2016年7月23日土曜日

小田原城の新たな見どころ? 陸上競技場発掘調査見学会&小峯の大堀切西堀

TwitterでTLを見ていたら、小田原城の城山陸上競技場で発掘調査見学会が開催されるという小田原市の発表や新聞情報が流れてきました。

これは城山陸上競技場の改修工事に伴って6月13日から発掘調査を行ってたら、八幡山古郭の三の丸外郭にあたる毒榎平北堀が発見された!というもので、しかも見学会は7月23日(土)午前中の半日だけ・・・

「ここだけ」「今だけ」「アナタだけ」な限定情報に弱いワタシ。こんな情報を見つけたからにはぜひとも行きたい!

思い立ったら吉日。どうせ行くなら、この7月から見学可能になった小峯御鐘ノ台大堀切の西堀も見に行こ~☆

というわけで、急遽朝っぱらから小田原まで車を飛ばしてGO♪





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<八幡山古郭毒榎平北堀>

見学会の行われている城山陸上競技場は、下の地図の赤丸のあたり。
稲荷森のある谷津丘陵と八幡山丘陵に挟まれた谷の奥まったところにあります。




戦国時代に御前曲輪という曲輪があったとされていますが、詳しい調査が行われないままに陸上競技場が造成されてしまったため、遺構らしい遺構は見られませんでした。

さて、着いてみると、小学生の陸上競技大会をやっているトラックのそばに発掘現場が。
朝いちばんに駆けつけたのに、もうすでに満員御礼状態です(^^;)




マーキーテントの中の受付で資料をもらい、まずは説明パネルの前で発掘の状況について係りの方からの説明を受け、いよいよ現場見学。




これが発掘現場。写真の向って右側が毒榎平、左側が陸上競技場のトラックです。

きれいな段状になってますが、これは発掘調査の安全を図るために決まった深さで設けられる足場の段なので、堀遺構が段になっているわけではありません(^^;)

それから、最初ワタシはてっきり上の写真の奥方向に向って伸びる「横堀」かと思ってしまったんですが、そうではなくて写真の左右、毒榎平方向から陸上競技場のトラック方向に伸びている堀だそうです。




今回の発掘現場は、陸上競技場の赤丸のあたり。

昭和56年の小田原市教育委員会の町名・地名図で、地形や地質からこのように堀があったであろうとされている部分です。

なんでこんな風にくねっと陸上競技場方向、つまり御前曲輪の方に曲がっているのか不思議ではありますが、三の丸に相当する毒榎平を守る目的で構築され、御前曲輪との境界にもなっているのでは、と考えられているようです☆




なので、この場所では、このトレンチの長辺の幅の堀がトラック方向に続いていたということ。

というか、正確にはこの上の写真の左側(西側)は斜面になっていて、これが今回検出された堀の法面なのですが、反対側(東側)は何かの管が地中に通っているため掘ることができなかったので、正確な堀幅は確認されていないようです。

現在確認されている堀幅が13m以上ありますが、おそらく2つ前の写真で重機が置いてあったあたりまで堀だったろうと思われるので、そうだとすると推定堀幅22m、深さは確認された面から9mを測る大規模な堀だったと思われます。




現場で係員の方がささっと書いて説明してくださいました♪

いま掘られている穴のいちばん深いところに堀底が検出されたということで、現在の地表面からそこまでの深さが9m。
そして、35度の角度で緩やかに落ち込んでいる法面が、途中からいきなり58度という急角度に☆

現地の説明パネルに張ってあった「遺構全体図」と組み合わせると、よりわかりやすいかも(^^)




この堀は、地層をよく見ると下の方は整然としていて堆積によるものと思われる一方で、上の方はかなり雑然と積み重なっていることから、早い時期に埋め立てられたのではないかということです。

また、係員の方が指している、左右に帯状に黒く堆積している層は、宝永4年(1707年)の富士山の噴火によるもので、この時期には堀がすでにこの深さまで埋まっていたということがわかります。




そして、この堀が毒榎平の方に続いていただろうということがわかる名残が、実は日ごろから見えているんですよ~!と係員の方。

下の写真は陸上競技場の門から毒榎平に沿って下っていく坂道なのですが、そのちょうど今回検出された堀の延長線上に当たる部分の斜面が、堀の法面と同じように窪んでいる!




この道路から下の陸上競技場部分は、おそらく造成によって堀跡がわからなくなってしまったのだと思われますが、毒榎平側のこの斜面にはこの堀幅で竪堀様に窪んだ地形があるとのこと。

下の道路からだと茂みが深くてよく見えない~☆
あわてて毒榎平に登って上から斜面を見てみると・・・




やっぱり写真じゃよくわかりません~ココロの目で見よ(笑)

でも、確かに実際に見ると大きく斜面がえぐれてるようで、その向こうに陸上競技場の発掘現場が見えました!

ちなみに・・・この発掘現場。係員の方に伺ったら、7月末を目処に埋め戻してしまうのだそうです。
ということは、8月に予定している城ガール隊関東支部のオフ会の時には、もう見ることが出来ないんですね。。。残念!(><)



<小峯御鐘ノ台大堀切西堀>



さて、陸上競技場の発掘調査見学会をじっくり堪能したところで、お次は小峯御鐘ノ台大堀切西堀♪

西の箱根外輪山から伸びてくる舌状台地は、発掘現場(赤丸印)のある陸上競技場(御前曲輪)の谷により、小田原城を構成する谷津丘陵(山ノ神台)と八幡山丘陵に分岐します。

小峯御鐘ノ台大堀切は、その丘陵が分岐する「扇の要」に三重の堀切を設けることで尾根を分断し、それぞれの尾根筋に入れないようにしているという、小田原城防衛の重要拠点です。

小田原城本丸から近い順に東堀、中堀、西堀の3本の堀が並んでいて、東堀と中堀のみ散策可能でした。

(東堀と中堀についての過去記事 → こちら

で、東堀・中堀はその雄大さから、小田原城の中世城郭遺構部分の代名詞として取り上げられていましたが、西堀については、これまで私有地のため入ることができませんでした。

それが、この度史跡の市有地部分が整備されて(地図の赤線で囲った部分)、小田原合戦の開城日である7月5日から自由に散策できるようになりました~(^o^)/

ということで行ってみると・・・




これまで閉まっていた門が開いている!
しかも門柱に「史跡 小田原城跡小峯御鐘ノ台大堀切西堀」の表示!!

