2013年3月8日金曜日

控えおろう~☆ 水戸城ご登城

千葉(亥鼻城)を走り抜けたまさにその次の日、今度は水戸への出張が続いたんです!

水戸といえば~♪

そう、TV時代劇「水戸黄門」でおなじみの(?)水戸のご隠居こと徳川光圀公と助さん格さんが有名ですよねー!

水戸駅を降りると、ペデストリアンデッキの上にお三方の像があったりなんかもするんですが、この「水戸黄門」、幕末の講談「水戸黄門漫遊記」が元になっているんだそうで、実在の水戸藩主であった水戸光圀公ご自身は漫遊されたということはないようです。。。

国史(「大日本史」)編纂のためにお抱えの儒学者たちを各地に派遣したことと、その時代の名君と評されていたので、こういった講談物に発展していったのかもしれませんね☆

確かに私も小さい頃、ストーリーが勧善懲悪でわかりやすくて、東黄門サマ大好きだったですもんね~♪

まぁ、そういうことでお三方の漫遊は実際にはなかったんだとしても、この水戸には徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城であった水戸城がある~!

しかも、水戸駅からすぐ近く。この黄門さまご一行の像の左後方にさりげなく映っている高台(斜面)は、実はその水戸城二の丸なんですね v(^^)v

せっかく水戸まで来たんだから、これは走り抜けるっきゃない・・・じゃなくて見て回らなきゃ~!
ってわけで、仕事を早々にやっつけて三の丸から順に本丸に抜けて帰ることにしました。



水戸城の築城自体は平安時代末期にまで遡ります。常陸国大掾であった平国香の子孫である馬場氏が築城し「馬場城」とよばれていたのですが、室町時代に「上杉禅秀の乱」により江戸氏の居城となり、豊臣秀吉の小田原攻め後の文禄3年(1594年)に佐竹義重・義宣父子が後北条氏に加担した江戸氏の籠城する「馬場城」を攻めて入城したのだということです。

佐竹義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めて、それまでの居城であった太田城から本拠を移したのですが、関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、慶長7年(1602年)には徳川家康によって水戸から出羽国秋田(久保田藩)に転封させられたのだということです。

で、まずは家康の五男・武田信吉ついで十男の徳川頼宣が入城し、頼宣が駿府に去った慶長14年(1609年)に十一男の徳川頼房が下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となりました。

次の写真は現在の水戸市街図に水戸城の位置を重ねたものです。


水戸城は水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城され、北側を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていました。また、本丸、二の丸、三の丸の間は空堀で仕切られており、石垣がなくて全て土塁と空堀で構成されていました。

同じ徳川御三家の居城だった尾張藩名古屋城などは、以前外郭をめぐったときに「さすが天下普請!」現在わかるだけでも非常に大規模な城域と巨大な堀や土塁、刻印のされた多くの石材がみられる石垣をもっています。

が、水戸城はそれに比べるとかなり質素な印象です。

城域も徳川の代表的な平城によくみられるような梯郭式(名古屋城)や輪郭式(駿府城)の平城ではなくて、中世の雰囲気をよく残した、地形を活かした連郭式の平山城です。

石垣も見られず、自然地形の川や湿地帯による防御のほかは、土塁と空堀で成り立っています。




三の丸には現在、茨城県庁の旧庁舎があります(県庁自体は現在水戸駅の南方に移転)。
で、その旧庁舎の前には「旧水戸城三の丸空堀跡」 ・・・空堀だぁ~!



堀の三の丸側には立派な土塁・・・
さっそく登ろう~っと喜び勇んで行って見たら、しっかり「はいってはいけません」の立て札で通せんぼ。。。

仕方なく、郭の内側から土塁を見学~♪
内側からでも、こんなに高さがあります。さすがに立派なもんだ☆

そのまま三の丸郭内を旧県庁舎の裏手に回っていくと・・・


水戸弘道館の裏手の鹿島神社の境内(真ん中の写真)に出ます。

左の写真は、この境内の一角にあって水戸藩の建学の精神を記した弘道館記碑が納められているという「八卦堂」です。

また、右の写真は水戸城の数少ない現存建築物のひとつ「孔子廟」の門です。
現在は入れなくなっていますが、門両側の土塀が崩れかけてしまってるのが痛々しいです・・・(;;)




