「写真置き場」ブログの方には写真を結構UPしたから、それですっかり書いたつもりでいました(^^;)
なので、しばらく前の話題で今更ですが、その時のことなどつらつらと。
5月の連休も過ぎたある日、いろいろな行き違いその他の都合で、愛車を使って自宅(飯能)から熊谷まで飛んで、それから事務所(大宮)に向かい、その後また熊谷にとんぼ返りしなければならない事態が発生しました。
で、ルートをみると自宅~熊谷へはR407を、熊谷から大宮へはR17を行くことになるのですが、
R407からほど近い東松山近郊吉見町には、上杉と北条の奪い合いの舞台となった松山城跡、同じくR407沿いの森林公園には松山城や忍城の出城といわれる山田城跡や山崎城跡があります。
そしてR17からほど近い行田近辺には、日本三大水攻めの1つで知られる忍城と埼玉(さきたま)古墳群が・・・
どうにか時間をやりくりして、どっちかに立ち寄れないかな~
・・・と、数日前から道路マップを見ながらつらつら考えていたところ、この日道路状況が割とよくて、東松山ではその先の余裕がどれくらいとれるか見当がつかなかったけれど、大宮には思っていたよりも順調に到着。
大宮でとんぼ返りに向けての作業をさくさくこなした結果、少しばかり余裕をもって職場出発できたので、30分くらいなら行田に寄れるかも・・・!
うーん、30分か・・・微妙だなぁ。
資料館に寄ったりじっくり見て歩くということはとうていできそうもないので、じゃ、ちょこっとだけ立ち寄れるところ、ということで、埼玉(さきたま)古墳群の、それも丸墓山に寄り道することにしました。
埼玉(さきたま)古墳群は、埼玉県行田市にある9基の大型古墳とその周りの小型古墳35基からなる古墳群で、その中の1基「稲荷山古墳」は、雄略天皇の実在を示す手がかりとなる金象眼の文字が刻まれていて後に国宝に指定された「金錯銘鉄剣」で有名です。
また、丸墓山古墳は日本最大規模の円墳で、直径105m、高さ18.9mあります。
これが、その丸墓山古墳。
現在は、周りをぐるりと桜並木の小径に囲まれた、いかにも閑静な単なる「小山」。
しかしながら、実はこの丸墓山の頂上は1590年(天正18年)秀吉の小田原征伐に際して、北条方成田氏の守る忍城攻略の命を受けた石田三成が陣を張った場所なのです。
古墳につけられた階段を登ると頂上は平らな広場になっていて、忍城の方向には案内板が据え付けられています。
三成は忍城を水攻めするために、この丸墓山を含む忍城を中心とした半円形の「石田堤」を総延長28kmほど作りました。
この携帯写真ではズームがきかないのでよくわからないのですが、肉眼では遙か彼方(たぶん2~3kmくらい離れているのではないでしょうか)に小さく忍城の御三階櫓を望むことができます。
・・・ということは、この丸墓山の頂上から忍城までの間に横たわる田園風景は、全部水の下になってしまったということか~?!
あまりに広大すぎて、半ば眉唾なんじゃないかと疑ってみたくなってしまいます(笑)
そして、その水攻めのために作ったという「石田堤」。
丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残だということです。
単なる「丸墓山の参道」にしか見えないこの道路は、左右の湿地(池?)からは、せいぜい1~2mほどの高さしかありません。
往時の高さがどれだけだったのか全く判りませんが、この「石田堤」ではたいして水を深くため込むことはできなかったんだろうなぁ・・・
というよりも、総延長28kmもの壮大な高さ規模の堤を短期間で作るなんてとうてい無理な話だし、平均水深1mもあれば城からの攻撃は足止めできる訳なので、水没させた広さは確かに広大だったけど、堤自体の高さはそんなもんだったのかもしれないな・・・なぞと考えてしまいました。
とにもかくにも、石田三成はこの丸墓山の頂上で、忍城の天守を望みながらどんなことをかんがえていたのかなぁ・・・なぞとぼぉーっ!と想像しながら、初夏の陽射しと緑の風を感じて贅沢なひとときを送っていたら、携帯に呼び出し電話がかかってきて、夢の中のひとときはあっという間におわってしまったのでした(T^T)
30分はあまりに短かった!今度は忍城もひっくるめて、ゆっくり「のぼうサマ」(忍城水攻めを題材にした小説「のぼうの城」)ツアーやるぞ!と心に決めて(?)もとのルートに戻ったのでした☆
「のぼうの城」は映画にもなりました。(11/2公開)見に行こうっと!