2014年1月13日月曜日

念願の・・・「信玄公の滝山攻め」巡り その1御殿峠

先日来、特に毛呂山あたりの鎌倉古道をめぐってからというもの、中世城郭とそれらの間に通っている「鎌倉街道・古道」とにハマッています。

それでwebでいろいろ検索していたら、「鎌倉街道上道」のいわゆる「本道」ではないけれど、上道の入間あたりから箱根ヶ崎~拝島~滝山(城)~御殿峠~藤沢へと抜けていく鎌倉街道の支道(いわゆる「滝山道?」)を見つけました。

この道は、これまた先日散策した「滝山古道」と箱根ヶ崎で合流するんですが、永禄12年(1569年)に武田信玄が関東に侵攻し小田原を攻めた際に通ったとも言われています。

この時、武田軍は甲府から韮崎、佐久を経て碓氷峠を越え、安中を通過して鉢形城を包囲。
そのまま鉢形城を牽制しながら南下し、拝島に陣を敷いて武田勝頼に滝山城を攻めさせたようです。

ということは、おそらく碓氷峠から鎌倉古道上道をつかって寄居方面に南下、入間あたりからこの「滝山道」道に沿って西にそれて、拝島に出たのではないかと想像したりして・・・?


そして武田軍は滝山城の二の丸まで攻め入ったものの、攻撃を1日で止め、2万の軍勢で、横山(八王子)→御殿峠→相原→橋本→座間と進み、相模川を渡って厚木→国府津→酒匂、そして本来の目的である小田原城へと向かったのでした。。。


わりとお手軽に行ける範囲内に、こんなメジャー級の武将がらみの遺構があるんだ!
と、見つけたとたんに行きたい気持ちがむくむく・・・


今回はこのルートのうち、特に鎌倉古道に特徴的な「掘割状遺構」がよく残っているという御殿峠と、武田勝頼が滝山城を攻めたときに陣をおいたといわれる「尾崎山(ひよどり山)」を中心に、諸般の事情により武田軍がたどったルートと逆に 相原→御殿峠→尾崎山→滝山城 と散策することにしたのでした。。。




朝、この古道巡りに賛同してくれたフォロワーのしみずさんと一緒にJR横浜線の相原駅を出発。
町田街道に平行した旧道めいた道を通り、幕末の豪農「青木家」の住宅前で写真をぱちぱち☆

・・・あれ?なんかワタシのカメラ、買ったばかりなのに調子が悪い・・・



撮れてはいるようではあったものの、なんか不吉な予感がして途中でカメラをやめてスマホに切り替えたんですが、よかった~!

案の定、帰ってから調べてみたらスマホに切り替える前にカメラで撮った写真が全部吹っ飛んでました 川Orz


「青木家」あたりもご紹介したいようないい風情だったんですけどね・・・
その辺は、同行したしみずさんのブログにおまかせすることにします(TT)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


さて、町田街道から国道16号線八王子バイパスの手前で左に曲がって北上し、かすみヶ丘住宅という住宅地の中のかなり急な坂道を登っていくのですが、この道が実はすでに鎌倉街道(古道)であったという。

住宅地の途中にあった案内図にもしっかり「鎌倉街道」の文字が・・・地元にもちゃんと認識されているってことで、なんかヨソ者ながらうれしいですね♪




さて、坂を上りきり、尾根筋に出て住宅地を抜けると、いよいよ林の中に細い一本道!
古道らしき趣になってきます。

が、この一本道は本路ではなく脇に平行して走っている山道です。
本路はその左側の笹薮になっている窪み。この窪みの左側が土塁様になっているのがわかるでしょうか?

・・・いや、実際に散策した私たちも笹薮がすごくてよく視認できませんでした。
が、なんとか藪の薄くなっているところを見つけて降りてみると、こんな感じ。

 


おぉ~!しっかり堀溝状になってまっすぐ通ってる!


