2013年8月15日木曜日

霞ヶ関の江戸城外堀跡石垣

虎ノ門で打ち合わせのあった帰り道。

ちょっとお茶でもしてひと息入れてから帰ろうか・・・ということで、そういえば虎ノ門交差点のそばが再開発されて霞ヶ関コモンゲートという一角に整備されていたな・・・というのを思い出し、話のタネに行ってみることにしました。

霞ヶ関コモンゲートはもともと文部科学省とか会計検査院の庁舎があったところを再開発した一角です。

東館(文部科学省や会計検査院が入居)・西館(1階が金融庁)の高層ビル2棟と2階建ての店舗棟「アネックス」、それに登録有形文化財の「旧文部省庁舎」(文化庁が入居ww)が、隣接する霞ヶ関ビルや東京倶楽部ビルとともに広場を囲んで立ち並んでいます。

で、虎ノ門交差点側から地下鉄虎ノ門駅からの出口に沿って階段とエスカレーターを上って広場に出ると・・・



正面に、どど~ん!と打ち込みハギも麗しいこの石垣が現れます!

これが実は江戸城外堀跡の石垣なのです。
・・・が、こんなところに整備されているせいか、みんな単なるビルの植え込みだと思って、誰も着に留めない(T_T)

この江戸城外堀の石垣は、寛永13年(1636年)に、家康の代から続いた江戸城整備の総仕上げとして三代将軍徳川家光が命じたいわゆる天下普請で、60家の大名を6組に分け、それぞれ区域を分担し、はるか伊豆から花崗岩を船で運んで、現在のほぼ外堀通りに相当する全長14kmを積み上げたものだといいます。

ちょうどこの石垣の下、地下鉄虎ノ門駅の連絡通路には、この石垣の立派な(!)展示コーナーが作られていて、そこからすぐ近くに石垣を見ることができます。





ここの窓の下面(黒い部分)が昔の水面の高さだそうですが、この天下普請でこの石垣の工事を担当した豊後佐伯藩毛利家の家紋を模した、矢筈の刻印もすぐ近くにばっちり見えます☆





この展示コーナーの案内板によると、霞ヶ関コモンゲートの工事でこの石垣が出土した際には、この刻印と、向かって右隣の区域を担当していた備中庭瀬藩戸川家の刻印の有無で、両方の担当場所の境界(丁場割)がしっかりわかったのだといいます。

・・・が、その丁場割部分、現在は埋められちゃって全く見ることができません・・・残念!



で、しばし石垣や展示パネルに見入っていると・・・おや?
パネルに「敷地内に石垣の展示は3ヶ所・・・」と書いてあるではありませんか!

これは探すっきゃない!

「石垣の続き」になるわけですから、この石垣の表面ライン延長上のどこかにあるはず・・・
またはもともとの外堀にあたる外堀通り沿いか?

と、適当に当たりをつけて、よく調べもせずにまずアネックスの前に出てみると・・・



ありました~☆ 背は低いけど石垣の一部!

ここは備中松山藩池田家が担当した部分だということですが、上に植栽がされているので、どう見ても生け垣にしか見えない(笑)



実はこの石垣と道路をはさんで向かい側の虎ノ門三井ビルの前の歩道には、因幡鳥取藩が築いた外堀唯一の櫓台跡が残っています。

これまた道路から見ると、どう見ても生け垣にしか見えません・・・が、回り込んでみると、高さ1m位の石垣の角がつきだしています。

一瞬「これが3つめか?」と思ったのですが、この櫓台跡があるのはコモンゲートの敷地内ではないので「3つめ」ではない・・・ということで気をとりなおし、またコモンゲートの敷地を外堀が続いていたと思われる溜池方向に向かって、歩いて行きました。



・・・が、敷地の途切れる特許庁との間の道まで来ても、それらしいものが見当たらない・・・
念のため、特許庁とコモンゲートの間の道を三年坂の方に登っていっても、やっぱりない・・・

と、ひょいっと道ばたの案内板を見ると・・・最初に行った展示コーナーのすぐそば、旧文部省庁舎の裏側の文部科学省新庁舎との間の細長い中庭に石垣がある~!

結局コモンゲートの敷地を一周しちゃったよ~(>。<)





というわけでとんで行ってみると、通路からちょっと入り込んだところにある上に地面を細く掘り込んだところに展示してあって、しかもそこまでの道案内も見当たらず、植栽までしてあってちょっと見生け垣風なので、そばにいくまで全然わからない~!


