2014年8月25日月曜日

さくっと会津鶴ヶ城♪

ワタシの別ブログ「つれづれなるままに・・・natchdesの雑記帳」でも書いてるんですが、この夏の家族旅行は南会津方面から始まって、「塔のへつり」や大内宿を経て会津若松に入りました♪

で、会津若松では雨にたたられながらも、2日間のんびりと町を楽しんだのですが・・・

なんたって会津若松といえば、やっぱりトピックスは鶴ヶ城!

というわけで、これは城ネタでもありますし、他の話題とは別に特出しでこちらの「お城備忘録」ブログに書くことにいたしました☆

   ※ちなみに、鶴ヶ城以外の状況はこちらをクリック!
      → 1日目「大内宿と塔のへつり」 ・ 2日目「涙ナミダの飯盛山」
         ・ 3日目「会津武家屋敷と日新館」


で、当日朝。
前夜宿泊した湯野上温泉を出発して、阿賀川沿いに国道118号線を走ってまっすぐ御城下へ。

鶴ヶ城は、幕末に戊辰戦争で激戦地となりました。
慶応4年(1868年)8月、会津若松に侵攻した新政府軍に対する会津藩主松平容保以下5000名は鶴ヶ城にひと月籠城し、城は1日に2500発もの弾丸を浴びたそうです。

開城後に、砲弾で傷ついた天守は破却され、その他の建物も全て解体されたため、現在の天守および走長屋は昭和40年(1965年)に、南走長屋と干飯櫓は平成13年(2001年)に、古写真を元に再建されたものです。




で、現在の鶴ヶ城の案内板。この図は普通の地図と違って左側に北が来ているので、車で来ると方向感覚が少々混乱するのですが・・・

地図の一番下に左右に走る国道118号線を右から左方向に「北上」してきて、現在駐車場となっている西出丸に直接入ろうとしたら、「一方通行出口」のため入れません!(><)

で、仕方なく通り過ぎて次の信号を右折(地図の上方向)すると、駐車場の案内が見えたので、それに従って城方向に曲がると・・・

何の心の準備もなく、いきなりお堀端を鍵の字に曲がって、立派な石垣の虎口から北出丸へ!

きゃー!すごいすごーい☆

と叫びながら、でも車は次の瞬間にはまたも虎口を通り抜けて外へ・・・
この間、写真撮れず(^^;)

で、そのまま車はお堀端からまたも立派な石垣の虎口を通って、今度はそのまま西出丸駐車場へ。




この写真は西出丸駐車場を取り囲む土塁の上から撮ったものです。





本当は、お城の大手は車で通り過ぎてきた北出丸からまっすぐ椿坂を上がっていくのですが、駐車場は西出丸だったので、車を降りてそのまま本丸に向って梅坂を登ると・・・




真正面にそびえる見事な石垣!本丸西の帯郭に続く枡形の虎口になっています。
そして左手の石垣上(櫓台?)には鐘楼が。

この鐘撞堂の鐘の音は、会津戦争の際の籠城戦で時守が撃たれても、別の者がこれを鳴らして正確な時を告げ続けて、開城の時まで止むことがなかったといわれています。




見事な石垣に、あっちでもこっちでもみんな写真やビデオを撮ってる(笑)

そのまま天守閣めざして歩いていくと、、帯郭から本丸に向って少し上がるようになっていて、そこが「蒲生時代の表門」です。




鶴ヶ城は、もとは黒川城といって、至徳元年(1384年)の築城以来、戦国期を通じて蘆名氏の居城でした。

天正18年(1590年)小田原北条氏攻めの奥州仕置きにより入封した蒲生氏郷により、文禄元年(1592年)より改修に着手され、望楼型7重の天守が竣工するとともに城の名も「鶴ヶ城」に改められています。

そして城主は上杉景勝、蒲生秀行、加藤嘉明・明成と変遷。
寛永20年(1643年)に徳川3代将軍家光の庶弟である保科正之が入封し、以後、会津松平(保科)家の居城となって明治維新を迎えます。




嘉明の子の明成の時に西出丸・北出丸の増築や空堀から水堀への変更、会津地震により倒壊した天守を現在の層塔型5層天守に組み替えるなど城域全体におよぶ大改修が行われました。

ただし、天守の改修は加藤嘉明の時ですが、天守台の石垣は、石蔵入口の石積み方法から蒲生氏郷時代のものと推定されているそうです☆




天守の上からは、大手門の枡形や、渡り櫓に簡単に上り下りできるように工夫された「武者走り」のV字階段がばっちり見えます!