「鎌倉街道」はもともと古代から使われていた道をつなぎ合わせて、関東地方の武士団が鎌倉への道として発展させていったもので、それが戦国時代には城と城とを結ぶ軍事街道として防衛面や輸送面で強化されていったものだということです。

なので、玉川学園多賀譲治氏のサイトによると、特に鎌倉街道の主要道では道幅6m程度、道の両脇には高さ2mほどの土塁(または平地を掘り割る?)という規格があったようです。

この道も、道自体が埋もれているためその道幅の正確なところはわかりませんが、山道の方でも幅4~5m、本道の方は土塁(掘割)の上から反対側の上までの幅でヘタすると10mはありそうです。

 


掘溝状の道の両側は、若干土を彫り上げてあるかなと思われますが、あとは平坦な自然地形かもしくは平削地となっています。

この道幅なら馬2頭くらいは行きかうことができるかな・・・
武田軍2万の騎馬隊や足軽、荷駄の隊列がこの道を慌しく通り抜けていく様子が想像されます。



凄い!すごーい!!と叫びながらそのまままっすぐ2kmほど進んでいくと、突然堀溝道が塀にさえぎられてしまって、フツーの道になってしまった・・・?





道の左側には堀溝の壁様になって続いているんだけどな・・・と塀の向こうをのぞいてみると、そこに反対側の土塁が!

ちょっと!この塀いらないじゃない!

いや、土地の所有権の問題で塀ができちゃったのかもしれないけど、考えようによってはこの塀のおかげで土塁が守られているともいえるかも(笑)

とにかく、この場所でも両側が土塁様になった堀溝状の遺構が確認できたのでした。。。


埋め込み画像への固定リンク

そのまま、途中迷子になりかけながらも土塁様遺構を追いかけながら進んでいくと、こんどはまた道が2本、並行して走るようになりました。。。☆

写真、堀っぽく見えますが、堀ではありません(笑)

ここも幅の広い「本道」と狭めの「側道」で対になっているようです。

側道の方は後年、時代が下がってから本道に沿って作られた、という説もあるようです。

でもワタシ的には、本道が先にあるのならそこを広げるなり拡張したほうが輸送量など安易に稼げるような気がするんですがね~

どうして、何のために、2本平行して道がつくられたのか・・・ 謎なところです。


そして、2本のうち1本の道がだんだん薄れてきたな、と思ったら、道の両側がどんどん高くなってきました。

このあたりが地元で「殿丸」といわれているあたりです。


ちょっとしたお城の堀切だといわれてもわからないような、立派な掘割状です。

実際、このあたりには武蔵七党横山党の藍原孝遠の館があったので「御殿峠」の名がついたとの伝承があります。

あとで調べてみたら、旧相原村史に次のように載っていると小幡晋氏著の「多摩の古城址」にありました。

「横山武蔵権守時重の弟孝遠、藍原次郎太夫を称す。藍原の子孫は八・九代続き、分流して野部、山崎、鳴瀬を姓にす。館址は城下より旧道を登ること数町、清水寺の後方の山林なり。前方に相模平野を望み境川あり。後は山続きの丘陵なり。殿丸は東西二十三間(42m)、南北三十間(55m)その面積六百九十坪なり。」



だとすると、ここはその城郭遺構なのかもしれません。


埋め込み画像への固定リンク 


しみずさんをスケールにすると両側の高さがよくわかります!

そして右手の高台の上は平坦地になっていて、城遺構とおぼしきものは見られませんでした・・・

しかし、この場所の少し先の左手は櫓台があったと言ってもおかしくないような形状☆



この場所に上ると、薄くなった土塁といってもいいような盛り上がりがあります。

写真ではわかりにくいですが、ちょうど街道が堀底道にあたっていて、道の行き来を押さえるにはぴったりの場所に思えます!

そして・・・びっくりしたのはこの後!




櫓台っぽい遺構地形を後にそのまま進むと、突然尾根は道路にぶちっ!と断ち切られます。
虎ローブに捕まりながら降りると、道路の反対側には結婚式場の日本閣が広がっています。

ここまでたどってきた尾根がかつて続いていたと思われるのは、この日本閣のちょうど駐車場あたり。

上ってみると、尾根がつながってたと思しきあたりに気になる土塁(?)が・・・

そのまま、駐車場の端っこにところどころ残ってる土塁様の盛り上がりを追っていくと、それは日本閣裏手の竹やぶの中に入って行き・・・


じゃじゃーん!

埋め込み画像への固定リンク  


竹やぶの中に、見事な掘割状遺構!

