!

そして1日目の夜、たまたま上田駅そばの居酒屋「幸村」のカウンターで、ご一緒した地元の方にこの地図を見せながら古道のことを聞いてみたら、「確かに古い道がそのあたりを通っている」とのこと!

もしかすると、ちょっとこの道イケるかも?と思いながら2日目行程を歩き始めました☆


***************

●大屋仁王堂

信玄棒道を甲斐から信濃に向かい、白樺湖から大門峠を越えると、ちょうどしなの鉄道大屋駅の南側あたりで千曲川を渡ることになります。


現在の「大門街道」国道152号線は、大門峠からまっすぐこの赤い橋に降りてくるんですが、ワタシ的には橋のできる以前にはこのかわいい仁王様が祭られている「大屋仁王堂」あたりが渡河点だったのではないかな~という気も・・・


徳川三代将軍家光の慶安年間に書かれた「田畑検地帳」にも存在が記されているこの仁王尊は、もとは度重なる水害に点々としながら、北國街道沿いに安置されて現在に至っているようです。


この「大屋仁王堂」を正面に見て右側(南側)を流れる千曲川に並行するように、仁王堂のすぐ左側から奥に向かって北国街道の海野宿が広がっています。

そして、仁王堂の前から北(左手方向)に向かって、真田に向かう「棒道?」古道が始まります。

・・・ということはちょうど古道と旧北国街道のクロスポイントが、この仁王堂前ということで。。。


大門峠から降りてきて千曲川を渡った・・・つもりになって、仁王堂の前から北に向くと、道はしなの鉄道の踏切を越えて、千曲川の河岸段丘を上がっていきます。

舗装された左側の道でなく、オレンジ色の家の向こう側に上る道に進むと・・・


いきなり古い石塔のある掘割状っぽい「古道」が現れます。
しかも、登りきったところを通っている国道18号線を渡った向こう側にも、さらに続いている・・・
ひゃっほい!



●深井の集落

道沿いにある石塔や石仏は、集落の境や道しるべになっていることも多いので、古道を探すときにには、かなり参考にしています。

建立年が読み取れるとなお良し♪


道は台地の上に広がる畑の中を緩やかに登りながら、まっすぐ北に向かっていきます。


そのまましばらく歩くと道は集落の中に入っていったのですが、よく見るとどの家もしっかりとした石垣と厳重な門構え。そして特徴的な海鼠壁。

その上・・・なぜか瓦に六文銭の紋が!


なんかアニメ「サマーウォーズ」の世界を地で行ってるよ~!とか、これほんとにこの家の紋なのかな~?などと言いながら、この時はそのまま通り過ぎてしまったのですが・・・

後になって調べてみたら、この集落のあるあたりは現在の東御市和(かのう)字東深井といって、室町時代には小県郡の深井郷として存在し、明治になってからは小県郡和村となったということです。

この集落のある東深井のあたりには今でも深井姓の方々がいらっしゃるということですが、深井氏というのは古い一族で、天文10年(1541年)の海野平合戦のときには、武田信虎や村上義清に攻められた海野氏の棟梁、海野棟網の重臣に深井右衛門尉棟廣がいます。

この深井右衛門尉棟廣の娘が、真田幸隆(「真田丸」でいうと、昌幸パパのお父さん)の兄弟にあたる真田右馬助綱吉の正室「深井殿」!

永禄10年(1567)8月7日に武田信玄は海野衆に生島足島神社に起請文を捧げさせていますが、この真田右馬助綱吉は、この時に名を連ねている海野衆の中に名前があります。

ちなみに、深井棟廣の曾孫?にあたる深井右馬助は真田信之の家臣となって松代に移ったんですが、元和8年(1622年)に家臣団48騎が松代を退去した事件の際に、右馬助もその一員として東深井に帰農したそうです。

真田氏のみならず、海野氏も紋は六文銭ですが、屋根の上の六文銭は、もしかしてそういうご縁?!

