2016年6月4日土曜日

念願の地蔵峠! -信玄棒道歩き(真田~松代)ー<前編>

棒道(ぼうみち)は、武田信玄が北信濃を攻めるために軍用道路として開発したと伝えられている道です。


北杜市郷土資料館のパンフレット「棒道の本」によると、江戸時代に編纂された地誌「甲斐国誌」に「棒道は上・中・下の3本あった」とのこと。

そのうち『上の棒道』は穴山(韮崎市)から、天正壬午の乱の舞台にもなった若御子(北杜市須玉町)を通り、小荒間(北杜市長坂町)から八ヶ岳の西麓をほとんどまっすぐに等高線沿いに進みます。

そして、武田信玄の砦が置かれた湯川(茅野市)から大門峠を越えて上田・真田方面の小県郡へと向っているようです。

これを地図上にざくっと落とし込んであるのが、左の写真。
(原村むらづくり生涯学習推進委員会専門部会「原村の棒道を探り拓く会」作成のパンフレット「神野の棒道」より抜粋)

もともと「棒道」という名称は戦国時代の古文書、記録史料類には全く見られないとのこと。

が、南佐久郡佐久穂町の高見沢文書に含まれている天文21年(1552年)の武田晴信朱印状では「従甲府諏訪郡へ之路次之事 致勧進可作之~」とあり、甲府から諏訪郡への道を作ることを命じているようです。

この朱印状にある道が現在の「棒道」に該当するのかについては諸説あるようですが、この文書が書かれた当時は武田信玄は諏訪氏滅亡からの佐久~北信濃侵攻真っ最中で、朱印状翌年の天文22年(1553年)には上杉謙信との間の「川中島合戦」が始まっています。


そして、大門峠を越えたところには、武田信玄が東・北信濃攻めの前線基地として天文17年(1548年)の上田原合戦でも天文19年(1550年)の砥石合戦でも着陣しているという長窪城。(右の地図の「長久保」のあたり)

確かに『上の棒道』を地図上に落とし込むと、うまく地形を使いながら、ほぼ最短距離で甲府方面から八ヶ岳南麓から西麓を通り、大門峠を越えて上田あたりに到達していることがよくわかります♪

ということは、先の朱印状が出される前にも、すでに武田軍は甲府から大門峠を抜けて上田・真田あたりを行ったり来たりしてたと思われるわけで、その際に使っていた古くからの道を「棒道」軍道として整備したというのはアリかも・・・?

*********

さて、真田町と松代の間に地蔵峠という峠があります。

この地蔵峠越えの道というのは、真田信之が上田から松代に移封されるときに通ったといわれていて、その後も約100年間真田経由で沼田と松代とを結んでいた「松代みち」。

大門峠越えの「棒道」は、海野宿のあるしなの鉄道大屋駅のあたりで千曲川に突き当たりますが、川を越えて、そのまま上田のほうに曲がらずに真田に向かってまっすぐ北上し、この「松代みち」経由で地蔵峠を越えれば、そこはもう海津城(松代城)や川中島です。

上田~松代間の往還というと北国街道松代道がメジャーなのですが、「棒道」=川中島方面への軍道、と考えると、武田軍が往来していた当時はまだ上田城もなかったわけですし、真田を通って「松代みち」を抜けるのが川中島に行くには最短距離。

ということは、この「松代みち」が「棒道」軍道として武田氏に整備された道であるのかどうかの確証はないものの、川中島合戦の折に武田軍が地蔵峠越えを使っていたことは大いにあり得る?!

とアタリをつけて・・・とりあえず地蔵峠越えの古道歩きにGO!(^^;)/



千曲川から松代まで、赤く地図に書き込んだ地蔵峠越えを含めた最短道をたどるとおよそ40kmになります。

とても一日ではそんなに歩きとおせないので、「千曲川~真田」と「真田~地蔵峠~海津(松代)城」に行程を分けることにしました。

そして、順番的には逆になりますが、バス事情により1日目に真田から地蔵峠を越えて海津(松代)城を目指すことに。

というのも・・・地蔵峠古道へは上田駅から入軽井沢行きのバスに乗るのが一番近いんですが、実はこの路線、日曜日は運航していませんので要注意!