しかも、掘割の土塁を乗り越えると、外側にも郭の遺構と言ってもよさげな、確実に人の手の入っている地形が・・・




先ほどの「多摩の古城址」にも「藍原城址の下にはウエーディングパレス日本閣の壮大な近代城郭が出現した~丘陵中腹の藍原居館の跡は、駐車場にするため原型を破壊してしまった。」とあるので、道路と日本閣に分断された尾根の上と、ここも含めて藍原孝遠の居館だったのかもしれません。

だとすると、館の中を鎌倉古道が貫いているようなわけで・・・

この館は古道を押さえる関所の役割も果たしていたのかもしれませんね。。。


この道があんまり見事なんで、そのまま行けるかな~☆ とそのまま行軍を続けたら・・・




実は、きれいな(?)道はここでおしまい。
本年お初のトンデモな藪こぎになっちゃいました(笑)

蔓だの茨だのに絡めとられながらなんとか斜面を滑り降りた先は、たぶん私有地のお庭。。。
コメンナサイ~!と心の中で謝りながら、こそこそと出てきたところは、現代の「街道」、国道16号線でした。

ここまでで、この日の前半の肯定である御殿峠の古道散策は一段落です。
ここから片倉城址に寄り道して、午後はいよいよ滝山攻めに突撃~☆





2014年1月3日金曜日

忍城の「北谷門」 ~不動ヶ岡不動尊~


毎年恒例の我が家のお正月行事・・・というわけで、親戚の家に新年のご挨拶回りがてら、埼玉は加須にある不動ヶ岡不動尊に初詣。



この不動ヶ岡不動尊は元和3年(1616年)開基の真言宗のお寺で、ご本尊は不動明王。

関東三大不動のひとつにも数えられることがあるという、由緒ある(この地方では)お寺です。


とはいっても、今年は親戚の家を回った後、菖蒲のショッピングモールでのんびり「初」買い物を楽しんでしまったもので、お不動様についたときにはとっぷり日が暮れてしまって・・・

なにもまあ、こんな寒い季節にお堂も閉まっちゃってjから行くこともなかったんですが、古いお札を納めなきゃという使命があったし、なによりこのお寺にはあの「黒門」がある・・・!





「黒門」というのは、映画「のぼうの城」で知られるようになった行田の忍城の「北谷門」を移築した総欅作りの門のこと。

現在、忍城の現存建築物として残っているのはこの門と郷土資料館の駐車場にある高麗門だけなのだということです。


いままで何回も(それこそ毎年のように)お不動様には初詣に行ってるんですが、なぜかこの門を見つけられなかったんです。

なので、今年はぐるぐると探し回って・・・あった~!
お寺の脇のとても目立たないところに、ひっそりと。

いや、実はもっと大きな門だと思い込んでいたので、何気にスルーしていたんですね(汗)

思ったよりずいぶんと小さくてびっくりでした。


行田の忍城址自体には御三階櫓が建てられたり、おもてなし甲冑隊の活躍によるPRや映画の影響もあって、いろいろと盛り上がってるようなのに、こちらはせっかく忍城つながりなのに門の規模も小さいせいなのかほとんど知られることもなく、ちょっと寂しいな~☆と思ったりもしたのでした・・・


2014年1月1日水曜日

初日の出は城址で ~龍崖山(大河原城)~

別ブログ「natchdesの雑記帳」でも毎年のように触れているんですが、我が家では毎年お年越し~お正月行事で、大晦日の夜中に地元中山氏ゆかりの能仁寺に詣でて、除夜の鐘で新年を迎えます。


そしてその後「中山の天神様」加治神社に初詣して1年の息災を祈願し、家に帰ってちょっと仮眠します。

と、ここまでは毎年判で押したように行く時間も場所も決まっているんですが、仮眠のあと「初日の出」をお迎えする場所は、毎年決まっていません。

まあ、私のいる埼玉県の飯能というところは、西側の山地から東の平野に向けて開けている土地なので、初日の出を見るスポットには事欠かないんですが(笑)

昨年は地元のあさひ山展望台、その前には天覧山、多峯主山。日和田山も行ったし・・・

さぁて、今年どこにいくかね~☆ とつらつら考えていて思いついたのが龍崖山。

龍崖山には、以前1回だけ初日の出を拝みに暗い中を登っていったことがあります。

そのときには頂上で地元の方たちが麓から担ぎ上げた甘酒を振る舞ってくれたなぁ~♪
もう10年近くも前の記憶ですが・・・(^^;)

でも今回は食い意地に負けたわけではないです(笑)
この龍崖山、実は城跡遺構が残ってたりするんです!