もうちょっとPRしてほしいです、文化庁さん・・・(T◇T)


でも、そばに行ってみると先ほどの展示コーナーよりもさらに石垣が間近に見れる上、対面には石垣発掘調査の報告が展示されています。










ここの石垣は摂津三田藩九鬼家が担当したということですが、刻印や楔の跡だけでなく、細部を鑿で削った跡なんかもよく見えます。




そして、この展示場所にむかって点々と飛び石のように石が埋め込まれているのですが、この石は実は石垣の石で、石が配置されているラインが外堀の縁だったそうです。。。




お茶するつもりで来たコモンゲート、結局当初の目的はどこかにすっ飛んでいっちゃいましたけど(笑)東京のそれも官公庁のど真ん中に、歴史がひっそりと埋もれているんだなぁ~と感慨にふけってリフレッシュしちゃいました♪

巨大広大な江戸城、遺構は都内のあちこちにまだまだあるようなので、このコモンゲートの遺構も含めていろいろ探して訪ねると楽しいですね!




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2013年8月10日土曜日

鎌倉街道上道と苦林野古戦場

先日、女影ヶ原古戦場小手指ヶ原古戦場を回ったときに、それぞれの古戦場と鎌倉街道上道古道の関わりにおおいに興味をそそられてしまったので、ほかにも埼玉県内の鎌倉街道沿いに古戦場がないかな~☆と探してみたら・・・

ありましたありました!女影ヶ原から鎌倉街道を北上すると、毛呂山町に「苦林野古戦場」。
南北朝時代の北朝貞治2年(1363年)に鎌倉公方足利基氏の軍勢と下野の豪族芳賀入道禅可が戦った古戦場とのこと。

さらに調べると・・・女影ヶ原から苦林野へと北上する途中の鎌倉街道は非常に良好な状態で遺構が残っているとの情報が・・・!

これは行ってみるっきゃないでしょー☆

ということで、日を改めてのこのこと車を飛ばして出かけました。

まずは東武越生線の西大家駅のあたりに鎌倉街道の遺構があるらしいというネット情報をたよりに行ってみると・・・

西大家駅というのは単線の非常にひなびた駅で、車の置けそうな場所も見当たらない!
それどころか、お目当ての場所の方向には車の通れるような道もなさそうな・・・

しかたなく、駅から少々南にある「町屋自治会館」の庭にそっと車を停めて歩きだしたところ・・・
いきなり?!



「鎌倉街道(上道)」の看板!
しかも「ここの南北に掘り割り状になっている所」って、これのことですか~?




 前(左)の写真が看板からみて「南」で女影ヶ原の方角、後ろ(右)の写真は「北」で、まっすぐ行けば西大谷駅にぶつかる・・・はず。

でも、確かに鎌倉街道の「掘割状遺構」と言われればそうかもしれませんが、素人目にはどうみても、単なる用水路(笑)

とりあえずこの「掘割状遺構」を横目に見ながら、当初予定通り西大谷駅に向うと・・・ありました!
西大谷駅の前の県道74号線の踏み切り脇に鎌倉街道の説明板と、先ほどの続きの「掘割状遺構」。



ここまでくると、もうなんだか普通の水路(笑)

地図をみると、「鎌倉街道」はこのあと西大谷駅の北側からは舗装道路(後(左側)の写真の奥の道)となって続いているようです。

なので、また自治会館にもどって、今度は車で道の先をたどることにしました。

道は緩やかに下っていき、森戸橋で高麗川を渡って、田んぼの中を緩やかに上っていきます。
そして河岸段丘の斜面でぐっと右にカーブするのですが、そのカーブの入り口あたりに民家の間をまっすぐに入っていく道があります。

これがどうやら鎌倉街道の「切り通し跡」のようです。

車の轍もみえるし、一見軽トラも入っていくような普通の畑道にもみえるので、車で入ろうかどうしようか迷ったのですが、民家の庭に入り込んじゃったら大変なので、またも車を降りて歩いてみることに。




・・・いや、車降りてよかったっす。
歩き始めて50mもしないうちにこのとおり、道なき道(後(右側)の写真)ですもん。

はっきりいって轍どころか膝丈まである草ぼうぼう!
一足歩くたびに足元からバッタぴょんぴょんで、とてもサンダルシューズで歩く道ではなかったですね~(笑)

