2015年2月7日土曜日

秩父城攻め合宿① 熊倉城(日野城)

ある時、ワイン大好きなナワバリストの西股総生先生と、秩父にもいいお城がいっぱいありますね~という話になりました。

ところが、秩父は結構険しい山の上のお城が多いので、「どうせなら温泉を楽しんだり、秩父のワインを部屋飲みしたりの泊り込みで、がっつり回りましょう~!」と盛り上がり・・・

この日、西武秩父駅のロータリーに集合したのは、先生リクエストによる「健脚かつ藪こぎを厭わない」精鋭の面々。

秩父城攻め合宿一泊二日の行程の始まりです~!


1日目。tantanさん号とあきさん号に分乗した6人の精鋭部隊がまず向ったのは、秩父鉄道武州日野駅の南の日野山頂にある熊倉城(別名:日野城)。

ちょうど合宿の2日前と1週間前に雪が降ってしまい、それでも秩父市内は全く雪が残っていなかったので、とりあえず合宿は強行開催することにして集合しましたが、振り返ると武甲山は真っ白!

イヤ、武甲山は石灰岩採掘の山肌が露出してるんで普段から白いんですが、それが雪化粧してさらに真っ白に・・・(^^;)

なんで山道は大丈夫かなぁ~と内心ドキドキ☆
2日目参加のこばたかさんによれば、城への登り口までは車もほとんど通らないような林道だというし・・・

まあ、ダメもとで行けるところまで行ってみよ~!と武州日野駅の手前から舗装された山道を登っていくと、やっぱり集落が途切れたあたりからこの積雪!!

しかもこの雪道、アイスバーンの上に新雪が乗っているので見かけよりもツルツル。

先行のあきさん号が、運転手あきさんの超絶テクによりそれでもなんとか道を登っていき、ふと見ると後続のtantanさん号がいない!

あわてて車を停めて、あきさん号に乗っていた西股先生、豪士さん、ワタシの3人で道を滑り降りて?行くと、なんとスタックして動かなくなってしまったtantanさん号のそばで途方に暮れるtantanさんとサイガ師匠。

それからみんなで押したり引いたりしたものの、1度止まってしまったら登るのは不可能、と判断。

tantanさん号はUターンできる場所まで200mほど雪の坂道をバックで(!)もどり、あきさん号も上でUターンして、tantanさん号まで戻って、その場所からとにかく城の登り口である山頂直下の峠まで歩くことに。。。

しかし、あきさんもtantanさんも運転上手だなぁ~☆



そして車を停めてから雪の積もった林道をえっちらおっちら登っていくこと30分ほど。

やっと、本来は車で行き着くはずだった、熊倉山と城山の間の鞍部にある熊倉城の登り口に到着~(^o^)/

ところが・・・
ゆ、雪がない!!

これが、山城を攻めるとき特有の、とても判断に迷うところなんですよね☆

昨年の豪雪の時にも経験したんですが、山の斜面の向きや木々の茂り具合、つまり日当たりの違いによって雪の残り具合が全然違うんです。

だから雪はもう溶けてしまっただろうと思っていくと、場所によって膝くらいまで残っていたり、その反対だったり・・・

今回は、車を停めた時点ではかなりダメだろうと思っていたんですが、登ってみたらラッキーでした♪

ただし、思い切り「熊出没注意」の看板アリなので、熊鈴をじゃらじゃら鳴らしながら、いよいよ城域突入~!



この縄張り図は「戦国の境目」(梅沢太久夫氏著)に掲載されていたものです。
今回はこの図の右側(南東方向)から城域に入りました。

城への登り口からはずっと細尾根が続き、そして、思ったよりかわいくてあれ?って感じの「堀切5」を経て、「堀切4」!

