特に、全長9kmの巨大な防御ライン「総構え(そうがまえ)」や、戦国時代に城内に水を供給するために作られたという小田原(早川)用水など、お城・戦国好きにはたまらない切り口だったので、Twitterではフォロワーの城ともさんたちが(もちろん自分も笑)「小田原に行きたい!」と大盛り上がり。
その結果・・・しゅたり、小田原! ← 忍者?
駅のJR改札前には頭上に巨大な「小田原提灯」がお出迎え。ワタシにとっては約2年ぶりの小田原城総構え散策オフ会です♪
参加者の面々は熊本、金沢、静岡、茨城と、遠くからはるばるやってきてくださった城ともさんばかり。
このメンバーを、小田原地元民の奥月さんと北条大好き関東民のなっちとで迎撃、じゃなくて、お・も・て・な・し♪
今回は「ブラタモリ」でとりあげてた場所を通りながら、できるだけ総構え遺構を回りたい!ということで、はりきってほぼ一周!という壮大な計画を立てていたのですが・・・
いざふたを開けてみると、駅の外は雨~!!!(>o<)
しかも、天気予報は「これから下り坂}。
急遽、迎撃部隊奥月さんとワタシで地図を見ながら計画の練り直し。
とにかく雨の様子を見ながら、小雨のうちに回れそうなところを歩くしかないよね~☆
奥月さんが用意してくださってたこの地図が、今回の散策に威力を発揮!
実はこの地図、総構え全体の遺構の状況(現存・埋没)を現在の地図に落とし込んであるので、どう歩けば現存遺構を見られるか一目瞭然なんです☆
ということで、まずは小田原駅の西口に出て左手方向に向って、とりあえず線路沿いに八幡山古郭東郭にGO!
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● 三の丸元蔵堀と青橋
東郭手前の新幹線ガードを潜ってすぐの国際医療福祉大学の前(地図の「学」マークのあたり)には、さりげなく「小田原城三の丸元蔵堀」の案内板。どうやらこの大学の建設工事の時に、障子堀が発掘・確認されたらしいです。
現在は残念ながら案内板だけで遺構は全く見ることができないようです。。。地図でも「埋没」で表示されてますね。
この青橋の対岸は天守のある小田原城址公園です。
そのどこにでもある歩道のタイル模様。
奥月さんに教えてもらって初めて知ったんですが、実は「障子堀」模様なのだそうで(笑)
橋の欄干のすご~く目立たないところに、さりげなく説明版があります(^^;)
・・・ということは、橋の反対側歩道に並んでいる石もそうなのかな?
青橋(&城址公園)とは反対側の高台にあるのが、整備されて後援になっている八幡山古郭・東曲輪です。
●八幡山古郭東曲輪
この時点で、かなり濡れねずみになってるご一行☆
八幡山古郭・東曲輪から眺める「夕日の当たる天守」アングルは、実は写真家奥月さんの推しポイント・・・なのに雨で写真が撮りづらい~ Orz
どんなに素敵な写真が撮れるかは・・・前回来たときの記事はこちらをクリック!
さて、せっかく皆さん遠方から来たんだし、せめて雨も小降りなうちにいちばん有名な小峰御鐘ノ台大堀切くらいは行けるかな~?と、小田原競輪場の前の坂を急ぎ足で登りつつ地図を見ると・・・
おっ?競輪場の道路を挟んだ向かい側の斜面下に空堀の現存遺構が表示されてる!
で、道路から斜面をのぞいてみると・・・
ありましたありました、藪の中にそれとわかる横堀遺構が!
・・・ただし、藪やぶすぎて写真ではうまく撮れません。「心の目」または現地でご覧ください(笑)
この横堀遺構は、そのまま県立小田原高校の門に向って上がっていきます。
県立小田原高校周辺は八幡山古郭といって、1495年(明応4年)に後北条氏の祖、伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河大森氏の大森藤頼から小田原城を奪った頃の城の中心地のひとつと考えられていました。
その後、県立小田原高校の立替に伴った発掘調査などにより、この八幡山古郭と、同じ尾根筋上にあたる現在天守のある城址公園とは、北条時代には双方に主郭を持つ独特の郭構成であったと考えられるようになっているようです(平成25年神奈川県教育委員会・小田原市教育委員会の現地案内板による)。
この発掘調査のときに、大型土塁(本曲輪高台土塁)や三味線堀、井戸跡などの遺構が出土したということで、遺構をめぐることができる散策路が整備されて、つい2ヶ月ほど前の12月2日から開放されたというので、そのまま高校の門の前を右に折れて、その散策路の南口から入っていきました。
上の写真にある案内板の右上図オレンジ色のラインがその散策路にあたります。
グラウンドに沿ってぐるっと230m。途中にあるポケットパークにあるベンチに座ると、真正面にこの案内板と本曲輪高台土塁とが目に入ります。
また、そのまま散策路の北口に出ると、3本の短い鍵折れ状の堀を組み合わせた三味線彫りの跡があります。
これがその「三味線堀」・・・なんだけど、薄くてよくわかりません~(^o^;)
もしかしたら検出した後に埋め戻したのかなぁ?
