2017年8月26日土曜日

川越ぶらぶら散歩 ~城ガール隊関東支部納涼会2017~

城ガール隊関東甲信越支部では、定例会を新年会と納涼会の年2回開催しています。
新年会は毎年恒例の「浅草でもんじゃ」。飲んで食べて語り合う!
そして納涼会もいつも楽しい懇親飲み会があるので、「飲んでばかりの関東支部」なイメージ?


いえいえ関東支部納涼会では、毎年【昼の部】でお城歩きをして【夜の部】で乾杯~!なのです♪

一昨年の「江戸城スペシャル☆
」、昨年の「小田原城オフ会」に引き続き、今年の納涼会【昼の部】は川越城!

というわけで、「小江戸名所めぐり」バスに乗って出発~!



まず最初の目的地は川越喜多院。
門前でバスを降りたら、さっそく記念撮影~♪


みんな、いつの間にか川越駅前にてカワイイうちわをGETしてる(笑)


喜多院は、江戸時代初期に徳川家康公の信任厚かった天海僧正が住職を務めた寺院です。
そのため幕府からの手厚い庇護を受け、寛永15年(1638年)の川越大火で堂宇が消失した際に、三代将軍家光公の命により江戸城紅葉山の別殿が移築されています。

まずは本堂にお参り♪


本堂の脇の方にはその移築された建物の拝観入口があって、豪華な壁画や墨絵で装飾された「客殿」と呼ばれる家光公誕生の間や、「書院」と呼ばれる家光公の乳母として知られる春日局化粧の間を見に入れます。

ちなみに拝観受付で御朱印をいただくこともできます♪


・・・が、江戸幕府ゆかりの寺院もいいのですが、やっぱり「城ガール隊」なので、こっちの空堀の方がいいですよね~☆


実は、喜多院の本堂裏手の方から隣接する仙波東照宮の周りに方形にぐるっと、ご機嫌な空堀がめぐらされていて、その一部は土塁とともに喜多院の紅葉山庭園や遠州流庭園の方まで続いているんです!


仙波東照宮については、徳川家康公の遺骸が久能山から日光山に遷座する途中で、この喜多院に立ち寄って法要が行われたことから、その後「遺柩止留の跡」として「高さ5間の丘を築いて社殿を造った」と言われています。


一方で、この仙波東照宮の場所はもともと中世河越(川越)城の出城だったという説もあり・・・



今ではところどころ切られてしまってるけど、元は土塁が奥の方からずっと続いていたんだろうな~、と妄想むくむくしながら歩くメンバーたちです♪

喜多院の境内には五百羅漢もあって・・・


全部が違う羅漢さんなので、ひとつひとつ眺めてはいろんな羅漢さんも楽しみました~!
自分に似た羅漢さんに出会えたかな?


ゲリラ豪雨の雨宿りも兼ねて喜多院ですっかりのんびりしてしまったので、ここからは超駆け足!門前からまた「名所めぐりバス」に乗り、川越市立博物館へ。

まずは、博物館にある江戸時代の川越を表した大きなジオラマで、喜多院と川越城の位置確認。手前が川越城、奥の四角い緑が喜多院です。


川越城(中世には河越城)は、享徳の乱の際に古河公方に対抗する扇谷上杉氏の本拠地として、上杉持朝が長禄元年(1457年)に太田道真・道灌父子らに命じて築かせた城で、後には武蔵国支配をめぐって小田原北条氏と上杉氏との間で数度に渡る争奪戦(河越城の戦い)が展開されています。

また、江戸時代に入ると川越藩が置かれ、「知恵伊豆」こと松平信綱や柳沢吉保など幕政の重職に着いた有力譜代大名や、親藩の越前松平家などが入封しています。


さて、博物館で予習をしたら、次はいよいよ川越城の本丸御殿!
川越城の本丸御殿は「東日本唯一の本丸御殿遺構」だそうです。

もとは建物の数16棟、1025坪にもおよぶ広大な御殿だったようですが、明治以降は城としての役目を終えて多くの建物が移築・解体されて、現在は玄関と広間部分、それに家老詰所部分など嘉永元年(1848年)に建てられた御殿の一部のみが現存しています。


さくさく~っと本丸御殿の中を拝観した後は、わらべ歌「とおりゃんせ」発祥といわれる「三芳野神社」境内の土塁や堀跡、遺構と思われる高低差などを見ながら、現在の県立川越高校の南側にある富士見櫓跡へ。


富士見櫓があったという川越城内で一番高い丘の上からは、川越の町が良く見渡せます!

