2014年1月29日水曜日

分倍河原古戦場あたり

たまたま府中あたりに行く用事があったので、終わってからちょいとばかりふらふら寄り道することにしました。

というのも、実はこのところハマッている鎌倉街道(古道)の上道、この街道を舞台とした新田義貞の鎌倉攻めの中で大きな戦いの舞台となった古戦場が、府中からほど近い分倍河原にあるんです。

というわけで、まずは京王線の中河原駅に下車、分倍河原駅までのひと駅間の鎌倉街道を古戦場経由でのこのこと歩き抜けることに。

・・・ただし、仕事が終わってからの散策なので、日暮れとの勝負!
さくさくと歩かなくっちゃ(笑)





これが本日の「ぷち散策ルート」♪
道に沿って転々とおいてある小さな案内板から撮ったので、あまりよく見えませんが・・・(^^;)

街道に沿った商店会の名前にも「鎌倉街道」がついてるし、一応地元でも知られているんですね☆

途中「東大山道」という案内板のある通りと交差して、ということは江戸時代の大山道のひとつなんだろうなぁ・・・と思いながら歩くこと1kmほどでしょうか。

分倍河原古戦場址に到着!




元弘3年(1333年)、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた新田義貞は鎌倉街道上道沿いに南下し、迎撃に出た鎌倉幕府軍を小手指ヶ原の戦い、久米川の戦いで撃破。
幕府軍は武蔵国の最後の要害である多摩川で新田軍を食い止めるべく、分倍河原に撤退して体制を立て直しました。

そして分倍河原での一度目の戦いの時には幕府軍が逆に新田軍を撃破、新田軍は狭山の掘兼あたりまで退却を余儀なくされたのですが、翌日未明に新田軍が幕府軍を急襲、幕府軍は多摩川対岸の関戸にて壊滅的打撃を被り、鎌倉に篭って最後の合戦(東勝寺合戦)と、幕府の滅亡を迎えることとなったのでした・・・。





分倍河原は多摩川の北岸側にあります。

太平記によれば、早朝の奇襲攻撃に不意をつかれた幕府軍は多摩川へ追い落とされた・・・ということですが、ワタシ的には、北から南下してきた新田軍に対する幕府軍が、多摩川を背にした相手からも低い位置に、文字通り「背水の陣」を敷くなんて想像ができないので、まぁ南岸の関戸に陣をおいて対岸に撃って出た戦いなんだろうなぁと勝手に解釈しているのですが・・・

ちなみに関戸の天主台といわれる高台の空き地は幕府軍の見張り台とされていたようで、幕府軍北条泰家は一時ここに立て篭もろうと考えたものの、家臣の横溝八郎や安保入道父子の奮戦によって一命をとりとめ鎌倉に敗走。

関戸古戦場跡の標柱が建っているあたりには横溝八郎や安保入道父子、そのた無名戦士の墓と伝えられる塚が残っているそうです・・・


話がすっかりそれてしまいましたが。。。(^^;)


この一番有名な戦いの後にもこの分倍河原では永享10年(1483年)に鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の合戦が、康正元年(1456年)には両者の子の足利成氏と上杉房顕の合戦が行われています。

何度も合戦が行われているというのは、この多摩川両岸が重要な軍事防衛線であったことを物語っていると考えられます。



その分倍河原古戦場址の碑は、いまや多摩川からかなり離れた住宅地のど真ん中「新田川緑道」という散策路の中に建っています。



中世のころはもちろん多摩川に堤防などなく、今よりもかなり北側を流れていたと考えられますが、それにしても河岸段丘のあとのような坂道も見当たらず、妄想力たくましいワタシをもってしても想像できるものが何もないというのも、なんだかなぁ・・・(笑)


もしかしたら中河原駅よりもう少し南下するとなにか地形があるのかもしれませんが・・・

新田川緑道の「新田川」も、ここに新田義貞にちなんで名をつけられた川があったのかもしれません。

だとしても今はすっかり暗渠です。
川の名残か緑道の前を通る鎌倉街道の信号の名前は「分梅橋」、同じ名前の橋の欄干だけが道端に残っていました。。。



そのまま道をぐいぐいまっすぐ北上して、やがて現れるゆるやかな坂を上っていくと旧甲州街道に行き当たります。

この道は軍勢が行き来した道ということで「陣街道」とも呼ばれているそうです。



冬の日も釣瓶落とし・・・

さくさくと、とか言いながらあっちに寄りこっちに寄りちんたら歩いていたら、このあたりでとっぷり日が暮れて、だんだん写真も見難くなってきました。

それどころか、道や看板もだんだん見えなくなってきた~☆

この陣街道のあたりには確か「高倉古墳群」という6世紀くらいの古墳があって、分倍河原合戦の戦死者を葬ったとの伝承が残る首塚・耳塚があるはず・・・と探したんですが・・




陣街道沿いに看板はみつけたものの、住宅地の中をさ迷い歩いた挙句、思いっきり迷子になって結局見つけられず~!