これはちょっと感動的な堀切と土橋。
あきさんとtantanさん、土橋上で写真を取りまくりです~♪





光の加減で、土橋を渡ってから振り返った方が堀切と土橋の感じ、そして対岸との高低差がよくわかりますね~☆

この土橋を渡ると「2の郭」。北東側斜面に細長く腰郭を配してはいるものの、全体的にのぺっとした平坦地です。

「2の郭」と「本郭」との間には幅の割に浅い堀切が横たわっていて、土橋がかかっています。
もしかしたら元はかなり深かったのが、埋まってしまったのかもしれません。






土橋の上に天然の木橋がかかってる(笑)
その向こうに見える本郭の土塁、こうして見るとしっかり横矢がけ効いてるなぁ・・・☆

その本郭の土塁を郭内から見たところ。
いちばん高い部分はやはり土橋と郭南西側斜面に対する櫓台の役目を果たしているものと思われます。






さて、この熊倉城のとても不思議なところなんですが、この熊倉城の竪堀はどういうわけか南西側にしかないんです。

その上、その竪堀のある南西側斜面は竪堀がなくても横移動や展開はできないくらいの急斜面で、反対にどちらかというと緩斜面になっている北東側斜面には竪堀はありません。。。

これって、どういうことなんでしょうね☆

とにかく、南西側斜面の竪堀は覗き込むのも怖い感じです(^^;)





文明8年(1476年)から文明12年(1480年)にかけて起こった「長尾景春の乱」に関して、「太田道灌状」に長尾景春が籠城し太田道灌が攻めたという「日野要害」「日野城」として記されているのが、この熊倉城だということです。

確かに、独立した山の急斜面と細尾根で囲まれた山頂に、しっかりとした連郭式で造られている城郭で、非常に堅固な要害なんだろうな~という感じ。

それだけに、この竪堀は謎ですね~☆


さて、本郭と北郭の間の堀切はいきなり雪!

数日前に降った雪がまだしっかり残っているのは、本郭の土塁を北に越えると北側斜面になって、日当たりが一気に悪くなるせいなんでしょうね、きっと。。。





堀を渡ると「3の郭」。なだらかな斜面になって下っていて、その先端がちょっとした枡形様になっています。

雪でよけいにわかりにくくなってますが(^^;)

下から城に向って登ってくると、まずこの横堀にぶち当たって直進できません。
で、進路を曲げさせられて右手方向から土橋を渡る・・・と。






土橋の左側の横堀と右側の横堀が食い違いになっているので、必然的に通路が左方向に曲げさせられます。

で、曲がるとそこが枡形になっていて、真正面の土塁の上からお出迎えされちゃうという(^^;)

西股先生によれば、自然地形をうまく利用して土木量を抑えた省エネ虎口。雪で見えにくいけど、横堀でうまく誘導して虎口でたたく巧妙さ。長尾景春の悪だくみ?(笑)





そして、虎口の先にある、地面が多少崩落した先に延びる竪堀。結構大きい!

ホント、あきらめずに熊倉城まで来てみてよかった♪

ただし、予定外の雪中行軍のおかげで、この段階ですでにお昼を回ってしまいました。

予定がかなり押してしまったので、昼食は各自コンビニで買ったおにぎりをほおばりながら車まで走り降りて、次は横瀬根古谷城です~!


2015年1月25日日曜日

久しぶりに鎌倉街道上道歩き 菅谷館~笛吹峠

お正月に埼玉の親戚まわりをしたときに、菅谷館と大蔵館に寄り道をして(そしてそれをブログ記事に書いて)、やっぱりこの辺の旧鎌倉街道をもう少しそぞろ歩きしたいなぁ~!という気持が募っていたところ・・・

たまたま何とか半日だけ時間が作れたので、せめて菅谷館から笛吹峠までたどってみる事にして、急遽自宅から車をとばして菅谷館に向いました。

まずは、国道254号線から菅谷館とは反対の北側、武蔵嵐山駅方向の高台に登ったところにある「須賀谷原遺跡」へ。

旧鎌倉街道から少し住宅地の中に入った高台の縁にある、公園のように整備された空き地が、長享2年(1488年)の須賀谷原合戦の古戦場跡といわれている「須賀谷原遺跡」です。

