2012年10月30日火曜日

金ヶ崎の退き口~城ガール隊遠征その1~

この春に城ガール隊に仲間入りして約半年・・・初めて城ガール隊の遠征に参加することにしました。

資金的にも家の事情的にもなかなか遠出の難しい自分。。。

だけど、以前からとっても行ってみたかった越前朝倉一乗谷がコースにあるツアーだし、こんなことでもなければ、なかなか遠くのお城を攻めるなんてこと金輪際できないだろうな、ということで、清水の舞台からエイヤッ!と飛び降りて・・・

一泊二日の敦賀&福井「大」遠征に参加することにしたのでした(笑)



さて、今回の城ガール隊遠征、日程は2日間です。

1日目は参加者15名が朝9時に敦賀駅集合で、金ヶ崎城→敦賀城→つるがみなと山車会館→福井に移動して丸岡城、と攻めて参ります。


関東からだと遠いこともあって、私は前の日に仕事を終えてから新幹線&特急で現地に前乗りしていたので、同じく関東から前乗りして前夜一緒に飲みに行ったさとみんさんとともに、みなさんをお出迎え。

続々と城ガール隊精鋭の面々が集結する様は圧巻です!(笑)

私にとっては初顔合わせの方も多かったんですが、日頃Twitterでつぶやきあっていることもあって、初対面な感じはあまりしません。

すぐになじんで3台の車に分乗してLet's GO!


まず最初は金ヶ崎城です。




昔々日本史の授業で、織田信長の朝倉攻めと浅井長政の裏切り、お市の方の機転で信長が挟撃の窮地を逃れた話・・・なんていうのを習ったような記憶があります。

信長は琵琶湖の西側を北上し、手筒山城、金ヶ崎城、引壇城を落として越前一乗谷に向かうべく木ノ芽峠に進出したところで、長政の裏切りを知って撤退しました。

このとき信長が木下秀吉・明智光秀らを殿軍に残したのが、この金ヶ崎城だということで、この一連の撤退戦を「金ヶ崎の退き口」または「金ヶ崎崩れ」というそうです。


縄張り図を見ると、手筒山城のある山から峰続きで海に向かって突き出した部分が金ヶ崎城です。


駐車場は城のある山を取り巻く道路から一段下がったところにあり、道路への上り口脇にはレンガ造りの古そう~な小屋が・・・

この小屋、その昔の敦賀港の港湾施設だったようで、とすると海は今よりももっと山に近かったか・・・?

すぐに急な階段があって、その先には鳥居。



この金ヶ崎城は平安末期にはすでに存在していたらしく、足利尊氏の上洛時に後醍醐天皇の命を受けて新田義貞が奉じて籠城し非業の死を遂げた、恒良・尊良両親王を祭った「金ヶ崎宮」です。

境内はなにやらきらびやかに飾り付けられていて、宮司さんたちが歩き回っています。

売店で聞くと、ご朱印帳を書いている宮司さんが「今日はちょうど御船遊管弦祭(おふなあそびかんげんさい)の日なんだよ」。

両親王をなぐさめる月の宴を開いた故事にちなんで、古式ゆかしく神楽殿で白拍子の舞を奉納したり、お神輿を船に載せて渡御するのだそうです。

ちょうど時間的にあわなかったので祭りを見ることはできなかったのですが、年に一度しか開かないというお宮の扉の中をのぞかせてもらったり、お神輿を間近でながめたり(ちょっとだけ触らせてもらったり)・・・


さて、お宮の脇を抜けてさらに奥へと行くと、かなり急な上り道。
右手になにやら曲輪への入り口らしきものがあり、のこのこ入っていくと大きな土塁に囲まれた曲輪状の空間。

右側の写真がその出入り口を中側の「土塁」上から見たところです。
そして、土塁の上にあたる場所に「尊良親王御陵墓見込地」の石碑が・・・




「見込み」ということは、御陵墓ではないんですね~☆


また元の道に戻って階段道をぐんぐん登っていくと、この城跡で一番高い場所に出ます。

「月見御殿跡」です。




月見御殿跡に立つと、目の下は絶壁で、すぐに海です。

そういえば、売店の宮司さんがご朱印帳を書きながらいろいろと話してくださったんですが、今回車を停めた駐車場のあたりや右側の写真に写っているセメント工場のあたりはすべて海だったので、今以上に三方海に囲まれた城だったんだそうです。

