2016年2月28日日曜日

東山道武蔵路のなぞ?

あまりに気持ちのよい小春日和の土曜日。たまたま1日予定していた用事が急に半日で済むことになって、せっかく時間が空いたし~♪と、のこのこ出かけることにしました。

で、降り立ったのは中央線と武蔵野線がクロスする西国分寺。

奈良時代、「東山道武蔵路」という古代の官道が、聖武天皇が建立を命じた国分寺跡の脇を抜けて武蔵国府のあった府中方面に向かって通っていました。
その遺構がこの西国分寺駅からほど近くに展示保存されているということで、前々から機会があれば行ってみたいな~と思っていたんです。

そして、実はこのあたりには鎌倉時代の官道?「鎌倉街道上道」も、なぜか「東山道武蔵路」に一致ではなく並行して通っていました。その謎も訪ねて(?)ちょっとお散歩です♪

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「東山道武蔵路」は、七世紀に律令制が確立されるに伴って、行政区画(いわゆる「五機七道」)が整備されるとともに各「道」の国府を結ぶために建設された官道のひとつです。

古代の武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)は、七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)のうち、近江から美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥を結ぶ内陸の「東山道」に所属していました。

が、武蔵国の国府が置かれた府中は、東山道の本道ルートからかなり外れたところにあったため、東山道本道から南下する官道が整備されました。これが、奈良時代の「続日本紀」にも記載のある「東山道武蔵路」です。

ただし名称までは記載されてないので、便宜的にそう呼ばれているそうですが(汗)





東京湾には大河が多く流れ込んでいて(あれ?上の地図は現在の流路だ・・・江戸時代以前は利根川は東京湾に流れ込んでました笑)、その下流域では交通が困難だったので、東海道に属する相模から安和・上総方面へのルートは東京湾の海路が主流だったこともあるかもですね。

しかし、上の地図でもわかるように、東山道から武蔵国府に向うのはやはり非効率だったとみえて、宝亀2年(771年)に武蔵国は東山道から東海道に所属替えとなって官道ルートが変わり、東山道ルート上野国からわざわざ南下する必要がなくなって、「武蔵路」の官道としての役目も終わったのだということです。

さてさて・・・西国分寺駅からのお散歩開始。
駅から東側に出て府中街道(都道17号線)を渡ると、急にぐいっと下り坂。下がりきったところに、府中街道に並行して南北に走るごきげんな古道の切通っぽい道が現れます。



この道より東側は周りの土地に対して土地が低くなって「谷」のようになっていて、小さな池があります。
鎌倉街道にもゆかりの深い鎌倉時代初期の武将、畠山重忠を慕って夙妻太夫が身を投げたという伝説のある「姿見の池」です。

国分寺市周辺は関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた広大な武蔵野台地の武蔵野段丘上にあるのですが、この姿見の池周辺は古多摩川の浸食による国分寺崖線から入り込む細長い谷地「恋ヶ窪谷」となっているんです。


この図のオレンジ色の部分が武蔵野段丘、緑色の部分が恋ヶ窪谷。

で、青い線が「鎌倉街道上道」が通っていたであろう場所です。マウスで手書きしたので、下のほうがちょっとうまく書けませんでしたが・・・(^^;)

ということは、先ほどの「ごきげんな切通し」は鎌倉街道の一部で、大地から谷に入っていくために切通した部分とも思われますね。

恋ヶ窪には「鎌倉街道上道」の宿場町があり、姿見の池に遊女たちが朝な夕な姿を映していたのだと言われています。

畠山重忠は武蔵嵐山の菅谷館を居城としていて、鎌倉幕府の有力御家人として鎌倉街道上道を頻繁に行きかっていたのではないかと考えられるので(館は鎌倉街道のすぐそば)、この伝説も生まれたのかもしれないですね。


そして、赤い線が「東山道武蔵路」のライン。ちょうど姿見の池のあたりを通っています。





姿見の池の傍らにはこんな案内板がいくつか立っています。

この池の東側で発掘調査が行われ、恋ヶ窪谷の低湿地帯にまっすぐ大規模な道を通すために「敷粗朶広報(しきそだこうほう)」と呼ばれる、部分的に橋脚のような構造を施した当時最新の土木技術による版築道路が確認されたのだそうです。