・・・やっぱり「サマーウォーズ」でしたか☆




●全宗院

そのまま深井の集落を抜け、道端の石碑や石仏を頼りに畑のど真ん中をまっすぐ続く道をどんどん進んで、次の集落へ。

ここで、武田氏大好きな城友だちの日光さんのアンテナに激しく反応するものが・・・!


道に沿って建つ、このあたりの集落にしては立派なお寺の屋根に、武田菱!
これこそ、なぜ?思わず境内に入ってみることに。


境内に入ってみると、大きい本堂のほかにも、以前は何かその上に建っていたのかしっかりとした石積みの基壇?があったりして、結構広い・・・けど、案内板のようなものもなく、これだけでは謎が解けないので、勇気を出して庫裏のインターホンをピンポーン!


出てきたご住職?に伺ってみたら、奥から郷土資料の本のコピーを持ってきてくださって、説明してくださいました♪

なんと・・・武田信玄の次男の竜芳が海野氏を継承した後、庵を結んだ場所なのだそうです!

潔泉山全宗院というお寺で、庵の跡に慶長15年(1610年)海野竜芳を開基として再興し、武田菱を紋として掲げたのだとか。

竜芳は天正10年(1582年)の武田家滅亡の際に甲斐の入明寺で亡くなっており、お墓もそちらにあるのですが、そういう縁でこの全宗院にもお位牌があるのだそうです。



確かにこの場所は、もともと海野氏が本拠とした海野城(海野宿のほど近く)からは若干離れてはいるものの、海野領の中ではあるし、大屋からここまで来た道はまっすぐ甲斐までつながってるので、甲斐・武田氏とのアクセスは非常に良い・・・(参照

しかも、この写真の古い道標は全宗院のすぐ前にある交差点に建っていたんですが、実はそこが大屋(千曲川の渡し)~深井の集落~真田・地蔵峠を結ぶ古道と、上田・神川~祢津・滋野・小諸を結ぶ道のクロスポイント。

滋野氏は清和天皇を始まりとする小県郡の名族。
祢津氏は海野氏・望月氏とともに「滋野三家」とよばれる滋野氏流の嫡流とされる家柄で、祢津には祢津氏のものとされる館跡や城跡が残っています。

ということは、この全宗院は当時の海野領における交通の要衝に建っているわけで。。。

竜芳は半俗半僧ではあったものの出家しており、かつ盲目だったので政治の表舞台には出てこず、海野領はおそらく家臣の合議制であったのだろうと思われますが、こういった「庵を結ぶ」というカタチでの統治もアリなんだろうなぁと、なんとなく思ったりもしたのでした。



●「矢沢」は関所?!

さて、全宗院を後にして、再度ひたすらまっすぐ北上します。
前方に見える山の狭まりの間を抜けた向こう側が真田郷。


ところどころ視界が開けると、千曲川から神川に沿って広がる低地とその向こうの上田方面が見えて、ずっと台地の上を歩いているのに気がつかされます。

もしかしたら、神川合戦(第1次上田合戦)の古戦場も見えているのかもしれません☆


引き続き、道端の古い石碑や石仏をたよりにしつつ・・・


やがて道は豊殿小学校の敷地を突っ切り(人はそのまま通れるようになってる!)、上信越道自動車の下を潜ります。


上信越自動車道を潜ると急に道の両側から山が迫ってきます。
写真左手方向手前に見えるのが虚空蔵山。「信玄砥石崩れ」で有名な砥石城のある東太郎山の尾根から東に飛び出した独立峰です。

歩いている古道からは神川の谷を挟んだ対岸になるのですが、いかにも向こうからは街道が丸見え?