標高85mのこんな絶壁、上り下りすらままなりません。
だから、確かに3方向海によってがっちり守られてはいます・・・が、反対に逃げることもできないというわけで。

新田義貞がこの城によって足利軍と戦ったときには兵糧攻めにあったようなんですが、
残りの陸側1方向を押さえられちゃったら、確かにそれこそ「袋のネズミ」になっちゃいそうですね。

「金ヶ崎の退き口」の時、結局秀吉はここから出て殿軍として戦いながら見事退却に成功するわけですが、ここで戦ったとしてどうやって城から抜け出すんだろう?

敵軍を引きつけて時間稼ぎをしなきゃ「殿軍」のイミはないので、戦い自体は城を出て退却しながらしかなかったんだろうなぁ・・・などなど考えながら海を眺めておりました。。。



月見御殿から下って内陸側の手筒山城方面に向かって尾根を行くと、尾根伝いの防御と思われる三の城戸、二の城戸、一の城戸の三つの堀切が出現します。

写真は三の城戸。両側に切れ込んでいる堀切を通る土橋。

土橋の向こうに続く道は横にうねって、土橋の上を通る人を攻撃しやすくなっているのがよくわかります。

今回の行程で初の土橋に喜んで、ここでみんなで恒例のポーズ。

「土橋!」



・・・なのですが、これまたご朱印帳の宮司さんによれば、一番はっきりと遺構が残っているのは二の城戸なのだとか。


下の写真、左側は堀切を下から走り登ってくる城ガール隊員。
やっぱり遺構を見ると活き活きしてます♪





そして、まもなく二の城戸へ。

・・・すごい! しっかりとした堀切が残ってました!

右の写真、堀切の底から斜面を登っていく城ガール隊員たちです。
人と比較すると、堀の大きさがわかるでしょうか?



ところがところが・・・

実はこの二の城戸の大堀切の近くの斜面に畝状竪堀が数条あるらしい、というのを縄張り図等から探してきた人がいて、それを探しに行くべく、斜面の藪の中に突入!

人の通らない斜面なので、足元が落ち葉や倒木だらけでずるずる滑るし、ふかふかで踏ん張りがきかないし・・・

中には数m滑落する人も出たりなんかして(^^;)

それでも、見つけました!写真の通りの畝状竪堀。
苦労して確認できただけに、感動もひとしおです☆

隊員の立っている様子で、出っ張りとへこみがわかるでしょうか。


こういうのを見つけるのも、城ガール隊の醍醐味です。

ただし、誰でもがむやみやたらに入っていける場所ではないので、ちゃんとした装備と状況判断があってのことですが・・・


金ヶ崎城の城域はこの二の城戸の先にある一の城戸で終わりのようです。
そのまま金ヶ崎宮まで直行で降りて、次の行程、敦賀城はまた次回ブログにて・・・(笑)

2012年10月16日火曜日

八王子、ぶらぶら・・・

・・・って言っても、私の場合八王子の中心地ではないところがミソだったりするんですが・・・(^^;)

先日twitterで、八王子城跡ガイダンス施設の開館記念特別展について、フォロワーさんが情報を流していたのをキャッチして行きたいな~☆と思っていたんです。

で、この週末。あまりにお天気がよくてどこかにでかけたいな~と思ったものの、午後にピアノのレッスンが入っていたので遠出も「城攻め」もできないし・・・

んじゃ、特別展見るくらいなら行けそうだから、行ってみるか~!っとのこのこ特別展に出かけました。

特別展の会場は、八王子市郷土資料館。なぜか前庭で昔懐かし(?)二宮金次郎さんがお出迎えしてくれる、古くてお茶目な施設です。



それほど広くもない常設展示室が一室だけの小さな資料館の中の、会議室くらいの広さの特別展示室でお目当ての特別展が開かれていました。

展示物は、八王子城のガイダンス施設の開館にちなんで、それまでの発掘調査による出土品の数々。


北条氏照の居館跡(御主殿跡)から出土した、当時の生活用品が主でした。

八王子城が落城したときに御主殿も燃えたからなのか、木製品や藁製品等はまったくないのですが、かわらけや陶器、鉄製品等の出土品の中には海外からの輸入品とみられるものもあり、北条氏の力というものを垣間見ることができます。