古戦場の主戦地と推定されているこの場所からは、鎌倉街道上道から派生していると思われる古い道路遺構と合戦関連とみられる塚や五輪塔、かわらけ、銭貨、経石が出土していて、空き地の真ん中にぽつんと建つ覆い堂の中に小さな五輪塔が数基、安置されています。






須賀谷原合戦は、長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけての「長享の乱」において、山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で戦われた「長享三戦(実蒔原・須賀谷原・高見原)」のうちのひとつで、700人の死者と馬も数百匹倒れたという大激戦だったということです。

須賀谷原遺跡の西方にある平沢寺は、合戦当時山内上杉顕定軍に加わっていた太田資康(道灌の嫡男)が陣を敷いていた所と伝わっています。

当時荒廃していた菅谷館を再興したのも山内上杉氏といわれています。

ということは、須賀谷原は山内上杉氏が押さえていたものと思われますが、対する扇谷上杉定正軍がどこに陣を置いていたのかはわかっていないようです。

あるいは戦国時代のものと思われる大きな規模の土塁が造られていた大蔵館に置かれていても、おかしくはなさそうです。

場所も、都幾川を挟んだ対岸で鎌倉街道にほど近いですし。。。

この大蔵館からすぐ近くにある、鎌倉時代に創建されたという古刹の向徳寺には、鎌倉~室町期の数多くの板碑があって、嵐山町の指定文化財になっています。







板碑というのは、板石塔婆または青石塔婆とも呼ばれる通り、秩父盆地でよく産出される緑泥片岩で造られた供養塔婆。

向徳寺は旧鎌倉街道に面した場所にありますので、もしかしたら須賀谷原合戦に関連した板碑もあるのかもしれませんね。

この向徳寺あたりの旧鎌倉街道の両側が、鎌倉初期に形成されたという大蔵宿になります。
・・・といっても、現在では「宿」らしいものは何もありません。旧家が立ち並んでいるのみです。




旧鎌倉街道と県道172号大野東松山線とが交わる大蔵交差点のそばには、「鎌倉街道」を示す大きな石碑なんかもあります☆

そのまま笛吹峠に向って旧鎌倉街道を南下していくと、「縁切り橋」なんていうのに遭遇します。

この橋には、坂上田村麻呂が岩殿の悪龍退治の際にここで奥方との縁を切ったという伝説があるそうです。

が、橋はいったいどこ~?!





この付近一帯は将軍沢と呼ばれていますが、それはこの坂上田村麻呂の伝説によるようで、縁切り橋から峠に向って上がっていく途中にある日吉神社の入り口には「坂上田村麻呂将軍塚」という石碑もあります。

さて、この日吉神社を通り過ぎて、さらに南に下っていくと小さな川にあたりますが、その手前に旧道の入り口発見!

いかにも古道っぽい面影で、めちゃめちゃテンションがあがった・・・のもつかの間。
この旧道は、古い(壊れかけた)コンクリートの橋を渡って藪の中に突入。強行突破すると元の道に出てしまいます☆






あれれ?Webなどで調べると、200mほどの距離に渡ってしっかりと掘割状遺構が残っているはずなんだけどなぁ~

と思いつつ車道をのこのこ歩きながら、ひょい!と右手(西側)の林をのぞくと・・・




草むらの中に、車道と平行して伸びる鎌倉古道の遺構とおぼしき掘割状の地形を見っけ~!

しかし、この藪やぶですわ・・・
本人は藪の中に突入して地形を確認したものの、写真はココロの目で見るしかない(笑)






藪をかきわけて堀底に下りると、堀幅2~3mから広いところは5~6mはありそうな、しっかりとした堀割状の遺構がずーっと続いています。

しかし、割とすぐそばを車がびゅんびゅん通り過ぎていくのに、こんな藪の中で一人がさごそしてるのって、実はすごく変な人に見られてるんだろうな~(^^;)

と思いつつも、今度は土塁とその両側の堀割を見つけてひゃほーいしているという☆





そのまま古道の掘割状遺構に沿って南に登っていくと、高圧鉄塔のあたりで遺構は途切れてしまいました。

でも、念願だった将軍沢の掘割状遺構の確認ができて、来た甲斐があって満足!

