今回は、古戦場研究家のサイガ(新津竜一)さんのご案内により、次の日程でそれらの遺構のうち、御鐘ノ台を中心に遺構の状況が良好な外郭北西部を歩いて回ります。
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・・・という謳い文句で、ワタシの「城攻めのお師匠サマ」サイガさんを講師に「総構え」を歩くツアーを企画しましたところ、参加者がワタシも含めて9名も集まりまして・・・
2ヶ月ほど前に下見で回ったコースを下敷きに、みんなでぞろぞろ歩きます☆
(→ 下見の時の記事「小田原城外郭に圧倒されたオフ会下見」は こちらをクリック!)
日頃の行いがいいのか(?)めっちゃ晴れ上がった小田原駅前に総勢10名大集合。
北条早雲公に見送られて、いざ出陣!
<慈眼寺の横の道と小峯御鐘ノ台大堀切>
まずは、下見の時には最後に行った「慈眼寺の横の道」へ。
サイガさんから竪堀だったと思われる道の説明を受けます。
この道については、下見記事の方に多少詳しく書きましたので、ご覧ください(^^;)
説明が終わると、今度はこの竪堀のある谷津丘陵とは谷の反対側の八幡山丘陵に登りまして・・・
小峯御鐘ノ台大堀切東堀!
こうやって人と比べてみると、畝障子かもといわれている盛り上がりも、しっかりとした土橋に見えてしまうくらいの規模だというのがよくわかる☆
みんなしっかり講義を受けてながら遺構を見ています。。。
天気がいいので、堀のクランクもひときわ映えてますね!
中堀や、堀と堀の間にある郭の土塁も忘れずに♪
(小峯御鐘ノ台大堀切についても、下見記事に詳しく書きましたので、ごらんください☆)
<三の丸外郭新堀土塁>
さて、ここは下見では来てなかったんですが、今回のツアーに小田原ジモティの奥月さんが参加してくださってて、ちょうど2年前に整備・一般開放されたことを教えてくれたので、奥月さんのご案内で行ってみる事に。
場所は緑丸で囲んだ「現在地」のあたり。
白線で描いた小峯御鐘ノ台東堀を降りきった先あたりを、ちょっと入ったところにあります。
MRAアジアセンターの敷地だったところを史跡公園として整備したそうです。
元は写真右側のひときわ高くなっている土塁と同じ高さ大きさで、土塁がずっと続いていたものと思われますが、センター造成で削られてしまったものもあるかもですね。。。
この窪みも遺構なのかどうか、よくわかりません。
もしかしたらセンターの遺構なのかも?
ちなみにこの三の丸外郭新堀土塁、小田原城の外郭よりは内側にあるものの、丘陵上の西縁にあるので、下見のついでに行った( → 記事はこちら!)天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めの際に、秀吉が築いた石垣山城や、細川忠興が陣を張ったという富士山砦が真正面に見えます!
これは籠城してて怖かったろうなぁ・・・☆
<御鐘ノ台と稲荷森、そして山の神堀切>
再度、小峯御鐘ノ台大堀切東堀を登って引き返し、今度は御鐘ノ台へ。
私有地のため入れない小峯御鐘ノ台大堀切の西堀を、「あっちかな~☆」と道路で看板だけ眺めながら通り過ぎて、外郭から尻尾のように細く突き出した御鐘ノ台の先端まで行きます。
ここからは、小田原城北側の外郭の空堀が続いている様子が、遠くに眺められる・・・はず(^^;)
よくわからん~!と言いながらも、一生懸命資料と照らし合わせている参加者たち☆
天気もいいので、ここで外郭とみかん畑や遠くの海を眺めながら、道端に腰掛けてお昼タイム!
デザートは、奥月さんにいただいたチロルチョコ首里城バージョン。ごちそうさまです~♪
昼食がすんだら、また小峯御鐘ノ台大堀切方面に戻りつつ、ちょっとばかりみかん畑の間の道を下って、下見の時にも来た大堀切西堀と外郭横堀との合流点を確認。
(→ その時の記事はこちら!)
また元の道に戻って、今度は稲荷森へ。
稲荷森に向う道からは、畑越しに西堀の土塁が垣間見えます(写真の右の方)。
稲荷森は下見でも来ましたが、やっぱりスケールが大きい!
こんなに大きな堀が二重土塁とともに外郭に廻らされていたんですねぇ・・・しみじみしてしまいます☆
そして、稲荷森からしばらく行くと、山ノ神堀切です。
せっかくだから、もう少し外側の土塁に寄って写真を撮ったら、土塁の大きさがよくわかったかな(^_^;)
・・・しかし、空が青いなぁ~☆
<城下張出>
谷津丘陵の上からは、所により遠くに天守と八幡山古郭がよく見えます。
また、丘陵に谷が入り込んでいるので、地形がすとん!と落ち込んでいて、天然の要害となっています。
下見の時には、この谷津丘陵の先までは来ていなかったのですが、丘陵の北側に城下張出遺構があるということなので、行こう行こう! ←(^o^;)
地図を見ながら尾根伝いに住宅地の北へ向うと空き地に遭遇。
「総構城下張出(平場)」の案内板があるところをみると、どうやらこの空き地が遺構の場所らしいのですが??
