2014年10月17日金曜日

松本城の、天守は、さらに遠い・・・☆

さてさて・・・(笑)

前記事にて、あちこち寄り道しながらやっと松本城の大手門枡形に入りまして、ここからいよいよ御城内でございます。

ここで、普通に松本城に行こうとする人は、この大手門枡形の場所からまっすぐ本丸に向って北上するところですが、へそまがりのワタシめはまだまっすぐ行きません☆



大手門枡形の両側には、今は埋め立てられてしまって跡形もありませんが、松本城の外堀に当たる「総堀」が三の丸を取り巻いていました。

かつてはその総堀の土手に沿っていたであろう、大手門枡形から左手にのびる道に「土手小路」という名前がみられます。

・・・現在、八十二銀行などのビルが立ち並んでしまっているあたりが総堀だったと思われるのですが、地形にも面影はみられません(^^;)

そして、気をつけなければいけないのは、土手小路は女鳥羽川沿いの道ではなくもう1本お城寄りの道で、本来の千歳橋は現在のものよりも北に向かって斜め左方向にかかっていて、八十二銀行のあたりから東向きに入る枡形だったらしいということです。

現在の千歳橋のクランクにだまされてはいけません☆

で、土手小路を枡形とは反対の西方向に向うと、西堀公園という小さな公園のところで北へ向かう道にぶつかります。

この道は昔からの道で、その東側の今では家々が立ち並んでいるあたりが西総堀です。

これまた跡形もなく埋め立てられてしまったのですが、1ヶ所だけ奇跡的に土塁が残っていて、「西総堀土塁公園」として保存展示がされています♪




・・・言われなければ、ただの生垣の小山です(^^;)

この土塁の写真、手前側が城内、向こう側が西総堀になります。
かつては、こんな土塁がずーっと水をたたえた堀に沿って、続いていたんですねぇ☆

すっかり埋め立てられてしまってほとんど跡形もない総堀ですが、北総堀残存土塁、東総堀残存土塁など、あといくつかは土塁が残っているようです。

西総堀土塁公園から、今度は「享保十三年秋改之図」という古図にも載っている、土塁の内側の古い道を北上すると、急に食い違いのような奇妙な交差点にぶつかります。




この交差点の、左側奥に向う道は古図にもある道で、今度は総堀の内側の「外堀」に沿って北上する道になります。

で、真正面の家と信号を挟んだ右側を奥に向う道は古図にはなく、そのあたりは外堀そのものだったようです。

次の写真はその「かつてはなかった」右奥に進む道を拡大したもの。

奥の車止めの向こう側が二の丸で、その手前は外堀が埋め立てられたところです。

先ほどの写真の家も含めて、堀の中だった!ということですが、あまりに劇的に跡形もなく埋め立てられているので、かろうじて二の丸との高低差から想像するのみです☆

そのまま、今度は左側の道を北上していくと、右手に蓮池、左手に観光バスが停まっている駐車場が見えてきます。

蓮池は外堀の一部が残ったもの。
そして駐車場のあたりから先に西不明門、そのまた先に馬出があったと古図には記載されているのですが・・・





・・・まったく影もカタチもありません~!
なんとか名残はないかと地形を追ってはみるものの、どうにも近年の造成のように見えますし。

かろうじて「松本城北不明門馬出跡」という案内板でわかるのみ、です(><)

ちなみに古図では、外堀があるために二の丸へは蓮池の奥の弁天島からぐるっと回って入るようになっていたんですが、現在は外堀が埋め立てられたため、二の丸へは蓮池の手前から入り放題(笑)

さて、今度は蓮池の奥から東へ曲がって、松本神社です。
松本神社は藩主戸田氏の祖神5柱を祀った神社なのですが、パンフレットによれば、その西側の道路に北不明門と馬出があったようです。





・・・が、例によって、まったくわかりません(笑)
神社の裏手が多少土地が下がっているので、あるいはそこが総堀だったのかもしれません。

ちなみに松本神社前交差点の角にある神社の井戸は、この前の記事でも書いた城下町湧水群井戸の1つで、澄んだ水が滔々と湧き出しています。

この神社裏手の土地の下がりを総堀とアタリをつけて、今度はそれに沿った道を東に向うと、やがて道の右手に「北馬場 柳の井戸」という井戸が現れます。

これも城下町湧水群井戸のひとつですが、その奥の駐車場の先に見えるのは・・・?!





こ、これぞ残存土塁の中で一番大きいという、北総堀残存土塁~!
そして駐車場は道路からも一段低くなっていて、間違いなく総堀を埋め立てた場所です!