また、現在の旧鎌倉街道にもどって舗装路を南に進むと、笛吹峠です。

車が5~6台置けるりっぱな駐車場&お手洗いもあって、掘割状遺構をがさごそしに行くには、ここに車を置くのが一番よさそうです♪







現地案内板によると、笛吹峠は南北朝の「太平記」にも記述のある「武蔵野合戦」の舞台であるようです。

正平7年(1352年)、新田義貞の三男、義宗等が宗良親王を奉じて足利尊氏と戦った際に、義宗が陣を敷いた地と伝わっています。

武蔵野合戦で足利勢と新田勢は高麗原(日高市)、入間河原(狭山市)そして小手指原(所沢市)で合戦となりましたが、最終的にはこの峠で戦いの決着がつき、足利勢が勝利により敗れた義宗は越後方面、宗良親王は品の方面に落ち延びました。




ところで、旧鎌倉街道は南北に走っているのですが、この笛吹峠は坂東三十三ヶ所観音霊場の第10番岩殿観音から第9番慈光寺観音にかけて東西に走る慈光道(巡礼街道)との交差点にもなっています。

で、その慈光道。東の岩殿観音方面へは、綺麗に整備された林道がずっと伸びているのですが、西の慈光寺方面への道はいったいどこ・・・?

探してみると・・・民家に入っていく道に見えて一瞬躊躇してしまった林道がそれでした。

民家の脇からずっと西に続いていて、しばらく歩くと丘陵を下っていきます。

本当はそのまま歩きたかったのですが、もう日暮れ間近な上、笛吹峠から慈光寺までは10kmくらいある!

というわけで早々にギブして、本日の旧鎌倉街道上道歩きはお開きにすることにしました☆

それにしても、旧鎌倉街道上道は「犬も歩けば古戦場にあたる」といった感じで、「いざ鎌倉」ということで整備された鎌倉時代はもちろん、室町~戦国時代にまで至る城跡や古戦場が点在していて、戦さと街道は切っても切れない仲(?)、きっと物資輸送路としてだけでなく軍道としても長い期間機能していたんだなぁ・・・と改めて思ってしまいました。

そして、それはこの比企のあたりで特によく見られるようです。
もう少し、比企のあたりで鎌倉街道をうろうろしてみたいですね~♪



2015年1月3日土曜日

2015お城めぐり初めは菅谷館と大蔵館

年始めのご挨拶がすっかり遅れてしまいましたが、今年も当ブログをよろしくお願いいたします!

年末にかかったインフルエンザのおかげで、毎年恒例の「除夜の鐘&新年と同時の初詣」と初日の出詣でを棒に振ってしまって2015年の年始め。

一応年明けにはなんとか外歩きもできるようになったので、埼玉県内の親戚に例年のお年始回りに出かけた帰り道に、せっかく外に出られたのだからせめてどこかに拠れないかなぁ~と地図を眺めてみたら・・・



通り道ばっちりではないけど、少しだけ回り道して行けそうだったのが、鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠の居館であったと伝えられている、武蔵嵐山の菅谷館。

これは代表的な武蔵武士であるお館さまに新年のご挨拶にあがらなきゃ~♪

ということで、さっそく国道254号線を車をとばして、館の北側の搦手門跡からいつも車を置いている「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の駐車場に車を入れようとしましたらば。

・・・入り口にチェーンがかかってて入れない~!

よくよく考えたら正月三が日。
そりゃ閉館してるに決まってるわな(笑)

で、意を決して博物館脇の細道の奥に車をぐぐいっと進めると、ちょうど重忠公の像から見下ろされる位置に車一台置けるくらいのスペースが。。。


お館さま、ゴメンナサイっ!!!(>人<;)

車を置いて改めて重忠公の像に近づいてみると、あれ?
前回来た時には前傾姿勢の像が倒れないように後ろからワイヤーで支えられてたのに、今回は背後がすっきりしている!