で、案内板によるとその道路跡は・・・幅12mもあって、ひたすら真っすぐ!
ただし、次の写真は案内板で示された場所を南方向に向けて撮ったのですが、このように現在では埋められて、遺構は全く見ることはできません。




写真の真ん中の土塁様の部分が、もしかしたらその「橋脚」なのかなぁと妄想しつつ・・・
その向こうには高さ10mはあろうかという高低差。この高い方の土地が、恋ヶ窪谷をとりまく武蔵野段丘面です。




中央線がこの段丘面の縁を通っています。

そして、「東山道武蔵路」はこの図にもある通り、発掘調査の結果ではその向こうの段丘上にずっとまっすぐ南へ向かって続いている、はず。

なので、その「東山道武蔵路」があったあたりをたどってみようと、一度府中街道にもどって中央線を渡り、先ほどの写真の延長線上に向かうと、いかにも「新しくできた街」的なマンション群。

この街(西国分寺住宅)の東側を南北に通る道にやたらに広い歩道があって、その歩道に点々とまっすぐ並ぶ変な模様が・・・

実はこの場所に「東山道武蔵路」の遺構が埋設保存されていて、遺構のあった場所と形を歩道にペイントで示しているというわけ。

発掘調査の結果、ここでも幅12mの道路跡が490mの距離にわたって確認されたそうです。そしてそのうちの約300mをそのまま埋設して保存しながら歩道&ペイントで展示してるんです。

そしてこの直線部分から恋ヶ窪谷に向かって降りるあたりは、谷に向かってしだいに路面の中央がえぐれて切通し状になる道路構造が、次の案内板のとおりに明らかとなっています。





そして・・・その切通し遺構を型取りして作ったレプリカを、場所はそのままに位置を上げて展示してあるんです!こんな感じに。。。





両側にある溝が側溝。そして真ん中が窪んでいるのが切通部分です。
高低差が10mを超える地形に対して、なるべく登り下りする傾斜角度を緩やかにして歩きやすくするために、台地縁を朝来彫り込んでカットしたと考えられているようです。

また、窪みの真ん中の凸凹は「波板状圧痕」とよばれる路面強化の舗装工事の痕跡だということです。




このレプリカの側溝部分から、歩道上の埋設保存ペイントに続いているのが見て取れますね!
このオレンジ色?の模様のところに側溝がずっと続いていたわけです。

これまた案内板によると、発掘調査時はこんな感じで遺構が検出されたようです。
(写真は北から南に向かってみたところ)





そして、同じ方向から見た、現在の様子。

この「埋設保存」の歩道はほどなく途切れるのですが、しばらくしてまた延長線上に公園という形でひょっこり姿を表します。

それが、これ。




この場所も出入り自由で近所の子供たちの遊び場となっていますが、この場所にもみられるまっすぐに続く「線」は、「東山道武蔵路」の側溝の埋設保存を示しています。

そして、子供たちが遊びながら自然に目に触れる場所に、この場所の意味を知らせる案内板。
足元にもこの「線」が何なのかがわかるように名称板が埋め込んであります。

そして、この公園の一番南奥にこの道の続きを描いた案内板があるのですが・・・




この図にもある通り、現在は家々に隠れて見えなくなっていますが、この先はまた武蔵野段丘から立川段丘面へと、ぐっと土地が下がります。

そしてその先の「東山道武蔵路」は、今度は立川段丘面を南の府中・多摩川方面へ向かっていきます。

このことは、この道を立川段丘面におりたところにある武蔵国分寺跡史料館のジオラマでも表されています。




ちょっと写真だとわかりづらいですが、ジオラマの奥の木々がこんもりした部分が武蔵野段丘面から立川段丘面への高低差。

左端のまっすぐな線が「東山道武蔵路」なのですが、すぐそばの武蔵国分寺と比べても非常に大きな道路が、高低差などまるで無視してまっすぐ下りてきてるのがわかります。

ふつうは、というかこの後の時代の道の方が、そこまで土木量を必要としないような、くねくね地形に沿った道の作り方をしてるし、そもそもここまでの大きな規模の道ってそうそうないと思うんですけどね・・・



なぜ「東山道武蔵路」は幅12mもある大きな道を、地形をまるで無視して相当な土木量をかけつつ、ひたすらに直線につくられたのか?