街道を見張る城があってもおかしくない・・・と思っていたら、上田市のパンフレットによると第一次上田合戦の際に真田信幸がしばらく拠ったという伊勢崎城があったとのこと。

※実は、「虚空蔵山&真田」で、すわ上杉と真田が対峙した(「真田丸」に出てきた)虚空蔵山城?と思ったんですが、そちらは坂城の方にあるそうです。
「長野の山城ベスト50」では松本の方の虚空蔵山城が取り上げられてますし・・・虚空蔵山って結構あちこちにあるんですね(^^;)



そして上の地図にもあるとおり、この古道は、右側(東側)にある標高1193mの殿城山からの支尾根の先端にある矢沢城と、対岸の伊勢崎城とで両側から挟んでしっかり押さえられています。

この状態は、まさに真田郷に入るための関所感満載!



・・・バス停の名前も「矢沢」。

矢沢城は、前日に松代で見た「矢沢家住宅」にゆかりのある真田昌幸の叔父、矢沢頼綱の本拠の城であったといわれています。

天正13年(1585年)の第一次上田合戦(神川合戦)の時には頼綱の子、三十郎頼康が籠城・奮戦し、上田城に押し寄せる徳川軍の背後を脅かしています。

・・・というか、伊勢崎城の信幸お兄ちゃんとともに真田郷の大手口を守っていたというのはうがった見方かな?

ちなみに、真田氏が松代に転封となった後上田城には仙石氏が入り、この矢沢は分家の旗本仙石氏が支配していたとのこと。

次の写真は、その仙石氏分知矢沢領の矢沢陣屋跡。
本家は宝永3年(1706年)に出石に移封されてしまうのですが、分家の矢沢領支配は明治まで続いたそうです。


すごく立派な石垣と枡形が残ってます。
なので、最初はこれが矢沢城かと思ってしまいました(^o^;)


矢沢城跡は現在公園になっているようですが、古道との分岐点からだと10分ほど登るということだったので、2~3分登ったところにあるこの陣屋跡の石垣をみて、ギブアップ。

まだまだ、古道のゴールの信綱寺まで先は長い~☆



●矢沢頼綱再建の龍水寺

さて、「矢沢」を後にして、さらにまっすぐ北に向かうと・・・
やがて前方に現れた丘陵の中腹に、みごとな懸崖作りのお堂が見えてきました。





鎌倉時代の正応年間に創建され、現在の本堂が天正15年(1587年)に矢沢頼綱の発願により再建されたという、龍水寺です。

ここからは真正面に、神川の谷を越えて砥石城や米山城が見えます!



天文19年(1550年)に武田晴信(信玄)が砥石城を攻めた際に、高白斎記に「砥石の城際、屋降地号に御陣すえらる」とあり、砥石城近くの屋降という場所に陣を置いたようなのですが、その場所は特定されていません。

屋降の地についてはいくつかの説がありますが、その中の1つにこの龍水寺あたりを推定するものがあります。

現在有力なのは上信越自動車道の上田菅平ICあたりと推定する説ですが、これだけすぐ近くに砥石城が見えてしまうと、矢沢頼綱のゆかりもあるし、このあたりに陣を置いたという説もなるほどなぁ・・・と思ってしまいますね☆


●道しるべ

全宗寺のそばにもありましたが、この古道を歩いているとこのような縦長の道しるべに要所要所で出会います。



江戸時代以前まで遡るほど古いものではないようですが、この道しるべに出会ってどこに通じている道なのかを見るたびに、歩いている道は間違っていないな~と心強くなります♪

龍水寺を後にしてまた道を進んでいくと、本原小学校を越えた先で道が二手に分かれます。


この分かれ道のある中原公民館の前に、「左まつしろ道 右大ささ道」と刻まれた道しるべがあります。

ここがちょうど大笹道(旧上州街道)と松代道(松代道)の交差する地点です。




ここでは左の松代道を進んでいきます。
ちなみに、右の「大笹道」は鳥居峠を越えて沼田のほうへ抜けていく道です。

そのまま松代道方向に進むと、荒井の交差点で国道144号線上州街道と交差します。
上州街道方面には曲がらずにさらにまっすぐ進むと、前の日に地蔵峠越えのためにバスで通った県道35号線。

そのまま神川を渡り、「旧真田町の中心地」真田地域自治センターや真田中学校の前を通り抜けると、やがて横尾神社のそばに出ます。

そのまま進めば、新地蔵峠を越えて松代です。
横尾神社側に曲がればこの日のゴールの信綱寺ですが、横尾神社と反対側をふと見ると・・・


県道から50~100mほどのところに、県道と平行して走る細い道と、いわくありげな石碑&説明板。

ピピピッとアンテナに響くものがあって、思わずそばまで行ってみると・・・実はその石碑は「松代街道」の道しるべ!

