2016年2月28日日曜日

東山道武蔵路のなぞ?

あまりに気持ちのよい小春日和の土曜日。たまたま1日予定していた用事が急に半日で済むことになって、せっかく時間が空いたし~♪と、のこのこ出かけることにしました。

で、降り立ったのは中央線と武蔵野線がクロスする西国分寺。

奈良時代、「東山道武蔵路」という古代の官道が、聖武天皇が建立を命じた国分寺跡の脇を抜けて武蔵国府のあった府中方面に向かって通っていました。
その遺構がこの西国分寺駅からほど近くに展示保存されているということで、前々から機会があれば行ってみたいな~と思っていたんです。

そして、実はこのあたりには鎌倉時代の官道?「鎌倉街道上道」も、なぜか「東山道武蔵路」に一致ではなく並行して通っていました。その謎も訪ねて(?)ちょっとお散歩です♪

*********

「東山道武蔵路」は、七世紀に律令制が確立されるに伴って、行政区画(いわゆる「五機七道」)が整備されるとともに各「道」の国府を結ぶために建設された官道のひとつです。

古代の武蔵国(現在の埼玉県、東京都、神奈川県の一部)は、七道(東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)のうち、近江から美濃、飛騨、信濃、上野、下野、陸奥を結ぶ内陸の「東山道」に所属していました。

が、武蔵国の国府が置かれた府中は、東山道の本道ルートからかなり外れたところにあったため、東山道本道から南下する官道が整備されました。これが、奈良時代の「続日本紀」にも記載のある「東山道武蔵路」です。

ただし名称までは記載されてないので、便宜的にそう呼ばれているそうですが(汗)





東京湾には大河が多く流れ込んでいて(あれ?上の地図は現在の流路だ・・・江戸時代以前は利根川は東京湾に流れ込んでました笑)、その下流域では交通が困難だったので、東海道に属する相模から安和・上総方面へのルートは東京湾の海路が主流だったこともあるかもですね。

しかし、上の地図でもわかるように、東山道から武蔵国府に向うのはやはり非効率だったとみえて、宝亀2年(771年)に武蔵国は東山道から東海道に所属替えとなって官道ルートが変わり、東山道ルート上野国からわざわざ南下する必要がなくなって、「武蔵路」の官道としての役目も終わったのだということです。

さてさて・・・西国分寺駅からのお散歩開始。
駅から東側に出て府中街道(都道17号線)を渡ると、急にぐいっと下り坂。下がりきったところに、府中街道に並行して南北に走るごきげんな古道の切通っぽい道が現れます。



この道より東側は周りの土地に対して土地が低くなって「谷」のようになっていて、小さな池があります。
鎌倉街道にもゆかりの深い鎌倉時代初期の武将、畠山重忠を慕って夙妻太夫が身を投げたという伝説のある「姿見の池」です。

国分寺市周辺は関東平野西部の荒川と多摩川に挟まれた広大な武蔵野台地の武蔵野段丘上にあるのですが、この姿見の池周辺は古多摩川の浸食による国分寺崖線から入り込む細長い谷地「恋ヶ窪谷」となっているんです。


この図のオレンジ色の部分が武蔵野段丘、緑色の部分が恋ヶ窪谷。

で、青い線が「鎌倉街道上道」が通っていたであろう場所です。マウスで手書きしたので、下のほうがちょっとうまく書けませんでしたが・・・(^^;)

ということは、先ほどの「ごきげんな切通し」は鎌倉街道の一部で、大地から谷に入っていくために切通した部分とも思われますね。

恋ヶ窪には「鎌倉街道上道」の宿場町があり、姿見の池に遊女たちが朝な夕な姿を映していたのだと言われています。

畠山重忠は武蔵嵐山の菅谷館を居城としていて、鎌倉幕府の有力御家人として鎌倉街道上道を頻繁に行きかっていたのではないかと考えられるので(館は鎌倉街道のすぐそば)、この伝説も生まれたのかもしれないですね。