大手門の反対側には、天守から南に向って伸びる走長屋。
途中で鉄門の渡り櫓で折れて、さらに南走長屋が干飯櫓まで続いています。




反対に干飯櫓から鉄門越しに見た天守。平成23年(2011年)に、幕末に近い姿に葺き替えられた赤い瓦が美しい~♪

表面に鉄分を含んだ釉薬を塗って焼いた赤瓦は、水がしみこみにくく強度が高いため、会津の厳しい冬の寒さや凍結への耐久性が高いのだそうで、鶴ヶ城天守の瓦は、加藤時代には黒瓦であったものが、保科正之が藩主だった慶安元年(1648年)ごろに赤瓦に葺き替えられたのだとか。




干飯櫓からは堀沿いにずっと土塁の石垣上を歩くことができます。
石垣には所々に横矢掛かりの折れや櫓跡があって、なかなかゴキゲン♪




城下南方の物見櫓で、常に武器が納められていた「月見櫓」。
櫓にかかる月が一際美しかったことから、そのように呼ばれたそうな。




そして、茶室「燐閣」の上に位置し、主として貴重な茶器類が納められていた「茶壷櫓」。
「茶壷櫓」からは、二の丸から本丸に通じる朱塗りの「廊下橋」が真横から見えます。




蘆名時代には屋根のついた廊下造りだったので「廊下橋」と呼ばれたそうで、加藤明成の大改修までは、ここが大手口だったそうです。

そのため、橋自体も有事の際にはすぐに落とせるように木橋になっており、「茶壷櫓」が廊下橋の横矢掛かりとして側面からしっかり守りを固めていました。

また、堀側の石垣の高さは20mもあり、橋を落としてしまうと容易には本丸に近づけなかったものと思われます。



石垣上を廊下橋のすぐ上まで近づいてみると、橋の本丸側は高い石垣でがっちり固められた枡形虎口。

この石垣上から枡形虎口にすぐにでも降りていけそうに見えるのですが・・・
実は一度石垣から本丸側に降りないと、この廊下橋の虎口にたどり着くことはできません。(>o<)

しかたなく、くるりと石垣の内側を向くと、木々の向こうに天守閣と走長屋の赤瓦が綺麗だぁ~!





石垣を降り、本丸内を突っ切って「蒲生時代の表門」から外に出て、北側の帯郭を通り抜け・・・
廊下橋の真上からの移動のはずなのに、虎口まで結構遠い!!




ちなみに、右側の石垣の上の柵のあたりから橋と虎口を見下ろしていたわけですね☆
飛び降りれそうにも見えますが・・・人と比較すると、実はめっちゃ高い石垣だということがわかります(^o^;)






橋を渡って二の丸側から虎口を見たところ。
攻めて行って、生きて帰れる気がしません(笑)

さて、廊下橋から再度帯郭に戻り、ほっかむりをした狛犬ならぬ狛狐のいる鶴ヶ城稲荷神社へ。




このお稲荷様の裏手から、太鼓門が見えます。
北出丸から本丸に通じる大手門のことで、この石垣の上に多聞櫓が建てられ大太鼓が置かれていたようです。




天守の上から見えていた「武者走り」。
鶴ヶ城では、石垣に登る向かい合わせに造った石段(合坂)のことをそう呼ぶようです。




ここでは太鼓門に容易に昇り降りができるように設置されているようですが、実際には石段の横幅がかなり狭くて、冬は雪が降ったり凍りついたりしたら滑り落ちそうで怖いです☆

太鼓門を出て椿坂を下ると「みなごろし丸」との異名をもつ北出丸。
堀沿いに進むと、敵を迎え撃つための「大腰掛」が今でも残っています。




そのまま北出丸から土橋を渡って外へ。
北出丸はぐるりと堀に囲まれて島のようになっていて、出入りは三方向の土橋のみです。




そして、駐車場の西出丸まで戻ってきました~!
さくっと鶴ヶ城ひと回り。お疲れ様でした(^o^)ゞ




ちなみに、今回の鶴ヶ城での戦利品(?)