天守代わりの櫓が建っていたというだけあって、割と広くて、風が気持ちいい~☆
のびのび♪


駐車場になってる?周囲の低地は、富士見櫓を取り巻いて本丸と三の丸を隔てる堀の跡。
すっかり宅地化しちゃってるけど、確かに・・・堀だ!


さて、富士見櫓から今度は、発掘・整備された中ノ門堀跡に向かったところで・・・またも大雨!

しかも時間がすっかり押してしまってたので、お楽しみの「蔵つくりの街」の散策はあきらめて、特急に乗って都内へ向かいます。


新宿の戦国居酒屋で、お疲れ様のかんぱ~い(^^)/□
今回も初参加の方が2名。その上、なんと別の用事で関東に来ていた近畿支部のしろうさぎさんも、サプライズで急遽合流してくれました!

仲間の輪が広がるってうれしいですよね♪
城ガール隊関東支部納涼会の川越散策、半日お疲れ様でした~!

2017年7月16日日曜日

特別展「駿河の戦国大名今川氏」・・・からの花倉城攻め☆

昨年末から年明けにかけて静岡県の駿東地域にある富士・沼津・三島の3つの博物館が開催した「駿東・北伊豆の戦国時代」という共通テーマの合同展示に、後北条好きのワタシもそれっ!と飛んで行ったんですが(→その時の記事はコチラ)、それと時を前後して藤枝市郷土博物館でも「駿河を駆けた武田軍団展」という特別展を開催していました。

ところがその時、藤枝の展示はタイミングが合わなくて行けずに涙を飲んだのですが、今度はその藤枝で平成29年6月2日~7月17日まで「駿河の戦国大名今川氏」をテーマに面白そうな展示会が開催されているというので、居ても立っても居られず・・・


あと2日で会期が終わってしまうというめっちゃ暑いこの日。愛車に飛び乗って富士山を横目に新東名をひた走り、埼玉から藤枝まで飛んできちゃいました♪


今回の展示は藤枝市郷土博物館開館30周年記念特別展示ということですが、それと共に、平成27年(2015年)の徳川家康公顕彰400年記念特別展「徳川家康公と駿河」、平成28年(2016年)の特別展「駿河を駆けた武田軍団展」と続いた、戦国時代の駿河をとりあげるシリーズ3部作(?)の締めくくりでもあるとのことです。


これまで「駿河といえば徳川氏」のイメージが強かったかと思うのですが、今年のNHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」で今川氏が多く取り上げられているせいもあってか、「今川氏復権宣言」!チカラ入ってるなぁ~(^^;)

今回は、静岡県内に残っている今川氏歴代当主の発給文書を中心に県内初公開・駿河の南北朝動乱に関わる「駿河伊達家文書」(京都大学総合博物館所蔵)の県内初公開など、駿河今川氏10代の歴史を網羅した展示となっています。

また、もう1つの目玉は花倉の乱」に関する「岡部文書」(藤枝市郷土博物館所蔵)。

なので、長慶寺に伝わる雪斎長老の像や笈、彦五郎のお位牌、そして乱において最終決戦の舞台となった花倉城の大きなジオラマ(!)などなど、やはり花倉の乱や今川義元関連は充実です♪



展示会の常で、写真が撮れるのはこのロビーまで。
自分は古文書が読めないですし、出展物について図録で復習しようと思ったのですが、博物館の方に伺ったら、今回の展示会は図録なし!

残念ながら、今後も作成する予定もない、とのこと。後からでもなんとか作成してもらえないものでしょうか・・・(TT) (→ ただしHPチェックしててね、とコッソリ耳打ちしてもらったので、密かに期待☆)

さて、次は展示会でじっくり予習した(?)花倉城へ!



花倉城は、博物館から北西に約5kmほどにある標高297mの城山(烏帽子形山の支峰)の頂上部にある山城です。

この城のある葉梨地区が、南北朝期の観応3年/正平7年(1352年)に駿河今川氏第2代の範氏が駿河支配のために居館を建てて守護所を置いた葉梨庄で、花倉城はその詰城として築かれたとされています。

また、戦国期の天文5年(1536年)には、第8代の当主氏輝の急死により勃発した、栴岳承芳(後の今川義元)と、異母兄で花倉・遍照光寺僧侶の玄広恵探(花倉殿)との家督争い(花倉の乱)において、最終決戦の場ともなっています。

 

すでに山城オフシーズンの真夏なので一瞬行くのをためらったのですが、博物館の方々には特段止められもしない上、事務所の奥から案内図を出してきて懇切丁寧に行き方を教えてくれて普通に「行ってらっしゃい!気をつけて~♪」。

なので、市街地の城址公園のように山頂近くまで気軽に行けるのかな~と、のんきに愛車のハスラー(軽)で向かって見たら・・・
教えてもらった道は、舗装はしてあるものの軽トラ1台がやっとの広さな上に、めっちゃ急坂なくねくね道。しかも片側が藪や崖になっててもガードレール一切なし!