八雲神社境内にあるという「抱き板碑」(木にすっぽりくるまれてしまった元応元年(1319年)銘の板碑)も、真っ暗な八雲神社の中(めちゃめちゃ怖かった!)をごそごそと歩きまわってすっかりアヤシイ人になってしまったにもかかわらず、見つけたのはしっかり陣街道の道路沿い。

なんだかな~ Orz

本当はこの先この陣街道は旧甲州街道と交差するのですが、冬の夜の寒さにすっかり冷え切ってしまって気持ちが萎えてしまったので、ここらでこの日の「ぷち散策」は終了~!

この続きはまた今度とすることにしたのでした。。。


ところでところで。。。

実はこの「ぷち散策」の途中、途中経過をTwitterでつぶやきながら歩いていたのですが、そのつぶやきを近くにお勤めのフォロワーのこばたかさんが捕捉してくれたので、しばらく会話をしてたんです。

そうしたら、その会話を元にどうも途中私の通りそうなところで待ち伏せのトラップをしかけていたらしい。。。

結局は私が迷子になって経路からはずれてしまったので行き違ってしまい、こばたかさんの待ち伏せトラップを知ったのは電車に乗ってしまってからだったので、会うことはできなかったんですが、こんなのもTwitterの楽しさですね・・・♪

2014年1月28日火曜日

ちょろっと外堀 新橋~虎ノ門

すでに夕方だというのに、急に虎ノ門に行かなければならないことになって、「しゅたり☆」と新橋に着地。

新橋には私の大好きなベルギービールを置いている、美味しい地ビール屋さんがあって、夕方の雰囲気とともに私の後ろ髪をぐいぐい引っ張ってくるんだけど・・・

ビールは次回にお預けでがまんするとして、そのかわり虎ノ門まで外堀跡を歩くよ~♪

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この図は東京メトロ銀座線虎ノ門駅の江戸城石垣展示室(図の「現在地」)にある掲示パネルから拝借したものです☆

図の右端の新橋駅から現在地に向かって一直線にあった外堀(図のブルーの部分)は、今は埋め立てられてしまってありませんが、その上に道ができていて、かつて外堀のあったラインを非常によく残しています。

そして、そのライン(道)は現在の「外堀通り」ではなくて、1本北側の通りだというところがミソ(笑)


というわけで、まずは御門のあったという新橋駅そばの幸橋から出発☆

「幸橋」といっても、お堀がもうないのと同様に、橋もありません。
JRの高架橋下に架道橋名として名前が残っているだけです。

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幸橋から通りを渡って新橋第一ホテルの脇を入っていきます。

通りの奥をずっと眺めると、ちょっと遠目だけどかつて外堀のあったラインに沿って道(とビル)が斜行してるのがわかるかな~?

しばらく通りに沿って歩くと、右手方向ちょうど日比谷セントラルビルの裏手に突然(しかも地味に)小さな石垣の展示が現れます。

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そばにある案内板によると、この石垣の石はこの通り沿いの物産ビル別館増築工事の時に地下4mほどのところから発掘されたもので、寛永13年(1636年)徳川家光公が江戸城外郭の南側を築造したときに使用されたものだそうです。

ちなみにこのあたりの石垣は立花宗茂(柳川)、稲葉一通(臼杵)、有馬直純(久留米)、毛利高直(佐伯)などの九州の諸大名が担当したようです。

というわけで、刻印発見~♪ でも誰のかわからない(笑)

さらにそのまま真っ直ぐすすんでいくと・・・

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うん、ここまで来ると道の折れがよくわかるね・・・図にあった外堀の折れのとおり!

ちなみにこの場所には「日本の酒情報館」があって、中では全国各地のお酒が購入できるらしい・・・
これまためちゃ後ろ髪ぐいぐい引かれるけど、本日は我慢するとして(^^;)

おおっ?ベーゲンドルファーのショールーム!

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なおもそのまま真っ直ぐ歩いてゴールの虎ノ門。
真正面は文科省、そのちょっと左手が図にあった「現在地」のある虎ノ門交差点&虎ノ門駅です・・・お疲れさま!

2014年1月26日日曜日

飯能中山の古道歩き

以前twitterのフォロワーさんに、「ご存知かと思いますが・・・」と写真つきで教えてもらった地元の古道。実は自分のお膝元でありながら、そんな古道の存在を微塵も知らなかった~!