そして、赤い線が「東山道武蔵路」のライン。ちょうど姿見の池のあたりを通っています。





姿見の池の傍らにはこんな案内板がいくつか立っています。

この池の東側で発掘調査が行われ、恋ヶ窪谷の低湿地帯にまっすぐ大規模な道を通すために「敷粗朶広報(しきそだこうほう)」と呼ばれる、部分的に橋脚のような構造を施した当時最新の土木技術による版築道路が確認されたのだそうです。






で、案内板によるとその道路跡は・・・幅12mもあって、ひたすら真っすぐ!
ただし、次の写真は案内板で示された場所を南方向に向けて撮ったのですが、このように現在では埋められて、遺構は全く見ることはできません。




写真の真ん中の土塁様の部分が、もしかしたらその「橋脚」なのかなぁと妄想しつつ・・・
その向こうには高さ10mはあろうかという高低差。この高い方の土地が、恋ヶ窪谷をとりまく武蔵野段丘面です。




中央線がこの段丘面の縁を通っています。

そして、「東山道武蔵路」はこの図にもある通り、発掘調査の結果ではその向こうの段丘上にずっとまっすぐ南へ向かって続いている、はず。

なので、その「東山道武蔵路」があったあたりをたどってみようと、一度府中街道にもどって中央線を渡り、先ほどの写真の延長線上に向かうと、いかにも「新しくできた街」的なマンション群。

この街(西国分寺住宅)の東側を南北に通る道にやたらに広い歩道があって、その歩道に点々とまっすぐ並ぶ変な模様が・・・

実はこの場所に「東山道武蔵路」の遺構が埋設保存されていて、遺構のあった場所と形を歩道にペイントで示しているというわけ。

発掘調査の結果、ここでも幅12mの道路跡が490mの距離にわたって確認されたそうです。そしてそのうちの約300mをそのまま埋設して保存しながら歩道&ペイントで展示してるんです。

そしてこの直線部分から恋ヶ窪谷に向かって降りるあたりは、谷に向かってしだいに路面の中央がえぐれて切通し状になる道路構造が、次の案内板のとおりに明らかとなっています。





そして・・・その切通し遺構を型取りして作ったレプリカを、場所はそのままに位置を上げて展示してあるんです!こんな感じに。。。





両側にある溝が側溝。そして真ん中が窪んでいるのが切通部分です。
高低差が10mを超える地形に対して、なるべく登り下りする傾斜角度を緩やかにして歩きやすくするために、台地縁を朝来彫り込んでカットしたと考えられているようです。

また、窪みの真ん中の凸凹は「波板状圧痕」とよばれる路面強化の舗装工事の痕跡だということです。




このレプリカの側溝部分から、歩道上の埋設保存ペイントに続いているのが見て取れますね!
このオレンジ色?の模様のところに側溝がずっと続いていたわけです。

これまた案内板によると、発掘調査時はこんな感じで遺構が検出されたようです。
(写真は北から南に向かってみたところ)





そして、同じ方向から見た、現在の様子。

この「埋設保存」の歩道はほどなく途切れるのですが、しばらくしてまた延長線上に公園という形でひょっこり姿を表します。

それが、これ。




この場所も出入り自由で近所の子供たちの遊び場となっていますが、この場所にもみられるまっすぐに続く「線」は、「東山道武蔵路」の側溝の埋設保存を示しています。

そして、子供たちが遊びながら自然に目に触れる場所に、この場所の意味を知らせる案内板。
足元にもこの「線」が何なのかがわかるように名称板が埋め込んであります。

そして、この公園の一番南奥にこの道の続きを描いた案内板があるのですが・・・




この図にもある通り、現在は家々に隠れて見えなくなっていますが、この先はまた武蔵野段丘から立川段丘面へと、ぐっと土地が下がります。

そしてその先の「東山道武蔵路」は、今度は立川段丘面を南の府中・多摩川方面へ向かっていきます。

このことは、この道を立川段丘面におりたところにある武蔵国分寺跡史料館のジオラマでも表されています。




ちょっと写真だとわかりづらいですが、ジオラマの奥の木々がこんもりした部分が武蔵野段丘面から立川段丘面への高低差。

左端のまっすぐな線が「東山道武蔵路」なのですが、すぐそばの武蔵国分寺と比べても非常に大きな道路が、高低差などまるで無視してまっすぐ下りてきてるのがわかります。

ふつうは、というかこの後の時代の道の方が、そこまで土木量を必要としないような、くねくね地形に沿った道の作り方をしてるし、そもそもここまでの大きな規模の道ってそうそうないと思うんですけどね・・・



なぜ「東山道武蔵路」は幅12mもある大きな道を、地形をまるで無視して相当な土木量をかけつつ、ひたすらに直線につくられたのか?