鹿島神社から外に出てくると、旧県庁舎前から続いている堀の続きにかかる小さな土橋に行き当たります。

三の丸を取り巻いている堀と土塁は、このあたりでは旧県庁舎前のものよりも高くも深くもなく、緩やかに二の丸方向に向かって続いています。

水戸城の旧県庁舎方向は台地の続きなので守りを強固にする必要があったのだと思いますが、こちらの方向はもともと高台をかなり上ったところに位置するので、土塁や堀そのものを大きくする必要はなかったのかもしれません。

ちなみに土塁の前から撮ったこの左側の写真の坂の下方向には那珂川が流れていて、天然の防禦になっています。

土塁に沿ってそのままいくと弘道館の前に出ます。


弘道館は水戸藩九代藩主徳川斉昭公が創設した藩校です。
水戸城の数少ない現存建物のひとつで国の重要文化財に」指定されているこの正門の中には、やはり重要文化財に指定されている正庁があるのですが、今回は時間もないのでスルーして・・・




弘道館の真正面にあるのは大手橋。この橋の二の丸側には、かつて大手門がありました。
今は土塁のみが残っています。

この橋の下は三の丸と二の丸を分ける堀切です。



真ん中の写真は橋の上から堀切を見下ろしたところ。
堀底から橋を見上げると右の写真のような感じ。

堀切自体あまりに巨大すぎる上に何気なく普通に県道が通っているので、知らなければ自然地形か、現代になって道路を通すために造った切りとおしかと思ってしまいそうです(^^;)


さて、やっと二の丸(笑)





大手門跡から二の丸に進むと、しっかりとした土塁に囲まれた枡形が出迎えてくれます。

二の丸には天守代わりの御三階櫓や御殿、奥御殿等があったらしいのですが、第二次世界大戦時に空襲で焼けてしまって現在は残っていない上、その跡も現在は茨城大学付属小学校や県立水戸第三高校が建ってしまって、一般に見ることはできません。

道のところどころにある案内板にて往時を偲ぶのみです・・・




よって、二の丸をまっすぐに突っ切る道をスルー☆

途中、市立水戸第二中学校の前に「大日本史編さんの地」の碑があり、そのそばにできたばかりの小さな資料館があります。

右側の写真はその中学校の門と碑です。水戸城の郭内にある学校はみんな非常にレトロです♪

そして、そのちいさな資料館にさりげなく展示されているのが・・・


じゃーん! 水戸の黄門様が編纂を命じたという、大日本史~!!
こんなのがさりげなく、しかも無料で、見れちゃうんだから侮れませんね(笑)

しばらくこの資料館で展示物を見た後、そのまま道を進むと、今度は二の丸と本丸を隔てる堀切に出ます。

堀切にかかる橋を渡れば本丸! しかしながらここも、現在は県立水戸第一高校の敷地になってしまっていて、一般には開放していません。

そして橋の下には、これまた巨大堀切!堀底にはJR水郡線が走っています☆




この橋を渡って土塁を横目に高校の敷地に入ると、入り口に現存建造物の旧水戸城の薬医門がお出迎え・・・



ご登城、お疲れ様でした!  ふぅ!


 

ところで、余談ですが・・・

この日、水戸出身の同僚にお昼に つれていてもらったラーメン屋さん。

壁に貼られていたお店イチオシの「福助ラーメン」、写真はなくて「邪道だけどおいしいよ!理由は聞かないで・・・」という文面に妙~に惹かれて、ためしに頼んでみたら・・・


ラーメンの上に、たたき梅の乗ったおにぎりがどーん!


大きなゆで卵のほかにふわふわ玉子も入っていて、ラーメンだけでもたっぷりなのに、麺を食べ終わったあとおにぎりを崩すとお雑炊まで楽しめて、二度美味しいというわけ。

相当なボリュームなのにあっさり塩味スープと梅干のおかげでさっぱりと食べられて・・・結局完食しちゃいました(^^;)

一緒に行ったほかのメンバーも同じ「福助ラーメン」中盛り(1.5玉分)をぺろりと平らげていました。ここはなかなかオススメです!

めんや 福助  http://ramendb.supleks.jp/s/7783.html


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