そして、なによりもそんなに立派な道路を作ったのであれば、それはそのまま鎌倉時代以降も立派に軍用道路として使えるはず(例えば武田信玄の「棒道」のように)なのに、どうして「鎌倉街道上道」はほぼ同じルート上の別の場所に通っているのか?

そんな疑問がアタマの中をぐるぐるしながら、国指定史跡となっている写真の武蔵国分寺跡のあたりをうろうろ。

そして、ふと見ると、中学校の体育館の1室?が武蔵国分寺跡に関する小さな小さな展示室になっている様子。

休日にもかかわらず「展示中」とあるので中に入って展示物を眺めていたら、案内の方がヒマしていたらしく、しきりに話しかけてくるもんで、試しに先ほどの疑問をぶつけてみると・・・

その方の「私見」だけど、と前置きした上で答えてくださったのが、


・ 「官道」はそもそも生活等からの自然発生的な道ではなく、あくまでも「中央と地方機関を最短で結ぶ」ことを目的に国家(公権力)によって整備・管理・維持がなされたもの。

   → 目的がなくなってしまったら必要最小限の維持・整備しかなされなくなり、「東山道武蔵路」の場合は発掘調査の結果平安末期には廃道となったものとみられている。

・ 「規模の大きさ」は軍勢を動かすためというよりも、むしろ「都の権勢を示す」ことが主眼。江戸時代の「御成道」と同じような意図では。むしろ戦いのときに「国府を守る」という面では、大きな道は一気に敵勢が押し寄せることになるので不利。

 → 反対に戦いに出るときには、兵を分散して出ることが可能なので、広い道は必要ない。
   鎌倉期に軍勢移動に使われていると思われる、並行して通っている鎌倉街道上道古道遺構の幅は3~5m程度。


・・・つまり、まぁ現代目線で言うと、政府高官用高速道路のようなものだったのでしょうか。
国家権力で無理矢理作って整備させていた道だから、その目的がなくなって使う人も減ってしまい、整備する(させる)人もいなくなってしまったら、草ボウボウになって自然消滅しちゃうんじゃないか、と。

ただし、もともと通常の往来に使用していた路は別途並行してあったんじゃないかという説もあり、それが時代が下がって、鎌倉街道になったのではないかという話も。




東山道武蔵路は武蔵国分寺跡の西縁を異常なくらいまっすぐ!に北上していたんですが・・・
こ武蔵路の西側には武蔵国分尼寺の跡が残っています。

発掘調査に基づく図面を見ると、武蔵国分寺・国分尼寺・東山道武蔵路のそれぞれの向きが若干ずれて造られていたというのが不思議なんですが、それはさておき・・・




国分尼寺も、現在はその一部が市立歴史公園として、発掘された基壇や礎石などが展示保存されています。

そして、鎌倉街道上道古道の遺構は、その国分尼寺の跡を分断する形でその北側の台地(武蔵野段丘)に向かって伸びています。




武蔵野段丘へ上っていく斜面は、鎌倉古道でよく見られる?掘割状の切り通し。
地元のご理解もあって、車両の通行止めをしたりしているせいか、昔の面影をそのままといった風情です。


 


幅は3~5m程度で、先ほどまでの東山道武蔵路に比べるとかなり狭い感じ。
切通しにすることでゆるやかに国分寺崖線上の台地に上っていきます。




切通し道の両側(東西)に上ると、案外高さがあることに驚かされます。
西側は広い平地になっていて、鎌倉時代末期に建てられた寺院(伝祥応寺)跡だということです。
また、国分寺跡方面が見渡せる東側には祈祷のための修法檀跡だという小さな塚があります。

このまま鎌倉街道上道古道を北にたどっていくと、ものの200mほどで西国分寺駅前の住宅地になってしまい、古道をたどることは難しくなってしまいますが、武蔵野線を越えてまた、東山道武蔵路も通る恋ヶ窪谷のあたりにこの掘割状の道が出てきます。

きっと畠山重忠が通ったのもこちらの鎌倉街道上道古道だろうと思われ。。。




以上ぐるっと歩いてみて・・・
こんなに労力をかけて立派な道を作ったのに、使われなくなるなんてなんてもったいない!というのが正直なワタシの感想でございました・・・(^o^;)



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