実は、この細い道こそが旧道(古道)だったということ。この道しるべに気がつかなかったら、うっかり県道イコール古道だと思い込んで終わってしまうところでした(^o^;)



●そして・・・ゴールの信綱寺!

旧松代街道と道しるべを確認した後、そのまま県道を離れ、横尾神社の前を通って信綱寺へ。



信綱寺には長篠合戦で討ち死にした真田信綱・昌輝(真田昌幸の兄)の墓所があります。

信綱の首級は家臣の白川勘解由兄弟がここまで運んで埋葬したと伝えられ、そのとき首を包んで持ち帰ったという血染めの陣羽織や、愛用の鎧胴、真田昌幸から信綱寺にあてた書状などが宝物館に収められているそうです・・・が、事前に電話連絡が必要(入館料100円)だそうで、うっかり予約せずに行ってしまったので見ることができませんでした。。。

ちなみにこの記事の平成28年6月から年内までは、宝物館の品々は「真田丸展」で東京・上田・大阪を巡回中とのことです。



信綱寺の境内はこんな感じ。信綱の首級と鎧兜は桜の樹下に埋められたということですが、その桜が山門の脇(写真の右側)の「墓前の桜」だそうです。


信綱寺から古城緑地広場を挟んだ向かい側(南側)の低い丘陵に信綱寺の総門(黒門)があり、そこから信綱寺方面に、参道なのか風情のある石畳の道があります。


文政6年(1823年)に立てられたという総門(黒門)を潜り抜け、麓に降りて「ゆきむら夢工房」からゆるキャラ?のゆきたんに見送られて上田行きのバスに乗り、2日間の行程無事終了!



今回は2日間で30km超の千曲川縁の大屋から松代までを歩いた「棒道探索」の旅でした。
歴史や遺構をたどりつつ次はどのあたりを歩こうかな・・・とりあえずお疲れ様でした~!



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2016年6月4日土曜日

地蔵峠の長塁、そして松代 -信玄棒道歩き(真田~松代)-<後編>

さて、「念願の地蔵峠! -信玄棒道歩き(真田~松代)ー<前編>」 に引き続き・・・
真田側から旧地蔵峠を越えて「峠の見晴らし処」でひと息いれたところで。



次の地図の下の方にも手書きで書き入れましたが、この新地蔵峠から西側に500mほど林道を入っていくと、そこに城郭研究家の藤井尚夫先生が「地蔵峠の長城塁壁」と呼んでおられる城跡?があります。

この塁壁については、以前からワタシの「城歩きのお師匠様」サイガさんに「地蔵峠には真田が作ったと思われる長塁があるよ」と教えていただいてて、今回のそれを訪ねるのが「地蔵峠越え」の目的のひとつでもありました。

ところがこの長塁、普通の城ガイドブックなどには載ってなくて、なかなか場所が特定できない・・・

やっとのことでお城ジオラマ復元堂の二宮博志さんが書かれた「真田三代名城と合戦の秘密」という本に縄張り図が載っているのを見つけたので、それをもとに位置を特定して地図に落とし込みました。

(この本の図からでも、場所の特定には苦労しましたが・・・笑)

で、場所を落とし込んだ地図をもとにのこのこ訪ねてみると・・・




薮の向こうに見えるのが、その長塁?!



