2014年7月20日日曜日

思い切って富士宮詣で




ある日、いつものごとくつらつらとTwitterのタイムラインを眺めていて、ひょいっと目に飛び込んだのがフォロワーのみゆさんの情報ツイート。

「浅間大社に祈願した『戦国武将』展」

この「浅間大社」というのは、静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間大社のことです。

全国に1300以上ある浅間神社の総本宮で、第11代垂仁天皇の時代に富士山の噴火を沈めるために木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと・別称:浅間大神)をお祀りしたのが起源だと言われています。

朝廷から篤い尊崇を受けて駿河国一之宮として正一位を授与されると共ニ、源頼朝、北条義時、武田信玄・勝頼親子、徳川家康といった武将たちからも篤く崇敬を寄せられていたそうです。

で、今回の「戦国武将展」では「富士山世界遺産登録1周年記念事業」ということで、武田勝頼が奉納した具足や琴、伝豊臣秀吉の手形その他奉納物が展示されるとのこと。

特に武田信玄の願文はよくある祐筆のものではなく、どうやら自筆らしい☆

どうしよう、行ってみようかどうしようか・・・?

しかし・・・展示会の場所、富士宮信用金庫神田支店っていったいどこ?富士宮だよね。。。
そして開催期間が7月10日~21日・・・たった10日間しかない~!

じたばたじたばた・・・(><;)


と悩んでいるうちに、次々とフォロワーさんたちが展示会に行っているのがTwitterで流れてきて、その中には北条氏康・氏政の御朱印状があったという情報も、図録は全くないという情報も・・・(TT)

これはやっぱりムリしてでも現地に行くしかないじゃないですか~!
よくよく考えてみたら、6月に圏央道と東名道がつながって静岡方面めちゃ行きやすくなったはずだし~☆

というわけで、展示会最終日の前日に、午前中予定されていた集落の草取り作務をさくっとやっつけ、軽くシャワってからお昼ご飯も食べずに愛車の「濃いオッサン号」でGO!


そして・・・ちょうど昼下がりの空いている時間帯にガンガン高速道をとばして3時間。
富士宮に着いちゃったですよ~☆



お腹は適度に空いていたけど、そこはまず目的を果たさなくちゃ。。。

なので、浅間大社の駐車場に愛車を停めて、まずはほど近くにあって同時開催の「富士山世界遺産特別展」をやってるという「長屋門歴史の館」へ。

この「館」自体は、江戸時代の陣屋の長屋門ではあるらしいけど、特段浅間大社と関わりがあるということでもないらしい。。。

「特別展」自体も、狭い部屋に「絹本着色富士曼荼羅図」の掛け軸が3~4本で、ワタシ的にはあまり興味を持てず・・・しかもすべて複製だし☆

しかし~、常設のパネル展示のほうはかなり勉強になりました!




まずは富士宮の地形や武将たちと富士宮・浅間大社との関係、文化財の配置、etc.etc....



孝昭天皇後裔の豪族・和邇部氏が始祖と伝わり代々浅間大社の富士大宮司を努める富士氏は、戦国期には大宮城を拠点とする国人領主であったことから今川氏との関係が深く、浅間大社においても今川氏の歴代当主による土地の寄進や安堵が行われていたようです。

今川義元が家督を継いだ天文5年(1536年)から天文14年(1545年)にかけて、甲駿同盟を強化した今川氏と、それを駿相同盟の破綻とみた北条氏綱との間でおこった「河東一乱」において、北条氏が占拠した河東地域(駿河の富士川以東)にあって、富士氏は基本的に今川氏に属していました。

また、永禄3年(1560年)桶狭間合戦での義元戦死後も富士氏は今川陣営に残り、永禄11年(1568年)甲駿関係の手切れによる武田氏の駿河侵攻においても、富士氏は大宮城に拠って武田勢に抵抗しています(大宮城の戦い)。

しかし、翌永禄12人江(1569年)には武田信玄自身の攻撃によって大宮城は開城。
この富士宮地域は武田氏の支配下に入り、富士氏は浅間大社の大宮司として存続していったということです。




う~~~~ん、富士宮地域は、実は今川・武田・北条による駿河三国志の歴史舞台そのものだったのか・・・!


