2013年7月25日木曜日

お城ではないけれど・・・女影ヶ原古戦場

仕事を休んで病院に行った日の午後、ぽかっと時間が空いたので、秋に城好きさんたちの案内をする下見をしようかなと思い立って、またまた何も用意せずにふらっと地元近くの古戦場に行ってみることにしました。

これまでもその近くはよく通っているので場所はわかっていたのですが、ちゃんと行くのは初めてです。

城好きさんたちをご案内するのなら、ちゃんと駐車できるかどうかも見ておかないと・・・

病院が毛呂山だったので、その近くの出雲伊波比神社(畠山重忠が造営したという流鏑馬で有名な延喜式社)と斉藤美濃守館(源為義・義朝に仕えた斉藤実盛の子孫(?))を車でぐるっと回って、駐車できそうなところの当たりをつけたあと、そのまま日高の女影ヶ原古戦場に向いました。

女影は「おなかげ」と読みます。「おんなかげ」とか「めかげ」ではありませんww
でも、何をかくそう私も最初は読めませんでしたwww

女影ヶ原古戦場は埼玉の西部、日高市にあります。近くには霊亀2年(716年)駿河以東の渡来人たちが集められた高麗郷があります。だから地名にもその影響があるのかもしれません。

また、この女影ヶ原には鎌倉時代から鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道の上道が通っていました。

この鎌倉街道上道は鎌倉を出て藤沢、町田、府中、所沢を通って狭山で入間川を渡って日高に入り、この女影ヶ原を通って坂戸をかすめて毛呂山→鳩山→児玉→藤岡(このあたりは現在の八高線沿い)と通って、高崎に続いていたそうです。




写真は、鎌倉街道上道、大谷沢から女影に向かう古道沿いにある上道の石碑です。

このあたりは道こそ舗装されてるものの、道幅は狭く、周囲は畑や林、野原が散在しており、切り通しなどもあって、昔はこんなだったのかなぁ・・・と想像されるような場所が広がっています。

物資の行き来もですが、鎌倉武士たちが「いざ鎌倉」に馳せ参じるための道でもあったためか、この道筋には古戦場が点々と残っています。

女影ヶ原の古戦場もそのひとつで、ここでは建武2年(1335年)に北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱(中先代の乱)で、渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を打ち破ったと言われています。

この合戦の後、勢いづいた時行軍は小手指ヶ原、武蔵府中と勝ち進み、ついには井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣した足利直義をも破って鎌倉に入ることになります。

現在、この女影ヶ原にはこのあたりの村社である霞野神社があり、境内の南側に「史跡女影ヶ原古戦場址」の石碑が建っています。




 この霞野神社の前は南北にのびる鎌倉街道上道古道の五叉路になっています。



 左の写真が霞野神社の鳥居前から見たその五叉路ですが、このうち南に向かってまっすぐのびて登っていく一番広い道が上道です。

その右側に伸びていく細い道との間の電信柱の下に、目立たない小さな古い道標石がありました。

読むのにめちゃくちゃ苦労したのですが、どうやら「右 扇町屋 八王子道、左入間川 所沢道」と刻まれているようです。

この古道を下りきった霞野神社の北側は小さな川が流れていて、その川にかかる小さな橋を渡ると、道は今度は右の写真の通り、女影交差点方向に向かって北に登っていきます。





時行軍は北側から鎌倉へ向かってくるわけですから、きっとこの古道に沿って女影交差点方面の高台から攻めてきたのでしょう。

一方、右の写真は霞野神社の境内ですが、北側の川を天然の堀とした砦様の高台地形になってますので、迎撃側の鎌倉将軍府の軍はこの神社のあたりに陣をはって退治したのかもしれないな・・・などと妄想したりして(笑)

じゃあ、勝ち進んだ時行軍についていこうかな♪ということで、次の合戦地、小手指ヶ原に愛馬ならぬ愛車を駆っていくことにいたしました。。。

長くなりましたので、小手指ヶ原の様子はまた次回(^^;)




にほんブログ村