そして、なによりもそんなに立派な道路を作ったのであれば、それはそのまま鎌倉時代以降も立派に軍用道路として使えるはず(例えば武田信玄の「棒道」のように)なのに、どうして「鎌倉街道上道」はほぼ同じルート上の別の場所に通っているのか?

そんな疑問がアタマの中をぐるぐるしながら、国指定史跡となっている写真の武蔵国分寺跡のあたりをうろうろ。

そして、ふと見ると、中学校の体育館の1室?が武蔵国分寺跡に関する小さな小さな展示室になっている様子。

休日にもかかわらず「展示中」とあるので中に入って展示物を眺めていたら、案内の方がヒマしていたらしく、しきりに話しかけてくるもんで、試しに先ほどの疑問をぶつけてみると・・・

その方の「私見」だけど、と前置きした上で答えてくださったのが、


・ 「官道」はそもそも生活等からの自然発生的な道ではなく、あくまでも「中央と地方機関を最短で結ぶ」ことを目的に国家(公権力)によって整備・管理・維持がなされたもの。

   → 目的がなくなってしまったら必要最小限の維持・整備しかなされなくなり、「東山道武蔵路」の場合は発掘調査の結果平安末期には廃道となったものとみられている。

・ 「規模の大きさ」は軍勢を動かすためというよりも、むしろ「都の権勢を示す」ことが主眼。江戸時代の「御成道」と同じような意図では。むしろ戦いのときに「国府を守る」という面では、大きな道は一気に敵勢が押し寄せることになるので不利。

 → 反対に戦いに出るときには、兵を分散して出ることが可能なので、広い道は必要ない。
   鎌倉期に軍勢移動に使われていると思われる、並行して通っている鎌倉街道上道古道遺構の幅は3~5m程度。


・・・つまり、まぁ現代目線で言うと、政府高官用高速道路のようなものだったのでしょうか。
国家権力で無理矢理作って整備させていた道だから、その目的がなくなって使う人も減ってしまい、整備する(させる)人もいなくなってしまったら、草ボウボウになって自然消滅しちゃうんじゃないか、と。

ただし、もともと通常の往来に使用していた路は別途並行してあったんじゃないかという説もあり、それが時代が下がって、鎌倉街道になったのではないかという話も。




東山道武蔵路は武蔵国分寺跡の西縁を異常なくらいまっすぐ!に北上していたんですが・・・
こ武蔵路の西側には武蔵国分尼寺の跡が残っています。

発掘調査に基づく図面を見ると、武蔵国分寺・国分尼寺・東山道武蔵路のそれぞれの向きが若干ずれて造られていたというのが不思議なんですが、それはさておき・・・




国分尼寺も、現在はその一部が市立歴史公園として、発掘された基壇や礎石などが展示保存されています。

そして、鎌倉街道上道古道の遺構は、その国分尼寺の跡を分断する形でその北側の台地(武蔵野段丘)に向かって伸びています。




武蔵野段丘へ上っていく斜面は、鎌倉古道でよく見られる?掘割状の切り通し。
地元のご理解もあって、車両の通行止めをしたりしているせいか、昔の面影をそのままといった風情です。


 


幅は3~5m程度で、先ほどまでの東山道武蔵路に比べるとかなり狭い感じ。
切通しにすることでゆるやかに国分寺崖線上の台地に上っていきます。




切通し道の両側(東西)に上ると、案外高さがあることに驚かされます。
西側は広い平地になっていて、鎌倉時代末期に建てられた寺院(伝祥応寺)跡だということです。
また、国分寺跡方面が見渡せる東側には祈祷のための修法檀跡だという小さな塚があります。