私はどちらかというと出土品よりは遺構の発掘状況写真や図面の展示の方が興味深くて、そちらばかりじっくり眺めていたんですが・・・

実はこの展示会に合わせて、特別展展示図録「八王子城」(A5版  148ページ オールカラー)が発酵されて、資料館で販売しているのですが、その中に今回の展示内容も含めて、発掘調査の状況がばっちり記載されています。


下の写真の右側がその「八王子城」。このしっかりした装丁と内容の冊子が350円!
かなりお買い得ですよね~♪
その上、お買い上げ時にはもれなく左側の冊子「発掘された八王子城」もついてきます。
(少なくとも私は、こちらから何も言わなかったのに無料でつけていただきました)


対応していただいた事務所の方々や展示室の入り口で受付(?)をしていたボランティアガイドのおじさんたちも、すごく丁寧に質問に対応していただいたし、アットホームな感じの展示会でした。

興味のある方はぜひ行ってみてください。ベネチア産のレースガラス器の出土品も展示されていましたし、中世の暮らしに興味のある方には特に面白いと思います。

(特別展HP)
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kyoiku/rekishibunkazai/kyodoshiryokan/035509.html


さて、勢いで展示会に行ってはみたものの、小さな展示会だったので、常設展示を含めてじっくり見て回ってもお昼前には見終わってしまった・・・

ホントはせっかく八王子城の展示に来たんだから、八王子城に回ればいいのかもしれませんが、郷土資料館は八王子市街にあるので、事務所の方に伺うと八王子城までは車で20分くらいかかるとのこと。

この日はピアノのレッスンのために3時半までに地元に帰らなくちゃ行けないという制約付きだったし、ガイダンス施設も実際にはまだ開館していない(10/20開館予定)ので、八王子城に回ることは断念(T_T)。

お天気はめちゃくちゃ良かったので、地元に帰る途中に位置する滝山城でお昼を食べることに。

滝山城は武蔵国守護代で山内上杉氏の重臣、大石定重が築城したといわれ、その子の定久や定久の養子となった北条氏照が居城としていましたが、氏照は天正十二(1584)年ごろ、八王子城に移ったので、滝山城は廃城となっています。

現在は都立公園となっていて、堀や土塁などの遺構がよく残っている上、道もよく整備されているので、とても歩きやすくなっています。

また、遺構の見どころには近辺の縄張り図つきの案内板が出ています。
こんな感じ。



この遺構が示している「コの字型土橋」は、実際はこうなっています。



この写真は、縄張り図上の「城道」右側から左側の方に向かって堀と土橋を見ている感じです。

滝山城は適当な駐車場が見当たらないので、ふもとのコンビニで食料を買い込んで、そのまま歩いて登っていきました。

細い堀底道から小宮曲輪、三の丸の城道を抜けて、「コの字型土橋」を渡り、城道から左手の千畳敷に登ると・・・




そこには青々とした芝生の上にベンチが転々とある広ーい空間がありました。

爽やかな青空の下、この空間とお日さまの光とそよ風と・・・ぜーんぶ独り占め!
コゲラが木をつつくドラミングの音を聴きながら、コンビニのおにぎりをかじってのんびりまったりなお昼ご飯。妙に贅沢気分でした(^^)v

この滝山城、しっかり予習してじっくりゆっくり見て回ると見どころはたくさんあるんですが、この日はゆっくりするヒマもなかったので、写真だけご紹介しますと、こんな感じ。




