2015年1月3日土曜日

2015お城めぐり初めは菅谷館と大蔵館

年始めのご挨拶がすっかり遅れてしまいましたが、今年も当ブログをよろしくお願いいたします!

年末にかかったインフルエンザのおかげで、毎年恒例の「除夜の鐘&新年と同時の初詣」と初日の出詣でを棒に振ってしまって2015年の年始め。

一応年明けにはなんとか外歩きもできるようになったので、埼玉県内の親戚に例年のお年始回りに出かけた帰り道に、せっかく外に出られたのだからせめてどこかに拠れないかなぁ~と地図を眺めてみたら・・・



通り道ばっちりではないけど、少しだけ回り道して行けそうだったのが、鎌倉幕府の有力御家人であった畠山重忠の居館であったと伝えられている、武蔵嵐山の菅谷館。

これは代表的な武蔵武士であるお館さまに新年のご挨拶にあがらなきゃ~♪

ということで、さっそく国道254号線を車をとばして、館の北側の搦手門跡からいつも車を置いている「埼玉県立嵐山史跡の博物館」の駐車場に車を入れようとしましたらば。

・・・入り口にチェーンがかかってて入れない~!

よくよく考えたら正月三が日。
そりゃ閉館してるに決まってるわな(笑)

で、意を決して博物館脇の細道の奥に車をぐぐいっと進めると、ちょうど重忠公の像から見下ろされる位置に車一台置けるくらいのスペースが。。。


お館さま、ゴメンナサイっ!!!(>人<;)

車を置いて改めて重忠公の像に近づいてみると、あれ?
前回来た時には前傾姿勢の像が倒れないように後ろからワイヤーで支えられてたのに、今回は背後がすっきりしている!

ついに自立できたのですね・・・オメデトウございますwww






もうすでに日も傾いている頃合なので、今回はとりあえず、出枡形土塁から横矢をばしばしかけられるのを感じながら空堀の土橋を渡って、そのまままっすぐ本郭に入ります。

本郭の中から見た出枡形土塁の出っ張り。余計な(?)木々を伐採してくれた上に、以前は藪だらけだった土塁の上が綺麗に刈り込まれて整備がされていたので、土塁の折れがばっちり見える!




目を転じて、土橋を渡って入ってきた虎口。

夕日に映える土塁も素敵ですね~!ついつい土塁の上を歩きたい衝動にかられちゃいます。
「史跡保護のため登らないでください」の立て札がなければ・・・(^^;)




で、虎口から外側の土橋を見たところ。

写真ではうまく撮れなかったけど、土塁も土橋も畠山重忠が居住していた鎌倉幕府創生期頃の武士の館にしては結構大きい規模です。



というのは、実は現在見られる遺構は戦国期のものであるから、のようです。

嵐山史跡の博物館の資料では「山内上杉氏と扇谷上杉氏が戦った長享年中の大乱(1487~1505)の際に使われた城郭と考えられる」とあります。

長享2年(1488年)の「須賀谷原合戦」において太田資康が居住していたらしいことや、「松蔭私語」という書物に「河越城に対し、須賀谷旧城を再興して鉢形城の守りを固める」よう進言したという記録があるということによっているようです。

ただワタシ的には、長享の乱以降もこの地方が、今度は後北条氏と関東管領上杉氏・越後長尾氏との軍事衝突の舞台であったこと、すぐ近くの小倉城には後北条氏の重臣が置かれて後北条氏の軍事拠点となっていたことを考えると、
菅谷館にも後北条氏の手によって改修されたんじゃないかな~とも思われます。


菅谷館の本当にすぐそば(ほぼ隣接!)を南から笛吹峠越えの鎌倉街道上道が通っていて、そのまま鉢形方面に向っているので、この街道を監視し鉢形の備えを固める意味でも、菅谷館に後北条の手が入っていてもおかしくはないかな~と☆

もっと妄想をふくらますと、もしかしたら松山城~青鳥城~菅谷城~小倉城~青山城~腰越城~安戸城、と連係した鉢形防衛網をつくっていたかも、なんて考えもむくむく・・・(笑)

それはさておき、そう考えると、今回写真は撮らなかったんですが本郭の南側にある横堀は、二重土塁になっている様子がとっても後北条チック!