地元の伝承では龍崖山は大河原氏の城跡(大河原城)とされており、麓には「殿屋敷」という場所があって、大河原氏の居館があったと伝えられています。

ちょっと殿屋敷と城が離れすぎてる気もするんですけどね~(^^;)



この龍崖山のあるあたりは大河原という地名で、龍崖山を含む丘陵と名栗川(入間川)の間の細長い平地に集落が広がっています。

集落から大河原城へは八耳堂の前を通って軍太利神社の左脇を登っていきます。
八耳堂の前にある案内板には大河原氏と城のことが触れられています。





これが大河原城の縄張り図。(「埼玉の古城址」より)

軍太利神社の脇、といっても一瞬「どこに道が続いてるの?」と迷うような山道細道。
でも道を見つけて杉山の中の斜面を上っていくと、ちょうど八耳堂の真上くらいの位置にある平削地に出ます。

たぶん縄張り図にある「出丸」だと思われます。

初日の出を拝みにいくには夜明け前に上まで登らないといけないので、真っ暗で写真は撮れません。
ので、以下の写真は別の日に撮ったものです。








不規則な形ながら、ちょっとした建物なら十分建てられる広さに、2方面にうっすらと土塁が残っています。

うまく撮れなかったので、道の上下うねりで土塁を察していただけるかと・・・
・・・すみません、心の目でみてください(笑)




出丸から先の本丸までの道は、張ってあるトラロープにつかまりながら行かないと登れないような急坂続きです。

でも、ぜえぜえ言いながらも登って5分ほどで本丸直下の鞍部へ。

ここで、別のサイトでは大手方向ではないかと述べられている金蔵寺方面からの道と合流。
道はまた一気に本丸へと駆け上ります。



私が初日の出を拝みに本丸に駆け上がったときには、すでに地元の「初日の出の会」の人たちが篝火を囲んで暖をとりながら、日の出を待っていました。

・・・さすがに昔と違って、甘酒のお振る舞いはなかったな(笑)



そして・・・古城址に昇る初日の出です~!




実はこの城の本丸南側に1つはっきりとした堀切と竪堀があるのですが、そこからもしっかり初日の出を拝ませていただきました(笑)

ちなみに朝日の中の堀切と竪堀。

 





















う~ん、わかりにくい!(笑)
・・・これも心の目で見てください(爆)






この場所に初日の出を見に来てる人たちの中に、どれくらいここが古城址と知っている人がいるのかわからないけれど・・・

でもこの場所自体は初日の出スポットということで市民にはとても親しまれています。

「城址」というには来歴もはっきりしていないし、とても小さい遺構ではありますが、初日の出スポットというだけでなく、もっともっと「城址遺構」ということでも知られてほしいなぁ・・・


古城址で迎える一年。今年もよい城攻めができますように・・・!(-人-)

















2013年12月22日日曜日

入間金子の滝山古街道

鎌倉古道を回るようになってたびたび参考にさせていただいている「道・鎌倉街道探索日記」というサイトがあります。
http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/annai/kama1.html

このサイトの中をふらふらとサーフィン(?)していたところ、次の地図を発見。



この地図のあたりは日ごろよく愛車で通りかかっているんで割と知っているんですが、こんなところに古道がある?