必死に登ってやっとの思いで城跡入口にたどり着いても、駐車できそうなスペースは車2~3台分くらいしかないので、大きな車や複数台での登城はあまりオススメできません・・・麓から徒歩でというのもかなりしんどそうですが☆(^^;)

案内板のそばに車を停めて、念のため長袖長ズボンに首筋タオルやスパッツをつけ、虫除けスプレーを吹きつけて林の中に入っていくと・・・


いきなり、立派な土橋!
この写真だと普通の道にも見えてしまいますが、渡りきって向こう側(城側)から振り返ると・・・



土橋なことがよくわかる!
しかも、土橋を渡りきったところは塹壕みたいに段々に掘られていて、土橋を渡ってくる敵に対する防御の体制をとっているようにも見えます。


城跡に向かう林の中はハイキングコースになっているのか、下草がよく刈り込まれていて、藪に突っ込むこともなく快適に歩けます。


そして、小さくてぱっと見ではわかりづらい遺構にも、ちゃんと案内標が建てられているので、お城初心者のワタシにも見やすいし、見落とすこともなくてウレシイ♪


2つ目の土橋の脇から落ちている竪堀。ココロの目で見よ?!


そして土橋のすぐ先には、斜面を登っていく・・・古道?!
すごく素敵な掘割状の道が城に向かって続いています。。。


登りきったところで道は二手に分かれ、左手方向には「烏帽子形山方面ハイキング道」の立て札。そして右手方向には「帯曲輪」の案内標。


この下の段、写真だと掘割道のようにも見えるところが、その「帯曲輪」のようです。
そしてこの左側に見える上の段に登って見ると・・・


そこが二の丸です。
ここでも、何本も案内標が立って、かろうじて薄~く残っている土塁を示してくれています☆


この二の丸からは、藤枝宿方面の見晴らしが良いです!
まわりの木々がなければ、きっと東海道の要衝である宇津ノ谷峠や焼津方面の港などもよく見えるのではないでしょうか♪


二の丸と本丸の間の見事な堀切。
両脇は谷に向かって落ちているようです。


すこし斜めから見ると、本丸から二の丸が見下ろされている感のある高低差!


本丸側から見ると、二の丸はこんな感じに見下ろせます。


本丸は細長い削平地で、突端に「物見台」とされる盛り上がりがあります。


この盛り上がりを乗り越えた向こう側には、少し下がったところから細い尾根道が少々続いており・・・


突端がこれまた櫓台になりそうな小さな削平地。


この先は藪やぶの急斜面で、城域はここまでといった感じです。
ちなみに、ここまで来たら斜面のどこかでばりばりっ!と草木をなぎ倒すような音?!

すわ、熊かイノシシか?!?! と、めっちゃ怖くなったので、鈴を鳴らして声を出しながら大急ぎで車まで退却しました☆(><;)))))


またも難儀なくねくね道を南へ下ると、そこは今川氏館跡や家臣団の屋敷跡などがある旧葉梨村花倉。「花倉の里」です。

帰る道筋なので、展示会でも出てきた今川氏ゆかりのお寺のいくつかに寄ってみることに。

まずは遍照寺。駿河今川氏第2代範氏が建立し、玄広恵探(花倉殿)が住していた遍照光寺が焼失したあと、武田信玄に再興を許されたというお寺です。


境内には、範氏とその嫡子・氏家の墓石とされる五輪塔が並んで安置されています。
案内板によれば、それぞれ元の埋葬地点は別の場所であったようです☆

次は、駿河今川氏第3代泰範が建立した長慶寺。


きれいに掃き清められた庭の枯山水が素敵~!
お寺の奥には泰範の五輪塔と、雪斎長老の無縫塔が安置されています。


甲相駿三国同盟の締結に尽力するなど今川義元の右腕として手腕を発揮した太原雪斎は、晩年この長慶寺に隠棲し、古くなった堂宇の再建を果たした後、弘治元年(1555年)に生涯を閉じています。

ここまでで、今回の特別展「駿河の戦国大名今川氏」めぐりは終了!
展示会自体も7月17日で終了しましたが、圏央道と東名道がつながって静岡方面に来やすくなったし、展示会でせっかくいろいろ勉強したので、またじっくり今川氏関連の史跡を回りに来たいですね~♪

その時までには、今回の展示の図録が作られてるといいなぁ・・・☆



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