2014年10月17日金曜日

なかなかたどり着けない、松本城(笑)



久しぶりに所用で松本に行くことになりました。

・・・これは「城好き」の端くれを自称するワタシとしましては、松本城に行かないわけにはいかないですよね!

ってことで、用事の合間を縫って、久しぶりに「スーツ de 城攻め」敢行~!


で、まずは松本のマンホール。手まりの柄がかわいい♪

白黒のふたがほとんどですが、結構カラーのふたもあちこちに見られて、さすが観光都市☆

松本手まりは、江戸時代の中ごろに松本藩の武士の家の女性や子供が家計を助けるために作り始めたと言われている、松本の代表的な民芸品なんだそうです。

全然知らなかった~!(^^;)


さて、松本城といえば、「国宝松本城天守」。

だから、普通は皆さん天守を目指して、城址として整備されている二の丸~本丸に行っておしまい・・・ということが多いのですが、ワタシの場合、なかなか本丸までたどり着けないところがミソ・・・☆


まず、松本駅の観光案内所で松本城下の案内パンフレットをゲット♪

これがなかなかの優れモノで、江戸時代の享保13年(1728年)に描かれた城と城下町の全域の絵図「享保13年秋改之図」を今の地図に重ねたものが載せられているので、現在の町並みが江戸時代にはどうなっていたのかを見ながら回ることができるのです~!




これによると、現在城址として整備されているのは濃い青で塗られた現存する水掘(内堀)で囲まれた①の本丸とそのまわりの二の丸だけなのですが、実はその周りの、現在は市街地となっているところも、かつては4ヶ所の馬出しを備えた総堀で囲まれた城域だったようです。

そして、今でも所々にその頃の面影も残っていそうな・・・?

この「享保13年秋改之図」にある近世松本城の本丸・二の丸・三の丸の縄張りは、天文19年(1550年)に武田信玄が信濃に侵攻して、松本城の前身である守護小笠原氏の深志城を整備し、信濃経営の兵站基地としていた33年間の間にほぼ出来上がっているのだそうです。

ちなみに、天正10年武田氏の滅亡により旧地を回復した小笠原氏により、深志城の名が松本城と改められたそう。

なので、江戸時代に近世松本城の出入口として使われていた4ヶ所の馬出しも、武田氏時代に築かれたもの。

ということは、「自称城好き」としては、これは 総堀から見ていかねばならんでしょ~!


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 というわけで、松本駅のお城口から北に向うと、古くから松本と飛騨高山を結ぶ道であったという野麦街道に出ます。

町の中心近くを通るこの写真のあたりでは古道の面影は微塵もありませんが、まっすぐ伸びる車道と歩道の境に、湧き水の豊富な松本らしく水路を通して風情を演出しています。



そして、その野麦街道が松本市外を南北に通過する善光寺街道にぶつかる場所にあるのが、この牛つなぎ石。

戦国時代、武田氏の駿河侵攻に伴って今川氏が甲斐への塩止めを行った際に、上杉氏は武田氏に塩を送ったとされる「敵に塩を送る」のエピソードで、塩を運んできた牛をつないだとされる伝説の石です。

街道と街道の交差するところにある故に、生まれた伝説なのかもしれませんね~。
それとも、本当に街道を行きかう荷駄の牛をつないだりした石なのかな?

野麦街道から善光寺街道に入って北を向くと、まもなく女鳥羽(めとば)川の流れにかかる千歳橋
にさしかかります。

善光寺街道はこの千歳橋の手前で一度東にそれて、曲がったところが、中町通りです。

松本城下町は三の丸とその外側が武家屋敷、その外側をぐるっと回って城を迂回しながら北上する善光寺街道沿いに町人町が集中していて、その町人町はさらに「親町三町・枝町三町・二十四小路」で構成されていました。

この中町通りは、そのうちの「親町三町」本町・中町・東町のうちの中町があったところです。
現在は、昔っぽい風情の土蔵作りの店が立ち並ぶ商店街になってます。





面白そうなので登城前にちょっと街道沿いに歩いてみると・・・
中町通りに直角に交差する一ツ橋小路との交差点が、しっかりと食い違ってる!

