GWなので、いつもより多少はじっくりブログ各余裕があるだろう・・・なんて悠長に構えていたら、書くことは毎日のように増えていくのに、どうもやっぱり筆が進まない~☆
ま、もともと自分のどーでもいいような日常を書き連ねる「日記」の意味合いなので、忘れない程度にのんびり書き連ねるとしようかぁ・・・
例年はGWはもう少し五月晴れの日が多いので、昨年の日記(そうそう、昨年の今頃はまだこのブログやってなくて、mixiの日記だったんだ!)を読み返してみても、せっせと日頃できない「休暇をまったり過ごす」ことに勤しんでいたんですが。
今年は雨でなかなかそれができなかったので、せっかく晴れ間の出た連休の最終日くらいは近場でのんびりぶらぶらしよう…!
ということで、 八王子城趾をお散歩(?) 軽いウォーキングと日帰り温泉の近場ツアーを強行することに♪
いつものとおりリュックにワンバーナーと燃料、ヤカン、コップを詰め込み、途中のコンビニで水とおにぎり、カップラーメンを買い込んで、車を軽く飛ばして1時間。
八王子城趾は暑いくらいの陽射しと爽やかな初夏の風そよそよで、山の緑がめちゃくちゃ美味しそー!
八王子城は、高尾山の北側にある小田原北条氏(後北条氏)第3代氏康の3男氏照が築いた山城です。
相模から千葉、北関東までを版図とし、平山城を得意とする後北条氏が、武田勢への要衝として安土城を参考に築いた強大かつ堅固な山城でしたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐に際し、その一環として上杉景勝・前田利家・真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められました。
このとき、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城には横地監物吉信、狩野主繕入道一庵、中山勘解由左衛門家範、近藤出羽守綱秀ら四千が籠城するも、半日で落城、城兵、女子供、千数百人が惨殺されたということです。
この写真の滝は「御主殿の滝」です。
八王子城落城の際、氏照正室・比佐を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられています。
でも実際に目にした「御主殿の滝」は、「身投げ」という言い伝えから想像していたのとはちょっと違って、非常に小ぶりな感じで、流れもこのGWの大雨の後にしてはそれほど水も多くありませんでした。
まったく、そのような血なまぐさい言い伝えとは関係がないんじゃないかというくらいです。
周りの緑が清々しくてのどかな風景な上、今は「国史跡」ということで特に御主殿跡周辺は綺麗に修復・整備されているので、余計にそう思ったのかもしれませんが・・・
左は古道から御主殿に渡るためにかけられた曳橋です。
もちろんもとは橋台石垣の遺構がわずかに残っていたのみだったのですが、石垣を補強して現代の技術で戦国時代「風」に復元したものです。
右は虎口の石垣。
写っている部分は遺構としてわずかに残っていた当時の石垣ですが、これも周囲を補強して綺麗に復元がされています。
ただ、所々に当時の石畳や礎石の一部が残っていて「往時を忍ぶ」のみです・・・
そして、虎口を登り切ったところにこれまた復元された冠木門。
この向こうが、城主氏照の住まっていたという「御主殿跡」。
八王子城は落城後徳川家の直轄領となり、また明治時代以降は国有林になったので、落城当時のままの状態で「現場」が保存されていたようです。
なので、この広々とした「御主殿跡」を発掘調査した結果、礎石をたくさん使った建物の跡や水路の跡、茶道具やガラス器等も含めて多数の遺物が出土したということです。
御主殿跡の端からは、眼下に先ほどの曳橋を見下ろすことができました。
さて、八王子城は山麓の居館地区・山上の詰めの城である要害地区・城下町、武家屋敷にあたる根小屋地区にわかれた典型的中世山城なので、現在残っている遺構も相当に広い範囲で、最低でも半日コースです。
ここま居館地区をゆーっくり見て回ってしまって、結構時間もかかってしまったのですが、お天気もぴかぴかだし、これは山の上まで攻めなきゃでしょー!
というわけで、さあこれから山の上へ・・・
ですが、長くなっちゃったので、続きはまた次回(^^;)
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