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ここまで来て、さすがに小雨とはいえみんな雨中行軍に疲れちゃったのか、突然木陰で雨宿りがてら、立ったまま兵糧交換会勃発☆
まずは地元民奥月さんから「小田原城もなか」♪ 「城」だけに皮も「白」いし中身も「白」あん(笑)
そして、金沢のkaoさんからは、加賀藩御用達御菓子司 森八の宝達というお菓子~!
さらに、misaさんからは熊本みやげの「くまモンクッキー」。熊本城柄もある☆
さすが、みんなちゃんとネタははずさないなぁww
埼玉民は兵糧持参なしでした・・・ゴメンナサイ☆
周りを見ると「八幡山」の石柱と、小田原のマンホール。
それにしても、高校生の行きかう道路端で、傘&合羽姿でお菓子をむさぼる集団・・・あやしすぎ(笑)
さて、兵糧をGETして一息ついたら、行軍再開。
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●御前曲輪(人質曲輪)と毒榎平
ここで雨も小止みになったので、小田原市城山陸上競技場に寄り道です。
この場所は谷のいちばん奥に位置していて字名を「御前曲輪」といい、後北条時代に谷地形を利用した大きな曲輪があったといわれていますが、1852年(昭和27年)に発掘調査も行われないままに陸上競技場として削平され、造成中に出土した敷石遺構のみが残っています。
御前曲輪の「御前」は神仏を指す敬称だということで、この御前曲輪は城内祭祀の場所であったのではないかと考えられています。
この御前局輪を取り巻く尾根上にあるのが毒榎平(どくえだいら)。
最初標柱の「毒榎」を「毒蝮」と空目するなど(笑)。次に読み方が判らず、標柱の裏側をみて「どくえ」とわかったものの、「どくえ」ってなんだ?
この後、お昼時にみんなで一斉に「どくえってなんだ?」のツイートを流しましたら、さっそくあちこちから情報リプがやってきました。
毒榎とは植物のアブラギリのことで、種から塗料などに使う桐油が採れるのだそうですが、この油に毒性があるのだそうです。ここで栽培されていたというような記録は見当たらないそうですね。
フォロワーさんたち、ありがとうございましたm(__)m
ちなみに、この毒榎平の御前曲輪側の斜面には空堀が残っているらしいんですが、今回確認することはできませんでした・・・
毒榎平の坂道をそのまま上っていくと、小峰御鐘ノ台大堀切です。
この大堀切については以前のオフ会下見記事(→ こちら!)にも書いたので、省略・・・ですが、いつ来てもこの規模や折れの絶妙さに感動ですね~!
小峰御鐘ノ台大堀切東堀の延長線上、道を渡って坂を少し下りると、三の丸外郭新堀土塁があります。ここからの石垣山城方面の景色もオススメ!
天正18年(1590年)小田原攻めの際に豊臣方の各武将が陣を置いた場所がすぐ近くに見えて、臨場感満載です♪
今回写真を撮らなかったんですが、土塁の様子はこんな感じ。 → 前回の記事はこちら!
●百姓曲輪はどうなった・・・?!
ところでところで・・・
御前曲輪(陸上競技場)から小田原駅方向に谷を下りていって、突き当りを少し左にいくと、慈眼寺というお寺があります。
このお寺の中に「CAFE 空」というとても素敵なお店があるので、ここでランチにしましょう!と小田原地元民の奥月氏のご提案。
行って見たら、お寺の中にあるとは思えないほどオシャレなお店でした!結構カップルさんがいらしてましたね~☆
http://ameblo.jp/cafe-ku-odawara/
で、この慈眼寺の前の急にくいっと傾斜している道路。
これまた以前のオフ会下見記事(→ こちら!)で「慈眼寺の横の道」としてにもご紹介したんですが、実はここは山ノ神堀切の方から百姓曲輪の脇を通って斜面を落ちてくる竪堀の名残の高低差なのです。
で、今は道路になっているその竪堀を百姓曲輪の方へ向って眺めてみると・・・・
あれれ~?!山肌がごっそりと削り取られてハゲ山になってる!!
なんてこと~!(>o<)
この時点では雨がひどくなっていて坂を上って行くのは断念したので、百姓曲輪がどうなったのか確認してないのですが、この道の百姓曲輪近くでは調査で障子堀も出てきたという話なので、どうかそれらが無残に掘り崩されていないことを祈るばかりです・・・
●小田原城銅門
ここまで来て散策が厳しいくらいの雨降りになってきてしまったので、総構え散策はあきらめて町へ降りることに・・・
で、やはり小田原に来たからには、天守や門などが整備されてメジャーな小田原城址公園へ。
この図は東側(江戸側)の方角から小田原城全体を見渡してるのですが、近世の本丸と中世の古郭との位置関係がよくわかりますね♪
なんですが・・・ちょうど今の時期(H27年7月1日~H28年4月下旬)は、小田原城天守は耐震工事中で見学ができません☆
雨の中をおもてなししている武将隊のみなさんも手持ち無沙汰?