左の写真は中の丸からの眺め。眼下に多摩川の流れを見ることができます。
他の2枚は、中の丸と本丸をつなぐ曳き橋と、曳き橋の先にある本丸の枡形虎口。



そして、こちらは本丸下の堀底道から曳き橋を見あげたところです。

この日は時間の関係もあって駆け足でここまで見て引き返しましたが、他にも馬出し曲輪や山の神曲輪といった曲輪群や搦手道など見どころは多々あります。

また、中の丸の立派なトイレの裏側には、これまた立派な土塁があって、二の丸と中の丸の間にはしっかりとした堀切があるのですが、この堀切の防護をさらに強固なものにしています。

ちょっと藪になっていて、ヤブ蚊がぶんぶん飛び回っていたので、入るのをためらってしまいました。

次は藪のない時期に、しっかり見て回りたいな~と思います・・・

かなり駆け足でしたが、ちょっとだけ城気分になれた休日の一日でした(笑)





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2012年9月20日木曜日

侮ってはいけません・・・!それがたとえ平山城でも

先日の後閑城&箕輪城の群馬城攻めツアーのとき、あとになってミョーに腕がかゆいんですよね。
それも当日じゃなくて、次の日。



え?と思って腕をよく見てみたら、両腕で20ヶ所くらい虫にくわれてる!

それもヤブ蚊ならまだしも、どうもしっかりブヨにくわれてしまったらしく、くわれた場所のひとつひとつが大げさに腫れ上がって熱をもってる・・・ (T_T)

たしかにその日後閑城で整備されていない堀をさがして道をはずれて林の中に入ったり、箕輪城でも堀底に降りたり土橋をみたりするためにがさがさ藪をかきわけたりしましたが・・・

でも、虫が出ることは承知の上で、食われないように長袖長ズボン、首にはタオルを巻き手袋もしっかりはめて、極力素肌を露出しないようにした上で、思いっきり虫除けスプレーをふって万全を期したにもかかわらず、しっかりやられてしまった~☆

服の袖の上からでもぼこぼこにやられるんだから、本当に侮れません!

でも、今年は山ヒルの被害も多発してる(現に城ガール隊でも被害にあってる人がいます)ので、ブヨくらいですんで、良しとするべきか・・・(^^;)


で、2~3日ムヒやキンカンの臭いをぷんぷんさせながらかゆみに耐えていたんだから、それで少しは懲りればいいものを・・・


そのかゆみの癒えた数日後、武蔵松山城に行ったんです。

それも、城攻めとは別件で武蔵松山城のそばを通りかかって、ふと、後日の城址案内の参考に武蔵松山城のヤブの様子を確認しておこうと思って、あまり防備をしてなかったんですね。。。

でもある程度勝手知ったる城跡のこと。

規模も大きくないし、本丸と二の丸の間の堀切りの藪の様子を見ただけで、藪には極力入らないようにして駆け抜けてしまったので大丈夫だと思ったんですが・・・

次の日、左目が開かない!

鏡を見るとぶっくり腫れて「お岩さん」になってるし!

どうも、陽の差さない堀切りの谷間を抜けたときに、足元がつるつるして時間がかかってしまったのと、手がふさがってしまって虫を払うことができなかったので、どうやらその時にやられてしまったらしいです。。。

それでもちゃんと虫除けをふっておけば、かなり防げたはずです。

平山城だし、ちょっとくらい大丈夫だろう、なんて思っちゃいけなかったですね☆


そういえば、箕輪城の二の丸でのこと・・・


ひと休みした東屋には「100名城スタンプ」が置いてありました。

その東屋で私たちが地元のおじさんと縄張り図を見ながら四方山話をしていると、そこへ車で乗り付けてやってきた男女2人組。

みると、女子の方はノースリーブ、ミニスカ生足にミュールサンダル。

このお城は整備されてるとはいっても、堀とか草の生えたでこぼこ道がほとんどで藪も結構あるし、少なくともそのようなところを歩くスタイルじゃないな・・・(^^;)

ちょっと街中散歩ですか? こんなところにそんな格好でいたら蚊やブヨにくわれちゃうよー?