試しに、奥に見える藪から向こうをのぞいてみると・・・
ありました、堀の跡です!
この場所には、小田原城の総構えから張り出す形で、周りを空堀で囲んだ平場が作られていたようです。
よく城の石垣に「折れ」を作って横矢がけが掛けられるようにしてますが、それと同じ効果だったのでしょうか。
下のほうに行くと、堀が折れ曲がっている様子がよくわかります。
平場から隣の家の高さを見ただけで、段差が見て取れますね☆
通りに出ると、城の遺構には関係ありませんが、「めだかの学校」という水車小屋があったりします。
ちょうど桜も綺麗に咲いて・・・春ですね♪
<谷津御鐘ノ台と久野口>
谷津丘陵の端は真ん中に谷が入り込み、U字のように二つに分かれています。
そのU字の左側、地図の赤丸部分にある城下張出から一度丘陵を降りて県道74号線足柄街道を渡り、U字のもう一方、青丸のあたりが谷津御鐘ノ台です。
谷から丘陵に入る道端には、古い五輪塔など古い中世のお墓があって、古道であることを物語っています。足柄街道の旧道ではないかという話もあるようです。
少し道を登ると、道が急激に折れ曲がっています。
小田原城の久野口と想定されている場所で、この連続して90度に曲がる折れは喰違虎口ではないかと考えられています。
道の折れ曲がりの脇の竹やぶの中には、外郭総構えの横堀。左側が城壁、堀を挟んで右側が掻き揚げ土塁です。
さらに上がったところの道の感じも、なんとなく堀の続きにも見える?
上から「喰違虎口」あたりを見下ろすとこんな感じ。竹やぶの中に堀があります。
登りきったあたりが、小田原の役の際に岩付城主北条(太田)氏房が守っていたという、谷津御鐘ノ台。
谷津御鐘ノ台は、現在は家が立ち並んでいてよくわかりませんが、だいたいこのあたり?という場所から下を見ると、結構な高低差の城壁になってます(>_<)
ちなみに、この城壁や堀は谷津丘陵に沿って、井細田口の方まで続いているようです。
<井細田口>
谷津御鐘ノ台から久野口とは丘陵の反対側に降りて、北条氏康の妹 崎姫(高源院、山木大方)開基の高長寺の前を通って、井細田口へ。
小田原城の甲州道からの外郭出入口だった井細田口は、大雄山線緑町駅のそば、下の地図の赤丸部分にあったといわれています。
現在は市街地化してしまって遺構らしきものはまったく見当たらず、国道255号線の広小路と栄町郵便局前という二つの交差点で折れ曲がっていることで、井細田口の「喰違い構造」が偲ばれるのみとなっています。
上の写真は、イケさんが栄町郵便局の前から広小路方向の写真を撮っているところ。
小田原城はこれだけの大城郭ですし、これだけの規模の喰違いですから、もしかしたら井細田口は枡形虎口だったんじゃないかな?と妄想むくむく。。。
ちなみに、井細田口から緑町駅方向に行く道にショートカットできる細い路地は中世からの道だ、という話があったので、通ってみました。
ただし、その先どこかに続いてるようでもなく、石仏のような道の古さを示すものも見当たらなかったので、なんともいえません・・・(^o^;)
<北条氏政公・氏照公墓所>
さて、小田原城を大勢でぞろぞろとうろつき回ってる(?)のですから、近くまで来たらやっぱりご挨拶申し上げないわけにはいきません!
というわけで、氏政公と氏照公の墓所にお参りです。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が開城したあと、後北条氏5代当主 氏直は高野山に蟄居となり、父 氏政とその弟 氏照は城下(現・南町)の北条氏侍医 田村安斎 邸にて自刃、当時この地にあった後北条氏の氏寺・伝心庵に埋葬されたとのこと。
写真の右側から順に氏政夫人・氏政公・氏照公の五輪塔。
また、五輪塔の前の平たい石の上で、両名が自刃したと伝えられているのだそうな・・・
また、五輪塔の左側のほうには傘塔婆型墓碑が立っていて、次のように法号(戒名)が刻まれています。
「滋雲院殿勝岩傑公大居士 天正十八庚寅年七月十一日 北條相模守氏政」
「青□院殿透岳關公大居士 北條陸奥守氏照 天正十八庚寅年七月十一日 」
なお、現在の墓所は永く放置されてあったものを、稲葉氏が小田原城の頃に、北条氏追福のため作りなおしたものだそうです。
<幸田門跡>
墓所からそのまままっすぐ、お堀端通りを小田原城址公園の方に向うと、幸田門の遺構があります。
幸田門は、古くは「蓮池門」または「蓮池四門」と呼ばれ、後北条氏時代の最初の大手門と伝えられており、3代氏康の時代に小田原城が上杉謙信や武田信玄に攻められた際に、この幸田門から攻め込まれ二の丸までの侵入を許したそうです。
当時はまだ総構えが作られておらず、きっとこの幸田門が小田原城の北の外郭だったんでしょうね・・・
肝心の幸田門自体は、通りや建物で跡形もなくなっちゃったようですね☆
この土塁は江戸時代の小田原城の三の丸土塁だそうです。
門の名称が「幸田口門」と改まったのは江戸時代になってから。元禄10年(1697年)の曲輪名の改称によるものだといいます。
が、その以前の後北条氏時代から門があったのであれば、土塁や堀もその頃からあってもいいような気もするんですが・・・改築等あったのでしょうか?