このまま鎌倉街道上道古道を北にたどっていくと、ものの200mほどで西国分寺駅前の住宅地になってしまい、古道をたどることは難しくなってしまいますが、武蔵野線を越えてまた、東山道武蔵路も通る恋ヶ窪谷のあたりにこの掘割状の道が出てきます。

きっと畠山重忠が通ったのもこちらの鎌倉街道上道古道だろうと思われ。。。




以上ぐるっと歩いてみて・・・
こんなに労力をかけて立派な道を作ったのに、使われなくなるなんてなんてもったいない!というのが正直なワタシの感想でございました・・・(^o^;)



にほんブログ村 旅行ブログ 街道・古道へ
にほんブログ村

2016年2月20日土曜日

小田原ぶらぶら雨の中・・・

今年(2016年)に入って早々に、NHKの「ブラタモリ」で小田原がテーマの回がありました。

特に、全長9kmの巨大な防御ライン「総構え(そうがまえ)」や、戦国時代に城内に水を供給するために作られたという小田原(早川)用水など、お城・戦国好きにはたまらない切り口だったので、Twitterではフォロワーの城ともさんたちが(もちろん自分も笑)「小田原に行きたい!」と大盛り上がり。

その結果・・・しゅたり、小田原!  ← 忍者?
駅のJR改札前には頭上に巨大な「小田原提灯」がお出迎え。ワタシにとっては約2年ぶりの小田原城総構え散策オフ会です♪




参加者の面々は熊本、金沢、静岡、茨城と、遠くからはるばるやってきてくださった城ともさんばかり。
このメンバーを、小田原地元民の奥月さんと北条大好き関東民のなっちとで迎撃、じゃなくて、お・も・て・な・し♪

今回は「ブラタモリ」でとりあげてた場所を通りながら、できるだけ総構え遺構を回りたい!ということで、はりきってほぼ一周!という壮大な計画を立てていたのですが・・・



いざふたを開けてみると、駅の外は雨~!!!(>o<)
しかも、天気予報は「これから下り坂}。

急遽、迎撃部隊奥月さんとワタシで地図を見ながら計画の練り直し。
とにかく雨の様子を見ながら、小雨のうちに回れそうなところを歩くしかないよね~☆




奥月さんが用意してくださってたこの地図が、今回の散策に威力を発揮!

実はこの地図、総構え全体の遺構の状況(現存・埋没)を現在の地図に落とし込んであるので、どう歩けば現存遺構を見られるか一目瞭然なんです☆

ということで、まずは小田原駅の西口に出て左手方向に向って、とりあえず線路沿いに八幡山古郭東郭にGO!


******

● 三の丸元蔵堀と青橋

東郭手前の新幹線ガードを潜ってすぐの国際医療福祉大学の前(地図の「学」マークのあたり)には、さりげなく「小田原城三の丸元蔵堀」の案内板。どうやらこの大学の建設工事の時に、障子堀が発掘・確認されたらしいです。



現在は残念ながら案内板だけで遺構は全く見ることができないようです。。。地図でも「埋没」で表示されてますね。

大学の前の道をさらに進むと、箱根登山鉄道と東海道本線の上にかかる「青橋」の交差点。
この青橋の対岸は天守のある小田原城址公園です。

そのどこにでもある歩道のタイル模様。
奥月さんに教えてもらって初めて知ったんですが、実は「障子堀」模様なのだそうで(笑)

橋の欄干のすご~く目立たないところに、さりげなく説明版があります(^^;)
・・・ということは、橋の反対側歩道に並んでいる石もそうなのかな?



青橋(&城址公園)とは反対側の高台にあるのが、整備されて後援になっている八幡山古郭・東曲輪です。


●八幡山古郭東曲輪



この時点で、かなり濡れねずみになってるご一行☆

八幡山古郭・東曲輪から眺める「夕日の当たる天守」アングルは、実は写真家奥月さんの推しポイント・・・なのに雨で写真が撮りづらい~ Orz

どんなに素敵な写真が撮れるかは・・・前回来たときの記事はこちらをクリック!


