で、その場で「ぜひ行きたい、行こう行こう!」という話になり、そのとき一緒に参加していた東海の城好きさんたちも含めて秋に踏査に行くという話がその場でまとまった・・・ようなんですが。
以前はそんなことなかったのに、近頃お酒を飲むと記憶が吹っ飛んでしまうワタシ☆
今回もまた「やっちゃった」らしく、「秋に行く」話が思いっきりアタマからすっぽ抜けてて、秋の予定では都合が悪いので早めに行こうというツイッターフォロワーのtantanさんのお誘いにちゃっかり便乗することにしちゃったのでした。。。
ま、どちらにしても、秋のその時期はワタシも都合がどうなるかまだわからないし・・・秋の踏査にもご一緒できるのなら、これが「下見」ということで(^^;)
そんなわけで、阿津賀志山防塁まではるばる車で片道4時間の行程を日帰り爆走旅と相成りました☆
阿津賀志山防塁は福島県と宮城県の県境に近い国見町にある、平安時代末期の防塁(防御用の堀や土塁、またそれらをめぐらせた砦)の跡です。
鎌倉幕府による文治5年(1189年)の奥州征伐(奥州合戦)で、源頼朝軍と迎え撃つ奥州藤原氏の軍が、福島盆地の北端に位置する阿津賀志山(現:厚樫山 標高289m)の周辺で戦った「阿津賀志山の戦い」の際に、奥州藤原氏の防御施設として使用されたもので、阿津賀志山の中腹から阿武隈川までの約4kmの距離に築かれていたと推定されています。
ワタシと同じく埼玉県民のtantanさんの車で東北道をひた走り、途中那須高原SAでメープルシロップがたっぷり入った「もちもちドーナツ」とコーヒーを堪能しながらひとやすみなんぞしながら、まずは福島県国見町観月台文化センターに到着。
実はtantanさんが事前に国見町に問い合わせて資料を取り寄せてくれてたのですが、そのときに親切に対応してくれたのがこの観月台文化センターだったのだそうです。
また、ブログでいろいろ検索したら、どうもこの文化センターの歴史資料室には防塁のジオラマがあるらしいのです♪
ならば最初に立ち寄って、ジオラマや資料でお勉強してから現地に臨もう!と中に入ってみると・・・なんか様子が変?
なんかパーテーションでいろいろ区切られてごちゃごちゃしてるし、振り返るとそこにあったドアの上に掲げられた表札に書いてあるのが「町長室」?!
よくよく受付らしきところで聞いてみると、東日本大震災で町役場が被害を受けてしまい、この文化センターに避難してきてるのだそう。
よって、歴史資料室も現在非公開、だそうです。。。残念!
後でもともとの町役場の場所を通りかかりましたが、敷地内に重機が入っているものの、すっかり更地になっていました。秋にみんなが行くときもまだダメかもなぁ・・・
一刻も早く復興しますように・・・!(>人<)
さて、それではいよいよ阿津賀志山防塁です。
奥州軍は、阿津賀志山中腹から阿武隈川に至る長大な三重の防塁を築き、堀に阿武隈川の水を引いて、国見町のある伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境とする大防衛線を築きました。
総大将は藤原泰衡の異母兄藤原国衡で、二万の兵を配備して迎撃体制をとったと言われています。
阿津賀志山防塁が築かれた一帯は現在も東北本線・国道4号線・東北自動車道が並行して走っている通り、地形上、古くから北上するには必ず通らなければならない交通の要衝なので、南からの攻撃に対する奥州藤原氏の本拠・平泉守備の最前線基地として重要視されていたポイントだろうと思われます。
一方、藤原氏の討伐のために鎌倉を出立した鎌倉幕府の軍勢は三手に別れ、頼朝の大手軍は鎌倉街道中道から下野国を経て奥州方面へ、千葉常胤の東海道軍は岩城岩崎方面へ、比企能員の北陸道軍は越後から出羽方面へ、それぞれ進攻しました。
「吾妻鏡」によれば、大手軍は騎馬武者では先人の畠山重忠はじめ一千騎を従えたとされ、歩兵や輸送要員、さらに道中で各地の豪族を加え、推定される総勢は二万五千以上の兵力だったと言われています。
二万と二万五千の兵がここで激突したのか~☆
結局大激戦の後、幕府軍の一部が鳥取越(現:小坂峠)から迂回して奥州軍の後陣を奇襲し、奥州軍は混乱。
出羽方面に逃れようとした藤原国衡は、追撃した和田義盛に討たれて勝敗が決し、自軍の大敗を知った藤原泰衡は多賀城から平泉方面に退却しました。
この戦いの大打撃により、奥州藤原氏に大規模な合戦を行う余力はなくなって、散発的な抵抗は続くものの、最後には本拠地の平泉が陥落して滅亡に至ります。
これが下二重堀地区の防塁遺構です。。。
・・・やったー!二重堀三重土塁~!!!
