2014年3月9日日曜日

たまには「城がある(城ガール)」!・・・鎌倉街道山ノ道その2 辛垣城~軍畑

さて、あまりに古道にフラれ続けたもので、ブランコの上でパンをかじりながら途方にくれていたところ、ふとTwitterをチェックしてみたら、私のツイをチェックしてくれていたフォロワーのてら(寺旅人)さんから1本のリプが。

「。oO(もはや、『城ガール』やなくて『道ガール』『ストリートの女』になっとるがなww (^_~) 」


いやいやいや~!

確かにこのところ鎌倉街道(古道)にハマッてはいるけど、それは「城がなぜそこにあるか」にハマッているわけであってぇ~☆


だから思わずリプ。「たま~に『城がある』です♪ (*^^*) 」
それを受けて、てらさんからは「ナイス!『道女』」。


だぁ~かぁ~ら!  『城』だっちゅーの!!


ちょっぴり悔しくなったので、当初のルートは榎峠を横目にこのまま鎌倉街道山ノ道ルートを軍畑まで降りて北条と三田の戦場となった軍畑を見て回ろうと思っていたのを、急遽榎峠から尾根沿いに辛垣城を攻める決心がつきまして・・・


辛垣城は平将門の後裔を称する三田氏の「詰めの城」とされています。
三田氏は室町時代には関東管領山内上杉氏に属し、最盛期には本拠地青梅だけでなく、現在の奥多摩町や高麗郡、入間郡までその勢力下にあったということですが、永禄6年(1563年)に北条氏照率いる後北条軍によって攻め落とされ、廃城となっています。

その時の戦いでは、氏照は滝山城を出陣し、鎌倉街道山ノ道を北上、梅ヶ谷峠を通り多摩川を挟んで袖木町で三田軍と対陣します。

一方、三田軍は多摩川対岸にて防戦態勢をとり、軍畑で激しく激戦し、数で勝る氏照方が三田勢を圧倒して三田軍は辛垣城へと後退するのです(辛垣合戦)。



榎峠と辛垣城、軍畑の位置関係はこんな感じ。
榎峠から現在は都道193号線となっている鎌倉街道をそのまま真っ直ぐ南に下っていくと、ほどなく軍畑。

一方、榎峠と辛垣城との間には、「起伏の少ない尾根道」とはいうものの、雷電山というピークが1つ挟まっています。

DSC_5185.jpg を表示しています

上の地図は山あるき本からの抜粋ですが、榎峠から右側へ向かう赤線部分は「青梅丘陵ハイキングコース」ということで整備された道になっています。




ハイキングコースの入口から山を見上げると、南斜面のせいか雪はほとんど見当たりません。

小沢峠や松ノ木峠の古道とは違ってハイキングコースなので、人通りもあるはずだし、これはもしかしたらイケるかも。古道ではないけれど・・・と舗装道路から細い山道を登って行ったら、すぐ左手に・・・

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切り通し発見~!
舗装道路のカーブをショートカットするような形で掘られたこの切り通しは、まさしく旧道に間違いありません。

うひょほ~い☆

ちょっと幸先よさそうな気がしながらそのまま進んでいくと、途中途中に急坂はあるもののいい感じに尾根道が続いています・・・

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途中、道が掘割状道の遺構に見えたり、端が石垣様に見えたり・・・
こうなると、ちょっと古道の病だわ(笑)

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途中でハイキングコースと並行して走る別の道を発見するなど。
ただし私有地のため入れず、なのでどこへ続いているのか確認はできませんでしたが。


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そして歩くこと30分ほどでついに・・・やっぱり雪が出現。
しかも、ここまで山の中に入ってきちゃうと引き返すのもキツいし。

幸いなことにせいぜいくるぶし程度の雪で、しかも前に歩いた人の足跡が溶けて地面が出ているので、なんとか歩けそう。

ただし、ぐちゃぐちゃどろどろだけど(笑)



そして、雷電山山頂(標高494m)。ここから辛垣城まではあと1km。

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さて、雷電山山頂から次のピークである辛垣山(城)に向かって一度尾根を下がり、「辛垣城まであと800m」の看板をみつけたあたりで、ハイキングコースの右手側の斜面になんとなく人の手が入ったんじゃないかな~というような地形。