そのまま土塁上を奥へと進むと、小田原郵便局の裏側の塀と土塁の間にそっと石垣が埋もれています♪
石垣を横目に見ながら建物の間の狭い通路を抜けると、郵便局の前を南北に走る広い通り。
井細田口から南下してきた、国道255号線です!
<大手門跡>
国道255号線は、小田原郵便局から南の部分で、しばらく三の丸堀跡に沿って走ります。
昔は「お堀端の道」だったのかもしれません。
しばらく行くと、東の方向から来た国道1号線とぶつかります。
この道は、寛永年間(1624~1643年)に徳川3代将軍家光の上洛に先立ち、小田原城大手門に到る将軍専用の御成道として新設されたものだといいます。
この交差点からちょっとだけ鍵の手に曲がって、小田原城方向に進むと古い鐘楼が見えます。
大手門跡です。
江戸初期には箱根口が、稲葉氏の大改修により大手門として使われていたのが、寛政10年(1633年)に御成道の整備とともに、この鐘楼の場所に移されたとの事です。
鐘の方はもともと大手門にあったわけではなくて、浜手御門にあったものが大正年間に現在の名代に来たもので、それも太平洋戦争時には供出されたので、昭和28年(1953年)に新しく作ったものだそうです。
ただし、鐘楼台の方はもともとの大手門石垣をそのまま使っているようです。
<小田原城址公園>
さてさて、ぐる~っと外郭北西部を歩いて、そろそろへろへろになってきたご一行。
最後は、天守に登城してゴールにしましょうか、ということで馬出門土橋から城内へ。
夕日に向って歩くシルエットが、なんとなく黄昏てる(笑)
馬屋曲輪を通り抜け、二の丸の正門にあたる銅門へ。
住吉橋を渡って内仕切門を入ると、ぐるりと土塀に囲まれた枡形になっています。
平成9年(1997年)に復元された渡櫓門には、銅門の名前の由来となった銅版の装飾が映えています。
二の丸を通り抜け、本丸東堀跡を横目に見ながら橋を渡り、石段を登って常盤木門へ。
常盤木門は本丸の正門にあたり、多聞櫓と渡櫓門を配して、小田原城の城門の中でも特に堅固に作られていて、多聞櫓は武器の貯蔵庫として用いられていたそうです。
常盤木門を潜れば本丸!
仕方がないので、本丸から裏手に回って、ちょうど発掘調査を行っている御用米曲輪をのぞいてみることに。
御用米曲輪の調査は、江戸時代に曲輪内に所在した蔵や建物の様子を解明することが目的だったようなんですが、それだけでなく戦国時代の遺構も確認され、特に小田原城周辺では初となる礎石建物や池を含めた庭園の跡が確認されたことでニュースになりました。
休日なので、発掘現場は遺構保護のためにシートかけちゃってるかな~?と思いながら行ってみると、案外外れてる部分があって、それなりに現場が見える!
特に見たかった黄色い「鎌倉石(三浦半島の凝灰岩)と黒い「風祭石(箱根の凝灰岩・安山岩)」をモザイク模様のように不規則に組み合わせた切石敷遺構が、屹立する細長い石とともに、遠目だけど微か~に見える!
あれは池なのかな?説明資料を見てもよくわからないけど(笑)今後は遺構保護のために埋め戻してしまうということなので、目に焼き付けておかないとです。
見えるように保存展示することは難しいのかな・・・?
そのまま天守の裏手をぐるっと回って、小峯曲輪北堀へ。
本丸のすぐ南側にあって二宮尊徳をお祀りしている報徳二宮神社の境内は、後北条氏時代の造成とされる小峯曲輪という郭だったそうです。
その小峯曲輪と本丸の間の空堀が神社裏手に残っているのですが、その堀底には掘障子が設けられていたと考えられています。
<八幡山古郭東曲輪>
小田原駅の方へ戻る途中、ジモティ奥月さんがオススメの小田原城ビュースポットがあるというので、ちょっとだけ寄り道。
報徳二宮神社から東海道線を渡った先の高台にある、八幡山古郭 東曲輪です。
特に夕方は、海をバックに夕日を真正面に受けた天守の姿を見ることができるので、絶好のシャッターチャンスなのだとか☆
で、撮れたのがこれ。カレンダーにできるかな(笑)
お疲れさま!かんぱ~い(^o^)/□
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