「長屋門歴史の館」では、実は思ったよりそのあたりの説明のパネル展示が充実していて、狭い部屋(しかも畳!)にも関わらず大宮城のジオラマや発掘関係資料なんかもあったもんで、思わずじっくりじっくり時間をかけてへばりついてしまいました♪

・・・やばい、今回は遅く出てきたもんで富士宮での時間があまりとれないのに、ここまでで時間かけすぎ。本日の主目的の展示会が終わってしまう~!




あわてて、こんどは「長屋門」からちょっと離れたこちらにしゅたり☆

建物に入って4階でエレベーターを降り、会議室のような部屋で開催されている「富士山ゆかりの作家たち展」を通り抜けたさらに奥の小さな部屋へ。

展示物は全部で10点ほどの小さな小さな展示会です。

まずはその小部屋に入ってすぐに「信長公記」のコピーと富士遊覧の部分のパネル説明。

「信長公記」によれば、天正10年(1582年)武田氏を滅ぼした織田信長は、武田氏が伝馬制をしくなど軍用道路として使っていた中道往還(甲駿街道)を通って、富士の見物をしながら大宮に出て、徳川家康の接待を受けたようです。

また部屋の奥には、弦が張られていないので言われないとそうとはわからない「武田勝頼奉納の琴」。


そして、今回メインのひとつの「信玄直筆の願文」。




この願文は永禄13年(1570年=元亀元年)のもので、非常にはっきりした読みやすい文字で書かれています。

ところどころ読めるところを拾ってみると、どうやら「伊豆相模両州の(北条)氏康氏政滅亡」の願文のようです。「信玄」の署名、花押もはっきりしています。

ふうむ、武田信玄とはこのような字を書くヒトだったのだなぁ・・・と心が一瞬時空の彼方(笑)

武田勝頼奉納と伝わる「鉄板札紅糸威五枚銅具足」。工芸品として作られているのだと思うけど、なんか軽くて動きやすそう。

胸板の小さな2つの鋲がさりげなく花菱になっていて、結構かわいい♪




そして・・・後北条氏の納めた御朱印状。本当はこれを見たかったんだよ~!

なのに、巻物が箱に入って置かれている(ToT)
箱書きでかろうじて「北條氏康公氏政公御判御朱印 一軸」とはわかるけど・・・

静岡県立中央図書館のデジタルライブラリーには「当館所蔵の大宮司富士家文書の内訳は、中世文書34通、近世文書2通であり、数通を除き巻子本4本に収められています」とあって、そのうち北条氏関係の判物や御朱印が7通あります。

で、展示の巻物にも「北条氏古文書 七通」。もしかしてライブラリー文書の原本が目の前にあるわけ・・・?!

なのに、説明書きすらなく中身も見ることができず・・・せっかく飛んできたのに!

でも、信用金庫の一室で、おそらく地域貢献事業の一環として行われている展示会、展示環境もいいとはいえない環境だし、文化財の状況を考えたらこれが精一杯の展示なのかな。守衛さんしかいないので問いただすこともできないし・・・

それでも、なおも未練がましく張り付いていたのですが、となりに展示してある「伝秀吉の手形」には結構人がいたので、中の見れない巻物にずっと張り付いているワタシはさぞやヘンな人に見られただろうな(笑)


さて、北条氏文書への未練は断ち切れないものの時間も時間なので、せっかくだからちょいと富士宮を楽しんでから帰りましょうか。。。

というわけで、まずは富士宮やきそば!




・・・ここまでお昼ご飯ぬきでしたからね~☆

浅間大社の門前にある「富士宮やきそば学会」の直営アンテナショップで「本場の」富士宮やきそばをいただきました♪

お店の前に「富士山本宮選麺大社」なる小さな祠があるのには思わず笑。

そして、本家本元の「富士山本宮浅間大社」にお参りです。






「富士山本宮浅間大社」については、詳しくはコチラ→http://fuji-hongu.or.jp/sengen/index.html

源頼朝は建久4年(1193年)の富士の巻狩の後、大社に流鏑馬を奉納したのだそうです。で、それが現在流鏑馬祭として伝えられていて、この銅像があるようです。

境内にある「湧玉池」には富士の雪解け水が豊富に湧き出していて、昔から富士道者はこの池で身を清めてから登山する習わしになっているというのが、ものすごくよくわかる冷たくて澄んだ水です。



湧玉池から神田川に流れ出すところでの水の勢いをみると、いかに豊富に水が湧き出しているかというのが想像できます!