さて、せっかく皆さん遠方から来たんだし、せめて雨も小降りなうちにいちばん有名な小峰御鐘ノ台大堀切くらいは行けるかな~?と、小田原競輪場の前の坂を急ぎ足で登りつつ地図を見ると・・・




おっ?競輪場の道路を挟んだ向かい側の斜面下に空堀の現存遺構が表示されてる!
で、道路から斜面をのぞいてみると・・・




ありましたありました、藪の中にそれとわかる横堀遺構が!
・・・ただし、藪やぶすぎて写真ではうまく撮れません。「心の目」または現地でご覧ください(笑)

この横堀遺構は、そのまま県立小田原高校の門に向って上がっていきます。
県立小田原高校周辺は八幡山古郭といって、1495年(明応4年)に後北条氏の祖、伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河大森氏の大森藤頼から小田原城を奪った頃の城の中心地のひとつと考えられていました。

その後、県立小田原高校の立替に伴った発掘調査などにより、この八幡山古郭と、同じ尾根筋上にあたる現在天守のある城址公園とは、北条時代には双方に主郭を持つ独特の郭構成であったと考えられるようになっているようです(平成25年神奈川県教育委員会・小田原市教育委員会の現地案内板による)。





この発掘調査のときに、大型土塁(本曲輪高台土塁)や三味線堀、井戸跡などの遺構が出土したということで、遺構をめぐることができる散策路が整備されて、つい2ヶ月ほど前の12月2日から開放されたというので、そのまま高校の門の前を右に折れて、その散策路の南口から入っていきました。

上の写真にある案内板の右上図オレンジ色のラインがその散策路にあたります。
グラウンドに沿ってぐるっと230m。途中にあるポケットパークにあるベンチに座ると、真正面にこの案内板と本曲輪高台土塁とが目に入ります。

また、そのまま散策路の北口に出ると、3本の短い鍵折れ状の堀を組み合わせた三味線彫りの跡があります。




これがその「三味線堀」・・・なんだけど、薄くてよくわかりません~(^o^;)
もしかしたら検出した後に埋め戻したのかなぁ?


*******


ここまで来て、さすがに小雨とはいえみんな雨中行軍に疲れちゃったのか、突然木陰で雨宿りがてら、立ったまま兵糧交換会勃発☆

まずは地元民奥月さんから「小田原城もなか」♪ 「城」だけに皮も「白」いし中身も「白」あん(笑)
そして、金沢のkaoさんからは、加賀藩御用達御菓子司 森八の宝達というお菓子~!




さらに、misaさんからは熊本みやげの「くまモンクッキー」。熊本城柄もある☆
さすが、みんなちゃんとネタははずさないなぁww

埼玉民は兵糧持参なしでした・・・ゴメンナサイ☆




周りを見ると「八幡山」の石柱と、小田原のマンホール。
それにしても、高校生の行きかう道路端で、傘&合羽姿でお菓子をむさぼる集団・・・あやしすぎ(笑)

さて、兵糧をGETして一息ついたら、行軍再開。


********


●御前曲輪(人質曲輪)と毒榎平

ここで雨も小止みになったので、小田原市城山陸上競技場に寄り道です。




この場所は谷のいちばん奥に位置していて字名を「御前曲輪」といい、後北条時代に谷地形を利用した大きな曲輪があったといわれていますが、1852年(昭和27年)に発掘調査も行われないままに陸上競技場として削平され、造成中に出土した敷石遺構のみが残っています。




御前曲輪の「御前」は神仏を指す敬称だということで、この御前曲輪は城内祭祀の場所であったのではないかと考えられています。

この御前局輪を取り巻く尾根上にあるのが毒榎平(どくえだいら)。
最初標柱の「毒榎」を「毒蝮」と空目するなど(笑)。次に読み方が判らず、標柱の裏側をみて「どくえ」とわかったものの、「どくえ」ってなんだ?

この後、お昼時にみんなで一斉に「どくえってなんだ?」のツイートを流しましたら、さっそくあちこちから情報リプがやってきました。

毒榎とは植物のアブラギリのことで、種から塗料などに使う桐油が採れるのだそうですが、この油に毒性があるのだそうです。ここで栽培されていたというような記録は見当たらないそうですね。
フォロワーさんたち、ありがとうございましたm(__)m

ちなみに、この毒榎平の御前曲輪側の斜面には空堀が残っているらしいんですが、今回確認することはできませんでした・・・




毒榎平の坂道をそのまま上っていくと、小峰御鐘ノ台大堀切です。

この大堀切については以前のオフ会下見記事(→ こちら!)にも書いたので、省略・・・ですが、いつ来てもこの規模や折れの絶妙さに感動ですね~!