縄張り図によるとこの長塁は、熊笹や木々に覆われた尾根の上に、東西500mほど続いているようです。

そして、その塁壁のほぼ中央に枡形虎口と思われる遺構の記載があるんですが、薮がひどくてその虎口に続いていたと思われる旧道の入口が全くもってわかりません・・・なんとか登りやすそうなところを選んで突入しましたが、足元が悪すぎ!

ということで、長塁?を視認したところで撤退。冬じゃないと入るのは無理そうです(^o^;)

なお、この写真の場所から50~100mほど県道よりのところで、斜面に重機が入って山を崩して林道を作っている様子でした。

なので、この長塁の方にも重機が入ってくるようだと、遺構が崩されてしまう可能性もあるかと思われますので、もう一度行くなら早めにした方がいいのかも・・・


ところで、地図上でも行ってみての感じでも、この長塁と旧地蔵峠の切通しとは同じ尾根の延長線上にあるように思われます。

そういう目で切通しをよく観察しなかったのですが、もしかしたらこの長塁は旧地蔵峠まで続いていたのかも・・・?
そして、旧地蔵峠の切通しは、ストレートに出入りできない(松代側に出ると道が急に90度に曲がる)ところから見て、「長塁の虎口」の可能性も・・・?


妄想わくわく・・・☆


さて、また県道に戻り、車の行きかう舗装路をしばらく松代方面に下ってから、再度古道に入っていきます。




古道に入ったとたんに獣さんがお亡くなりになってたりして、くまさんが出ないかとどっきり☆

道自体は、すっかり落ち葉や雑草に覆われていてわかりにくいのですが、覆っているものをよけると下は簡易舗装がされています。

ということは、現在は人が入っている様子はないけれど、割と近頃まで使われていた道なのかな?




しばらく進むといつのまにか舗装はなくなってしまいますが、よく見ると、真田側から地蔵峠に登っていたときと同じく、3~5m幅で続く道の端には水はけの溝もずっと続いています。




これだけ雑草にもふもふ覆われているのに、道だってわかるのがすごい(笑)




峠の松代側は北向き斜面のせいか、真田側と比べて湿っている感じで道も少々荒れている気がします。

倒木が多くてところどころ障害物競走状態だし、くまさんはじめ獣さんが好きそうな雰囲気なので、本当にこの道で正しいのかな?と、時々不安に襲われたりして・・・





・・・が、里近くまで降りてくると、道端に古い石仏が現れて、この道で間違いない!とほっとします
(^▽^)

この石仏も、光背を確かめてみたのですが、彫られている文字は判読不能でした。。。




里近くなると、こんな道の形状も。

日光さんと意見が分かれたのですが、これはやはり堀底道なのでしょうか・・・?ちなみに両側の高くなっている部分には畑が広がっています。

伊勢宮神社まで降りてくると、もう関屋の集落です。





関屋は松代側からの峠の入口にあたり、江戸時代には番所があったという説もブログでみかけました。

こんな素敵なバス停が現れますが・・・バス便は一日に数本、しかも土日は運休ですので要注意!



「関」らしく両側から山がせり出している中を道は道まっすぐ進みます。
向こうに見えるのは松代の町。

さらに進んで振り返るとこんな感じ!
どこから降りてきたか、ひと目でわかりますよね☆




実は、後から知ったんですが、関屋の集落の北~北東側(すぐ上の写真の左側)には関屋城という街道監視のための小さな山城があるそうです。

豊栄小学校から明徳寺の方へ登っていくと、集落から比高45mほどのところに尾根を堀切で分断した単郭のお城があるとのこと。

また、明徳寺には海津城主だった高坂弾正忠虎綱のお墓があったんだそうな!!
「高坂弾正使用の槍」その他ゆかりの品々もあるのだとか・・・知らなかったとはいえ、寄らなかったのが悔やまれます(>o<)

・・・やっぱり事前リサーチって大事ですよね。。。


やがて道は松代の市街地に入っていきます。



ふつーのどこにでもある路地になってしまうんですが、ところどころにある道祖神が古い道の名残だったことを感じさせます。

そのまま進んでいきながらふと路面をみると、なにやら石が点々と一直線に埋め込まれていて気になる・・・





その道に沿って続いている由緒ありげな土塀。
ここで、ずっと一緒に歩いてきた城友だちの日光さんのアンテナにピピッ!とひっかかるものが・・・



なんと、屋根の上に葵の御紋がいっぱい?!
松代=真田なのになぜ・・・と思ったら、小松姫(「真田丸」の稲姫)ゆかりの大英寺でした!