ついに自立できたのですね・・・オメデトウございますwww






もうすでに日も傾いている頃合なので、今回はとりあえず、出枡形土塁から横矢をばしばしかけられるのを感じながら空堀の土橋を渡って、そのまままっすぐ本郭に入ります。

本郭の中から見た出枡形土塁の出っ張り。余計な(?)木々を伐採してくれた上に、以前は藪だらけだった土塁の上が綺麗に刈り込まれて整備がされていたので、土塁の折れがばっちり見える!




目を転じて、土橋を渡って入ってきた虎口。

夕日に映える土塁も素敵ですね~!ついつい土塁の上を歩きたい衝動にかられちゃいます。
「史跡保護のため登らないでください」の立て札がなければ・・・(^^;)




で、虎口から外側の土橋を見たところ。

写真ではうまく撮れなかったけど、土塁も土橋も畠山重忠が居住していた鎌倉幕府創生期頃の武士の館にしては結構大きい規模です。



というのは、実は現在見られる遺構は戦国期のものであるから、のようです。

嵐山史跡の博物館の資料では「山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った長享年中の大乱(1487~1505)の際に使われた城郭と考えられる」とあります。

長享2年(1488年)の「須賀谷原合戦」において太田資康が居住していたらしいことや、「松蔭私語」という書物に「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固める」よう進言したという記録があるということによっているようです。

ただワタシ的には、長享の乱以降もこの地方が、今度は後北条氏と関東管領上杉氏・越後長尾氏との軍事衝突の舞台であったこと、すぐ近くの小倉城には後北条氏の重臣が置かれて後北条氏の軍事拠点となっていたことを考えると、
菅谷館にも後北条氏の手によって改修されたんじゃないかな~とも思われます。


菅谷館の本当にすぐそば(ほぼ隣接!)を南から笛吹峠越えの鎌倉街道上道が通っていて、そのまま鉢形方面に向っているので、この街道を監視し鉢形の備えを固める意味でも、菅谷館に後北条の手が入っていてもおかしくはないかな~と☆

もっと妄想をふくらますと、もしかしたら松山城~青鳥城~菅谷城~小倉城~青山城~腰越城~安戸城、と連係した鉢形防衛網をつくっていたかも、なんて考えもむくむく・・・(笑)

それはさておき、そう考えると、今回写真は撮らなかったんですが本郭の南側にある横堀は、二重土塁になっている様子がとっても後北条チック!

ほかにも菅谷館には本郭の生門跡や二ノ郭の門跡(木橋がかかっていた?)、三ノ郭の正坫門跡とその前にある蔀土塁、西の郭の大手門跡、そして全体的に残存状態が良好な土塁や堀跡などなど見どころ満載なんですが、今回は回っていると日が落ちてしまうので、重忠サマと本郭に詣でるだけであきらめまして・・・

日が暮れるまでの残った時間でさくっと回れるところにもう一ヶ所行ってみよ~!
ということで大蔵館跡に寄り道☆



菅谷館から国道254号線を少々東に戻ると鎌倉街道上道と交差します。

その鎌倉街道を南下して都幾川を渡ると、県道172号大野東松山線と交わる大蔵交差点までの間が、鎌倉初期に形成されたという大蔵宿のあったあたりになります。

その大蔵交差点から県道を西に曲がって200mほど行ったところにある大蔵神社周辺が大蔵館跡。

木曽義仲の父、帯刀先生源義賢が仁平年間(1151年~1154年)ごろに館を構えたところと伝えられる方形館で、この大蔵神社のあたりがその中心部であったと考えられています。

写真の現地図の左下部分が、その大蔵神社の場所にあたります。

方形館とされる東西170m南北215mの区域のうちの南西の隅っこにあたるのですが、ひときわ小高い一角でもあります。



行ってみると県道からぐっと上がる感じの小高い場所で、参道は切り通しを通っていくようなカタチになっており、中に入ってみると、周りをぐるりと土塁に囲まれた郭状の境内になっています。