いい水のあるところは美味しいはず~!ということで、富士宮土産は地酒☆

あ、もちろん浅間大社の御朱印もいただいてきましたよ~♪




展示会は行った次の日に終わってしまいましたが、歴史的には興味の尽きない富士宮。
次回行くときがあれば、今度はもう少しゆっくり回ってみたいですね~!

2014年7月12日土曜日

吉野街道そぞろ歩き・・・ 鎌倉街道山ノ道その4 



ちっくりちっくりと少しずつ進めてきた鎌倉街道山ノ道歩き。

地図の黒い線がその鎌倉街道ですが、3月には埼玉の飯能から青梅に抜けて、私の大好きな青梅三田氏と小田原北条氏の合戦エリア(辛垣城・軍畑)に入り、いよいよ佳境。

それでは軍畑の決戦場に向けて北条軍の進軍ルートもたどってみようと、八王子から秋川を渡った北側の武蔵増戸から梅ヶ谷峠を越えるルートもたどってみて・・・


そのまましばらく放置したまま、ふと気づいたら梅ヶ谷峠を越えた吉野梅郷から軍畑までのルート、すなわち肝心の辛垣城攻めのために北条氏照が陣を置いたとされる柚木のあたりがすっぽりと抜けている~!

これはやっぱりちゃんと歩いてみないとでしょ~と思いつつほかの事にとられている間に日々が過ぎてしまったので、春が過ぎ、山城シーズンが終わったところで改めて歩いてみることにいたしました。



というわけで、朝、愛車を飛ばして前回歩いた小沢峠~松ノ木峠~榎峠と越えて、軍畑に到着。
軍畑の渡しの上にかかる軍畑大橋で多摩川を南側に渡ったところに車を停めて、徒歩での街道散策にいざ出発☆


車を停めたパーキングに立っていた案内図によれば、本日の行程はこんな感じ。

「現在地」のところを横に通る赤い(ピンク?)線は現在の吉野街道(都道45号奥多摩青梅線)ですが、古道(鎌倉街道山ノ道)はその西側を平行して、丘陵地帯沿いに山際をずっと通っています。





案内図では多摩川・吉野街道と古道の間は平坦に見えるのですが、実際には吉野街道は多摩川の河岸段丘上にあり、吉野街道から古道まではさらにぐいっと登っていて、古道は山際とは言いながらも結構高いところを走っています。

古道から吉野街道方向を見ると、こんな感じ。
結構高低差があるのが、わかりますか?






北条氏照が辛垣城の三田氏を攻めた際に陣を置いたのは、柚木村の「陣屋跡」であるといわれています。

「陣屋跡」の場所には後に北条氏家臣の野村豊後が屋敷を構えて、その末裔の方もいらっしゃるようなのですが、今回、この「陣屋跡」がどのあたりになるのか、(予習が足りなかったせいもあって)特定できずに現地に臨んでしまいました。



この写真は現在の青梅市柚木町あたりです。辛垣城の真下で三田氏の菩提寺の海禅寺(三田氏が陣を置いていたとも)のある二股尾のちょうど対岸にあたります。

川を挟んで、辛垣城や支城の枡形山城、海禅寺が一望の下に見渡せる・・・このあたりに北条軍は陣を置いたんではなかろうか・・・と勝手に推測したりして☆

そして、古道はさらに北条軍が越えてきた梅ヶ谷峠の峠道に向って続いていきます。



古い街道なので、所々にその名残が残っています。
「柚木三名水」のひとつ(だという)堂の下の?泉。

石碑の字が読み取れない上、ふたがされちゃってます(^^;)



堂の下からしばらく進んで、これまた道沿いにあるお稲荷さんの境内にも少し掘り下げて作られた井戸らしきものが・・・

これも三名水のひとつなのかな?注連縄が張られて大事にされている様子。
ふたの下には水があるようです。

観光客向けなのか、道沿いに「鎌倉街道」という立て札が・・・
あ、まちがってないんだと、ちょっとほっとしたりして(笑)




道は山の際を丘陵の地形に沿って走っているので、くねくねと曲がりながらすすんでいきます。
これは吉川英治記念館の裏手のクランク。道から記念館のお庭が垣間見れます☆

地元の方たちはこの鎌倉街道を題材にして句会なんぞも行っているようです。



古道は続くよ~、どこまでも~♪

そして・・・こんな道標がいくつか立っている分かれ道に遭遇。



ひとつは、欠けてしまってまったく読み取れません。



そのかたわらの小さくて丸みを帯びた石には「宝暦十○年 左八王子○ 右山みち」の文字が。
(○は読み取れなかった文字です)