小峰御鐘ノ台大堀切東堀の延長線上、道を渡って坂を少し下りると、三の丸外郭新堀土塁があります。ここからの石垣山城方面の景色もオススメ!





天正18年(1590年)小田原攻めの際に豊臣方の各武将が陣を置いた場所がすぐ近くに見えて、臨場感満載です♪




今回写真を撮らなかったんですが、土塁の様子はこんな感じ。 → 前回の記事はこちら!



百姓曲輪はどうなった・・・?!


ところでところで・・・

御前曲輪(陸上競技場)から小田原駅方向に谷を下りていって、突き当りを少し左にいくと、慈眼寺というお寺があります。

このお寺の中に「CAFE 空」というとても素敵なお店があるので、ここでランチにしましょう!と小田原地元民の奥月氏のご提案。

行って見たら、お寺の中にあるとは思えないほどオシャレなお店でした!結構カップルさんがいらしてましたね~☆
http://ameblo.jp/cafe-ku-odawara/

で、この慈眼寺の前の急にくいっと傾斜している道路。

これまた以前のオフ会下見記事(→ こちら!)で「慈眼寺の横の道」としてにもご紹介したんですが、実はここは山ノ神堀切の方から百姓曲輪の脇を通って斜面を落ちてくる竪堀の名残の高低差なのです。

で、今は道路になっているその竪堀を百姓曲輪の方へ向って眺めてみると・・・・

あれれ~?!山肌がごっそりと削り取られてハゲ山になってる!!
なんてこと~!(>o<)




この時点では雨がひどくなっていて坂を上って行くのは断念したので、百姓曲輪がどうなったのか確認してないのですが、この道の百姓曲輪近くでは調査で障子堀も出てきたという話なので、どうかそれらが無残に掘り崩されていないことを祈るばかりです・・・


小田原城銅門

ここまで来て散策が厳しいくらいの雨降りになってきてしまったので、総構え散策はあきらめて町へ降りることに・・・

で、やはり小田原に来たからには、天守や門などが整備されてメジャーな小田原城址公園へ。

この図は東側(江戸側)の方角から小田原城全体を見渡してるのですが、近世の本丸と中世の古郭との位置関係がよくわかりますね♪




なんですが・・・ちょうど今の時期(H27年7月1日~H28年4月下旬)は、小田原城天守は耐震工事中で見学ができません☆

雨の中をおもてなししている武将隊のみなさんも手持ち無沙汰?




なので、その代わり?普段は開放していない銅門が開放されて、櫓の中に入れるというので行ってみることに。

中に入ると思ったより広くて、動きやすいスペース。建物を傷めないよう靴を脱いであがるのですが、すでに靴下までびっしょりの我々、ぺたぺた足跡をくっつけちゃったかも・・・ゴメンナサイm(_ _)m

そして、格子窓から外を見ると・・・



眼下は枡形!反対側の狭間までよく見えます(笑)
門内に入った敵は、この櫓の上から狙い放題なのがよくわかりますね☆


箱根口門跡

雨もひどくなってきてさらにキモチの萎えてきたご一行。
銅門から「清閑亭でぜんざい」にさっさと向うことにしました。




で、銅門から清閑亭に向う途中に通りかかったのが箱根口門跡。
三の丸小学校の脇の、ちょっとしたポケットパークのようなところに、しっかりと枡形の櫓台や石垣、三の丸の土塁が残っています。




江戸時代に入ってからの小田原城大手門は、城址公園の東側の現在鐘楼が建っているあたりでしたが、この箱根門口はその以前、中世(北条氏時代?)の大手門だったようです。

現在は、もとの枡形のど真ん中を突っ切っている道をそのまままっすぐ南下すると、東海道(現在の国道1号線)に突き当たります。



この枡形からしっかりとした土塁が、ずっと三の丸小学校の校庭の端っこに伸びています。
土塁をながめて小学校生活を送れるなんて、なんてうらやましい・・・(笑)




