2013年8月10日土曜日

鎌倉街道上道と苦林野古戦場

先日、女影ヶ原古戦場小手指ヶ原古戦場を回ったときに、それぞれの古戦場と鎌倉街道上道古道の関わりにおおいに興味をそそられてしまったので、ほかにも埼玉県内の鎌倉街道沿いに古戦場がないかな~☆と探してみたら・・・

ありましたありました!女影ヶ原から鎌倉街道を北上すると、毛呂山町に「苦林野古戦場」。
南北朝時代の北朝貞治2年(1363年)に鎌倉公方足利基氏の軍勢と下野の豪族芳賀入道禅可が戦った古戦場とのこと。

さらに調べると・・・女影ヶ原から苦林野へと北上する途中の鎌倉街道は非常に良好な状態で遺構が残っているとの情報が・・・!

これは行ってみるっきゃないでしょー☆

ということで、日を改めてのこのこと車を飛ばして出かけました。

まずは東武越生線の西大家駅のあたりに鎌倉街道の遺構があるらしいというネット情報をたよりに行ってみると・・・

西大家駅というのは単線の非常にひなびた駅で、車の置けそうな場所も見当たらない!
それどころか、お目当ての場所の方向には車の通れるような道もなさそうな・・・

しかたなく、駅から少々南にある「町屋自治会館」の庭にそっと車を停めて歩きだしたところ・・・
いきなり?!



「鎌倉街道(上道)」の看板!
しかも「ここの南北に掘り割り状になっている所」って、これのことですか~?




 前(左)の写真が看板からみて「南」で女影ヶ原の方角、後ろ(右)の写真は「北」で、まっすぐ行けば西大谷駅にぶつかる・・・はず。

でも、確かに鎌倉街道の「掘割状遺構」と言われればそうかもしれませんが、素人目にはどうみても、単なる用水路(笑)

とりあえずこの「掘割状遺構」を横目に見ながら、当初予定通り西大谷駅に向うと・・・ありました!
西大谷駅の前の県道74号線の踏み切り脇に鎌倉街道の説明板と、先ほどの続きの「掘割状遺構」。



ここまでくると、もうなんだか普通の水路(笑)

地図をみると、「鎌倉街道」はこのあと西大谷駅の北側からは舗装道路(後(左側)の写真の奥の道)となって続いているようです。

なので、また自治会館にもどって、今度は車で道の先をたどることにしました。

道は緩やかに下っていき、森戸橋で高麗川を渡って、田んぼの中を緩やかに上っていきます。
そして河岸段丘の斜面でぐっと右にカーブするのですが、そのカーブの入り口あたりに民家の間をまっすぐに入っていく道があります。

これがどうやら鎌倉街道の「切り通し跡」のようです。

車の轍もみえるし、一見軽トラも入っていくような普通の畑道にもみえるので、車で入ろうかどうしようか迷ったのですが、民家の庭に入り込んじゃったら大変なので、またも車を降りて歩いてみることに。




・・・いや、車降りてよかったっす。
歩き始めて50mもしないうちにこのとおり、道なき道(後(右側)の写真)ですもん。

はっきりいって轍どころか膝丈まである草ぼうぼう!
一足歩くたびに足元からバッタぴょんぴょんで、とてもサンダルシューズで歩く道ではなかったですね~(笑)

というか、いくら車で回るといってもちょっと侮りすぎではあったんですけど・・・(汗)

この「道なき道」をさらに北に進むと、県道川越越生(114号)線につきあたります。

道は県道を越えた先にもつながっているようなのですが、これまた車で行くには狭そうで、しかも地図を見ると途中で本来の「鎌倉街道」ルートから大きくそれてしまうようなので、再度車に戻り、次の「掘割状遺構」へ。


この場所には、鎌倉街道の遺構としては県内でももっとも良好な状態で残っている場所だそうです。

鎌倉街道をたどってはいけないので、県道114号線を多少西に行って、「市場」という地名の農家の立ち並ぶ一角の細い道に地図をたよりにくねくねと入り込み、なにか学校の寮のような(地図には「光風寮」とありましたが・・・)建物の前の道がくねっと曲がったあたりに、突然この「鎌倉街道遺跡」の道標が現れます。

道標には「ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」とあります。



んむむむむ~!
いったいこの標識「向って右」とは、どの面にむかって右側なんだろう~?

再度地図に向うと、どうもこの標識の後ろに広がる林を突き抜けて行くと、先ほどの「切り通し跡」から県道114号線を通り越して続いている道にぶつかりそうな気配。

道標にも「林中の道」と書いてあるしなぁ、と林の右側に視線を転じると・・・




どーん!と広がるのは、どうみてもこれが街道の遺構なんじゃないかって思えるような切り開かれた場所。。。

玉川学園多賀譲治さんのサイト「これが最初(ホント)の鎌倉街道」や「道・鎌倉街道探索日記」というサイトの鎌倉街道の説明ページに引用されている埼玉県教育委員会の歴史の道調査報告書によると、鎌倉街道の規格は道幅約6メートル、両側または片側に幅・高さとも約2メートルの崖状の塁または土手を築いているもののようです。