このあたりからすぐ道がカーブしていて、パンフレットによれば北門馬出の出入り口の名残。
カーブの先にあるのが・・・




松本城北門馬出の名残!
左側が馬出の跡、右の低地が総堀の名残の低地、ワタシがいるのが馬出に渡る土橋の上です☆

今度は低地に降りて振り返ると、先ほどワタシのいた土橋。
この土橋の馬出と反対方向に、かつて北門があったようです・・・が、まったく判りません☆






低地の底には、これまた豊かな水量の「北門大井戸」があります。
が、この井戸は総堀を埋め立てた後に新たに作られた井戸だそうです。

ちなみにこの北門馬出のさらに東側にステ堀の残存土塁があるということだったんですが、宗教法人や民家の敷地内ということで、確認できませんでした(++)

お城の四方をぐるりと取り囲んでいた総堀はことごとく埋め立てられてしまったのですが、ここから先、お城の東側の総掘だけが残って、今でも水を湛えています。





この東総堀の水堀に沿って南下していくと、堀の向こう側、つまりお城側にみえる市役所のあたりに変な土盛りが・・・あれ、もしかして?





と思ってぐるっと回って堀を渡り、市役所東庁舎の南側で件の土盛りを探してみると、ぱっと見なんてことのない小さな築山ですが、脇に回ってみるとやはりこれが東総堀残存土塁♪

これは言われないと見落としますね~(^^;)

この残存土塁のあたりで水堀は終わってしまって、また総堀は埋め立てられてしまってます。
で、そのまま市役所の通りを南下していくと、道がくねっとカーブしている交差点が。。。

このカーブの先が東門のあった場所。そしてその先にはかつて松本城最大の馬出があったというのですが・・・





東門の井戸のほかには、やっぱり跡形もありません。
恐るべし、市街化☆

かつて馬出があったあたりを通る道が少しカーブしているのが、名残といえば名残なのかもしれません。

その道をさらにカーブしながら南下すると女鳥羽川を渡って一ツ橋小路につながる一ツ橋。





一ツ橋から女鳥羽川に沿って西に向っているのが、昔ながらの小店が立ち並ぶ縄手通りで、その先に通りぬけると元の大手門枡形に出ます。

というわけで、総堀にそってぐるっと一周終了~♪
いよいよ大名町を抜けて、今度こそまっすぐお城に向います(笑)




で、普通の観光客サマは大手門枡形からまっすぐ北上して、この場所で写真撮影などしながら何気にすたすたと二の丸や天守に向ってスルーしてしまうのですが、実はここはかつて総堀があって渡れませんでしたので、ここから二の丸に入るということはありませんでした。

で、どうしてたかというと、外堀に沿ってぐるっと回って、素敵な枡形を備えた太鼓門です♪




うん、入ったとたん真正面からこちらを向いている挟間がなんともいえませんね(^^;)

太鼓門から入って右手が二の丸御殿跡。発掘して出てきた礎石などの御殿跡を保存展示してます。







二の丸御殿跡の土塁の北東隅にある櫓台。登るとすぐ眼下に二の丸から三の丸に出る木橋を見下ろすことが出来ます。

ここでこの木橋を渡って二の丸から三の丸に出て、本丸の北側を内堀沿いに眺めながら回ることにいたします ← どこまでも素直に本丸に行かない(笑)






すると、二の丸と本丸の間に内堀が入り込んで両所を隔てているのがよくわかります。

そして、三の丸から直接本丸に直結している土橋。






土橋を通り過ぎてしばらく行くと、弁天島と、弁天島から本丸に渡る赤い埋橋が見えてきます。

本来でしたら埋橋を渡って埋門から本丸に入れるのですが、ちょうどこの時は埋門の石垣が崩れてしまって、その修復工事のために通行できませんでした。

で、国宝松本城天守を眺めながら、二の丸をぐるっとまわって・・・





黒門です。さぁ、やっといよいよ本丸までやってきました!

本丸の中から見る天守は、大天守、小天守、その間をつなぐ渡櫓、そして辰巳櫓と月見櫓もひっくるめた「複合連結式天守」な様子がばっちり真正面から見えて、二の丸から見る天守とまた趣が違ってよいです♪




大天守と小天守の間の渡櫓の下から、念願の登城!

松本城の内部のことについてはいろんな本や資料にあるのであまり触れませんが、これが天守からの風景。
すぐ下に工事中の埋門&埋橋が見えます☆






と、ワタシの大好きな月見櫓からの本丸石垣。
ちなみに、月見櫓はこんな感じ。




というわけで、一応所用を済ませながらの駆け足登城でしたが、それでも大手門枡形を入るまで、そして二の丸・本丸に入るまで本当に遠かった~!

本当はこんなカタチで登城なんてしないんでしょうけどね(笑)




というわけで、自分へのご褒美は、二の丸からぼーっと見た夕暮れの松本城天守です。
登城、お疲れ様でした!!