ちなみに、館の主であったといわれている帯刀先生源義賢は、保元の乱で敗北した源為義の次子で、父を処刑した兄の源義朝と対立し、久寿2年(1155年)に義朝の長子である甥の悪源太義平によって大蔵館で滅ぼされました(大蔵合戦)。

そのときに、義賢の次子で当時2歳の駒王丸は畠山重能(重忠の父)に助けられて、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられました。これが後の木曽義仲というわけです。



そんなことから、この大蔵のあたりには鎌形八幡神社境内の「木曽義仲産湯の井戸」とか、義仲の妻妾であった山吹姫のお墓など、木曽義仲関連の史跡が点在しています。

また、大蔵交差点の東側の、農家の庭を通った畑の中には、義賢のお墓といわれる五輪塔があります。

写真が、お堂の中に収められているその五輪塔なんですが・・・大蔵館からここに来た頃にはもうとっぷり日が暮れてしまっていて、何が写ってるのかよくわかりませんね(^^;)

この五輪塔、大蔵交差点から鎌倉街道を笛吹峠方面に100mくらい行ったところの、うっかり通り過ぎてしまいそうなくらいの小道を入っていったところにあります。

小道の入り口には小さな「源義賢の墓」という看板もあるのですが、それでも「これ、本当に車で入ってもいいの?」というくらいの道を恐る恐る入っていくと、小さなお社の参道の前くらいに車を停めることのできる駐車スペースがあります。

大蔵神社周辺には駐車場が見当たらないので、この駐車スペースに車を置いて歩くのが、周辺の散策にはよさそうです。

なんて寄り道をしている間にすっかり真っ暗になってしまったので、今回の散策はここまで。
本当はもう少し鎌倉街道を進んで、笛吹峠までの間にある将軍沢の街道遺構(掘割状遺構)なんかも見たかったんですけど、それはまた次の機会に・・・

というか、比企のあたりの鎌倉街道上道沿いも城跡を始めとして史跡の見どころ満載なので、またぜひじっくり歩きたいですね~!



2014年12月4日木曜日

江戸城(皇居)乾通り一般公開!

江戸城は、平安初期から鎌倉初期にかけて鎌倉幕府の有力御家人である江戸氏が居館を置いていた麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城です。

その後、徳川幕府により慶長期・元和期・寛永期と段階的に天下普請が行われた結果、本城区域(本丸・二ノ丸・三ノ丸、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸)だけでも周囲16km、そしてその外側、現在の千代田区と港区・新宿区あたりの外堀~神田駿河台あたりを流れる神田川を総構えとする大城郭となりました。

その大城郭のうち、本丸への出入り口にあたる北桔橋門と西桔橋門、その間の三日月濠(乾濠)、西ノ丸山里曲輪の道灌濠は太田道灌時代の江戸城の名残といわれています。

現在の西ノ丸は宮城エリアなので、西桔橋御門跡や道灌濠は通常の皇居一般参観でも見ることはできません。

が、今年は特別に天皇陛下の傘寿の記念ということで、春と秋に桜や紅葉の綺麗な乾通り(坂下門→宮内庁庁舎前→乾通り→西桔橋→乾門or東御苑)のコースが公開されるという・・・!




これは千歳一隅のチャンス!
ということで、春季は行きそびれてしまったんですが秋季はなんとか休みを死守して出かけることに成功しました☆




春季の時はものすごい混雑&大渋滞だったということなので、今回はなるべく空いていそうな平日を選んで、しかも朝早めに有楽町に集合!

事前リサーチによると二重橋駅方向からは坂下門に入れてもらえないということだったので、城ガール隊員4人プラス新顔さんの総勢女子5人で、桜田門から皇居外苑に入っていきました。

すると・・・もうはるか彼方、大手門あたりに停まった何台もの観光バスから、団体さんが内堀通りをぐるっと迂回してぞろぞろやってくる姿が・・・☆




皇居外苑の中も、ずっと坂下門にむかって通路とお手洗いが設置されていて、せっかく二重橋の前を通っても止まって写真なんか撮っていると注意されます(^^;)

なんたって、このときにはすでに坂下門の前には開場を待つ人々の群れ~ですからね☆




おかげで、普段はそれほどじっくり見ることもない、坂下門脇の蛤濠と皇居東御苑方面からの土橋の石垣なんかじっくり眺めてしまったりして(笑)

で、坂下門を入ると、周りの方々は一目散に宮内庁の重厚な建物の前に行って記念撮影。。。
ですが、私たちは一目散に遠くに見える富士見櫓の撮影へ~!