などと考えながら見ていたら、持ってきたスタンプ帳にスタンプをぽん!と押してもらうと、一緒にいたいかにも「オレはついてきただけオーラ」出しまくりの彼氏ともどもさっさと車に乗り込んで去っていった・・・

え、え、え、えー!?

肝心のお城をまったく見ないで、100名城スタンプを集めるだけのヒトー?

まぁ、それなら確かに素肌かなり露出でも虫に食われることもなくていいんですけど、せっかくその場所に来たのにもったいないな~、と思うのは私だけかな・・・?



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2012年9月12日水曜日

石垣&土橋萌え? ~箕輪城その2~

さて、この夏は結構猛暑がきつかったんですが、この日もご他聞にもれず暑かったもんで、いかに山の木陰を歩いていたといっても結構水分不足気味。

とりあえず二の丸で小休止して水分補給いたしましょう・・・

ということでやってきた二の丸。
ここには東屋があって、城跡の整備をしているらしい作業員さんたちや地元の方とみられる方々が談笑していました。

聞くと地元の方だそうで、毎日のように二の丸にやってきているので、なんとなくボランティアみたいに案内もしているのだそうです。

その地元のおじさんが四方山話の中で聞くともなく教えてくれたのが、「三の丸の下で高さ3~4mくらいの石垣が発掘されたんだよ」という話。

さすがのサイガ先生もよくはご存じなかったようなので、さっそく行ってみることに。。。


 
二の丸から奥の木立へ入っていくと、縄張り図には名称が載っていないんですが、そこが三の丸。

道なりに腰曲輪らしき場所を通りながらいくつかの段差を下がっていくと、その段差のところに横に長く伸びていく石積みが・・・


          


東屋であったおじさんが言ってたのは、これかぁ~!
でもぱっと見、高させいぜい2mくらい?

おじさんの話や石垣そばの表示を総合するに、残り1~2mはどうやら地中に埋め戻したらしいです。
そう思って石垣下の地面を見ると・・・青いビニールシートが埋まったりしてるし(笑)



また石垣にもどって・・・石垣をよく見ると使われている石の大きさが極端に違っています。

サイガ先生によると、この大きい石は「鏡石」ではないかということです。

このような「鏡石」と呼ぶ大きな石は多くの城に存在するようで、大きな石を見せつけて来る人に威圧感を与えるために、藩主の住む御殿への通路に置かれ権力の象徴とされたようです。

確かに、今回は行かなかったのですが、この石垣の道をそのまま下っていくと、鍛冶廓を抜けて白川河原に面した白川口埋門に出るようです。

だとすると、ここが正面玄関?で、三の丸→二の丸→本丸、とルートが一本つながっていくのは自然な気がします。


一方で、そうなると蔵屋敷や通仲廓がルートからはずれたどん詰まりになってしまって、よくわからない構造に受けとれてしまいます・・・

しかしながら、前回「その1」でご紹介した「橋の跡」の場所に橋がかかっていたならば、この石垣から三の丸→蔵屋敷→通仲廓→御前曲輪→本丸、というルートもありだなぁ・・・と妙に納得したりして(^^;)


時間も遅くなってきたので、この石垣から引き返してまた二の丸へ。

実は二の丸に沿って「大堀切」が掘られているんですが、これがまた、めちゃくちゃ大きくて、しかも二の丸方向から三の丸脇や石垣の道の脇をとおって白川口埋門方向に彫り下がっていっている!













その「大堀切」、これまた先ほどのおじさんによれば、今は埋まってしまってよくわからなくなっているけれども、下に向かって段状になっているらしいとのこと。

上からのぞいてみただけではわからなかったのですが、縄張り図でも段状に高低差があるように描かれているので、実際に堀切の底に下りて踏査したら、段が確認できるのかもしれません。

もしくは堀障子の可能性も・・・? ワクワク☆




二の丸から今度は南方向に向かうと・・・大堀切を横切って渡る立派な土橋!