地図に「滝山古街道」として載っているこの古道、地図を書かれたサイト主さんによると「新編武蔵風土記稿」にある後北条時代の滝山城から鉢形城への往来であった「瀧山街道」「瀧山古海道」に該当するのではないかということなのです。

それで、まず古道の位置関係を見てみると・・・

この地図の下方にのっているJR八高線金子駅、その北西方向500mほどにある瑞泉院(この地図にも載ってますが)には、金子十郎家忠(1138~1214) 一族の墓があり、境内一帯は金子氏の館跡であったといわれています。

金子氏というのは武蔵七党村山氏のひとつ。

金子十郎家忠は保元・平治の乱で活躍、宇治川合戦や一ノ谷・屋島の戦いでも源義経に従って戦功をあげるなど、「保元物語」や「吾妻鏡」「源平盛衰記」にも登場する、鎌倉幕府初期の有力武将であるようです。

当然、その館があったというこの土地から「いざ鎌倉」の道があったはず。
もしかしたらそれがこの「滝山古街道」なのかもしれない・・・?


そして、金子駅の西側に向かって霞川(この川の名前も実は気になってます)沿いに豊岡街道(現在の県道63号線)を1kmほど遡っていくと、以前ブログでも書いた今井城があります。

 ★「東京都のはずれの謎な城跡」(今井城)  ← コチラもご覧ください♪
     http://natchdes3.blogspot.jp/2013/02/blog-post_7.html

豊岡街道は現在の埼玉県入間市扇町屋と東京都青梅市の間を東西に走る「青梅街道」です。
この街道をたどって金子から今井城の前を通りながらさらに西にいくと、青梅の名族三田氏の勝沼城のそばに出ます。

今井城の今井氏は三田氏に属していましたので、この豊岡街道を使って勝沼城と行き来していたのではないでしょうか・・・

地図に載っている「滝山古街道」はこの豊岡街道と金子のあたりで南北にクロスしています。

なので、この古街道がそのまま三田氏滅亡後後北条氏の傘下に入った今井氏を始めとして、後北条氏の軍事道として使われたかもしれない・・・?

そう考えたら矢も盾もたまらずに古道散策に飛び出してしまったのでした(^^;)


******


さて、電車を降り立ったのは地図にも出ていたJR八高線金子駅の、いかにも田舎めいたカワイイ駅舎。

地図を片手に真っ直ぐ東に向かって500mほど、「金子支所」をの前を通り過ぎたさらに先は一面の茶畑。
そう、このあたりは「狭山茶どころ~」の中心地なのです。




そしてその茶畑の真ん中にすっと伸びる1本の農道こそが目指す「滝山古街道」です。

写真は古街道を南側(地図の下方)に向かって撮ったもの。この場所から北へ転じて、まずは「馬頭坂」に向かいます。




北側に向いたとたん、もう切り通し(笑)

すっかり舗装されてしまってわかりにくいですが、左右は平地になっているところを掘り割って、霞川に向かうなだらかな下り道になっています。

坂を降りきった右側にこの坂の名前「馬頭坂」の由来を書いた碑が建っています。
金子十郎ゆかりの馬頭観音堂に通じていたからだとか・・・やはり関連がないわけではなさそう。

そのままいかにも「古道っぽい?」住宅の間のご機嫌なクランクを抜けて、豊岡街道を渡ると、昔懐かし火の見櫓の下に小さくて古くからありそうなお堂。

その向こうには加治丘陵が横たわっていて、地図では「古街道」はその中へ入っていきます。




加治丘陵というのは入間からお梅にかけて東西に伸びる標高200mほどの丘陵地です。
「滝山古街道」はこの丘陵の中を南北に横切っています。

豊岡街道と「滝山古街道」が交差するこのあたりは古くからの三ツ木という集落で、和田義盛の乱に敗れて逃げる途中当地に土着した三木氏が名主だったということです。

このお堂のそばには「高札場」があると書かれた看板があって、古街道はその名主三木氏の高札場のあたりを通っている・・・ようなんだけど、ちょうどお堂の前で道が左右に分かれていて、どっちに行ったらいいんだろ?

そばで立ち話をしていたおじさんに聞いてみたら、このあたりに住んでいる方のようなんだけど、なんと「高札場」のことを知らなかった!

で、仕方なく同じく古道にある「金子神社」への行き方を聞いてみたら右側の道を指し示し・・・




「金子神社ならその家の間を通って行けばその前に出るよ~♪」



えええっ?舗装路どころか人一人通るのがやっとそうな山道の中に入っていくんですか~?!