なかなかたどり着けない、松本城(笑)



久しぶりに所用で松本に行くことになりました。

・・・これは「城好き」の端くれを自称するワタシとしましては、松本城に行かないわけにはいかないですよね!

ってことで、用事の合間を縫って、久しぶりに「スーツ de 城攻め」敢行~!


で、まずは松本のマンホール。手まりの柄がかわいい♪

白黒のふたがほとんどですが、結構カラーのふたもあちこちに見られて、さすが観光都市☆

松本手まりは、江戸時代の中ごろに松本藩の武士の家の女性や子供が家計を助けるために作り始めたと言われている、松本の代表的な民芸品なんだそうです。

全然知らなかった~!(^^;)


さて、松本城といえば、「国宝松本城天守」。

だから、普通は皆さん天守を目指して、城址として整備されている二の丸~本丸に行っておしまい・・・ということが多いのですが、ワタシの場合、なかなか本丸までたどり着けないところがミソ・・・☆


まず、松本駅の観光案内所で松本城下の案内パンフレットをゲット♪

これがなかなかの優れモノで、江戸時代の享保13年(1728年)に描かれた城と城下町の全域の絵図「享保13年秋改之図」を今の地図に重ねたものが載せられているので、現在の町並みが江戸時代にはどうなっていたのかを見ながら回ることができるのです~!




これによると、現在城址として整備されているのは濃い青で塗られた現存する水掘(内堀)で囲まれた①の本丸とそのまわりの二の丸だけなのですが、実はその周りの、現在は市街地となっているところも、かつては4ヶ所の馬出しを備えた総堀で囲まれた城域だったようです。

そして、今でも所々にその頃の面影も残っていそうな・・・?

この「享保13年秋改之図」にある近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の縄張りは、天文19年(1550年)に武田信玄が信濃に侵攻して、松本城の前身である守護小笠原氏の深志城を整備し、信濃経営の兵站基地としていた33年間の間にほぼ出来上がっているのだそうです。

ちなみに、天正10年武田氏の滅亡により旧地を回復した小笠原氏により、深志城の名が松本城と改められたそう。

なので、江戸時代に近世松本城の出入口として使われていた4ヶ所の馬出しも、武田氏時代に築かれたもの。

ということは、「自称城好き」としては、これは 総堀から見ていかねばならんでしょ~!


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 というわけで、松本駅のお城口から北に向うと、古くから松本と飛騨高山を結ぶ道であったという野麦街道に出ます。

町の中心近くを通るこの写真のあたりでは古道の面影は微塵もありませんが、まっすぐ伸びる車道と歩道の境に、湧き水の豊富な松本らしく水路を通して風情を演出しています。



そして、その野麦街道が松本市外を南北に通過する善光寺街道にぶつかる場所にあるのが、この牛つなぎ石。

戦国時代、武田氏の駿河侵攻に伴って今川氏が甲斐への塩止めを行った際に、上杉氏は武田氏に塩を送ったとされる「敵に塩を送る」のエピソードで、塩を運んできた牛をつないだとされる伝説の石です。

街道と街道の交差するところにある故に、生まれた伝説なのかもしれませんね~。
それとも、本当に街道を行きかう荷駄の牛をつないだりした石なのかな?

野麦街道から善光寺街道に入って北を向くと、まもなく女鳥羽(めとば)川の流れにかかる千歳橋
にさしかかります。

善光寺街道はこの千歳橋の手前で一度東にそれて、曲がったところが、中町通りです。

松本城下町は三の丸とその外側が武家屋敷、その外側をぐるっと回って城を迂回しながら北上する善光寺街道沿いに町人町が集中していて、その町人町はさらに「親町三町・枝町三町・二十四小路」で構成されていました。

この中町通りは、そのうちの「親町三町」本町・中町・東町のうちの中町があったところです。
現在は、昔っぽい風情の土蔵作りの店が立ち並ぶ商店街になってます。





面白そうなので登城前にちょっと街道沿いに歩いてみると・・・
中町通りに直角に交差する一ツ橋小路との交差点が、しっかりと食い違ってる!