というか、いくら車で回るといってもちょっと侮りすぎではあったんですけど・・・(汗)

この「道なき道」をさらに北に進むと、県道川越越生(114号)線につきあたります。

道は県道を越えた先にもつながっているようなのですが、これまた車で行くには狭そうで、しかも地図を見ると途中で本来の「鎌倉街道」ルートから大きくそれてしまうようなので、再度車に戻り、次の「掘割状遺構」へ。


この場所には、鎌倉街道の遺構としては県内でももっとも良好な状態で残っている場所だそうです。

鎌倉街道をたどってはいけないので、県道114号線を多少西に行って、「市場」という地名の農家の立ち並ぶ一角の細い道に地図をたよりにくねくねと入り込み、なにか学校の寮のような(地図には「光風寮」とありましたが・・・)建物の前の道がくねっと曲がったあたりに、突然この「鎌倉街道遺跡」の道標が現れます。

道標には「ここの前を南北に鎌倉街道上道が通っていた。この標識に向って、右手の林中の道を南に行けば、葛川・高麗川を越えて、日高町の女影ヶ原古戦場へ行く。左は北方の越辺川に出る。すぐ右手の林中の凹道は、県下でも珍しく良く旧態を残して、昭和五十七年県立歴史資料館によって、試掘調査が行われた。堆積土の下に幅約五メートルの旧道面があり両側には排水溝もあった。低湿のため、長い間使用されず、今は旧道に大木が生えている。」とあります。



んむむむむ~!
いったいこの標識「向って右」とは、どの面にむかって右側なんだろう~?

再度地図に向うと、どうもこの標識の後ろに広がる林を突き抜けて行くと、先ほどの「切り通し跡」から県道114号線を通り越して続いている道にぶつかりそうな気配。

道標にも「林中の道」と書いてあるしなぁ、と林の右側に視線を転じると・・・




どーん!と広がるのは、どうみてもこれが街道の遺構なんじゃないかって思えるような切り開かれた場所。。。

玉川学園多賀譲治さんのサイト「これが最初(ホント)の鎌倉街道」や「道・鎌倉街道探索日記」というサイトの鎌倉街道の説明ページに引用されている埼玉県教育委員会の歴史の道調査報告書によると、鎌倉街道の規格は道幅約6メートル、両側または片側に幅・高さとも約2メートルの崖状の塁または土手を築いているもののようです。

これは乗馬した状態でも進軍が分からないための目隠しとも言われています.なので、台地や原野では道の両側に土手を築くことがあるし、尾根や坂道では掘割状の凹道となっているようです。

・・・というところからすると、この場所はちょっと広すぎるような気もするけれど、両側に塁があるようにも見えるし、もしかしたら元は林の中にあったものを見えるように切り払ったのかもしれませんね。

この道を、もしかしたら新田義貞や北条時行が軍勢を率いて駆け抜けて行って、その後の女影ヶ原や小手指ヶ原の戦いに望んだのかと思うと、身震いするような感動を覚えます・・・☆


さて、この場所でくるりと後ろを振り向くと、道は低い土塁を伴いながら林の中をさらに北の方角に続いています。




この先は、道は細いながらもなんとか車1台分の広さで続いているので、少し乗っては降りて歩いてまた乗って・・・を繰り返しながら進んでいくと、やがて県道39号線に突き当たります。

この39号線を左側、西に向かって3~4kmほど行ったところには流鏑馬で有名な延喜式内社の出雲伊波比神社があります。

もともとこのあたり「毛呂山」という地域は、源頼朝の側近として使えた季光を祖とする毛呂氏が代々地頭として治めた地です。

毛呂氏はその後戦国末期には小田原北条氏に属し、豊臣秀吉の小田原攻めの際には小田原城の支城の八王子城の守備を任じられ、その落城とともに滅びてしまうのですが、それまでの間、鎌倉幕府、室町幕府の鎌倉府、そして小田原とをつなぐ重要な道として整備され、使われ続けていたのではないでしょうか。

ちなみに県道39号線を反対の右側、東に向かってすぐのところには毛呂山町歴史民族資料館があって、鎌倉街道についても多少展示物があります。



この地図も、展示されていたものを撮ってトリミングしたものです。
赤い線の部分が鎌倉街道の今回歩いた部分になります。

県道39号線を横切ってさらに鎌倉街道古道の細道を北上すると、まもなく左手にとっても気になる土塁様の構造物が・・・?