これは乗馬した状態でも進軍が分からないための目隠しとも言われています.なので、台地や原野では道の両側に土手を築くことがあるし、尾根や坂道では掘割状の凹道となっているようです。

・・・というところからすると、この場所はちょっと広すぎるような気もするけれど、両側に塁があるようにも見えるし、もしかしたら元は林の中にあったものを見えるように切り払ったのかもしれませんね。

この道を、もしかしたら新田義貞や北条時行が軍勢を率いて駆け抜けて行って、その後の女影ヶ原や小手指ヶ原の戦いに望んだのかと思うと、身震いするような感動を覚えます・・・☆


さて、この場所でくるりと後ろを振り向くと、道は低い土塁を伴いながら林の中をさらに北の方角に続いています。




この先は、道は細いながらもなんとか車1台分の広さで続いているので、少し乗っては降りて歩いてまた乗って・・・を繰り返しながら進んでいくと、やがて県道39号線に突き当たります。

この39号線を左側、西に向かって3~4kmほど行ったところには流鏑馬で有名な延喜式内社の出雲伊波比神社があります。

もともとこのあたり「毛呂山」という地域は、源頼朝の側近として使えた季光を祖とする毛呂氏が代々地頭として治めた地です。

毛呂氏はその後戦国末期には小田原北条氏に属し、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城の支城の八王子城の守備を任じられ、その落城とともに滅びてしまうのですが、それまでの間、鎌倉幕府、室町幕府の鎌倉府、そして小田原とをつなぐ重要な道として整備され、使われ続けていたのではないでしょうか。

ちなみに県道39号線を反対の右側、東に向かってすぐのところには毛呂山町歴史民族資料館があって、鎌倉街道についても多少展示物があります。



この地図も、展示されていたものを撮ってトリミングしたものです。
赤い線の部分が鎌倉街道の今回歩いた部分になります。

県道39号線を横切ってさらに鎌倉街道古道の細道を北上すると、まもなく左手にとっても気になる土塁様の構造物が・・・?



土塁の向こう側はどうやら埼玉医科大学川角キャンパスらしいのですが、しっかり折れもあるし姿かたちといい何かいわくありげでなんですが、手元の資料にはこれに触れたものが何もないので、余計に気になります。何なんだろう?

この先はまた低い土塁を伴った道が林の中にまっすぐ続いていきます。

またのこのことゆっくり車を走らせたり降りて歩いたりしていると、東西に走るこれまた古そうな道に交差します。

この道を西に進むと「延慶の板碑」があるそうです。

鎌倉時代延慶年間の紀元銘が刻まれた3メートルもある大きな板碑で、今あるのは移設された場所だそうなのですが、もとあった場所を発掘したところ刀傷のある火葬骨の入った古瀬戸の瓶子が出てきたそうです。

いかにもこの地が鎌倉時代に「武士の地」として栄えていたのか・・・なんて、こんなところでも想像力を働かせてしまいます(笑)




この「延慶の板碑」に続く道と鎌倉街道が交差するあたり、どうも妙に人工的な塚がいくつもあるな・・・と思ったら、このあたりは「川角古墳群」なんだそうです。

そして、その塚の1つのてっぺんには庚申塔が。。。

中世の道「鎌倉街道」とその傍らの古代の古墳群、そしてその古墳の上の近世の庚申塔・・・
この道の機能してきた「時間」をしみじみと感じてしまう光景です。

このままこの鎌倉街道を北に向かっていくと、やがて道は県立毛呂山特別支援学校の脇をとおり、鎌倉街道苦林宿のあった場所ではないかといわれている堂山下遺跡のある大類グラウンドの先で舗装道路にぶつかって途切れています。

本来ならば、道はこの先の越辺川を渡ってさらに北上し、畠山重忠の居城のあった菅谷を通って上州へと続いていたといいます。

そう考えると、名だたる武将たちが「いざ鎌倉」と行きかっていた重要な道だったんだなぁ・・・と改めて実感です・・・!




で、この大類グラウンドの東側に広がる畑地が、実は苦林野古戦場だった・・・らしいのです。

苦林野合戦というのは最初にも書いたとおり、当時関東最強の武士だった宇都宮氏の家臣で越後守護職だった芳賀入道禅可が一方的に守護職をおろされたことへの不満から、入間川御所に滞陣していた鎌倉公方・足利基氏と激戦を繰り広げたもので、その合戦の模様は太平記の合戦絵巻にも残されているようです。

・・・が、今は写真の「神明台の石仏群」数基の庚申塔や馬頭観音、板碑の他にはなーんにもありません。

まぁ、こういう川を背後にしただだっ広いところで戦ったんだなぁ・・・と想像するにとどまります。。。



苦林野古戦場の案内板と追悼碑はちょっと離れた別の場所にあります。

行ってみるとちょっとした塚の上にのっていて、案内板によれば太平記に「小塚の上に打ちあがりて」とあるのはここのことかもしれない、ということですが、この塚よくよくみると・・・

実に見事な前方後円墳!

案内板めがけて塚を登っていって、そこで改めて塚を見渡してみて初めて気がつきました☆

案内板のあるところが前方部分で、江戸時代に建てられた追悼碑があるのが後円墳部分。。。

あー、びっくりした・・・!(笑)







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