場所は地元飯能市の中山というところにある丘陵地帯の山の中。

この中山という場所は、八王子城北条氏照の家臣中山勘解由家範の館址のある地です。

現在でも中山にある智観寺には、中山家範の息子で徳川家康に仕え水戸藩家老の後常陸松岡藩2万5千石の大名となった中山信吉はじめ、代々の中山氏の墓があります。

また中山氏は武蔵七党の丹党加治氏を祖としており、現在でも中山には加治神社という神社があります。

そして、どうも情報によると件の「古道」は、この加治神社の裏手にあるらしい・・・

これは地元民のプライドをかけて(?)ぜひともその存在を確認しなくちゃ!

というわけで何とか時間をひねり出し、夕飯の食材を買出しにいくついでに、という名目で家を抜け出してその場所に飛んで行ったのでした。




さて、わが愛車の「濃いオッサン」号を駆って向かった先は、地元でも知る人ぞ知る「第二天覧山」。明治天皇がこの場所からも軍事演習をご覧になったのだとか。

本当は加治神社に車を停められる(自治会館があるので)のは、毎年初詣に行ってるので知ってたのですが、あえて第二天覧山に向かったのは、実は鎌倉古道上道を箱根ヶ崎からそれて金子~飯能の阿須へと通っている「滝山古道」が、その入り口の「中居」という交差点までは続いていることが確認できていたから。

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阿須から六道をとおり中居までは真っ直ぐ市街地を通り抜けているのですが、その先は宮沢湖の方に抜けている県道30号線に曲がるのではなく、もしかしたらまっすぐ丘陵の中を通り抜けていたのでは・・・?!

というわけで現在は「飯能桜の森」という公園になっている第二天覧山の下に車を停め、まっすぐ尾根に登っていきました。

すると・・・

第二天覧山自体は割と近頃桜がたくさん植えられたような感じの「ただの公園」。

しかし、公園の奥の方になんとなく古道っぽいたたずまいの道が通っているのが見えるではありませんか~!

でも、これはフォロワーさんに教えてもらった古道のポイントではありません。

とりあえずこちらの道は置いておいて、まずはこの「古道」を横目に見ながら加治神社の裏手方向へ・・・


すると・・・本当に加治神社の真裏あたりでしょうか、フォロワーさんに送ってもらった写真に写っている古道のポイント発見!

しかし枯れ葉でよくわからない・・・

でも、確実に人の手で堀割って通した道だと思われます。



しばしガサゴソと落ち葉の中に入り込んで「古道」を行ったりきたり。

この先はどうやら加治神社方面に向かって落ちていくようなのですが、何か施設が出来てしまっていて、「古道」らしい掘割道は200mくらいで途切れてしまってます。

なので、深く探索することは断念。

そのまま今度は地図に「天覧山方面」と書いてある西方向へ行ってみました。

この道は掘割道っぽい風情の道がずっと続いていて、ご機嫌な尾根道のハイキングコースになっています。

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途中、井戸っぽい石積みなんかもあったりして・・・♪


さて時間も押し迫ってきたので、あまり深追いせずにここらで愛車に引き返すことにして、今度は先ほど横目に見てきた「古道」っぽい道をたどることに。

この道は先ほどのフォロワーさんから教えてもらった古道と天覧山からのご機嫌なハイキングコース、そして宮沢湖からの道に加治神社の真裏あたりで交差しています。

この交差点から東方向に、「第二天覧山・桜の森」に入らずにずっと「古道」をたどっていったら・・・



ひゃほーい!掘割ってる~!!!♪♪♪

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なんと、これぞ掘割道!という道が続いているではありませんか~!

そしてこの道はじきに舗装路に降り、民家の間を抜けて中居の交差点まで続いていたのでありました・・・!

もう少し精査は必要ですが、私の中では直感的&わくわく感で、これが「滝山古道」の続きのような気がしています。

次は、この道の先が、「滝山古道」が続いていたといわれている宮沢の集落を抜けて高麗川まで続いてるのかどうか調べてみたいと思います☆

2014年1月25日土曜日

オフ会の下見ついでに石垣山城♪

さてさて、3月に開くオフ会の下見ということで、小田原城外郭の北西部の遺構を見て回ったところですが・・・(→ その時の記事はこちら

とりあえずオフ会で案内を予定している場所を一回りしたところで少し時間が余ったので、車で来ていることもあるので石垣山城まで足を延ばしてみよう!ということになりました♪




石垣山城は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原攻めの際に小田原城から西側に3kmほどの場所にある「笠懸山」に築城し、水陸15万におよぶ包囲軍の本陣とした城です。

「北条氏側に一夜にして出来上がったかのように見せて驚かせて戦意を失わせた」というエピソードにより「一夜城」とも呼ばれていますが、実際にはのべ4万人が動員されて、天正18年4月から6月
まで約80日間を費やされて作られた総石垣の城で、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれています。

さて、美味しそうなスイーツの並んでいるヨロイヅカファームそばの駐車場に車を停めると、もう目の前に穴太積みの高石垣!