土塁の向こう側はどうやら埼玉医科大学川角キャンパスらしいのですが、しっかり折れもあるし姿かたちといい何かいわくありげでなんですが、手元の資料にはこれに触れたものが何もないので、余計に気になります。何なんだろう?

この先はまた低い土塁を伴った道が林の中にまっすぐ続いていきます。

またのこのことゆっくり車を走らせたり降りて歩いたりしていると、東西に走るこれまた古そうな道に交差します。

この道を西に進むと「延慶の板碑」があるそうです。

鎌倉時代延慶年間の紀元銘が刻まれた3メートルもある大きな板碑で、今あるのは移設された場所だそうなのですが、もとあった場所を発掘したところ刀傷のある火葬骨の入った古瀬戸の瓶子が出てきたそうです。

いかにもこの地が鎌倉時代に「武士の地」として栄えていたのか・・・なんて、こんなところでも想像力を働かせてしまいます(笑)




この「延慶の板碑」に続く道と鎌倉街道が交差するあたり、どうも妙に人工的な塚がいくつもあるな・・・と思ったら、このあたりは「川角古墳群」なんだそうです。

そして、その塚の1つのてっぺんには庚申塔が。。。

中世の道「鎌倉街道」とその傍らの古代の古墳群、そしてその古墳の上の近世の庚申塔・・・
この道の機能してきた「時間」をしみじみと感じてしまう光景です。

このままこの鎌倉街道を北に向かっていくと、やがて道は県立毛呂山特別支援学校の脇をとおり、鎌倉街道苦林宿のあった場所ではないかといわれている堂山下遺跡のある大類グラウンドの先で舗装道路にぶつかって途切れています。

本来ならば、道はこの先の越辺川を渡ってさらに北上し、畠山重忠の居城のあった菅谷を通って上州へと続いていたといいます。

そう考えると、名だたる武将たちが「いざ鎌倉」と行きかっていた重要な道だったんだなぁ・・・と改めて実感です・・・!




で、この大類グラウンドの東側に広がる畑地が、実は苦林野古戦場だった・・・らしいのです。

苦林野合戦というのは最初にも書いたとおり、当時関東最強の武士だった宇都宮氏の家臣で越後守護職だった芳賀入道禅可が一方的に守護職をおろされたことへの不満から、入間川御所に滞陣していた鎌倉公方・足利基氏と激戦を繰り広げたもので、その合戦の模様は太平記の合戦絵巻にも残されているようです。

・・・が、今は写真の「神明台の石仏群」数基の庚申塔や馬頭観音、板碑の他にはなーんにもありません。

まぁ、こういう川を背後にしただだっ広いところで戦ったんだなぁ・・・と想像するにとどまります。。。



苦林野古戦場の案内板と追悼碑はちょっと離れた別の場所にあります。

行ってみるとちょっとした塚の上にのっていて、案内板によれば太平記に「小塚の上に打ちあがりて」とあるのはここのことかもしれない、ということですが、この塚よくよくみると・・・

実に見事な前方後円墳!

案内板めがけて塚を登っていって、そこで改めて塚を見渡してみて初めて気がつきました☆

案内板のあるところが前方部分で、江戸時代に建てられた追悼碑があるのが後円墳部分。。。

あー、びっくりした・・・!(笑)







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2013年7月27日土曜日

次の戦場は・・・小手指ヶ原古戦場

近場の古戦場めぐり、女影ヶ原古戦場をまわったら今度は小手指ヶ原です。

1335年(建武2年)7月、後に「中先代の乱」とよばれる戦いで、鎌倉幕府再興のため挙兵して鎌倉街道上道を信濃から鎌倉に向けて進軍する北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行の軍は、女影ヶ原古戦場で渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を打ち破ります。

さらに勢いに乗って鎌倉街道を進む高時軍と、鎌倉将軍府の足利直義が次に差し向けた今川範満の軍とが激突するのが、この小手指ヶ原(同県所沢市)です。

女影ヶ原からは鎌倉街道を南下して15kmほど。

さすが古道の名残らしく、入間川を渡るまでのところどころの交差点に「鎌倉街道」とか「奥州道」といった名前が残っていたりします。

国道299号線から国道463号線所沢入間バイパスに入り、誓詞橋交差点を右折して入っていきます。

私の愛馬・・・ならぬ愛車を駆っていけば女影ヶ原から小手指ヶ原まではおよそ40分くらいで到着。
ですが、古の戦人たちはどれくらいかけて進軍してきたのでしょうね・・・