土橋を渡ると廓馬出とよばれる曲輪。



二の丸に付随しているような角馬出といったスタイルですが、馬出にしては結構広いスペースで、大堀切を駆け上ってくる敵がいれば二の丸・三の丸とともに挟撃できるようなポジションにあります。

また、この曲輪から見て二の丸と反対側の「木俣」という曲輪方面から敵が攻めてきても、堀を挟んで防衛線を敷ける場所と思われます。

なんたって、この土橋がすごくしっかり遺構が残っていて、思わず一同目にしたとたんに口をそろえて、「かっこいい~!」

それぞれ何度も土橋の上を行ったりきたりして、妄想を膨らましていたのでした(・・・って、それは私だけかも?)

写真は廓馬出から二の丸方面に土橋を渡っていくサイガ先生に「土橋!」ポーズをとってもらったところ(笑)


みどころ満載の箕輪城。主要部だけでしたが、半日かけてゆっくりじっくり、楽しく堪能できました。

で、二の丸から車を停めてある搦手方面にみんなで歩いていたところ・・・
後ろから例の二の丸東屋であったおじさんが追いかけてきました。

実は二の丸東屋で休憩していたときに縄張り図を見ながら搦手口の空堀の話をしていたのですが、わざわざその場所を教えに来てくれたんです。

で、ついでに御前曲輪の井戸の秘密・・・なぜ深さが20mなのか?についても持論を教えてくれたんです。

それは・・・御前曲輪と搦手口外の標高差が20m、この城外のあたりは榛名山の伏流水が豊富に湧き出ていた場所らしい、ということ。

なので、外堀や城外は水が防御になっていた可能性もあるらしい・・・

ちょこっと聞いただけで裏づけ等調べてはいないのですが、地元の方ならではの情報だな~という感じでした。うん。

それにしてもあの廓馬出の土橋、萌えたなぁ~♪

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2012年9月8日土曜日

箕輪城は、みどころいっぱい・・・~箕輪城その1~

群馬の城攻め、前回後閑城攻めをUPしてからずいぶん時間が経っちゃいましたが・・・(^◇^;)


さて、午前中に後閑城を攻めお昼にタルタルカツ丼で鋭気を養ったあとは、いよいよメインイベントの箕輪城攻めなのだ☆

箕輪城は群馬県高崎市箕郷町にある平山城。

明応・永正の頃、長野業尚により築城され、長野氏は武田信玄・北条氏康・上杉謙信が勢力を争ったこの上野の地で、最後まで関東管領山内上杉の再興を図って奮闘し、少なくとも3回(弘治元年(1558年)、永禄元年(1558年)、永禄4年(1561年))、にわたって武田氏を撃退した城なのだということです。

結局、永禄9年(1566年)に武田氏によって落城、その後織田信長家臣の滝川一益、北条氏邦と城主が変遷し、天正18年(1590年)後北条氏が滅亡すると、江戸に入国した徳川家康の重臣井伊直政が12万石で入りました。

以後、慶長3年(1598年)に高崎に移転して廃城となるまで、江戸の西北の要として城下町も整備され、城も大改修が行われたということです。

この写真は箕輪城の縄張り図。
アタマにざっと叩き込んで・・・さあ出発!






今回は、本丸からほど近い搦手側の駐車場に車を止めて城攻めです。

縄張り図にある現在の大手は井伊氏の時代に付け替えられたもので、長野氏時代にはこの搦手側が大手だったそうです。

100名城ということで地元も観光に力を入れているのか、あちこちに「箕輪城」のぼり旗が立てられています ・・・が、どれも裏側を向いているところがミソ(^^;)

くねくねと道を登っていき、二の丸を横目に見ながら本丸へ。
本丸に入る手前右側には、角馬出とみられる不思議な曲輪様の空間が・・・

本丸跡の土塁などをぐるっと見たあとその奥の御前曲輪へ。



御前曲輪は長野氏時代にこの城の精神的中枢であったということで、落城の際も長野氏以下ここで自刃したのだとか・・・

堀の発掘調査結果から、かつては御前曲輪が本丸として機能していたのではないかと考えている方もいるようです。
だとすると、なんとなく落城時にここで自刃したのもちょっと納得。