あれ?もう辛垣城の城域に入ってきてるんだっけ~?
そうこうしてるうちに、こんなに立派な堀切状地形が・・・



もう、これは辛垣城の城域に入っているに違いない!
あわてて日本城郭体系から引っ張り出してコピーした縄張り図を確認。




しかーし!縄張り図にそれらしい図形は見当たりません。

それもそのはず。後で考えればまだまだ距離的にもこの図の範囲内には入っていなかったわけなので。

実はこのあたりの山は江戸時代から大正期にかけて石灰石の採掘が行われていたので、その跡が実に紛らわしく残っているようなのです。

しかしワタシのようなド素人にその辺の違いがわかるべくもなく・・・(^^;)

で、この図の中の左側の堀切かなぁ~とアタリをつけながら雪の積もる堀切にずぼずぼと入っていって・・・


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iPhoneを拾ってしまった(汗)

しかも、落としたばかりなのかしっかり電源は入るし、待ち受けにかわいい赤ちゃんのお写真。

さすがにロックがかかっているので中身までは見れませんが~☆

これは、落とした人は困ってるだろうなぁ。。。

ということで、試しにTwitterで「iPhone拾いましたので、お心当たりの方は~」とツイしてみたら・・・

私はフォロワーさんの数もそれほどないので、どれだけ効果があるのかわかりませんが、それでもあれよあれよという間にまずはフォロワーさん、そしてフォロワーさんのフォロワーさん(私の全然知らない人)と、どんどんリツイートされて拡散していきました。

すごいですね、Twitter!

これで、落とし主が見つかるといいんですけど。

ちなみに、件のiPhoneは下山してから駐在所に届けて、その旨もツイしました。


というわけで、今度はちゃんと辛垣城。



この看板でようやく自分が(縄張り図上でも)どこにいるか把握でき、辛垣城の1郭に到着!

まわりが非常に高低差のある高土塁状になっていて、奥に虎口にも思われる切り通しが見えます。やったね!

・・・でも、なんか形状がヘン。。。

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どうやら、この1郭も石灰石の採掘で相当掘られてしまって、かなり原状をとどめていないようなのです。

虎口を反対側に出て下から眺めた図は、結構ダイナミックで見ごたえあるんですけどね・・・



1郭からハイキングコースにおりてきて、少々東にすすんだところにあるのが名郷峠。
ここも小沢峠と同じく尾根を通る道と尾根を横切る道の交差点です。

後日調べてみたら、ハイキングコースを多少戻ったところの南側にいくつか遺構が残っていたらしいし、このまま尾根道を進むと青梅鉄道公園の方まで続いていて、途中から尾根続きに枡形城にも続いていたようなんですが、事前リサーチが足りなかったのでこの日はうっかりパスして、ここから二俣尾の駅に向かって直降することに。

まぁ、次回は鎌倉街道は歩かずに三田氏の本拠の勝沼城とセットでじっくりリベンジしたいところではあります。

そうしたら、南斜面だから雪はないはず、なのにしばらく降りていくと・・・


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道だけ見ると多少掘割状が入った感じのいい道なんですけどねぇ~☆

膝丈まである雪がしっかり凍って締まっていて、そのくせ所々溶けてずぼっと入り込むし、その上人の通った跡がぼこぼこ穴になっているもんだから、めちゃくちゃ歩きづらいったら!

アイゼン&スパッツがお役に立ってる気がしない(笑)

この日最大の難所でした(笑笑)





辛垣城からやっとの思いでJR青梅線二俣尾駅到着。
さすがにここまで降りてくると雪はないです(笑)

二俣尾駅のすぐそばには三田氏一族の供養墓のある海禅寺があります。

この海禅寺はちょうど辛垣城とその出城である枡形山城の麓にあって、三田氏の手厚い庇護を受けていたのですが、辛垣合戦の際には三田氏の前線基地となり、三田氏の滅亡とともに兵火にかかって諸堂ことごとく焼失したとされています。

その後、天正19年(1591年)には徳川家康より15石のご朱印を受け、慶長年間以降諸堂の復興がなされました。





写真の山門は寛政5年(1793年)再建でちょっと時代が後ではありますが、それでも立派です~☆
青梅線で寺域が分断されたらしく、慶長17年(1612年)建立の総門が線路の向こうにぽつんと建っているのが、なんとも寂しかったですけど・・・