たまたま売店をのぞいたら、「鶴ヶ城の御朱印」があってびっくり!
他のお城では見たことがないのですが、歴代城主の家紋が押されていて、いい「登城記念」です♪




そして、平成17年(2005年)に開催された「若松城天守閣再建40周年記念企画展」の図録があったので、これもGET♪

蒲生氏郷、上杉景勝、松平容保の3人にスポットを当てたものだったようで、展示物もかなり充実していたようです。行きたかったなぁ・・・

・・・ということは、50周年はもしかして平成27年(2016年)?!

2014年8月22日金曜日

家康公のご遷座ルート その1久能山~小田原

ひょんなことから雑談で、関東でも「徳川家康公ご薨去400年」つながりで何か地域おこしってできないのかなぁ~?という話になりました。

だいたい一般的に日本史で習うような有名な家康公ゆかりの場所は、たとえば岡崎だったり浜松だったり駿府だったりと関東以外だし、それぞれすでに地域おこし的な顕彰イベントはいろいろやってるみたい。

でも、関東だって江戸幕府開闢されているわけだし縁の場所っていろいろあるんじゃない?

とはいっても、そもそも実際には、家康公は天正18年(1590年)の国替えから慶長12年(1607年)の駿府での大御所政治開始までの、都合17年間しかお江戸にいらっしゃらなかったわけで。。。

何か個人的エピソードにつながるものって、あったっけ?

そのときの雑談では、私も含めて江戸や徳川の歴史にそんなに詳しくない人ばかりだったので、「寄進したお寺は~?」とか「鷹狩りが好きだったよね~☆」とか適当におしゃべりして終わったのですが・・・

後になってその事をつらつらと考えていて、ふと、確か「家康公は薨去後、久能山に埋葬されてから、1年後に日光にご遷座(改葬)になっている」ことに思い当たって、そのときのご遷座ルートってどこを通っていたのか無性に気になってしまったので、ちょこっと調べてみることにしました。

・・・われながら、やっぱり「古道好き?」と笑っちゃうんですが(笑)


**************




ご遷座ルートについて、調べてみると江戸東京博物館HPのレファレンス事例集には次のように載っていました。(すべて泊地)

元和3年(1617年)3月15日久能山出発 → 富士山麓の善徳寺 → 三島(16・17日) → 小田原(18・19日) → 中原(20日) → 府中(21・22日) → 仙波(23~26日) → 忍(27日) → 佐野(28日) → 鹿沼(29~4月3日) → 4月4日日光山座禅院

このルート図は、こんな感じ。

まず、久能山から富士川あたりまでは、「東海道」をとおって行ったのではないかと思われます。

道としての東海道は、律令時代に行政区画としての「東海道」の諸国国府を駅路で結んで整備したものに始まって、時代によって多少経路を変えつつ、最終的には慶長6年(1601年)の「五街道整備」によって「宿」が制定されたのち整備の進んだ「近世東海道」(ほぼ現在の国道1号線)に至っています。

うんうん、五街道って日本史でならったなぁ~♪

ご遷座のときにはもうこの「近世東海道」が整備されているので、おそらく久能山からは一度海側の根古屋方面に下りて、海沿いをとおる道(たぶん現在の国道150線→静岡県道197号線あたり)に沿って、清水あたりから東海道に入ったのではないでしょうか。

資料にちゃんとあたってないので、あくまで憶測ですが・・・☆

ちなみに、清水より東の興津(静岡市清水区)の東海道沿いにある清見寺は、家康公が滞在して今川義元の軍師といわれた太原雪斎に師事していた、という古刹です。

また、興津と由比の間にある薩埵峠では足利尊氏と直義、武田氏と今川氏・北条氏との合戦(薩埵峠の戦い)が行われてますね☆

そして「河東一乱」や永禄12年(1569年)の武田氏の駿河侵攻の舞台にもなった蒲原城のそばを通って富士川を渡り、富士市に入って行きます。



ところで、このご遷座ルートについて書かれた台徳院殿御実記(徳川第2代将軍秀忠公時代の幕府公式記録 日光市史中巻より)によると、この3月15日の行程について「今日のお泊りは、富士の善徳寺なり~」と記載があるようですが・・・

さて、この「富士の善徳寺」とはいったいどこ?