もっと手前の「自治センター」でバスを下ろされてしまい、古道入口までプラス8kmくらい歩く羽目になります☆

峠を歩きぬけるのに手前で体力を消耗したくないですもんね。。。

でも、この入軽井沢まで行くバスも1日に数本しかないので、やっぱり要注意です(^^;)


で、上田駅を出発して沼田に向かう国道144号線(上州街道)から県道35号線に曲がって松代方面に走るバスの窓から、見るともなしに県道に沿って流れる傍陽川を眺めていると・・・

あれ?川沿いにずっと高さ1mほどの石垣が続いてる。。。




最初は川の氾濫防止の堤防かなとも思ったんだけど、石垣の向きが河原ではなく道路側に向いている上に、川から離れて続く部分もあり。

バスから降りて古道の入口までしばらく県道を歩きながらさらに詳細に見ていくと、どうも県道自体は古い道?の上に盛土をして作っているらしく、石垣はその「古い道?」に関連しているようにもおもわれます。

ところどころ、木立の向こうの斜面(切岸?)にも結構な規模の石積みが見え隠れしてますし、所々に意味深な土塁も見られます。




土塁だ~石垣だ~♪と喜びながら県道を2kmほど歩いたところで、右手にうっかりすると見落としてしまいそうな小さなお地蔵さま。

ここが地蔵峠古道の入口です。




現在の県道35号線は昭和44年にできた新道だそうで、もともとの地蔵峠よりも500mほど西側の「新地蔵峠」を通って松代に抜けています。

で、このお地蔵様から山に分け入っていく道が、もともとの地蔵峠(旧地蔵峠)に向う「松代みち」古道。



もうお顔立ちも解らなくjなってしまっているお地蔵さまの光背には、これまた薄くなってしまって読み難いのですが、「右 善光寺 左 山ミち」と刻まれていて、道しるべとなっています。

いつごろからここで旅人たちを見送っておられるのでしょう?
ワタシもここでトレッキングシューズのひもと「覚悟」をしっかり結びなおして山道に分け入ることにしたのでした。

というのも・・・

実は、このお地蔵さまの情報まではnetで入手できたのですが、この先の古道の情報がどこを探しても出てこない!

国土地理院地図はじめいろいろな地図にもあたってみたんですが、いずれも道が途中で切れちゃってて、記載されていないんですね。。。

入手できた情報をつなぎ合わせてみると峠の上まで行けることは確かなようなので、万一道がなくなってしまったら引き返すことを覚悟で、地形図を片手に進みます。


しばらくは、傍陽川支流の鳴尾沢に沿って、車一台が通れるほどの舗装された道路を緩やかに登っていきます。




しばらく行くと、道はゲートでさえぎられて一般車は入れなくなります。
山の整備をするための林道なのでしょうか、道自体も舗装路ではなくなります。




それでもずっと車1台はゆうゆうと通れる位の道幅の立派な林道で、ずっと轍が続いています。

このあたりまではまだ地図にも道が載っているのですが、いよいよ、林道からはずれて旧地蔵峠に向う「地図のない道」に入るあたり。
入り口がわかるかな~と心配していたのですが・・・あれ?



左方向にしっかりとした道がある!しかも舗装されてるし・・・☆

この道に入ると先ほどまでの林道に比べて、多少道に勾配が出てきますが、それでも普通に会話できるくらいの緩やかな坂道な上、よくよく見ると道の脇に水はけ用の水路らしき溝がずっと続いてる!



以前、鎌倉の朝比奈切り通しを通ったときにも、道の形状はこことは全く違うのですが、やはり道の端に水はけの溝が続いていたなぁ・・・と思い出したりして。

しかも、いつの間にか道幅が10mくらいに広がっています☆




・・・あれ?この道のこのあたりって確か地図には載っていなかったような?