薄いながらもしっかりと綺麗に土塁と堀が残っています♪
そして、写真の奥にかすんで見えるお饅頭形の山が、阿津賀志山ですが、遠い~☆
あんな遥か彼方まで防塁を築いていったなんて・・・その労力たるや、想像もつきません。
調査によれば、もともとはこのような断面になっていたのだそうです。
図面でもすっかり薄くなってしまっている様子が書かれていました。
土塁と堀は地形をよく活かして作っている様子がここでもよくわかります。
防塁遺構の一番南側は、欠下橋のあたりで滝川という川に接しています。
写真で、真正面奥から遺構が川に向かってまっすぐ来ているのがわかりますでしょうか?(わからないかも・・・)
ちなみに阿津賀志防塁の外堀側は水堀だったという説もあります。
地図をよくよく見ると、滝川は川内地区で東側の牛沢川とT字路状に合流して、非常に人工的な流路で阿武隈川に流れ込んでいます。
欠下橋の辺りは古河道だという話もあるので、古には阿武隈川は今よりずっと北側を流れていて、現在の欠下橋から下流の阿武隈川までの流路は、阿武隈川の流れが変わった後で作られたものなんじゃないかな、と想像できます。
そして、もし本当に防塁の外堀に水を引き込んでいたのなら、この地点から直接阿武隈川の水、ということなんだろうな、という形状です。
いかに阿武隈川が大河であったとしても、阿津賀志山に向かって徐々に上がっていく長大な防塁の堀に低いところから水を引き込むというのは、かなり自分の中ではギモンです・・・☆
とりあえず、今回は「下見」なので(笑)このギモンは秋に持ち越すとして。。。
阿津賀志山防塁の遺構は全長約4kmすべてが残っているというわけではないので、所々残っているところをたどって行きます。
で、次に行ったのは、下二重堀地区から県道320号線を北に渡ったところにある、高橋地区。
行ってみると・・・あった~!
tantanさん号よりも背の高い土塁が阿津賀志山に向かって伸びています!
下二重堀地区からちょっと北上しただけなのに、阿津賀志山が少し大きく見えるようになった気がします。
ただし、二重土塁の堀底はひたすらこーんな藪やぶ。
少し入ってみましたが、腰まである雑草群に足元はぬかるんでずぶずぶ。
ちなみにワタシは半分くらいで挫折して外側から出口に向かいましたが、tantanさんは堀底から土塁に上がって出口まで歩き通しました。さすが!
きっと晩秋くらいになれば、ここも草が枯れて遺構もよく見えるようになるし歩きやすくなるんでしょうね~☆
畑が広がっていて、遺構はすっかり見当たらなくなってしまってるんですが、よくよく見ると左側の道路から畑に向かって盛り上がっているラインが、実は土塁ラインの続きになっているようです。
畑の中にも「ここが土塁だったんじゃないか」という盛り上がりがうっすらと・・・
いや、ぱっと見ではよくわからないです。「ココロの目で見よ!」
今回の散策では、はっきりと遺構が残っている場所のほかに「もしかして」というところがいっぱいあって、いつのまにか「ココロの目で見よ!」が口癖になってました♪
さて次は、遠矢崎地区。地図には「遠矢崎舘跡」と書いてあります。
ナビもあてにならないような田んぼの中の田舎道。
ところどころにある→看板をたよりに、「あっちだ」「こっちだ」「ここはどこ?」と2人で迷い迷いたどり着いた、それこそtantanさん号がはみだして落ちてしまいそうなあぜ道の先にあったのは・・・
・・・遺構はいったい、どこ?
一応案内看板はあったのですが、そこに書いてある図がまた、どっち向きに書かれているのかよくわからない。
2人であれか、これか、と言いあったあげく、「ココロの目で見ると」たぶん写真奥の盛り上がりが土塁遺構ではないか~?
看板の図面によると堀もあるはずなんだけど・・・藪やぶでまったくわからないです。
これも秋に持ち越しか(笑)
ここからちゃんとした(笑)農道にもどり、さらに北上して森山地区。
地図ではPマークがついているので、駐車場がある~!とちょっと期待。
・・・が、地図の地点まで行ってもそれらしいものが見当たらず、思いっきりスルー。
駐車場はどこ?
と、道路の端っこにこんな看板が。。。
その看板から入っていく坂の下のほうに何台かの車が・・・駐車場ってあれか~!
まさしく、車が2~3台停まれる、あれが町営の防塁見学者用駐車場。
その真向かい(写真右側の)の林の中には・・・
遺構、発見~!
木が生い茂ってしまって写真では様子がわかりにくいのですが、ここも二重堀三重土塁になってます。「ココロの目で見て」ください(笑)
実地に行ってみれば、堀が浅くなってしまってますが、それでも一番内側の土塁はtantanさんの背丈を遥か越えた高さで、しっかり堀と土塁が確認できます。
ただし、木々の間はくもの巣とやぶ蚊がいっぱ~い!