他の人たちと見てる方向が全然違うし、人のいない方にばかり行って不審な集団だし(笑)




ちなみに、通常の皇居一般参観の時には、桔梗門から入って富士見櫓のすぐ下を通るので、富士見櫓の写真は撮り放題!です。

でも、今回の場合はそばに寄れなくても、まぁそこは遠目でも見れたウレシサのあまり、ということで☆

さて、ここからは一般参観では通れない蓮池濠の脇の「乾通り」。桜と紅葉が見事だという、今回の
メインストリートです。



・・・とか言いながら、すでに蓮池濠の向こうの本丸高石垣しか目に入ってない(笑)





横矢がけの折れが、とってもチャーミング♪

そして、実は濠の手前の地面が、ごくごく薄~く土塁の跡のように盛り上がっているのが、ワタシ的にはなんとも気になるところ☆

そして、見えてくるのが富士見多聞櫓。東御苑側から見る姿はちょっと残念な感じなので、蓮池濠側からの石垣に映える姿を、こんなに近くで見られるなんて、超感動!




あ、一応紅葉がウリの公開なので、紅葉が写っている写真も載せておきますね。
でも、櫓を見るには、やっぱ邪魔(笑)




そして・・・これがその日の乾通りですよ~☆
どこが道なのかわからないくらいの混雑ぶり!

ふと見ると蓮池濠とは反対側にちょっと古めかしい門が。。。
そばにあった看板には「局門」とあるけど、門の向きが江戸城本丸とは逆方向。

江戸城の「お局門」といえば平川門だし、作りからしてもどうも江戸城のものではなさそうな・・・と思っていたら、周りの噂を総合するに、どうも明治時代に入ってからのもののようです。

だとすれば、西の丸・吹上方向に入っていく形で建っているのは、なんとなく納得?




局門の並びには、これまた由緒正しげな長屋門が。
これまた、説明がない上、立て札もないので何なのか全くわかりません。

周りにいた人が、これらの建物の奥には倉庫があるのだとまことしやかに言っておりました。
真偽のほどはわかりません(^^;)




そして・・・長屋が切れたあたりに出現するのが、今回お目当てのひとつ、道灌濠です!

・・・でも、フツーの池にしか見えない(^^;)





前述の通り、宮内庁や宮殿のある旧西の丸と吹上御苑との間を隔てている道灌濠は、太田道灌時代の江戸城の江戸城の名残だということです。

写真は下道灌濠。この奥に中道灌濠、上道灌濠と続いています。
濠の回りには、他の濠のような石垣があるようには見えません。

石垣の技術が発展してくるのはやはり戦国時代後半なので、太田道灌の時代には「土の城」として作られたからなんだろうなぁ、と思いつつ・・・

じゃ、土塁や切岸がどうなっているのかな~と見てみたかったんですが、木々が鬱蒼と茂ってしまって邪魔!なため、確認できませんでした。。。

この先、吹上御苑方向に入っていってしまったら、思いっきり不審者ですしね☆

そして、再度本丸側に振り返ると目に入るのが・・・




この日、もうひとつのお目当ての、西桔橋門です!