この一ツ橋小路は現在でもすごく細い小路ですが、松元城の東門にまっすぐつながる道となっていたので、防御のためにわざとしっかり食い違いにしてあったのかな。。。

一ツ橋小路からもう少し東に進むと、善光寺街道は本立寺小路のあたりで直角に曲がって北上し、女鳥羽川を渡って東町に入って行きます。

そしてしばらく北上して、かつて井戸が2つ設けられていたことから名前のついた二ツ井戸小路と交わるところが、城下町で一番大きな鉤の手だったところだそうです。

今はまっすぐ道路が付け替えられていて、鉤の手の面影はS字状のカーブに残っているというのですが・・・実地ですらよくわからなくなってます。写真のせいじゃない~☆(笑)

なお、ここにはかつて木戸が設けられていて、木戸の内側には番所もあったということです。







二ツ小路からさらに北に進むと、右手に長称寺小路という小路が現れます。
この小路を東に進むと、行き止まりにあるのが木曽山義仲院長称寺。

木曽山・義仲院という名前から木曽義仲と何か縁があるのかな~?と思ったら、パンフレットによればこのお寺の開祖は木曽義仲の子の旭冠者義基であったといわれているそうで、寺宝に白旗十字名号、義仲太刀、義基懐剣があるとのこと。

パンフレットにもあるくらいだから、行ったらもしかしたら寺宝の展示とかしてるんじゃないかな?と思ってお寺を訪ねてみましたら、縁はあるかもしれないけど何もお見せできるものありませんよ~と、お寺の方にやんわりと断られてしまいました(TT)スゴスゴ・・・

それにしても、松本の城下町は湧き水が豊富なようです。

歩いていると、あっちにもこっちにも無造作に(笑)井戸があって、生活に使われているようです。







あちこちから湧き出した水は、豊かな水量で町のあちこちを流れていきます。
土蔵造りの建物とあいまっていい雰囲気を醸し出しています(^^)



松本市内の多くの井戸は「まつもと城下町湧水群」ということで、環境省の「平成の名水百選」のひとつに選ばれています。

善光寺街道とはちょっと離れますが、中町通りより南側の町中にある「源智の井戸」はその代表的なもので、代々の領主が不浄なき旨の制札を出して保護したといわれていて、今でも多くの人が水汲みに訪れているんだそうです。

また、地元の方々も注連縄を張り替えたり、早朝の清掃、ごみ拾いなど、水質保全に協力しているそうで、だからこの綺麗な水と豊かな水量が確保されてるのかもしれません。

この湧水群の井戸には、他にも水道水源として使われたり、酒造りに使われている井戸なんかもあったりします。

美味しいお酒造りには綺麗なお水は欠かせないですもんね♪(*^^*)



さてさて、すっかり善光寺街道に寄り道しちゃいましたが、もう一度中町通りに曲がる前の千歳橋にもどりまして・・・

この千歳橋を渡ったところが、かつて松本城の大手門枡形のあった場所になります。

写真は、千歳橋の上から、枡形のあった方向(松本城方向)を撮ったところ。
ここは道の残り方が複雑で、理解するのに苦しんじゃいました~!




現在、道は銀行の建物にぶつかって右によけるクランク状になっていますが、パンフレットの地図によると、枡形自体は建物の右側の道からその右側の木々が見える場所あたりにあって、大手門を通る道は建物のあたりから直角に右に折れて枡形に入り、枡形で折れて城に向ったようです。

このあたりでは大手門枡形跡の発掘調査が行われたらしく、枡形跡とされる空き地と発掘調査の案内板がありました。



その案内板にあった松本城と城下町の復元地図です。
これで見ても、かつて枡形があった場所の位置関係がよくわからない~!




というのも、地図をよく見ると、千歳橋のかかる女鳥羽川と大手門枡形の間の両側にかつて総掘があったようなんですが、現在は埋め立てられてしまったのか、微塵も面影が見て取れません。

枡形跡の東側の総堀は、おそらく現在の四柱神社の境内になっているのではないかと思われます。

これが、その四柱神社。明治5年(1872年)に設置されて、現在の場所に社殿が造営されたのは明治12年(1879年)ということなので、割合に新らし目の神社です。





そして、この四柱神社の境内にある御幸橋は、明治13年(1880年)6月の明治天皇の巡幸にあわせて作られたのだそうで、すぐそばにあった大手門枡形の石垣の石を使っているのだそうです。

ちなみに、御幸橋はもともと総掘にかかっていたのだと思われますが、現在総堀は埋め立てられてしまったのか、御幸橋の下には掘や水はなく、そこから不自然なくらいほんの目と鼻の先に女鳥羽川が流れています。

不自然なのも道理で、この女鳥羽川、地図でもかなりぐいっと松本城に向って曲がっているのですが、これは松本城を整備している中で、松本城の堀の機能を果たすために武田氏の土木技術により人工的に流路を変更されているのだということです。

またもさてさて(笑)。

ワタシの場合、なかなかたどり着けない松本城(笑)
こーんなにもかかって、まだやっと大手門枡形。普通ならここからまっすぐ本丸に向って登城するところですが、へそまがりのワタシめはまだまっすぐ行きません☆

ということで、この続きはまた次の記事へ・・・(^^;)