ほかにも菅谷館には本郭の生門跡や二ノ郭の門跡(木橋がかかっていた?)、三ノ郭の正坫門跡とその前にある蔀土塁、西の郭の大手門跡、そして全体的に残存状態が良好な土塁や堀跡などなど見どころ満載なんですが、今回は回っていると日が落ちてしまうので、重忠サマと本郭に詣でるだけであきらめまして・・・

日が暮れるまでの残った時間でさくっと回れるところにもう一ヶ所行ってみよ~!
ということで大蔵館跡に寄り道☆



菅谷館から国道254号線を少々東に戻ると鎌倉街道上道と交差します。

その鎌倉街道を南下して都幾川を渡ると、県道172号大野東松山線と交わる大蔵交差点までの間が、鎌倉初期に形成されたという大蔵宿のあったあたりになります。

その大蔵交差点から県道を西に曲がって200mほど行ったところにある大蔵神社周辺が大蔵館跡。

木曽義仲の父、帯刀先生源義賢が仁平年間(1151年~1154年)ごろに館を構えたところと伝えられる方形館で、この大蔵神社のあたりがその中心部であったと考えられています。

写真の現地図の左下部分が、その大蔵神社の場所にあたります。

方形館とされる東西170m南北215mの区域のうちの南西の隅っこにあたるのですが、ひときわ小高い一角でもあります。



行ってみると県道からぐっと上がる感じの小高い場所で、参道は切り通しを通っていくようなカタチになっており、中に入ってみると、周りをぐるりと土塁に囲まれた郭状の境内になっています。





ちなみに、館の主であったといわれている帯刀先生源義賢は、保元の乱で敗北した源為義の次子で、父を処刑した兄の源義朝と対立し、久寿2年(1155年)に義朝の長子である甥の悪源太義平によって大蔵館で滅ぼされました(大蔵合戦)。

そのときに、義賢の次子で当時2歳の駒王丸は畠山重能(重忠の父)に助けられて、斎藤別当実盛により木曽の中原兼遠に預けられました。これが後の木曽義仲というわけです。



そんなことから、この大蔵のあたりには鎌形八幡神社境内の「木曽義仲産湯の井戸」とか、義仲の妻妾であった山吹姫のお墓など、木曽義仲関連の史跡が点在しています。

また、大蔵交差点の東側の、農家の庭を通った畑の中には、義賢のお墓といわれる五輪塔があります。

写真が、お堂の中に収められているその五輪塔なんですが・・・大蔵館からここに来た頃にはもうとっぷり日が暮れてしまっていて、何が写ってるのかよくわかりませんね(^^;)

この五輪塔、大蔵交差点から鎌倉街道を笛吹峠方面に100mくらい行ったところの、うっかり通り過ぎてしまいそうなくらいの小道を入っていったところにあります。

小道の入り口には小さな「源義賢の墓」という看板もあるのですが、それでも「これ、本当に車で入ってもいいの?」というくらいの道を恐る恐る入っていくと、小さなお社の参道の前くらいに車を停めることのできる駐車スペースがあります。

大蔵神社周辺には駐車場が見当たらないので、この駐車スペースに車を置いて歩くのが、周辺の散策にはよさそうです。

なんて寄り道をしている間にすっかり真っ暗になってしまったので、今回の散策はここまで。
本当はもう少し鎌倉街道を進んで、笛吹峠までの間にある将軍沢の街道遺構(掘割状遺構)なんかも見たかったんですけど、それはまた次の機会に・・・

というか、比企のあたりの鎌倉街道上道沿いも城跡を始めとして史跡の見どころ満載なので、またぜひじっくり歩きたいですね~!