・・・後で帰ってから地図を再確認したら、実は左側の道がちゃんと舗装されたまま金子神社まで通じていて、しかもその道沿いに「高札場」もあったという・・・Orz

まあ、はらはらドキドキしながらも、ちょびっとだけ古道っぽい山道通れたから、よしとするか。

でも、この道は絶対単なる通路だと思う、うん。(^^;)



さて、金子神社。

舗装路はここで終わり。道はこの金子神社を挟んで左右に分かれており、「滝山古街道」はいよいよ古道らしさを増して右側の方へと延びています。

神社の前には古い道標が建っています。




道標の表面には薄~く「向」「左」「右」などの字が見て取れるのですが、何て書いてあるのか判別できません。
拓本でもとればあるいは行き先が浮かび上がってくるのかもしれないですね☆

そして、右側の道を進んでいくとまもなく・・・




とっても素敵な掘割状の道が出現~!

この加治丘陵内の古道は今井城や金子十郎の館址から見ると北側(鎌倉とは反対側)にあたるので、「鎌倉街道」と言っていいのかどうかわかりませんし、「鎌倉街道上道」のような幹線道よりはかなり狭い(幅2~3mくらい)のですが、しっかりとした掘割状の街道遺構が残っています。

そして、尾根を掘り割っているだけでなく、ところによっては左右に土塁を築いているところもあります。





こんな道、誰も通らないだろうと思って浮き浮き歩いていたら、なんと反対側からマウンテンバイクの2人連れ。どこから来たんだろう・・・?

・・・思わず「人間スケール」にしてしまいました。人が入るとこの堀割りの規模感がよくわかりますね♪





この先もずっと・・・掘割は続く~よ、どこまでも~☆






と、ひたすら突き進んで行ったら、いきなり・・・




すこん!と道がなくなって、眼下にひろがる駿河台大学の敷地~!

方向にすると大学校舎の向こう側真正面に、地図上でこの古道の続きにあたる阿岩橋があるはず。

この尾根と大学敷地の形状を見るに、もともとはこの尾根は入間川の渡しのあった現在の阿岩橋方向に向かって、緩やかに下っていたものが、大学敷地造成のためにざくっ!と整地されたのではないかと思われます。


途切れてしまっては仕方ないので、古道の東側を通る自動車道まで下りて駿河台大学の北側に回り、阿岩橋までたどり着きました。


阿岩橋というのは、飯能市の阿須と岩沢を結ぶ橋なので「阿」「岩」橋という名前なのですが、もともとこの場所には入間川を渡る渡し舟がありました。




阿岩橋を駿河台大学のある阿須から対岸の岩沢へ渡ったところ。

ちょっと前までは渡し舟のあったところから段丘の上に上がる、人目でそれとわかる古道然とした切り通しがあったのですが、阿岩橋の架け替えに伴って切りくずされ埋め立てられ、道の端の切り岸のカーブに面影を残すのみとなってしまいました・・・(TT)




橋の袂にはかろうじて古い案内板が残っていて、渡し舟のことと、この道が鎌倉街道の裏街道にあたっているが地元ではむしろ「大山街道」として知られていることが書かれています。

そして、道は古道特有のクランクを残しつつそのまま真っ直ぐ飯能市内へ入って行き、六道や中宿といったいかにも古い地名の字を通り抜け、八王子城落城時に奮戦した北条氏照の家臣中山氏の館址のある中山・中居をかすめて宮沢湖・日高方面に向かっていきます。

もしかしたら中山氏も滝山城や八王子城との往還に、この「滝山古街道」を使っていたのかもしれませんね・・・☆

********


後日大山街道のことについて調べてみたところ、江戸時代に相模国大山阿夫利神社への参詣者が通った多くの古道のうちのひとつが、飯能の宮沢から双柳、入間川阿須の渡し、入間市の南峯、金子、箱根ヶ崎、拝島、甲州街道八王子宿、片倉、御殿峠、橋本と抜けて、相模川中津川を渡り大山へ向かっていました。

この大山街道こそ、まさに今回の「滝山古街道」とオーバーラップしています!

おそらく鎌倉初期の金子氏の時代からの道が、江戸時代になっても大山街道として引き続き利用されたと考えられるので、拝島の対岸が滝山城ですから、中山氏や今井氏が滝山城往還にこの道を使ってた可能性はおおいにありそうですね!