それにしても「開城」って・・・(笑)




細い通路を抜けると、地図の赤線で囲った中にある茶色の部分に出ます。

もともとは西堀があったと思われる場所ですが、すっかり埋まってしまってて、奥に土塁はみえるものの、ただの草原にしか見えない。。。

振り返って南側を見ると・・・




やっぱり、すっかり埋まってしまってはいるものの少し凹んでいて、周囲に土塁らしきものも見えるので、こちらはなんとなく「堀跡」が続いているように見えなくもない感じ。

以前、西堀が開放されていない頃に、大堀切の外側に延びている「小峯御鐘ノ台」の方から見えていた「西堀の土塁」はこのあたりなのかな?

さて、また「草原」にもどり、奥に見えていた土塁のあたりまで進むと・・・




キター!西堀遺構!
しかも、夏だというのに、キレイに草が刈られて整備されてる!!

奥の方が土橋様になっているので行ってみると・・・




その先にも同じ堀幅で、しかも段々になって斜面を降りながら続いています。

最初はその段々が一瞬畝に見えたんだけど、どうやら違うみたい。
堀の先の方まで行って、反対側から「土橋」を見上げるとこんな感じ。




段々の土留めの石垣は・・・う~ん。。。古いものではなさそうな?
この段々を堀の東側の土塁の上から眺めるとこんな感じ。

段々のことは置いておくにしても、この堀幅といい、深さ(高低差)といい、東堀や中堀と同じくらい大規模な堀です♪




そして、この堀の東側の土塁は、登ってみると判るのですが、二段になっています。
そして堀の西側と比べてかなり高く盛られていて、堀の西側から来る敵を相当意識してるように思われます。



そう考えてみると、他の2本の堀切や周囲の曲輪も西に向けて土塁構築をしているような気がする?

確かに、西から延びてきている台地からの攻撃に対しての防衛線ですもんね~☆
8月に城ガール隊の皆さんを案内するのが楽しみです♪



<小峯御鐘の台大堀切東堀隣接地と百姓曲輪>

さて、近頃のトピックスとしてもう1ヶ所。

この6月17日に文化庁の文化審議会が国指定史跡の「小田原城跡」に「小峯御鐘ノ台大堀切東堀の隣接地」と「百姓曲輪」の2ヶ所を追加指定することを文部科学大臣に答申しました。

このうちの「小峯御鐘ノ台大堀切東堀の隣接地」というのは、「東堀の西側にある蓮船寺の近くで堀を掘った残土を積んだ場所」とだそうで、ネットに出ている情報を総合すると、おそらくココ(写真の赤矢印の上の平地)




確かに、東堀に沿った蓮船寺とその上下の平地は、土塁で仕切った曲輪のようにも思われます。
東堀自体は昭和52年(1977年)に国指定史跡に指定されてるので、この場所が今まで指定されていなかったんだ~と、かえって意外☆

そして、もう1ヶ所の「百姓曲輪」。

宅地造成に伴う発掘調査で土塁や障子堀が確認されたということでしたが、2月にオフ会で来たときには、ごっそり山肌が削られていたので、「百姓曲輪」の遺構はどうなったかな・・・と心配していました。 → 場所については2月のオフ会記事に書いてます(→ 記事はこちら!

が、毎日新聞のnet記事によると「周囲を含み開発計画が持ち上がっていたことから、遺構の保存を目指すため、所有者の了解を得て、指定を受けることになった」とのこと。

ということは、遺構はまだ無事か~!

今まで、百姓曲輪から落ちてくる堀跡である、この慈眼寺そばの道を登ったことがないので、さっそく登っていってみることにしました。




あらま、前回来たときよりも、さらに造成が進んでますね(^^;)

上の方に作業小屋が見えますが、その上(裏側)に古い門がぽつんと建っていますが、百姓曲輪はその門を入った平地のあたりだと思われ。

・・・草ぼうぼうで、何がなにやらまったくわかりません~☆




草の間からうっすらと見える土の盛り上がりは土塁なんだろうか・・・?
これは、草の枯れた頃にもう再チャレンジですね。。。




竪堀道に戻ってさらに上に上っていくと、道はごきげんな掘割状になり、鉤の手に曲がって続いていきます。

この向って右側は、登ってみると土塁になっており、ずっと百姓曲輪の上に続いているようです。




実はこの堀は山ノ神堀切につながっているのですが、このまま進むと宅地に入ってしまうので、これ以上は進むことはできません。
が、ここだけでも中世山城っぽくていい感じです♪


以上、小田原城八幡山古郭毒榎平北堀、小峯御鐘ノ台大堀切西堀&東堀隣接地、そして百姓曲輪は、毒榎平北堀は埋め戻してしまうものの、小田原城中世遺構の新たな見どころですね~♪

東堀隣接地と百姓曲輪の国史跡追加指定確定は10月ごろということですが、指定されたら整備も進むのかな?今後が楽しみです!



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