「善徳寺」については、富士市の今泉に太原雪斎が住持を務めたこともある今川家の官寺の「善徳寺」(現:善徳寺公園)があったのですが、武田氏の駿河侵攻の際に焼失してしまっています。

その後家康公の薨去された元和2年(1616年)に再建されたようなんですが、このほかに「善徳寺」のあった今泉に近い原田・吉永地区には「御殿」という場所(地名?)があるらしく、家康公が駿府~江戸往還に使ったお茶屋御殿のあった場所といわれているので、実際ご遷座の際に立ち寄ったのがこの善徳寺なのかどうか、定かではありません。
 
そして、これら「善徳寺」や「御殿」は近世東海道(現:静岡県道380号線)からはちょっと離れていますが、すぐ近くに根方街道が通っています。

・・・ん?根方街道!




上の地図の黒太線が東海道、赤太線が根方街道です。


根方街道というのは、富士市吉原の追分から東海道と分かれて、もっと山際、愛鷹山の山裾を沼津~三島へと至る古代~中世の東海道のことで、現在の静岡県道22号三島富士線にほぼ重なっています。

この根方街道沿いの富士市須津地区を中心として、海側には「浮島ヶ原」とよばれる大湿地帯がひろがっていたようで、近世東海道が海沿いに整備されても津波や高潮の心配がないことから、この根方街道の往来が多かったとも言われています。




赤線が根方街道、青線が東海道です。

台徳院御実記の16日の行程には「霊柩吉原より浮島が原をへて三島に泊まらせ給ふ~」とありますが、根方街道は浮島ヶ原の北側、東海道は南側を通っているので、どちらを通ったのかこれまた判然としません。

根方街道は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)ゆかりの興国寺城内を通ってたりするので、ワタシ的には「善徳寺」から三島へはこちらを通っていってほしいな~なんて思ったりして(笑)

まあ、実際には東海道整備は徳川幕府の一大事業なので、そちらを通るんでしょうけどね☆

そして根方街道と東海道は三島神社のあたりで合流して、箱根へと登っていきます。



黒線が根方街道、赤線が東海道です。統一性がなくてスミマセン(^^;)

東海道の宿場のひとつでもあるこの三島で、霊柩は16日と17日の2泊しているんですが、さてその場所は・・・?

三島には将軍宿泊所として使われたという「三島御殿」があったようです。
が、どうやら元和9年(1623年)3代将軍家光公の上洛時の造営のようなので、家康公ご遷座の際の宿泊所ではないようです。

一方で三島宿一の本陣といわれる「世古本陣」には、慶長4年(1599年)58歳の家康公が20歳のお万の方を見初めたという逸話があるようですが・・・??

宿泊について特定できるほど調べることができませんでした(^^;)



さて、東海道は、北条氏の小田原防衛の重要拠点であった山中城の中を通り抜けて、箱根峠を越え、芦ノ湖畔の元箱根から「箱根旧街道」を通って須雲川沿いに箱根湯本に下りていきます。
この道は、現在の神奈川県道732号線湯本元箱根線にほぼ重なっています。

「箱根八里」とも呼ばれるこの道は、慶長8年(1603年)からの東海道整備に伴って整備されたもので、それ以前は元箱根から芦之湯・鷹ノ巣山・浅間山・湯坂山を通って湯本に下りる「鎌倉古道」湯坂道が使われていました。

東下りをした在原業平や「十六夜日記」の阿仏尼も歩いた道だそうです。



地図をよく見ると、鎌倉古道はここでも沢へは降りずにしっかり尾根伝いのルート取りをしていることに、ちょこっと感動(^^;)

ご遷座の時にはどちらを通ったのか気になるところですが、ここでもまぁ「幕府の威信をかけて」整備した「箱根八里」を通るのでしょう。。。

ちなみに、箱根湯本の東海道沿いには(湯坂道からは川向こうになりますが)、北条5代のお墓のある金湯山早雲寺があります。

北条好きにとっては、このあたりから小田原に向って、ちょっと「聖地」な感じのわくわく感ですね~☆

「箱根八里」の東海道と「鎌倉古道」湯坂道は、箱根湯本の三枚橋で合流して、いよいよ小田原に下っていきます。


やれやれ、やっと小田原ですか・・・でも日光まではまだまだ遠い☆ (続く)