女影ヶ原の記事で「鎌倉街道では多く戦いが行われた」ようなことを書いたかと思いますが、この小手指ヶ原も街道の要衝地に近いことから、たびたび戦場となっています。

中先代の乱で敗北し逃亡した北条時行はその十数年後、今度は観応の擾乱において新田義貞の遺児新田義興・新田義宗ら南朝方の軍勢とともに足利尊氏ら北朝方の軍勢と戦って(武蔵野合戦)、最後にはとらえられて処刑されますが、その戦いの中でも小手指ヶ原は戦場となっています。

しかし、なんといっても小手指ヶ原の合戦と言えば、中先代の乱に先立つ2年前、1333年(元弘3年)の新田義貞の鎌倉攻めにおいて、鎌倉を目指す新田義貞軍とそれを迎え討つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した戦いです

この時、新田荘の生品明神で旗挙げした新田軍はわずか百五十騎ほどでしたが、武藏国に入った頃には二十万七千騎になっていたと『太平記』に記されています。

一方鎌倉方は金沢貞将が五万騎をつれて東方より新田軍の背後に廻り、桜田貞国を大将とする六万騎は鎌倉街道上道を入間川へと向かい、この地で両軍が戦ったのでした。






西武池袋線の小手指駅からほど近いこの場所で、戦いがあったことを偲べるものとしては「小手指ヶ原古戦場碑」と「白旗塚」があります。

碑と塚のまわりは、いまでも何もない(~って、畑はありますが・・・)とても開けた場所で、合戦のあった時代もこんなだったのかなぁ・・・と想像しちゃいます。



碑の傍らを南北に走る道が鎌倉街道上道だったようです。
この碑から畑の方へ入っていくと、そこに新田義貞が源氏の白旗を掲げたという白旗塚があります。

何もない平らな土地にこんもりと盛り上がった、文字通りの「塚」です。
高さは5mくらい?てっぺんはこんな感じであまり広くなく、石碑が数基あるだけです。



周りは藪だらけで、まったく展望がききません。
ここに陣を置いたとしても、まわりはぜんぜん見えないなぁ・・・と思ってしまいます。

当時はこんなに木々や藪がなかったのでしょうか?
そもそもこの塚が当時あったのかどうか・・・ここに白旗を立てたという伝承に基づき後世塚を作ったのか・・・定かではありませんし。

ただ、この塚の近くにはいくつかの供養塔や関係のありそうな地名(誓詞橋など)が残っているので、このあたりで太平記に記されたような大規模な戦いがあったことは確かなのでしょう。

今回塚の裏側には藪がひどくて入れませんでしたが、どうも土塁や堀様の地形が見えたので、次回は藪のなくなる冬に来て、潜り込んでみたいものだと思います(笑)




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2013年7月25日木曜日

お城ではないけれど・・・女影ヶ原古戦場

仕事を休んで病院に行った日の午後、ぽかっと時間が空いたので、秋に城好きさんたちの案内をする下見をしようかなと思い立って、またまた何も用意せずにふらっと地元近くの古戦場に行ってみることにしました。

これまでもその近くはよく通っているので場所はわかっていたのですが、ちゃんと行くのは初めてです。

城好きさんたちをご案内するのなら、ちゃんと駐車できるかどうかも見ておかないと・・・

病院が毛呂山だったので、その近くの出雲伊波比神社(畠山重忠が造営したという流鏑馬で有名な延喜式社)と斉藤美濃守館(源為義・義朝に仕えた斉藤実盛の子孫(?))を車でぐるっと回って、駐車できそうなところの当たりをつけたあと、そのまま日高の女影ヶ原古戦場に向いました。

女影は「おなかげ」と読みます。「おんなかげ」とか「めかげ」ではありませんww
でも、何をかくそう私も最初は読めませんでしたwww

女影ヶ原古戦場は埼玉の西部、日高市にあります。近くには霊亀2年(716年)駿河以東の渡来人たちが集められた高麗郷があります。だから地名にもその影響があるのかもしれません。