なので、その代わり?普段は開放していない銅門が開放されて、櫓の中に入れるというので行ってみることに。
中に入ると思ったより広くて、動きやすいスペース。建物を傷めないよう靴を脱いであがるのですが、すでに靴下までびっしょりの我々、ぺたぺた足跡をくっつけちゃったかも・・・ゴメンナサイm(_ _)m
そして、格子窓から外を見ると・・・
門内に入った敵は、この櫓の上から狙い放題なのがよくわかりますね☆
雨もひどくなってきてさらにキモチの萎えてきたご一行。
銅門から「清閑亭でぜんざい」にさっさと向うことにしました。
で、銅門から清閑亭に向う途中に通りかかったのが箱根口門跡。
三の丸小学校の脇の、ちょっとしたポケットパークのようなところに、しっかりと枡形の櫓台や石垣、三の丸の土塁が残っています。
江戸時代に入ってからの小田原城大手門は、城址公園の東側の現在鐘楼が建っているあたりでしたが、この箱根門口はその以前、中世(北条氏時代?)の大手門だったようです。
現在は、もとの枡形のど真ん中を突っ切っている道をそのまままっすぐ南下すると、東海道(現在の国道1号線)に突き当たります。
この枡形からしっかりとした土塁が、ずっと三の丸小学校の校庭の端っこに伸びています。
土塁をながめて小学校生活を送れるなんて、なんてうらやましい・・・(笑)
道を挟んだ反対側のスポーツ会館の方にも土塁が伸びています。
この箱根口門跡のそばに、「湘南くっきー」という看板のかかった、フツーの家みたいな間口の小さなお店があって、クッキー屋さんかな?とそばに寄ってみると・・・
中にあるのは、すべてクッキーの自販機!
しかも、クッキーはとても地元色たっぷり。じゃことかあおさとか・・・
なんでも、湘南クッキーというのは平塚に本社工場があって、店舗で売らずに自販機で販売展開しているのだそうです。
雨が降っていたので、傘を広げたりたたんだりが億劫でついついスルーしていまったのですが、後から思うと買っておけばよかったかな~☆
●清閑亭で善哉(ぜんざい)!
16時には閉まってしまうので、前回の小田原城めぐりオフ会の時には行けませんでした。。。ので、やっと念願の「清閑亭」♪
明治~大正期に貴族院副議長を務めた黒田長成侯爵(福岡黒田家13代目当主)の別邸として建てられた、板絵襖や網代組天井なども当時のままの数寄屋造りの建物で、国の登録有形文化財になってます。
この清閑亭、実は小田原城三の丸土塁の南向き斜面に建ってまして、敷地内にしっかり土塁が残っております。
この写真がその土塁☆
建物自体が土塁の上に乗っているので、ぱっと見は薄い土塁に思えますが、土塁の外側はものすごい高低差!
なので、一般開放されている清閑亭の建物からの景色は、さらに海の方まで見晴らしが利いて、いい景色です~!
実は、この清閑亭の2階がCAFEになっていて、公爵ゆかりのスコーンや紅茶が楽しめます。
また、季節限定メニューもあって、3月は暖かい善哉(ぜんざい)飲み物(コーヒー・紅茶・抹茶)つき。ワタシは善哉&コーヒーを頼みましたが、なんか汁気の多い善哉に飲み物つきって変な感じ☆
でも、雨でびしょぬれになって冷え切った体に暖かいコーヒーと善哉が染み渡って、美味しかったです~!
雨の日ということもあって、他にお客もいなくてすっかり貸しきり状態。
国の登録有形文化財の落ち着きのある建物と、そこから眺める雄大な景色をまた~りと楽しんでくつろいじゃいました・・・が、無常にもあっさり閉館時間となってしまい、また雨の中へ(>o<)
●大手門跡と幸田口門跡を通って・・・ゴール!
さて、そろそろ夕方になってきたので、駅のほうへ戻ります。
とりあえずまた城址公園の方にもどり、現存している水堀に沿って馬出し門から大手門跡へ。
この鐘楼の場所が、江戸時代に小田原城の大手門があった場所です。
もともとは箱根口の方にあった大手門を三代将軍家光の時代に現在地に移すとともに、将軍が城に入るための御成道を整備したとのことで、この鐘楼の石垣が大手門の一部。
大手門自体も銅門や常盤木門のように堅固な枡形門だったようです。
この大手門の東側に南北に延びる国道255号線のあたりが、今は埋め立てられてしまってますが三の丸の堀があった場所です。
看板の図面の上側が小田原郵便局側。遊歩道を歩きぬけて通りに出たところが幸田門跡になります。
後北条氏3代氏康の時代に小田原城は上杉謙信や武田信玄に攻められた際に、この幸田門から攻め込まれ二の丸までの侵入を許したそうです。
当時はまだ総構えが作られておらず、きっとこの幸田門が小田原城の北の外郭だったんでしょうね・・・
天気の悪い中お疲れ様でした・・・乾杯~!
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