道を挟んだ反対側のスポーツ会館の方にも土塁が伸びています。

この箱根口門跡のそばに、「湘南くっきー」という看板のかかった、フツーの家みたいな間口の小さなお店があって、クッキー屋さんかな?とそばに寄ってみると・・・




中にあるのは、すべてクッキーの自販機!
しかも、クッキーはとても地元色たっぷり。じゃことかあおさとか・・・

なんでも、湘南クッキーというのは平塚に本社工場があって、店舗で売らずに自販機で販売展開しているのだそうです。

雨が降っていたので、傘を広げたりたたんだりが億劫でついついスルーしていまったのですが、後から思うと買っておけばよかったかな~☆


清閑亭で善哉(ぜんざい)!

16時には閉まってしまうので、前回の小田原城めぐりオフ会の時には行けませんでした。。。ので、やっと念願の「清閑亭」♪

明治~大正期に貴族院副議長を務めた黒田長成侯爵(福岡黒田家13代目当主)の別邸として建てられた、板絵襖や網代組天井なども当時のままの数寄屋造りの建物で、国の登録有形文化財になってます。

この清閑亭、実は小田原城三の丸土塁の南向き斜面に建ってまして、敷地内にしっかり土塁が残っております。

この写真がその土塁☆




建物自体が土塁の上に乗っているので、ぱっと見は薄い土塁に思えますが、土塁の外側はものすごい高低差!

なので、一般開放されている清閑亭の建物からの景色は、さらに海の方まで見晴らしが利いて、いい景色です~!




実は、この清閑亭の2階がCAFEになっていて、公爵ゆかりのスコーンや紅茶が楽しめます。

また、季節限定メニューもあって、3月は暖かい善哉(ぜんざい)飲み物(コーヒー・紅茶・抹茶)つき。ワタシは善哉&コーヒーを頼みましたが、なんか汁気の多い善哉に飲み物つきって変な感じ☆

でも、雨でびしょぬれになって冷え切った体に暖かいコーヒーと善哉が染み渡って、美味しかったです~!



雨の日ということもあって、他にお客もいなくてすっかり貸しきり状態。

国の登録有形文化財の落ち着きのある建物と、そこから眺める雄大な景色をまた~りと楽しんでくつろいじゃいました・・・が、無常にもあっさり閉館時間となってしまい、また雨の中へ(>o<)



大手門跡と幸田口門跡を通って・・・ゴール!

さて、そろそろ夕方になってきたので、駅のほうへ戻ります。
とりあえずまた城址公園の方にもどり、現存している水堀に沿って馬出し門から大手門跡へ。


この鐘楼の場所が、江戸時代に小田原城の大手門があった場所です。

もともとは箱根口の方にあった大手門を三代将軍家光の時代に現在地に移すとともに、将軍が城に入るための御成道を整備したとのことで、この鐘楼の石垣が大手門の一部。

大手門自体も銅門や常盤木門のように堅固な枡形門だったようです。


この大手門の東側に南北に延びる国道255号線のあたりが、今は埋め立てられてしまってますが三の丸の堀があった場所です。

この「堀あと」に沿ってしばらく北向きに歩くと、小田原郵便局の脇の塀に「幸田門跡入口」という看板が現れるのですが、ここから狭い路地を入っていくと、郵便局裏のブロック塀の陰にひっそりと石垣が隠れています☆


この石垣のある土塁が幸田門につながっていて、現在は遊歩道になっています。
看板の図面の上側が小田原郵便局側。遊歩道を歩きぬけて通りに出たところが幸田門跡になります。

後北条氏3代氏康の時代に小田原城は上杉謙信や武田信玄に攻められた際に、この幸田門から攻め込まれ二の丸までの侵入を許したそうです。

当時はまだ総構えが作られておらず、きっとこの幸田門が小田原城の北の外郭だったんでしょうね・・・



というわけで、頭上に北条三鱗紋が輝く小田原駅前まで戻ってきました♪
天気の悪い中お疲れ様でした・・・乾杯~!


にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村