というわけで、土塁&堀底ウォークは早々に切り上げ、駐車場に入る坂から遺構を追いながら元の看板のところへ。
ここで遺構は道路に一度ぶち切られて、その先へ。
だから看板に「横断地点」と書いてあったのか・・・それにしてもこのイミって、遺構が道路を横断してるのか、道路が遺構を横断してるのか(笑)
そして、道路を渡った続きはこんな感じで続いています。
この写真の場所は、以前ワタシの城師匠で古戦場研究家のサイガ(新津竜一)さんにTwitterで教えてもらっていました。
細道の右側の盛り上がったところが、長土塁の断面なのだそうです。
ここまでくると、いよいよ真正面に阿津賀志山がくっきり!
このあたりはもう阿津賀志山の山すそになるので、山に向かって地形がどんどん上がっているのがよくわかります。
地図で見ると、この先国道4号線を越えた石母田地区までは遺構がないように書いてあって、しかも車で移動するとかなりぐるっと回るルート。
反対にこの細道はまっすぐ行くと遺構の土塁ラインに沿ってるようだし、方向的に国道4号線に直行できるかも☆
ちょっとチャレンジ!と入っていきましたところ・・・
ちゃんとかすかに地面に高低差があって、土塁(だった)ラインがわかるではないですか~!
かなり「ココロの目で見る」ことが必要ではありますが(笑)
ちなみにこの細道の左側(防塁線の外側)は、一気に地形が低くなっていて、ここに塁を築くというのは、敵を「通せんぼ」するにはかなりよいのではないかと思われます。。。
細道を通り抜けると、いきなり車がばんばん走っている国道4号線にぶつかります。
渡った真正面が、今度は石母田地区の遺構です。
看板も何もないのでどこにあるかわからなくて、もしかしてこれか?と半信半疑でよじ登った排水路の先が、実は堀でした(^^;)
わーい、草が刈ってあって見やすい~!
山の方に向かって、堀底も土塁上もずーっと歩いて登っていけます。
ただし石母田地区はこの先東北本線の線路と東北自動車道で途切れてしまうのですが。。。
写真で見ると土塁と堀が1本ずつ・・・に見えます。私も最初そのつもりでずっと歩いていました。
ところが、石母田地区の最高地点にあった看板によると、こんな高い場所になってもやはり二重堀三重土塁だったようです。
これもかなり「ココロの目で見よ!」(笑)
ところが、「田舎」をちょっと侮っておりまして、昼食を調達していなかったのにお店がひとつもない~!
近くの「旧跡」を回ってみればもしかして・・・と、そのまま徒歩で「義経の腰掛松」や公園化してると思われる「石母田城」(この2つは当ブログの別記事で紹介しています)に行ってみましたが、何にもないどころか、「なんでこんなところ歩いている人がいるの」というアウェー感がひしひし。。。(><;)
しかたなく車に戻って5kmほど離れた藤田宿のコンビニで水と食料を調達、昼食をとって線路と高速を渡り、いよいよ阿津賀志山中腹、展望台下の遺構へ♪
ただし、例によって膝丈くらいまでありそうな草がぼうぼう・・・
でもこれだけ堀の形が見えてるし、行けるかな?
「ココロの目」では道が見える・・・!行けるところまでいってみよ~☆
と、がしがし入っていってみましたら・・・草の中にしっかりちゃんと道がある!
同じことを考える人がいるんですね☆
しかもちゃんと階段様になっていて、歩きやすいこと!結局そんなに苦労しないで「防塁始点」の看板まで通り抜けてしまいました。
あ、でも勾配は結構あるので、しっかり山登りではありますのでご注意です☆
「始点」の看板で舗装道路とぶつかって、遺構はおしまいのようです。
この先、山の上には展望台があるとのこと。車にもどって行って見ました。
展望台には駐車場もあって、一応観光客受入れ対応のようです。
遺構の方向に阿津賀志山防塁の案内版があって、その前にベンチもあります。
が、ベンチに座っても目の前は藪です。何も見えません。
そもそも防塁始点はこの展望台の遥か下方です(笑)
ベンチの後方には割りと新し目の(でもその登り口までの道が超わかりづらい)鉄の展望台があります。
登ってみると、ど~ん!
遠く南の方角の阿武隈川までの景色が、鎌倉幕府軍が攻めてきた方角(本陣を置いたといわれる藤田城)から奥州藤原軍が守っていた方角まで、ずーっと見渡せます。
とりもなおさず、眼下真正面にこれまで通ってきた阿津賀志山防塁線も全部見えているということで。。。
ちょっと霞んじゃってますが(笑)ここに立つと、どのように攻めてきたのか、どの方角が守ろうとしていた平泉の方角なのか、そして背後を突こうと回った峠の高さもすべて実感することができて、大感動!
このような地点だからこそ、奥州藤原氏はこの阿津賀志山を基点に防塁線を築いたのかなぁ・・・?
ワタシは当初、もっと短い距離で防塁線を築けるところがあるんじゃないかと思っていたのですが・・・(^^;)
そして、こんなに長大な防塁を築いた奥州藤原氏の必死さがひしひしと伝わってくる遺構群でもありました。
・・・本当にここに来てよかった♪
今度は草や藪のない時期に、もう一度「ココロの目」を磨いてじっくり歩いてみたい阿津賀志山防塁でした。