そうか・・・小松姫は、徳川家からお輿入れしたんでしたっけ。





平成29年7月まで本堂その他修復中とのことで境内には入れなかったんですが、御朱印をお願いしたら、ご住職に「仁和堂」に入れていただき、そこでご本尊にお参りさせていただいたり、展示されている寺宝の数々を見せていただいて、いろいろお話を伺うことができました♪



これが大英寺の御朱印。

寺宝はさすがに写真撮るのを遠慮しちゃいましたが、小松姫が使われていた調度類などには、ご実家の本多家の立葵紋!

この大英寺は武蔵国(埼玉)の鴻巣で亡くなった小松姫の御霊屋として建てられたものだそうで、もとは上田城下で創建されたものを、松代移封とともに伽藍一切移されたものだそうです。

で、ご住職によると、この大英寺が松代城の南側(地蔵峠側)に建立されて大事にされているのは、対徳川を考えたときに江戸の方向に小松姫のゆかりのお寺があると徳川幕府の矛先が鈍るから・・・ほんとかな(笑)

真偽のほどはともかくとして、大英寺は徳川家ゆかりの寺として江戸幕府から所領100石の朱印状が発布されているようですし、真田家は江戸時代には外様大名ではなく譜代格として扱われています。


こうなってくると、屋根瓦が気になる!
なんて見ていたら三鱗が眼に入っちゃうし・・・残念ながら北条にゆかりの家かどうかはわかりませんでしたが(笑)




せっかく峠を越えてはるばるとやってきたので、ゴールの海津(松代)城にむかう前に、ちょっとだけご城下をぐるぐる。

ゆかり、といえば、次の写真は大河ドラマ「真田丸」でも話題になった小山田茂誠(&お松さま)ゆかりのお家。




この小山田家住宅は国の重要無形文化財に指定されているそうです。

小山田家は江戸時代も代々真田藩の次席家老を務めていて、現在でも末裔の方が(住んで?)いらっしゃるとか・・・

こんな門構えなんてカッコいい!けど、こうやって見に来る人もいるし実際に住むのは大変だろうなぁ(・・;)

そして、次の渋い門構えは・・・




長野市指定有形文化財の「矢沢家の表門」。
そう、沼田城を守りぬいた「矢沢の叔父上」矢沢頼綱に始まる家です。

嫡子の三十郎頼康には子供がなかったのですが、頼康の弟の寄邦が跡を継いで、その子孫は藩の筆頭家老格として存続したそうです。

そして、門の上を見上げると~☆




六文銭!
さすが、真田御一門ですね。




そして、この日のゴール海津(松代)城!
真田側の古道入口(の手前のバス停)から古道をたどりながら地蔵峠を越えて松代まで・・・25kmほどでしたが、よく歩きました~☆


この夜は松代城の前からバスに乗り、川中島古戦場を車窓から眺めながら長野駅へ出て、しなの鉄道で上田に戻って一泊。

地元の居酒屋(名前が上田らしく「幸村」!)のカウンターで、マスターや地元の方々、関西から来たという旅行者の方と歓談しながら地酒で乾杯。

いろいろ地元の情報を収集しながら、この日のお疲れを癒しつつ次の日の棒道歩きに向けて英気を養ったのでありました。。。

というわけで、次の日は、後回しにした行程を歩きます!
→ -信玄棒道歩き(千曲川~真田)- に続く・・・♪




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