2014年3月21日金曜日

ご先祖様に思いをはせて・・・ 鎌倉街道山ノ道その3 梅ヶ谷越え

お彼岸なので、殊勝にも菩提寺の法要に参りました。。。

うちのご先祖が代々眠っている菩提寺は東京都日の出町平井というところにあります。




うちのじいちゃんからの「口伝」では、我が家は昔この菩提寺の裏手に屋敷を構えていた平井っ原の土地持ちの「千石大臣」といわれる家で、八王子城での功績で平井っ原に土地(領地)をもらったことから始まったんだということです。

でも・・・あくまで「口伝」だけです。実は証拠となるようなものはな~んにもありません。


というのも、第二次大戦後、うちの家系つまり「家」自体も没落離散してしまって平井からも立ち退いてしまったので(一説には酔った勢いで日本酒と田畑を交換しちゃったとか・・・本当か?)、現在残っているのは先祖のものといわれる菩提寺の墓石数基のみ。

その貴重な「墓石」も風雨による石の劣化が激しく、文字が読み取れるのは天保8年の1基のみです。

菩提寺自体は、永禄年間(1558~1570)に「千石大臣」の先祖により開基と伝わっているのだそうです。


しかし明治15年に村半分を焼いた「大久野焼け」といわれる大火により屋敷も菩提寺も過去帳も焼失。菩提寺にもなんにも残っていません。



かろうじて菩提寺とのうちとの代々の関係は今でも続いているので、これまた菩提寺からの「口伝」は伝わっているのですが、戸籍の除籍簿が残っている明治・大正期よりも以前の先祖を遡ることが実質不可能になってしまいました。


さらにまた「千石」という地名もすでになくなってしまい、かろうじて菩提寺の前を流れる平井川にかかる橋にその名をとどめるだけです。


うちの家系もおそらく私の代で終わるので、うちのじいちゃんがそのまたじいちゃんや親戚から聞いていた話なんかなどもどんどん忘れられていくのでしょう・・・



で、なんでまた誰も興味のないうちのご先祖の話なんか、くだくだと前ぶりしてたかというと・・・


鎌倉街道山ノ道。先日飯能の小沢から軍畑までのレポートをブログアップしましたがこの軍畑から吉野梅郷を過ぎると山ノ道は馬引沢峠越えと梅ヶ谷峠越えの2本に分かれて山を越えて日の出町に入り、平井で合流するのです。

(次の地図の黒い線が鎌倉街道山ノ道)





そして、そのまままっすぐ南下して網代で秋川を渡河し、八王子市の恩方・・・つまり浄福寺城や八王子城の大手道の入口のすぐそばに達します。


また西平井から東に向かう道は平井川に沿って滝山街道(中田正光先生の著書「戦国の城は民衆の危機を救った」にのっていた滝山城から満地峠・友田を経て青梅・勝沼方面に至る北条氏の軍事道)へのアクセス道となっていて、この道や平井川沿いにうちの菩提寺や北条氏照の着到状に名前の出ている羽生氏(由木衆)、うちと関係があるかどうかわからないけど同じ名字の八王子千人同心だった家などが散在しているようです。


ちなみに上の地図でいうと、右の端っこのほうにあるオレンジ色の線がその滝山街道。

北条氏康・氏照が三田氏を攻めたときには氏照は浄福寺城にいたのか滝山城にいたのかイマイチわからないのですが、もし浄福寺城からだったのなら、鎌倉街道山ノ道(黒い線)をたどったほうが、確かに三田氏の本拠である勝沼城へも詰めの城である辛垣城へもまっすぐ行けてしまうなぁ・・・

ちなみに八王子城にこもった由木衆の中にうちと同じ名字の武士がいて、もしかして「千石大臣」のご先祖???と妄想しまくり(笑)




とまあ、ちょっと支離滅裂に脱線しちゃいましたが、とにかく鎌倉街道山ノ道がこの平井を通っていて、自分にとってもやたらに身近に感じちゃってたりするという☆


で、北条氏照が辛垣城を攻めたときにこの山ノ道を梅ヶ谷峠越えで通っている・・・というので、いつもは菩提寺への行き来は圏央道を使っているのだけど、この日はご先祖様に敬意を表して(?)山ノ道を北上して飯能に帰ろうかな~と思い立ったのでした。。。



うん、前ぶり長すぎ(笑)

この日は日の出のイオンモールで買い物をしたので、武蔵増戸駅を出発点としました。

駅のそばをとおる、現在は都道135号線となっている「鎌倉街道」に出て、梅ヶ谷峠に向かって北上開始!


 
武蔵増戸駅前の信号から都道135号に平行して、旧道が残っています。
住宅地や畑地の間を縫って細々と続くそれは幅4~5mほどの幅で、1km弱の距離です。

今となってしまうと、表通りに対してすごく不自然(?)な形なので、そのうち区画整理の波に押されて消えてなくなってしまうんだろうなぁ・・・

 


写真の端っこに映ってたので、ちょっと拡大。
あきる野市に合併してしまったので今はなくなってしまった五日市町のマンホールです。



そして、旧道を抜けて都道と合流すると市境。
あきる野市から日の出町に入って、今度はお日様のマンホール♪

「西平井」の交差点で件の「平井川沿いのアクセス道」と合流。
ここでまっすぐ北上すれば馬引沢峠越え、左(西)に曲がって梅ヶ谷峠越え。

今回は梅ヶ谷峠越えなので左に振って平井川~北大久野川を遡っていきます。
ここでまた旧道が細道として残っているので、都道からのこのこ・・・





でも、やっぱりふつーの住宅地とか畑の中の生活道だよね~☆
と思いながら500mほども歩くと、元の都道に合流。でも一瞬だけ合流でまた左手に旧道が続いてる・・・なんだか面白いな。これも旧道と新道のせめぎあいってことなのかな?



左側の旧道に入っていくと、今度は今までよりも田舎道~といった風情。
・・・うん、これこれ。いくら舗装されてしまっても、やっぱ古道はせめてこんな感じでいてほしいよね、っていうのは私のワガママか(笑)

しばらく進むと・・・新しい石垣とセメントで固められてはいるものの、明らかに回りの地面から掘り割られている道が続いてる!




・・・やっぱ、これでしょー♪♪♪
鎌倉街道に特有の掘割道の名残。。。



このあたりまで来ると本当に山里という風情です。
野仏さまたちも雪囲い。

だいたい1kmほど歩いたところで、また山ノ道は都道と重なってしまい、ふつーの車道となってそのまま梅ヶ谷峠を越えていきます。




そして鬱蒼とした峠を抜けて反対側に降りると「梅ヶ谷峠入口」の交差点。
峠の上には道路だけでなにも表示がなかったんですが、こんなところに峠の名前が出てきます。

ここで、先日歩いた軍畑から続く「吉野街道」に合流です!お疲れさま☆

平井に住んでいたうちのご先祖様たちもこの道を行き来していたんだろうか・・・
もしかしたら北条軍に加わって辛垣城を攻めたのかもしれませんね!



今回はここで夕暮れを迎えてしまって歩けなかったんですが、この「梅ヶ谷峠入口」交差点から軍畑に向かって、吉野街道と平行して古い集落と古道が残っています。

次回はここを歩きたいですね☆
または、いよいよ鎌倉街道山ノ道のハイライト、浄福寺城や八王子城など街道沿いに点在する城跡と、それらをつなぐ古道かな・・・