それにしても「山みち」って・・・(笑)

その2つの石から1mほど離れた角にはもっと時代が下った追分の道標があって、その字はしっかり読み取れるので、右の「山みち」は「琴平山をへて御岳山に至る」のがわかるんですが(汗)

ちなみにこの道標の「左大久野及五日市方面」の「大久野」というのは、梅ヶ谷峠の南側の集落(現在は日の出町)で、そこから鎌倉街道と分かれて平井川に沿って下っていくと北条氏の軍事道だった滝山街道にぶつかります。

辛垣城の戦いの前哨戦である青梅三田氏の本拠勝沼城攻めには、この滝山街道も使われていたんじゃないかと思われるので、なんか感慨深いものがあったりして・・・ってちょっと話題が飛びすぎか(笑)

この追分の道標群を通り過ぎると、一気に山道めいてきます。




そして、最後はぐいぐいっと道は登っていって、その先はひたすら梅ヶ谷峠に向けて登っていきます。

本日はそっちへ行ってしまうと帰れなくなるので、この梅ヶ谷峠の入り口で散策はおしまい。
のんびりと多摩川を渡って、JR日向和田駅へ。ところが・・・



・・・目の前を通り過ぎる電車!

やっちゃいました~☆ 乗るべき電車の時間を10分間違えて、電車に乗り遅れてしまいました。
そして、次の電車は40分後。。。

う~ん、愛車を置いた駐車場まで4kmか・・・40分待ちでその先3駅なら行けちゃうか?



えーい、行ってしまえ~!
と、すでに高く上って暑さを増してきた陽射しの中を、日向和田駅から軍畑駅の南岸の駐車場まで猛ダッシュ!

道は間違えるし、汗でどろどろになるし、散策本体よりも帰り道のほうがキツかった。
お疲れ様でした!

2014年7月6日日曜日

古のハイウェイ? 霞丘陵七国峠

前日まで梅雨らしいしとしと雨降りが続いていたのが、この日は朝から貴重な梅雨の中休み。
twitterをのぞくと、フォロワーさんたちがあちこち歴史散歩に繰り出しているのがTLに流れています。

当の自分は、というとこの土日は入っていた仕事が流れたこともあって、ぽかーんと予定が空いている・・・

やらなきゃいけない家事はそれなりにあるけれど、大急ぎで片付けて前々から狙っていた近所の古道くらいはお散歩できるね!

・・・というわけで、午前中にしゃかりきになって炊事選択お掃除に水回りのカビ取りもがんばって、午後も多少回ってから到着したのが、笹仁田峠。





慶長11年(1606年)、江戸城大改修のために徳川家康から青梅の成木村で採れる石灰を供給するよう命じられた八王子代官の大久保長安が作った、成木から江戸城までの道が成木街道です。


笹仁田峠というのは、この成木街道の峠のひとつです。この頃の成木街道は成木から小曾木を通り、この笹仁田峠を越えて箱根ヶ崎に出て、現在の東大和あたりの青梅橋で青梅街道に入っていました。


幕末の飯能戦争の際には、振武軍そして官軍もここを通ったようです。


成木街道はこの笹仁田峠で東西に走る霞丘陵を越えるわけですが、この霞丘陵の尾根上にはこれまた「旧上州道」といわれている古道が走っています。


次の地図上の赤線がその尾根道で、笹仁田峠で赤線の道とクロスして南北に走っている道が成木街道です。



この赤線の尾根道は現在「霞丘陵ハイキングコース」として整備されていて、笹仁田峠から入っていくことが出来ます。

そして地図を見れば判るとおり、この尾根道を笹仁田峠から西に進むと青梅三田氏の帰依を受けて栄えた塩船観音寺、そして三田氏の居城だった勝沼城址があります。

また東に向うと、この尾根道とリンクする道沿いに遺構が明瞭だけど由来が謎の今井城があり、そして舌状台地の先の入間川「阿須の渡し」で、以前別の記事でも書いた「滝山古街道」と合流します。

今回は時間もないことなので、家に戻ることも考えて笹仁田峠から東側に「上州道」をたどって、阿須に下りることにしました。





これが笹仁田峠からの古道入り口です。

現在は都道となって車のばんばん通る笹仁田峠からハイキングコースに入ったとたん、こんなご機嫌な掘割状の道が継続的に続いています!