三田氏の供養墓も形式から見て桃山時代から江戸時代初期のものということなので、あるいはこの復興の頃に建てられたものかもしれません。


さて、海禅寺を出て現在の青梅街道を横切り奥多摩橋を渡って、今度は北条氏照が陣を置いたとされる多摩川の対岸、柚木の方へ出てみることにしました。

奥多摩橋は新しい橋なので、川からかなり高いところにかかっています。




が、橋の上から上流の軍畑方面を眺めると両岸の河岸段丘が多少低くなっていて、川の蛇行も考えると比較的川を渡りやすいように見えます。

奥多摩橋の地点のほうが辛垣・枡形の直下で城への最短距離ではありますが、軍を展開するとしたらやはり渓谷のように切り立っている奥多摩橋地点よりは多少上流のほうかもしれませんね。

橋を渡って200mほどで鎌倉街道山ノ道の続き、現在の吉野街道にぶつかります。

この吉野街道を上流側に1kmほど行くと昔の渡し場があったといわれる軍畑大橋、そして奥多摩橋と軍畑大橋とその間の蛇行地点を吹くむ多摩川の右岸一帯に、氏照が陣を置いたとこれる「柚木」の地名が残っています。

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写真は吉野街道のマンホール。
このあたりは梅郷で有名なので、やっぱりマンホールも梅にウグイスなんですね♪

鎌倉街道山ノ道自体は、このあと吉野梅郷のあたりを通り、梅ヶ谷峠を越えて(大久野・平井(現在の日の出町)に抜け、武蔵増戸、高尾、七国峠、相原へと続いていきます。

この道は八王子城や浄福寺城からだと非常にアクセスがいいんですが、辛垣合戦のあった永禄6年(1563年)当時、まだまだ八王子城はできていません。


氏照の滝山入城は永禄2~5年ごろというのが通説のようなので、辛垣合戦の時には滝山から出陣したんだろうなぁとは思うのですが、地図とにらめっこしているとどうも滝山からのアクセス悪すぎ。

いや、行けなくはないんですが、それよりはわざわざ梅ヶ谷峠を通らずに多摩川に沿ったルート(そちらにも古道あり)で行ったほうがいいような気も・・・

その辺についてはもう少し勉強してから、ルートを決めてまたの機会に踏査してみたいと思います。


閑話休題。


今回は吉野街道を八王子方向ではなくて、上流の軍畑大橋へ。

この散策では榎峠で鎌倉街道山ノ道から辛垣城へと道をそれてしまいましたが、そのまま街道を進めば、まっすぐこの橋まで下りてきます。

中世、鎌倉街道山ノ道はこの軍畑大橋のあたりで多摩川を渡っていたそうです。
割と近頃まで渡し場が残っていたらしく、現在は橋の下まで階段で降りていけるようになってますが、その階段の脇に渡し場へ降りていくための旧道と思われる地形が少しだけ残っています。

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うーん、写真にするとどこも同じ斜面に見えてしまう・・・肉眼だとよくわかるんだけど(^^;)

橋の袂にある案内板には「水の多い4月から11月の間は渡し舟が使われ、少ない期間には丸太を組んだ板橋が架けられていた」とあります。

橋の下には、割と新しめと思われる船着場っぽい階段も残っていました。




さて、またえっちらおっちら橋の上まで戻り(結構高低差があってキツい・・・)、橋を渡って対岸へ。


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鎌倉街道沿いにちょっとだけ登ったときところに「鎧塚」があります。

辛垣合戦の際に戦死した武者の鎧や刀などを埋めたと伝えられているそうです。

この塚のナナメ上くらいがJR青梅線の軍畑駅。
ちょうど日も暮れてきて・・・駅に行ったらちょうど上り電車がやってきたので、それに飛び乗って今回の散策は終了!

散策を開始した旧名栗村の小沢バス停から小沢峠~松ノ木峠~榎峠。そこからまっすぐ降りれば軍畑だったところを榎峠から東の尾根にそれて雷電山~辛垣城本郭~二俣尾~軍畑・・・

後から調べてみたらだいたい15kmくらいの距離だったんですが、くねくね&アップダウン&雪道で結構疲れた~!


でも、歩いてみて辛垣城や軍畑の状況はなんとなくわかったので、今度は北条方の進軍路や陣を置いた場所なども調べてたどって見たいと思います。

それに今回行けなかった枡形山城も・・・
というわけで、次回に to be continue!!