うちのご先祖が代々眠っている菩提寺は東京都日の出町平井という
うちのじいちゃんからの「口伝」
でも・・・あくまで「口伝」だけです。
というのも、第二次大戦後、うちの家系つまり「家」
その貴重な「墓石」も風雨による石の劣化が激しく、文字が読み取れるのは天保8年の1基のみです。
菩提寺自体は、永禄年間(1558~1570)に「千石大臣」
しかし明治15年に村半分を焼いた「大久野焼け」
かろうじて菩提寺とのうちとの代々の関係は今でも続いているので、
さらにまた「千石」という地名もすでになくなってしまい、
うちの家系もおそらく私の代で終わるので、
で、なんでまた誰も興味のないうちのご先祖の話なんか、
鎌倉街道山ノ道。
(次の地図の黒い線が鎌倉街道山ノ道)
そして、そのまままっすぐ南下して網代で秋川を渡河し、
また西平井から東に向かう道は平井川に沿って滝山街道(中田正光先生の著書「戦国の城は民衆の危機を救った」にのっていた滝山城から満地峠・友田を経て青梅・勝沼方面に至る北条氏の軍事道)へのアクセス道となっていて、
ちなみに上の地図でいうと、右の端っこのほうにあるオレンジ色の線がその滝山街道。
北条氏康・氏照が三田氏を攻めたときには氏照は浄福寺城にいたのか滝山城にいたのかイマイチわからないのですが、もし浄福寺城からだったのなら、鎌倉街道山ノ道(黒い線)をたどったほうが、確かに三田氏の本拠である勝沼城へも詰めの城である辛垣城へもまっすぐ行けてしまうなぁ・・・
ちなみに八王子城にこもった由木衆の中にうちと同じ名字の武士が
で、
うん、前ぶり長すぎ(笑)
この日は日の出のイオンモールで買い物をしたので、武蔵増戸駅を出発点としました。
駅のそばをとおる、現在は都道135号線となっている「鎌倉街道」に出て、梅ヶ谷峠に向かって北上開始!
住宅地や畑地の間を縫って細々と続くそれは幅4~5mほどの幅で、1km弱の距離です。
今となってしまうと、表通りに対してすごく不自然(?)な形なので、そのうち区画整理の波に押されて消えてなくなってしまうんだろうなぁ・・・
写真の端っこに映ってたので、ちょっと拡大。
あきる野市に合併してしまったので今はなくなってしまった五日市町のマンホールです。
そして、旧道を抜けて都道と合流すると市境。
あきる野市から日の出町に入って、今度はお日様のマンホール♪
「西平井」の交差点で件の「平井川沿いのアクセス道」と合流。
ここでまっすぐ北上すれば馬引沢峠越え、左(西)に曲がって梅ヶ谷峠越え。
今回は梅ヶ谷峠越えなので左に振って平井川~北大久野川を遡っていきます。
ここでまた旧道が細道として残っているので、都道からのこのこ・・・
でも、やっぱりふつーの住宅地とか畑の中の生活道だよね~☆
と思いながら500mほども歩くと、元の都道に合流。でも一瞬だけ合流でまた左手に旧道が続いてる・・・なんだか面白いな。これも旧道と新道のせめぎあいってことなのかな?
左側の旧道に入っていくと、今度は今までよりも田舎道~といった風情。
・・・うん、これこれ。いくら舗装されてしまっても、やっぱ古道はせめてこんな感じでいてほしいよね、っていうのは私のワガママか(笑)
しばらく進むと・・・新しい石垣とセメントで固められてはいるものの、明らかに回りの地面から掘り割られている道が続いてる!
・・・やっぱ、これでしょー♪♪♪
鎌倉街道に特有の掘割道の名残。。。
このあたりまで来ると本当に山里という風情です。
野仏さまたちも雪囲い。
だいたい1kmほど歩いたところで、また山ノ道は都道と重なってしまい、ふつーの車道となってそのまま梅ヶ谷峠を越えていきます。
峠の上には道路だけでなにも表示がなかったんですが、こんなところに峠の名前が出てきます。
ここで、先日歩いた軍畑から続く「吉野街道」に合流です!お疲れさま☆
平井に住んでいたうちのご先祖様たちもこの道を行き来していたんだろうか・・・
もしかしたら北条軍に加わって辛垣城を攻めたのかもしれませんね!
今回はここで夕暮れを迎えてしまって歩けなかったんですが、この「梅ヶ谷峠入口」交差点から軍畑に向かって、吉野街道と平行して古い集落と古道が残っています。
次回はここを歩きたいですね☆
または、いよいよ鎌倉街道山ノ道のハイライト、浄福寺城や八王子城など街道沿いに点在する城跡と、それらをつなぐ古道かな・・・