このあたりの山は某宗教団体の持ち山であるらしく、非常に手入れが行き届いていて綺麗ですし、道も歩きやすく整備されています。

所々元の地形が堀割られることによって道の傾斜が一定になっていて、アップダウンもほとんどなく歩きやすいことといったら!



斜面を登りきって尾根の頂上に出ると、道はそのまま尾根の一番高いところをまっすぐ進んでいきます♪

左右は結構深い谷。アップダウンがないのでさほど高いところに登ったとも思えないのに、尾根道からは秩父方面の山々がよく見えて、とてもご機嫌です♪

しばらくそのまま進むとちょっと開けた場所に出ます。そこが「七国峠」です。

「七国峠」と名のつく峠はこの近辺では八王子と町田の間、川崎と稲城の間、平塚、そしてこの青梅と飯能の間の4ヶ所あります。

青梅と飯能の間にあるこの「七国峠」は標高220m。青梅市教育委員会の「青梅文化財地図・青梅を歩く」によれば、青梅・勝沼(三田氏の勝沼城址があるところ!)と上州・白井(現在の渋川市、白井城址のあるところ)を結ぶ「上州道」の峠だとのこと。




ここから南に下ると今井城にアクセスします。
つまり、言ってみればここは今井城からこの「上州道」ハイウェイに乗るためのいわばインターチェンジといったところ?

峠には「弥兵衛松」という石碑と小さな松があります。

この「弥兵衛松」というのは二代目だそうなのですが、昔この峠を往来する人を見守った弥兵衛という人の仮小屋があったところなのだという昔話が伝わっています。

弥兵衛は追いはぎにあった女の人を救ったり、年をとると鉦をたたいて峠の安全を見守ったのだそうで、亡くなった後、小屋のあった跡に一本松が生えて身代わりのように峠を見守ったのだと言うことです。




しかし、こんなところの道が「上州道」?
しかも上州は北の方向なのに、この尾根道「ハイウェイ」は東西に走ってるんだけどな・・・?

そんなギモンを抱きつつも、掘割状道はまだまだ続きます。




「山道」って・・・いったいどこにつながってるの?(笑)
駅への近道って書いてあっても、どこに道があるのかわからない~(笑)





そして、青梅から県境を越えて飯能に入ったあたりから、どうやら某宗教団体の敷地からも離れたらしく、なんとなく山の様子があまり手入れをされていないような感じに・・・

古道も先ほどまでの歩きやすく整備されて快適だったところから、掘割状の道も埋もれてしまって狭く判りにくく歩きにくくなってきて・・・




いきなり古道の交差点!
丘陵の両側にある集落を結ぶ道とのクロスです。この尾根道古道からはこのように両側に降りていく道とところどころでクロスしています。

そして、尾根道の走っている丘陵も、県境を越えたあたりから霞丘陵から阿須丘陵へと名前も変わっているのですが、七国峠あたりをピークに東に向って尾根道はだんだん標高を下げて、このあたりまで来るといよいよ幅も狭まっているようです。



さらに進むと、尾根も道もいよいよ細くなり、ついに木々も途切れて・・・

じゃーん!


見よ、あれが飯能の町だ~!




ここまで来ると、まだ高低差はあるもののもう尾根は舌状台地となって川へと降りていきます。

視線の先には八高線の走っている土手と、その向こうの入間川にかかる橋が見えます。
この橋の場所が鎌倉街道の脇街道にあたる「滝山古街道」の阿須の渡しにあたります。

この「滝山古街道」は北上すると飯能の中山から高麗川を抜けて鎌倉街道上つ道に合流して上州方面に向かいますので、おそらくそこまでひっくるめて「上州道」と言っていたのではないでしょうか。

あくまで、私の想像ですが☆

というわけで、まっすぐ尾根道を降りてきて、JR八高線の「土塁」。
阿須丘陵から入間川対岸の飯能丘陵(高麗丘陵)に向って土塁を築いて、高低差をつけずに入間川の広い河岸段丘を渡っています。

・・・相当な土木量ですよね(^^;)





そして阿須の渡し、つまり現在の近くの阿岩橋のそばのセブンイレブンのアイスコーヒーでゴール!

お散歩といいながらも、なんだかんだですっかり夕方になってしまいましたが、整備されたハイキングコースでの山の中の遺構散策は快適でした!

お疲れ様でした~!次はどこに行こうかな・・・?(笑)