2014年8月2日土曜日

怒涛の大田原攻めその2 ~大田原城~

Twitterフォロワーの日光さんと、大田原にある「那須与一伝承館」にてじっくりゆっくり「戦国大名の書状展」を楽しんだ後、これから仙台に行くという日光さんを最寄りの新幹線の停車駅まで送っていくついでに、じゃ、せっかくだから「那須氏」関連のお城でも寄ってみましょうか・・・ということで。

伝承館から東北新幹線那須塩原駅までの通り道にある、大田原城。

天文12年(1540年)に下野国の戦国大名那須氏家臣(那須七騎)のひとつ、大田原氏によって築かれた平山城です。

・・・とはいうものの、今回は展示会以外まったくノープランで飛び出してきてしまったので、もちろん大田原城についてもノーリサーチ☆

縄張り図はおろか、場所についてさえ事前知識なしで、あわててカーナビで場所を調べてから突撃する始末(^^;)

それでもなんとかそれっぽい岡の間の「ホントにこの道でいいの?」という車一台通るのがやっとの小道に入って、ぐっ!と登ったところに・・・


あった~!大田原城の案内図!!



それにしても、縄張りのわかるしっかりした案内図があってよかった(笑)

この大田原城、私のカーナビでは「龍城公園」として出てくるんですが、大田原市を流れる蛇尾川の河岸段丘にある龍体山が城域になっています。

この前のブログでもちょこっと書きましたが、大田原氏は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、主家である那須氏が参陣せずに所領を没収されたのとは対照的に、いち早く参陣して所領を安堵されています。

そして関が原の戦いで東軍に属して加増を受け、大田原藩1万5000石の大名としてこの大田原城で幕末を迎えています。


そんな事情をさくっと即席でwebからアタマに放り込んで、「そういう目」でしげしげとこの案内板を眺めると・・・

お城は、本丸を中心にくるりと回した空堀と、その外側に二の丸、三の丸、北の丸。

ここまではとても中世のお城っぽい。

でも、坂下門の外側に描かれたおそらく台地下に当たるだろう三の丸や西曲輪、作事場や味噌蔵のあたり、そして侍屋鋪あたりはとても近世城郭らしくて、きっと江戸時代に入ってから拡張されたんだろうなぁ・・・と思ってみたりして。

そして、私たちが車を停めたこの案内板の前の小さなスペースは、どうやら坂下門上の井戸のある曲輪らしい。

そう思って回りを見渡してみると、道の曲がり具合や登り具合がいかにも枡形という感じの風格。

でも、2人して一所懸命照らし合わせてみたんだけど、どう見ても目に見えている土塁の配置と案内板での位置関係が合わないんだけどなぁ・・・見方が悪いのかな。。。


首をかしげながらも、ともかく案内板の中で「現在地」と書かれているところから二の丸に向って、右手方向に大手登城道を登っていくことに。

この道には、案内図によると二の丸に向って左側(本丸斜面側)に空堀があるはず。
でも、季節柄、藪がぼうぼうで普通の斜面にしか見えない・・・んん?!

斜面の中に一筋の「藪のない部分」が。これは!






と、坂をさらに駆け上がっていくと、果たして二の丸と本丸の間を隔てる空堀が、曲輪間をつなぐ土橋とともに出現☆

現在は土橋の上にコンクリートの橋がかかってますが(笑)

それでは、そのまま空堀を横目に見ながら緩やかな坂を上って二の丸へ。
二の丸は現在いかにも公園様の平地になっていますが、回りは薄~くはなっているものの土塁でぐるりと囲まれています。


そして、薄~くてわかりづらいのですが、一ヶ所土塁に切れ目が。
案内図と照らし合わせると、どうも稲荷祠に向う小道への虎口があった場所ではないかと思われます。

念のため稲荷祠を探してみたのですが、案内図に該当する小道はあったのですが、当の稲荷祠は確認できずでした。

ちなみに案内図の稲荷祠にあたる位置には、二の丸から同じくらいの高さの尾根が延びて削平地になっているのですが、反対に二の丸からその尾根に向う方向は土塁でふさがれていて虎口はないようです。なんとも不思議。




