さて、御主殿跡を中心に山麓の居館地区をうろうろしたので、今度はいよいよ「山城攻略」山上の要害地区に向けて出発です☆
パンフレットの地図を見ると、御主殿跡から要害地区に登って行くには一度川沿いの道を10分ほど下っていって、改めて山道を登ってくように書いてあります。
・・・でも、周りの地形や他の地図を見渡すと、その2本の道のV字形の間には曲輪群が造成されていて、それらを渡り歩きながらショートカットできそう・・・
というわけで、山の方に入り込んでいくことにしました。
とはいっても、似たような山に住んでいて一応はこの辺の山の怖さも(やっぱり後で思い知るのですが・・・)知っているので、藪こぎなんて無謀なマネは絶対しません。
ちゃんと車の轍のある道を見つけて、踏み込んでいきました。
すると・・・
現れたのは、ちょっと広めの曲輪跡。
どうも進入禁止の立て札があった私有地に入り込んでしまったらしく、それまでの綺麗に整備されていた状況とは一変して放置されていたときの状況に近いのか、整地された広場様の場所に砕けた瓦が散乱し、斜面を登る道の所々に古めの石段が埋もれています。
そして、このあたりでも激戦があったのか、所々に石仏が・・・
おそらくこの曲輪跡あたりが「アシダ曲輪」なのだと思います。
下調べもなくパンフレットに載っている「本道」から外れてるので、本当にちゃんとした「道」に出られるのか不安でしたが、とりあえずとったルートと方向に間違いはなかったらしく、しばらく曲輪跡と思われる広場をいくつか通り過ぎたあとに、人がよく通ると見られる広めの「登山道」らしき道にでました。
要害地区へ向かっていく正規の(?)登山ルートにどうやら出れたようです。
道はどこにでもあるようなハイキングコース風。
季節柄緑が鮮やかで、お天気も良く爽やかでゴキゲンな山道です。
それでも、いつも歩きに行く山々と若干違うな・・・と思うのは、登っていく先々に「段々畑」ではないけれど、斜面を横に回る細長い「広場」様のスペースが出てくること。
これが段曲輪とかいわれる曲輪跡なのかな?
その上には真ん中の写真にある金子丸が現れました。
パンフレットをみると、このあたりの「金子曲輪」には金子三郎右衛門家重が守備をしていたと書かれています。
八王子城の支配下にあったと思われる入間のあたりに「金子」という地名があるので(JR八高線に金子という駅もあります)、もしかしたらその辺あたりを地盤としている豪族だったかもしれないな~、なんて勝手に想像しながらさらに登っていくと・・・
さらに道は急になり狭くなり、いくら城主でもこんなところ戦でもなければ登ったことなんかないんじゃなかろうか、とか、そうはいっても整備や警備のために日々足軽たちはこの道を行き来していたんだろうから、昔の人達ってなんて足腰が丈夫だったんだろう・・・とか、あれこれ思いを巡らしながら登り続けると、そのうちに頂上と思われる小高いピークの周りを巡る平らな道になり、そして・・・
じゃ、じゃーん!
大パノラマ~!!
ちょうどこの写真を撮ったときは多少陰ってしまって、あまり鮮明には撮れなかったんですが、肉眼ではたぶん横浜の方まで見えていたと思います。
パノラマ地点からまたもう一段上がると開けた場所に出て、木の根元に「頂上」の石碑が。
やったー!ここが頂上ですか・・・でもその向こうにさらに上に登る石段があるのが笑える・・・(笑)
この石段を登ると、右の写真にある八王子神社の境内に出ます。
そして、この八王子神社の裏手をさらに登っていくと、いよいよ八王子城の本丸跡です。
本丸跡はそれほど広くありません。
ここまで登ってくる間の曲輪群を見ててもそうだったんですが、それほどの軍勢を配置したりすることってもともと無理だったんじゃないでしょうか。
ただ城全体は非常に広大なので、少人数ずつ分散すればかなりな人数は配置できるのかもしれませんが、1ヶ所に大勢居ることはできないな、と。
それに、ここまでおそらく大手道を通ってきたんじゃないかと思うんですが、大手道方面は比較的なだらかな尾根道も多く、距離も長いけれども、曲輪がたくさん配置されていて防備も固かったような気がするんですが、裏側(搦め手?)は天然の要害ということもあるんでしょうけど、それを越えてこられたらひとたまりもないなぁ・・・なんて思ってしまいました。
(あとで調べたら、落城の要因はやはり搦め手側からの攻撃だったようです・・・)
本丸跡から一度八王子神社に下って、右手方向に一段上がった見晴らしのいい場所が「松木曲輪」です。
ここには大きな石碑が2つと3~4つベンチやテーブルが置いてあり、パノラマの説明もあったりして、現在は見晴台となっているようですが、もとは私の地元・飯能の殿様でもあった中山勘解由家範が守備していた曲輪と伝えられています。
八王子城攻防戦の際には前田・上杉家の軍勢と奮戦したものの多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。
また、この時の奮戦ぶりが徳川家康の耳に入り、その遺児が水戸徳川家の家老にとりたてられたと、地元でも伝わっています。
ここまでは一般のハイカーや城好きさんがよく訪れるルートだということです。
が、実はこの先、もっと山を奥に入ったところに「天守閣跡」(詰城あと)があるのだということ。
ここまで結構時間もかかっちゃってるし、どうしようかな・・・と思ったんですが。
せっかくここまで来たんだし、お天気もよいし・・・えーい行ってしまえ~!
というわけで、まだこの話は次回に続く(笑)
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