とりあえずオフ会で案内を予定している場所を一回りしたところで少し時間が余ったので、車で来ていることもあるので石垣山城まで足を延ばしてみよう!ということになりました♪
石垣山城は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原攻めの際に小田原城から西側に3kmほどの場所にある「笠懸山」に築城し、水陸15万におよぶ包囲軍の本陣とした城です。
「北条氏側に一夜にして出来上がったかのように見せて驚かせて戦意を失わせた」というエピソードにより「一夜城」とも呼ばれていますが、実際にはのべ4万人が動員されて、天正18年4月から6月
まで約80日間を費やされて作られた総石垣の城で、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれています。
さて、美味しそうなスイーツの並んでいるヨロイヅカファームそばの駐車場に車を停めると、もう目の前に穴太積みの高石垣!
立て看板に「旧城道東登口」と書かれていますが、この城道は小田原攻めの際に秀吉が通ったといわれる、箱根湯本から早川口に向かう「関白道」から石垣山城に登城する道です。
石垣山城に来ることは予定していなかったので、何も資料を用意していなかった上に初めてなので、どこを歩いているのか縄張りも何もわからないままに、とにかくサイガ師匠にくっついて石垣を堪能しながら、南曲輪へ♪
南曲輪下の大規模な石垣は、かなり段が崩れているので判別しにくいんですが、もしかしたらセットバックしつつ3段積みくらいになっているのでしょうか。
よくよく見ると草木の間にも石垣だったと思われる石が埋もれています。
そして、南曲輪跡。
南曲輪の櫓台からは城道が堀のように見えます。
ここで城道は90度折れています。
この南曲輪から枡形虎口?を通って本丸に行くこともできるようなのですが、次はとりあえず本丸天守台の直下にある西曲輪へ。
これは西曲輪の門の跡。石垣と土塁が残ってる☆
西曲輪は本曲輪の西側直下を細長くとりまく結構広い曲輪です。
天守台のある本丸方向をながめると、本丸の周りを石垣がとりまいていた跡がよくわかる!
秀吉は石垣山城に淀君ほかの側室や千利休、能役者などをよんで茶会を開いたり天皇の勅使を迎えたりしたそうなので、あるいは小田原城からみると天守の裏側に当たるこの西曲輪が、その舞台だったのかもしれませんね。
いよいよ本丸に登っていきまして・・・
本丸展望台からは相模湾が一望の下に見わたせます♪
遠くに見えるのは三浦半島?秀吉もこの景色を眺めていたんでしょうか。。。
ちなみに眼下の市街地は小田原です。小田原城をさがせ!(笑)
案内板を見ると、外郭9kmの巨大な小田原城なのに、その外側をぐるっと隙間なく取り囲んでいる様子がよくわかります。
そして、いかに豊臣軍が戦国武将のオールスター戦であったかということもww
本丸から二の丸へもかなりの高低差です。
そして、切岸にはぐるりと石垣の跡。しっかりと積まれていた様子が残っています。
石垣山城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆によるものといわれています。
この記事の前のほうにも書いたとおり、よく「長期戦に備えた本格的な」城と言われていますが、ここまで本格的な縄張りと大掛かりな造りを考えると、小田原攻めが終わった後も関東ににらみを利かせるために恒常的に使うことを想定した城作りになっているのではないか、とも思われます。
小田原城を眼下にして箱根路の要路を押さえているこの石垣城の場所であれば、小田原城開城後も関東以北に対してにらみがきくと思われますから。。。
そして、圧巻なのが石垣城の小田原城寄りに位置する、この井戸曲輪!
ちょっと、ど真ん中に生える木が邪魔ですが・・・(^o^;)
井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあって、もともと沢のようになっていた地形の北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られています。
井戸の底は二の丸から25mも下がったところにあって、今でも湧き出る水を見ることができます。
また、この井戸は「淀君化粧井戸」または、段状に掘られてぐるぐる回りながら降りることから「さざえの井戸」とも呼ばれているのだそうです。
淀君もこの水を使われたのでしょうかね・・・♪
城の外側の石垣は、沢の下方を石垣の堤防で遮って作ったようにも、もともとあった地面を掘り下げて石垣の部分を土手状に掘り残したようにも、どちらにも見えます。
どっちだったのか気になるところですが、どちらにしても、一番上段の部分だけでもサイガさんやtantanさんと比べると規模の大きさが歴然です。
これを井戸の底から見上げるとこんな感じ!高い~☆
今度は石垣の上に登ってみると、やはり幅2mほどの石垣で固めた土手のような感じ?
そして、その外側は・・・
中腹にいるサイガさんが小さく見える~☆
豊臣軍が関東に初めて持ち込んだ高石垣の築城技術。
おそらく方向的に考えると、この井戸曲輪の外側の石垣が小田原城から真正面に見えたでしょうから、それまで「土の城」主流で高石垣技術のなかった関東の人々が、これを見て士気がぐらついても不思議はないかもですね・・・
ひとつひとつの石も巨大ですし。元は「笠懸山」という名前だったのが「石垣山」といわれるようになったのも道理だな~としみじみ。
今回は駆け足で一回りしたので、今度は秀吉がもたらした「織豊系城郭」らしさを見つけながら、石切り場も含めて、もう一度じっくりと登城してみたいな、と思うお城でした!