このところ続いている「県庁所在地城攻め」、またまた今度は宇都宮への出張が入ったので、仕事が終わってから宇都宮城址公園まで行ってみることにしました。
宇都宮城は関東七名城のひとつといわれ、平安時代に宇都宮氏の祖、藤原宗円が居館を構えたことに始まり、以来530年にわたって宇都宮氏の居城であったそうです。
天正18年(1590年)の小田原征伐直後には豊臣秀吉の「宇都宮仕置」(関東や奥羽諸大名の戦後所領措置を行った)の舞台にもなっています。
宇都宮氏の時代まではいわゆる中世城郭だったようですが、元和5年(1619年)に本多正純が入ると城と城下の大幅な改修を行い、輪郭と梯郭を合わせた土塁づくりの近世城郭に生まれ変わったといいますが、反対にこの大改修が謀反の噂につながり、有名な「宇都宮釣り天井事件」に発展して正純は改易されました。
その後、幕末の慶応4年(1868年)宇都宮は戊辰戦争の戦地となって、宇都宮城の建造物はそのほとんどが、残念ながら宇都宮城下の町並みとともに焼失してしまったのでした(宇都宮戦争)。
そして現在。
平成初期までは残された本丸土塁の一部のみの遺構が「御本丸公園」として整備されていたものが、平成19年(2007年)には発掘調査や文献調査に基づいて櫓や土塁が復原され、宇都宮城址公園として整備されたというので、どうなったんだろう?とちょっとわくわくしながら公園のある宇都宮市役所のあたりまで行ってみると・・・
いきなり、どーん!と現れた巨大な土塁とその上の櫓&土塀☆
土塁の周囲の堀らしき部分には水はなく、堀底(?)はコンクリートらしきもので塗り固められてるし。。。
そして・・・あの土塁の真ん中にあいている「穴」はなんだ?
どうみても埋門には見えないし・・・
この「穴」の中には、実は小さな「ビジターセンター」があって、宇都宮城の模型や古図が展示されていました。
この模型のうち、右側の写真の赤線で囲ってある部分が、城址公園として整備された部分に該当するそうです。
図に落とし込むとこんな感じ?
そして、この「穴」をくぐって反対の広場側からこの土塁を見ると・・・
うむむむ~!土塁の、文字通り「どてっ腹」にいくつもの「穴」が・・・!
せっかく復原されても、これじゃどこかの野球場や陸上競技場の土手みたい☆
なんでもこの城址公園は防災公園に指定されていて災害時には市民の避難場所になるため、一説には土塁の中は防災用品の倉庫になっているのだとか・・・
まぁ、宇都宮市の市街地真っ只中にこれだけのものを復原するわけですからね~
市民の方々のご理解ご協力を得るには、こういうのも仕方がなかったのかな?
土塁の上には、「なんちゃって」ではなく漆喰を使ってサマしっかりと復原された土塀と二層二階の2つの櫓、富士見櫓と江戸時代に天守代わりに使われていたという「清明台」が復原されています。
2つの櫓の中も木造で、挟間もちゃんとつくられており、きちんと復原されているようにみえました。
せっかく階段があるのに、二階には登れませんでした・・・残念!
清明台の下の土塁が切れたあたりの道路が、将軍が日光社参の際に御成御殿に向かうのに使ったといわれる清水門の跡です。
復原はされていないのですが、案内板には「地面に位置を表示」してあると書いてあります。
どうも、この写真の道路に書いてある「線」がそれらしいんですが、この線だけでは実際どこにどのように建物があったのか、まったく検討もつきません(^^;)
ぐるっとまわって、この城址公園でみるべきところはこんなもんのようです。
今後は、徳川将軍家の日光社参時の宿泊所として本丸敷地内に建てられたといわれる「本丸御成御殿」、御殿北側の本丸櫓門であった「清水門」、同南側の櫓門であった「伊賀門」を外観復元する計画があるということなので、そうなるとまた様相も変わるのかもしれません。
そうなったら、また来て見ようかな。。。今は、これまで(笑)。
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