右側の写真は本丸からの御前曲輪の入り口から奥を見たものです。

小さく東屋のように写っているのは井戸。この中から多くの五輪塔が発掘されたんだとか。深さは20mあるそうです。

この井戸の裏側は本丸と御前曲輪をとりまく大きな空堀に面しているのですが、ちょうどその井戸の裏側あたりに、対面する通仲曲輪につながる橋があったのではないかという遺構が発掘されたようです。,


確かに、この部分だけ土塁が切れて少しせり出しているように見えます。

反対に通仲曲輪の方は堀で分断されて孤立しているような印象もあるので、曲輪の使い勝手からいって曳き橋があっても当然のような気もします。

さて、ひととおり本丸と御前曲輪の土塁や櫓台跡などを見て回った後、いよいよ本丸と御前曲輪の間から大きな空堀に突入!

この写真は本丸と御前曲輪を区切る浅めの堀。
これだけでもずいぶん大きいなと思うのに、この先の急斜面をさくっと藪をかきわけながら降りていくと・・・



超デカイ!これ、堀底ですよー☆  うそでしょ・・・?
この直前に行った後閑城とはぜんぜん違う・・・


案内していただいた城郭研究家のサイガ先生(新津竜一さん)によると、この大きな堀はおそらく井伊氏の時代になって大普請を行った時に掘られたものなのではないかということです。

確かにサイガさんに指摘されたのですが、二の丸や通仲郭まわりの細めの堀と、大堀切や本丸周りの広ーい堀との間には彫りそこの深さに段差があるようです。

ということは、もともとあった堀をさらに掘り広げて今のような広い堀にしたのではないか、と。


そんな話をしながらつらつらと堀底を歩いていくと、ちょうど御前曲輪の西側あたりに来たところで古い石垣発見!



さっそく石垣に駆け寄り調査を始める、城ガール隊「石垣萌え」のあいすさん(笑)

この石垣の前でひょいっと上を見上げると・・・
あら?先ほどの御前曲輪の「橋の遺構」土塁が切れていたところの真下ですよ~!







そして、くるっと振り返るとそこは通仲曲輪。もしかしたらそちらにも遺構は残っているのかもしれませんね。

・・・がそちらは藪が深くて今回はとりあえず踏査断念。



石垣をしばし堪能した(笑)あと、そのまま今度は北側の丸馬出の方へ。

箕輪城は全体的に角馬出が多いんですが、ここは「丸」で様式が他と違います。

また、丸馬出とその前の独立した曲輪の間の堀は、本丸・御前曲輪まわりの大きな堀よりかなり浅くて、すっかり藪に覆われてしまっています。

そしてその藪をかき分けて堀を進んでいくと、曲輪から確かに丸馬出に向かって降りているように見える土橋のように見える遺構が・・・


やっぱ、どうみても土橋だ、土橋!

写真は、その土橋の上でうれしそうなサイガ先生。ブレブレですが・・・(笑)

サイガ先生によると、この丸馬出と曲輪のあたりが箕輪城の初期のころの形態をよく残していて、この城は度重なる普請によって南の方へ向かって開けていったのではないかということでした。

そして、今度は稲荷曲輪を左手に見ながら、大きな堀を南下。

稲荷曲輪から搦手方面に続く土手様の曲輪は、その外側に掘られた堀とも相まって、外から来る敵には結構突破しづらいのかな。

そしてやっとの思いで突破した~と思ったらこの大きな堀で足止めされて、本丸から攻撃されちゃうんだね・・・なんて妄想が膨らむ膨らむ!


膨らんだまま・・・元の二の丸から本丸に入るところの角馬出そばまでやってきて、やっと御前曲輪と本丸を一周ですが、まだまだ二の丸三の丸が残ってる・・・


ほんとに箕輪城はみどころいっぱい!そして通仲郭や蔵屋敷みたいに本丸や御前曲輪の位置との関係ではよくわからない曲輪もあって、謎も結構ありそう・・・

とりあえず、一周して二の丸のあずまやで水分をとりながらひと休み~☆
というわけで、この続きはまた次回(笑)





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