この一ツ橋小路は現在でもすごく細い小路ですが、松元城の東門にまっすぐつながる道となっていたので、防御のためにわざとしっかり食い違いにしてあったのかな。。。

一ツ橋小路からもう少し東に進むと、善光寺街道は本立寺小路のあたりで直角に曲がって北上し、女鳥羽川を渡って東町に入って行きます。

そしてしばらく北上して、かつて井戸が2つ設けられていたことから名前のついた二ツ井戸小路と交わるところが、城下町で一番大きな鉤の手だったところだそうです。

今はまっすぐ道路が付け替えられていて、鉤の手の面影はS字状のカーブに残っているというのですが・・・実地ですらよくわからなくなってます。写真のせいじゃない~☆(笑)

なお、ここにはかつて木戸が設けられていて、木戸の内側には番所もあったということです。







二ツ小路からさらに北に進むと、右手に長称寺小路という小路が現れます。
この小路を東に進むと、行き止まりにあるのが木曽山義仲院長称寺。

木曽山・義仲院という名前から木曽義仲と何か縁があるのかな~?と思ったら、パンフレットによればこのお寺の開祖は木曽義仲の子の旭冠者義基であったといわれているそうで、寺宝に白旗十字名号、義仲太刀、義基懐剣があるとのこと。

パンフレットにもあるくらいだから、行ったらもしかしたら寺宝の展示とかしてるんじゃないかな?と思ってお寺を訪ねてみましたら、縁はあるかもしれないけど何もお見せできるものありませんよ~と、お寺の方にやんわりと断られてしまいました(TT)スゴスゴ・・・

それにしても、松本の城下町は湧き水が豊富なようです。

歩いていると、あっちにもこっちにも無造作に(笑)井戸があって、生活に使われているようです。







あちこちから湧き出した水は、豊かな水量で町のあちこちを流れていきます。
土蔵造りの建物とあいまっていい雰囲気を醸し出しています(^^)



松本市内の多くの井戸は「まつもと城下町湧水群」ということで、環境省の「平成の名水百選」のひとつに選ばれています。

善光寺街道とはちょっと離れますが、中町通りより南側の町中にある「源智の井戸」はその代表的なもので、代々の領主が不浄なき旨の制札を出して保護したといわれていて、今でも多くの人が水汲みに訪れているんだそうです。

また、地元の方々も注連縄を張り替えたり、早朝の清掃、ごみ拾いなど、水質保全に協力しているそうで、だからこの綺麗な水と豊かな水量が確保されてるのかもしれません。

この湧水群の井戸には、他にも水道水源として使われたり、酒造りに使われている井戸なんかもあったりします。

美味しいお酒造りには綺麗なお水は欠かせないですもんね♪(*^^*)



さてさて、すっかり善光寺街道に寄り道しちゃいましたが、もう一度中町通りに曲がる前の千歳橋にもどりまして・・・

この千歳橋を渡ったところが、かつて松本城の大手門枡形のあった場所になります。

写真は、千歳橋の上から、枡形のあった方向(松本城方向)を撮ったところ。
ここは道の残り方が複雑で、理解するのに苦しんじゃいました~!




現在、道は銀行の建物にぶつかって右によけるクランク状になっていますが、パンフレットの地図によると、枡形自体は建物の右側の道からその右側の木々が見える場所あたりにあって、大手門を通る道は建物のあたりから直角に右に折れて枡形に入り、枡形で折れて城に向ったようです。

このあたりでは大手門枡形跡の発掘調査が行われたらしく、枡形跡とされる空き地と発掘調査の案内板がありました。



その案内板にあった松本城と城下町の復元地図です。
これで見ても、かつて枡形があった場所の位置関係がよくわからない~!




というのも、地図をよく見ると、千歳橋のかかる女鳥羽川と大手門枡形の間の両側にかつて総掘があったようなんですが、現在は埋め立てられてしまったのか、微塵も面影が見て取れません。

枡形跡の東側の総堀は、おそらく現在の四柱神社の境内になっているのではないかと思われます。

これが、その四柱神社。明治5年(1872年)に設置されて、現在の場所に社殿が造営されたのは明治12年(1879年)ということなので、割合に新らし目の神社です。





そして、この四柱神社の境内にある御幸橋は、明治13年(1880年)6月の明治天皇の巡幸にあわせて作られたのだそうで、すぐそばにあった大手門枡形の石垣の石を使っているのだそうです。

ちなみに、御幸橋はもともと総掘にかかっていたのだと思われますが、現在総堀は埋め立てられてしまったのか、御幸橋の下には掘や水はなく、そこから不自然なくらいほんの目と鼻の先に女鳥羽川が流れています。

不自然なのも道理で、この女鳥羽川、地図でもかなりぐいっと松本城に向って曲がっているのですが、これは松本城を整備している中で、松本城の堀の機能を果たすために武田氏の土木技術により人工的に流路を変更されているのだということです。

またもさてさて(笑)。

ワタシの場合、なかなかたどり着けない松本城(笑)
こーんなにもかかって、まだやっと大手門枡形。普通ならここからまっすぐ本丸に向って登城するところですが、へそまがりのワタシめはまだまっすぐ行きません☆

ということで、この続きはまた次の記事へ・・・(^^;)