二の丸から本丸方向に転じると、先ほど空堀の底から眺めた土橋の上の橋(笑)。

案内図によれば、この橋の手前(二の丸側)に冠木門があったようなのですが、その形跡をまったく確認することができません。

同じく案内図によれば、橋の向こう側(本丸側)には台門という立派な門があったとされていて、おそらくこれが本丸大手門にあたるんだと思いますが、果たして橋の両側にかなり立派な土塁が見えてます。



で、さっそく喜び勇んで橋を渡って本丸に足を踏み入れると・・・

うぉー!土塁立派~!!
内側から見てこの規模の土塁が、しかも本丸曲輪をぐるん!と取り囲んでいるのは圧巻です♪




そして、曲輪広い~!!

土塁は非常に分厚くて堅固です。江戸城外濠の土塁とか駿府城の土塁とかのテイストを感じます☆

これは確実に江戸時代に入ってから改築されたのではないかというニオイがぷんぷん(笑)




土塁ウォーカーとしてはうれしい限り。しかもベンチまで用意されてるし(笑)
西側の土塁の上から外側を眺めると、大田原市街が一望の下に見渡せます。

だからなのか、こんなカンカン照りの夏の真昼間なのに、なぜか本丸内や土塁の上を歩いている人々が何組も(中には外人さんのグループも!)~☆

まぁ、眺望も聞くし、木陰も適度にあっていいお散歩コースか・・・

今は木々が生い茂っていて土塁は外側からはよくわかりませんが、このお城が機能していたころはおそらくこれほど木々はなくて、この土塁の上に土塀がめぐらされて城下に威容を誇っていたのだと思われます。

そして、本丸の台門とは反対側に裏門の虎口があります。


土塁が一部削られてしまって形が損なわれていますが、右側はもともとは木が生えているところまでが土塁だったものと思われます。

さてさて、本丸で土塁ウォークを堪能した後は、裏門虎口から下へ降り、左に進めば元の案内板のところへ戻るのですが、ここは右に進んで北曲輪へ進みます。

北曲輪も公園様に整備されているのですが、周囲は二の丸よりもしっかりとした土塁が取り巻いています。




土塁から外側を見ると、一段下がったところに北下曲輪が見えます。

案内図では、北曲輪の奥に虎口があって北下曲輪に降りられるようになっていて、さらに北下曲輪の搦手門から蛇尾川に降りられるように書いてあるのですが・・・

そこは確認できませんでした(^^;)
日光さんと散々探したんですけどね・・・やはり藪漕ぎまでしないと無理なのかな☆


北曲輪の外側のご機嫌な土塁の反対側は、本丸から落ちている切岸です。

写真ではなかなかちゃんと写せないのですが(木々が生い茂っているせいにしておこう)、相当な高低差があって、本丸内側からの高さも考え合わせると、相当な防御力だったと思わされます。



これまた案内図によると、先ほどの二の丸と本丸の間の空堀がこの北曲輪の東奥から始まっているようなのですが、その「始まり」がこの窪みです。



北曲輪から見ると何の気なしにするっと始まっているように見えるのですが、堀底側から見ると結構高さがあって、威圧感があります。

これは堀底道を通って北曲輪へ行こうとすると、正面をさえぎられて撃退されるというトラップ☆
すでに討ち取られてしまった感も・・・(笑)

この東側を通る空堀からは低い土塁越しではありますが、眼下に蛇尾川が見えます。
そして、そのまま進むと本丸の東側をぐるっとまわって・・・




元の、本丸と二の丸の間の土橋に到着~♪
文字通り、ぐるり大田原城、楽しんじゃいました。

この大田原城、今回は中世~近世の城郭と思われる、坂下門より内側の部分だけぐるっとまわりましたが、それだけでも結構見ごたえありましたね~!

でも、案内図からすると、今は市街地にかなり埋もれてしまっているかもしれないけど、坂下門外の部分も地形や道筋からたどってみるのも楽しそうなので、もう一度「お城・歴史散策」メインでじっくりまわってみたいな~!と思えたお城でした。



・・・でも、この後またノンストップ3時間で埼玉まで高速帰りしてしまって、普段あまり遠出のドライブはやらないワタシとしては、往復6時間怒涛の弾丸ドライブはやっぱ疲れた~!

そういうムリは、次回はやめましょね☆