また、この女影ヶ原には鎌倉時代から鎌倉と地方を結ぶ鎌倉街道の上道が通っていました。

この鎌倉街道上道は鎌倉を出て藤沢、町田、府中、所沢を通って狭山で入間川を渡って日高に入り、この女影ヶ原を通って坂戸をかすめて毛呂山→鳩山→児玉→藤岡(このあたりは現在の八高線沿い)と通って、高崎に続いていたそうです。




写真は、鎌倉街道上道、大谷沢から女影に向かう古道沿いにある上道の石碑です。

このあたりは道こそ舗装されてるものの、道幅は狭く、周囲は畑や林、野原が散在しており、切り通しなどもあって、昔はこんなだったのかなぁ・・・と想像されるような場所が広がっています。

物資の行き来もですが、鎌倉武士たちが「いざ鎌倉」に馳せ参じるための道でもあったためか、この道筋には古戦場が点々と残っています。

女影ヶ原の古戦場もそのひとつで、ここでは建武2年(1335年)に北条高時(鎌倉幕府第14代執権)の遺児時行が、信濃の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵した反乱(中先代の乱)で、渋川義季や岩松経家らが率いる鎌倉将軍府の軍を打ち破ったと言われています。

この合戦の後、勢いづいた時行軍は小手指ヶ原、武蔵府中と勝ち進み、ついには井手の沢(東京都町田市)にて鎌倉から出陣した足利直義をも破って鎌倉に入ることになります。

現在、この女影ヶ原にはこのあたりの村社である霞野神社があり、境内の南側に「史跡女影ヶ原古戦場址」の石碑が建っています。




 この霞野神社の前は南北にのびる鎌倉街道上道古道の五叉路になっています。



 左の写真が霞野神社の鳥居前から見たその五叉路ですが、このうち南に向かってまっすぐのびて登っていく一番広い道が上道です。

その右側に伸びていく細い道との間の電信柱の下に、目立たない小さな古い道標石がありました。

読むのにめちゃくちゃ苦労したのですが、どうやら「右 扇町屋 八王子道、左入間川 所沢道」と刻まれているようです。

この古道を下りきった霞野神社の北側は小さな川が流れていて、その川にかかる小さな橋を渡ると、道は今度は右の写真の通り、女影交差点方向に向かって北に登っていきます。





時行軍は北側から鎌倉へ向かってくるわけですから、きっとこの古道に沿って女影交差点方面の高台から攻めてきたのでしょう。

一方、右の写真は霞野神社の境内ですが、北側の川を天然の堀とした砦様の高台地形になってますので、迎撃側の鎌倉将軍府の軍はこの神社のあたりに陣をはって退治したのかもしれないな・・・などと妄想したりして(笑)

じゃあ、勝ち進んだ時行軍についていこうかな♪ということで、次の合戦地、小手指ヶ原に愛馬ならぬ愛車を駆っていくことにいたしました。。。

長くなりましたので、小手指ヶ原の様子はまた次回(^^;)




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2013年7月11日木曜日

江戸城外堀土塁歩き♪

所用で麹町に出かけたある日。

用事自体は午前中で終わったのですが、麹町あたりはあまり土地勘がないので、昼食をどうしようかな~とお店を物色しつつぶらぶら永田町方面に歩いていたら・・・

・・・ん?




どうも、右手方向、放送会館の手前に「土塁」にしか見えない高さ2~2.5m、幅25mほど、厚み3mくらいの土盛りがある?

どうも気になって、その前をしばし行ったり来たりして写真を撮って(どうもその土塁のある路地の奥は高級マンションらしく、通路の掃除をしていたおじさんに胡散臭そうな目でじろじろ見られてしまった・・・)Twitterで様子をつぶやいてみたら・・・

 すぐにフォロワーでもある私のお城歩きのお師匠サマから、「それは江戸城内にあった紀州藩屋敷の土塀ではないか」とリプが飛んできました!

後で調べたら、この土塁の隣の敷地にある放送会館、赤坂プリンス跡地、そして土塁の後方に広がる清水谷公園にかけては、古地図の上で「紀伊殿」の屋敷があったと記されているようです。

そして、古地図上で屋敷の脇を通る道として描かれている道が、ちょうどこの土塁の前をとおっている「プリンス通り」として残っているようです・・・!