西の丸・吹上から本丸・天守台に直接通じる要所であるため、蓮池濠と三日月濠(乾濠)の間にかかる土橋の一部を切って、桔橋(はねばし)がかけられていました。

有事の際にはこの桔橋を跳ね上げて交通を遮断して本丸を防備したもので、江戸城ではもう一ヶ所、やはり本丸に直結する北桔橋門にも同じように桔橋が架けられて、特に厳しく警護されていたのだということです。

ただし、写真で見ても判るとおり、現在は跳ね上げの仕掛けのない、普通の橋がかかっています☆

そして古写真によれば、かつてはこの西桔橋を渡ったところに高麗門があったもののようです。

そして、写真では橋と門跡の先で人の流れが左に曲がってゆるく坂を登っていますが、高麗門の中は少々変則的な枡形になっています。

さて、いよいよその西桔橋の上から、まずは左右を眺めてみると・・・

本丸に向って右手が蓮池濠。本丸と西の丸の高低差が歴然としていますね。




そして左手が三日月濠(乾濠)・・・ん?
なぜか一ヶ所だけ石垣が高くなっている部分がある?

よく見ると、高くなっている部分は他の部分と積み方が違うようでもあり、向こう側に土塁が続いているようにも見え・・・

これも、遠目には見れても近づくことはできないので、どうしてこうなっているのか謎のままです☆

そして、改めて橋からまっすぐ門内を見ると・・・




目の前に広がる、見事な二段の枡形石垣!

この石垣は江戸城でも最古の部類と言われていて、築かれた時代は太田道灌の時代よりは下ると思われますが、江戸幕府による天下普請が行われる以前の高石垣を造る技術がなかった時代に、段に分けて築きあげたもののようです。




よく見ると下の段は荒っぽい(?)野面積みですが、上の段の方は比較的きっちり積まれているように見えるので、下の段よりも新しい時代のものなのか、積みなおしが入っているのか?という感じです。

この後、そのまま坂を登っていくと上の段だけが残って一段石垣になるのですが、そこには刻印も見られるので、あるいは天下普請の際にここの石垣も修築がされたのかもしれません。

これが、その刻印。



坂の上の方から枡形内を振り返ると、坂の途中から二段石垣が一段になっているのがよくわかります。

この石垣の反対側は薄く土塁になっています。
後日netで古写真を見つけましたが、往時はこの土塁の上に土塀が続いていて、渡り櫓門こそなかったものの、西桔橋の高麗門や石垣とともに枡形が形成されていたもののようです。





坂を上りきると、そこは天守台のすぐ目の前!
普段公開されている皇居東御苑のエリアに入ります。

江戸城(皇居)乾通り一般公開エリアは、これでおしまい。一方通行なので、反対側に戻ることは
できません。

が、せっかくなので今度は東御苑側から見てみることに。

まずは天守台。明暦の大火後に再建されたものだということで、御影石を加工してぴっちりと積み上げた美しくも見事な切り込み接ぎ♪

・・・しかし、いつもは人っ子一人いない天守台。こんなに人がいるなんていったいどうしたんだ(笑)




天守台の上に登ると、内側にも地味目の(?)石垣が残っています。

そして、東御苑側(本丸側)から見た富士見多聞と富士見櫓。




・・・やっぱり裏側から見た感満載で、ちょっぴり寂しい(笑)

今度は天守台の裏手にある北桔橋門。

西桔橋門同様、本丸・天守に直結する重要な場所なので、古図などによれば門内には立派な枡形があったようなのですが、すっかり跡形もなくなってしまっていて、今は門を入ると天守台が真正面に「素通し」です☆




また、北桔橋門外にも往時は跳ね橋がかかっていたのですが、現在は土橋と門の間に「普通の」橋がかかっています。

それでも、要所の門であるため、門の左右の石垣は非常に高く築き上げられていますし、防御のための横矢がけの折れも見事です♪

この後、竹橋の某ビルの屋上(城好きさんの密かな穴場スポット。撮影は禁止ですが♪)から再度江戸城の全景を眺めて、ワタシの「江戸城(皇居)乾通り一般公開」は終了!

今回、江戸幕府以前の江戸城遺構をメインターゲットに見てまわったんですが、江戸城=江戸幕府のイメージが強いですし、遺構の残っている場所も通常見れる場所ではないせいか、江戸幕府以前ってなかなかnet上でも話題がでてこないですよね。


吹上御苑も自然観察会はあるようなので、お城の遺構の観察会なんかもあるといいのにな~☆
宮内庁サン、ご検討よろしくお願いします!m(_ _)m