2012年8月28日火曜日

後閑城は、討ち死に続出?

さて、その「城ガール隊」を通じて知り合った群馬在住のあいすさんと、ある日Twitterを通して話しているうちにどちらからともなく「群馬か埼玉のお城攻めたいね!」という話になりました。

お互い「城攻め初級」なので、さぁどこを攻めようか・・・?

決めかねながらTweetを重ねていたら、その会話をフォローしていた2人の城好きさんが一緒に参加してくれることになり、あいすさんが車を出してくれることになって、4人で群馬の山城を回ることになりました。


で、日帰りで回ることにしたのが後閑城と箕輪城。


当日は高崎駅に集合し、あいすさんの車に乗り込んで、まずは後閑城へ向かいました。



後閑城は群馬県安中市にあります。

あいすさんに調べていただいた「歴史」によると、後閑城の築城は嘉吉、文安の頃(1445年頃)、依田忠正で、その後新田氏(後閑氏)、武田氏、後北条氏と移り、天正18年後北条氏滅亡とともに廃城となったと推定されているようです。

この後閑城のある西上野(こうずけ)のあたりは、越後上杉氏の勢力下にあったところに武田氏の侵攻が行われ、また武田氏滅亡後は滝川一益、そして後北条氏の勢力が伸びてくるなど、各勢力の最前線に位置していたのではないかなぁ・・・という土地です。

確かにすぐ近くに松井田城や安中城、板鼻城といった城跡が集中してますね。

左の写真は後閑城の縄張り図です。

縄張り図というのは、いわば城の測量図というか土地造成の設計図というか、地図というか・・・

今回はこの図を見ながら実際に後閑城跡を歩いてみました。

縄張り図の右側の方に車を停めて登っていくと、ちょうど縄張り図中二手に曲輪が分かれて書かれている間を登っていくことになります。

ということは、実際にはそこから攻め上っていく軍勢の両側上方に曲輪があって、そこからの攻撃をもろに喰らってしまうということで・・・

先頭きって登っていった城好きさん2人は、世が世ならそこで討ち死に?(笑)


 

坂を登り切ると、そこは真ん中の写真の堀切です。
そして本丸の北側(縄張り図の上側)にまわると、すごく綺麗に整備された堀と曲輪が出現します。
今回案内をしていただいた城好きさんの1人、城郭研究者のサイガ先生によると、後閑城の北側から攻めやすい地形になっているので、そちら側に対して堀と土塁を何重にも巡らせて防備を固める構造になっているのだということです。






実際、この堀や曲輪を見た後に次の写真のこの堀切までやってきて、縄張り図を手にしていたにもかかわらず「この斜面をかけのぼったら本丸近道だ!」と思い込んで、一目散に駆け上っていった私・・・




いざ土塁の上までたどり着いてみたら・・・実はそこは本丸直下の堀切に面した土塁の上。
その上の本丸から狙い撃ちだぁ!




左の写真が、私の駆け上った土塁をぐるりと回ってくるサイガさんとあいすさん。
そして真ん中の写真の高台が本当の本丸。
右側の写真は本丸から当の土塁を見下ろしたところ・・・

つまり私めは世が世なら、一番槍の手柄を立てようと焦って、土塁の上に立ったところを本丸から狙い撃ち。

あえなく討ち死に第2号となった訳でした(笑)



この3枚の写真は後閑城の本丸跡です。
百基の庚申塔が立ち並んでいて、あずま屋も建っています。
また、焼き物の立体模型も置いてありました。



本丸から今度は反対側に降りていくと、本丸と二の丸を分断する大堀切に出ます。


 

真ん中の写真右側の高台が本丸です。
そして大堀切を挟んで向かい側が左の写真、二の丸になります。

物見櫓らしき建物が建っている二の丸と本丸の高台は元は続いていたのが、人工的に大堀切によって分断されているようなのが見て取れます。
そして不用意にこの大堀切に入ってしまうと・・・右側の写真、あいすさん物見櫓の上にいる私から討ちとられてしまいました~!


歩いてみると、敵に攻められたときに必ず複数方向から狙うことができる構造になっていて、すごく戦いを意識した造りになっているのがよくわかるお城でした。


この後、箕輪城へ向かうのですが、長くなりましたのでまた次回に・・・



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