しかしながら、江戸城内とはいえ「屋敷」の土塁なのにこれほどの規模だなんて、さすが「御三家」ですね☆

さて、それなら江戸城の土塁はどんな規模・・・?

というわけで、お昼ごはんは土塁の隣のローソンで調達し、清水谷公園で蚊にくわれてぼこぼこになりながらほおばった後、公園にある江戸水道玉川上水幹線の分水に使われていた石桝と、大久保利通公暗殺の哀悼碑を眺めた後、のこのこと土塁を求めて出発~☆

まずは清水谷公園から外に出て、ホテルニューオータニの脇の紀尾井坂を登って行きました。

「紀尾井」という地名は、このあたりに「紀州家」「尾張家」「井伊家」の屋敷があったことに由来していて、「尾張家」は現在の上智大学、「井伊家」はニューオータニの付近にあって、ちょうど清水谷のあたりで境を接していたのだそうです。

で、かんかん照りの日差しの中をえっちらおっちら登りきるとそこに大きな土塁が・・・

ここが江戸城外堀の土塁と喰違見附(御門)跡です。





このあたり、眼下に広大な「外堀」が眺められる巨大な土塁がずっと数kmにわたって続いていて、その上をずっと散策することができます。
(うちの家族は、この土塁はどうみても「土手」だろう、というのですが・・・)



この上を歩いて四谷まで、ずっと土塁の上はこんなご機嫌な並木道です。
土塁の内側は上智大学のキャンパス。土塁の高さも3mほど?一番右の写真くらいなのですが、土塁の外側は・・・


・・・かなり高いです。
堀底には今は水がなくなっていて、上智大学のグラウンドが広がっています。

ちなみに堀の向こう側は迎賓館のあたりで、そちらがわにも紀州家の屋敷が広がっていたのだそうです。

どこまですごいんだろう、御三家。

さて、土塁を堪能しながらさくさく歩いていたら、あっという間に四ッ谷駅前についてしまいました。
ここは、江戸城の四谷見附跡です。



この四谷は甲州街道や青梅街道につながっていて、甲信地方への出入り口となっていたということです。



ここには四谷門の枡形の石垣の一部が残っています。

この先、市ヶ谷・飯田橋方面に向けてはいまだに堀に満々と水がたたえられていて、土塁の一部を削ってJR中央・総武線が走っています。

これだけでも、いかにこの外堀と土塁が壮大なものか、おわかりいただけるかと思います!

さて、あまりにも暑い日だったので多少へろへろしていたのですが、ひとやすみしたらこの先もう少し歩いてみようかな、という欲が出まして・・・



引き続き、今度は四谷から市ヶ谷へ向けて土塁の上をのこのこ。



ここも土塁の上はひろくて整備されたごきげんな散歩道。
土塁の内側はそれ程高さはなく、お屋敷の土塀と同じくらい・・・ですが、外側は高くて広~い外堀。

土塁の外側を望む真ん中の写真では、四ッ谷駅の向こうに残っている四谷見附跡の大きな土橋が見えます。

ここもさくさく歩くと、あっという間に市ヶ谷駅=市ヶ谷御門跡。
橋の上から歩いてきた四ッ谷駅の方向を眺めると、これまた外堀の大きさに感嘆です。。。



この市ヶ谷御門跡、枡形は全く残っていません・・・が発掘された橋台の石垣の一部の石が、ごろんと転がっています。



ここからまた飯田橋へ向って歩いていきますと・・・


これは、途中の土塁上からみた新見附橋の土橋。



ところどころ石垣に使われていたような石がごろんと転がってますが、法政大学の前あたりにはこんな灯篭だったような石がごろごろん☆

なんだったんだろう・・・これ?


何も計画を立てずにふらふら歩き続けましたが、江戸城の土塁を結構堪能できました。
・・・が、このあたりまで来るとさすがに疲れてきて、足が棒。

それ以上散策する気力もなくなったので飯田橋で地下鉄にフェイドアウトしました。

それで足が痛いな~と思ってふと足元を見ると、パンツスーツのすそがほこりだらけ。
おろしたてのパンプスもかかとがすっかり痛んで、おしゃかになりかけてる。。。まだおろしたてなのに。

よって、教訓。

いくら足にフィットして歩きやすかったからといって、買ったばかりのパンプスで土塁なんか歩き回ってはいけませんな(笑)








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