立て看板に「旧城道東登口」と書かれていますが、この城道は小田原攻めの際に秀吉が通ったといわれる、箱根湯本から早川口に向かう「関白道」から石垣山城に登城する道です。

石垣山城に来ることは予定していなかったので、何も資料を用意していなかった上に初めてなので、どこを歩いているのか縄張りも何もわからないままに、とにかくサイガ師匠にくっついて石垣を堪能しながら、南曲輪へ♪




南曲輪下の大規模な石垣は、かなり段が崩れているので判別しにくいんですが、もしかしたらセットバックしつつ3段積みくらいになっているのでしょうか。

よくよく見ると草木の間にも石垣だったと思われる石が埋もれています。
そして、南曲輪跡。




南曲輪の櫓台からは城道が堀のように見えます。
ここで城道は90度折れています。

この南曲輪から枡形虎口?を通って本丸に行くこともできるようなのですが、次はとりあえず本丸天守台の直下にある西曲輪へ。

これは西曲輪の門の跡。石垣と土塁が残ってる☆




西曲輪は本曲輪の西側直下を細長くとりまく結構広い曲輪です。
天守台のある本丸方向をながめると、本丸の周りを石垣がとりまいていた跡がよくわかる!




秀吉は石垣山城に淀君ほかの側室や千利休、能役者などをよんで茶会を開いたり天皇の勅使を迎えたりしたそうなので、あるいは小田原城からみると天守の裏側に当たるこの西曲輪が、その舞台だったのかもしれませんね。




いよいよ本丸に登っていきまして・・・




本丸展望台からは相模湾が一望の下に見わたせます♪
遠くに見えるのは三浦半島?秀吉もこの景色を眺めていたんでしょうか。。。

ちなみに眼下の市街地は小田原です。小田原城をさがせ!(笑)




案内板を見ると、外郭9kmの巨大な小田原城なのに、その外側をぐるっと隙間なく取り囲んでいる様子がよくわかります。

そして、いかに豊臣軍が戦国武将のオールスター戦であったかということもww





本丸から二の丸へもかなりの高低差です。
そして、切岸にはぐるりと石垣の跡。しっかりと積まれていた様子が残っています。




石垣山城は関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆によるものといわれています。

この記事の前のほうにも書いたとおり、よく「長期戦に備えた本格的な」城と言われていますが、ここまで本格的な縄張りと大掛かりな造りを考えると、小田原攻めが終わった後も関東ににらみを利かせるために恒常的に使うことを想定した城作りになっているのではないか、とも思われます。

小田原城を眼下にして箱根路の要路を押さえているこの石垣城の場所であれば、小田原城開城後も関東以北に対してにらみがきくと思われますから。。。

そして、圧巻なのが石垣城の小田原城寄りに位置する、この井戸曲輪!




ちょっと、ど真ん中に生える木が邪魔ですが・・・(^o^;)

井戸曲輪は、石垣山一夜城二の丸(厩曲輪)北東側にあって、もともと沢のようになっていた地形の北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られています。




井戸の底は二の丸から25mも下がったところにあって、今でも湧き出る水を見ることができます。

また、この井戸は「淀君化粧井戸」または、段状に掘られてぐるぐる回りながら降りることから「さざえの井戸」とも呼ばれているのだそうです。

淀君もこの水を使われたのでしょうかね・・・♪




城の外側の石垣は、沢の下方を石垣の堤防で遮って作ったようにも、もともとあった地面を掘り下げて石垣の部分を土手状に掘り残したようにも、どちらにも見えます。

どっちだったのか気になるところですが、どちらにしても、一番上段の部分だけでもサイガさんやtantanさんと比べると規模の大きさが歴然です。

これを井戸の底から見上げるとこんな感じ!高い~☆




今度は石垣の上に登ってみると、やはり幅2mほどの石垣で固めた土手のような感じ?

そして、その外側は・・・





すごい規模の高石垣!
中腹にいるサイガさんが小さく見える~☆

豊臣軍が関東に初めて持ち込んだ高石垣の築城技術。
おそらく方向的に考えると、この井戸曲輪の外側の石垣が小田原城から真正面に見えたでしょうから、それまで「土の城」主流で高石垣技術のなかった関東の人々が、これを見て士気がぐらついても不思議はないかもですね・・・




ひとつひとつの石も巨大ですし。元は「笠懸山」という名前だったのが「石垣山」といわれるようになったのも道理だな~としみじみ。

今回は駆け足で一回りしたので、今度は秀吉がもたらした「織豊系城郭」らしさを見つけながら、石切り場も含めて、もう一度じっくりと登城してみたいな、と思うお城でした!