しかし、ちゃんと斜面を削って人為的に作られた道だということがしっかりわかる切岸。
切岸の下には引き続き溝が続いています。




そして、この道が古いものであるということを示す、道端の石仏。

こんなに立派な道だと、もしかしたら新しい道なんじゃないかと思ったりもしたんですが、整備した時代がいつかはともあれ、ある程度古い時代の道筋であることは確かなようです。




・・・残念ながら、光背の文字が削れてしまってて読めなかったので、いつごろの石仏かは判りません。



のんびりと緩やかな勾配の道をのんびり歩きつつ、地図を見るとそろそろ峠にさしかかるはず・・・
車もやはりここまでは来ない道だったのか、道には轍もなくなってきました。




そして、最後のクライマックスの急勾配がやってきた~☆

足元は膝丈くらいの草がびっしり生えています・・・が、斜面を切り落として水はけの溝を掘った掘割状の古道がしっかり残っていることに感動!




草をかきわけつつ最後の急勾配を上っていくと、左側の削平地に小さなお堂?
「地蔵峠」の名前の由来にもなってる石仏なのでしょうか、遠めにはわかりませんでした。

そして、前方には坂のてっぺんが見えてきました。。。




峠の頂上なのに、尾根をしっかりとした堀切った切り通し状になっていて、そしてその向こう側には・・・

じゃーん!!!




見よ!あれが善光寺平じゃ!
・・・というくらいばーん!と視界が開けて、善光寺平が見渡せます。




方向からすると右手の山が尼飾城のある尼巌山、その手前が皆神山でしょうか。

だとすると、皆神山とその手前の山の間を古道は降りていきますので、ちょうど真正面かやや左あたりが海津城(松代城)、その向こうに有名な第4次川中島合戦の舞台となった八幡原古戦場かと思われ・・・

ぜひ、これはオフ会で城・歴史好きさんたちをお連れしなくちゃ!と、同行した城友だちの日光さんと話しながら、しばし佇んでしまいました。



さて、ここまでの行程は地図を見る限りでは藪こぎ・撤退覚悟だったところ、案に相違して道は広くて緩やかでわかりやすくて、武田軍が軍勢を進めている様が妄想できてしまうくらいだったんですが、この頂上の切り通しを松代側に出たとたん・・・

み、道がない?!

右の地図の通り、真田側の道はまっすぐ旧地蔵峠の切り通しに入っているのですが、松代側は正面が急斜面になっていて、そのまままっすぐ進むと転げ落ちちゃう☆

ので、道はいきなり左側に曲がって、斜面に沿ってジグザグに降りていきます。

山の管理も変わるのか、道が荒れていて歩きにくい(^^;)

というか、途中で道が判別できなくなり、倒木を乗り越えたりくぐったり、多少藪こぎしたり方向を見失って行ったり来たり・・・

結構苦労しながらも、なんとか旧地蔵峠の直下、古道の延長上で県道35号線に出ることができました。

振り返ると・・・松代側からの旧地蔵峠へのルートは再現できません(^^;)

旧地蔵峠に行くには真田側から行くのがおススメです!


次の写真は古道から県道35号線に出てきたところですが、ここから西側に少し県道を登ると300mほどで大きな「守護地蔵尊」が祭られた「峠の見晴らし処」があります。




このあたりが県道35号線の「新地蔵峠」。

「峠の見晴らし処」は松代方向への見晴らしがきいていて、駐車場もベンチ(あずまや?)もお手洗いもあるし、真田側から登ってくるとちょうどお昼くらいになるので、お弁当を広げながらひと休みするにはぴったりです♪




「峠の見晴らし処」で景色を見ながらお弁当食べて、ひと息いれたら松代までひたすら峠を下っていきましょう・・・あと15km!

☆ -信玄棒道歩き(真田~松代)ー<後編> に続く・・・


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