2012年10月30日火曜日

金ヶ崎の退き口~城ガール隊遠征その1~

この春に城ガール隊に仲間入りして約半年・・・初めて城ガール隊の遠征に参加することにしました。

資金的にも家の事情的にもなかなか遠出の難しい自分。。。

だけど、以前からとっても行ってみたかった越前朝倉一乗谷がコースにあるツアーだし、こんなことでもなければ、なかなか遠くのお城を攻めるなんてこと金輪際できないだろうな、ということで、清水の舞台からエイヤッ!と飛び降りて・・・

一泊二日の敦賀&福井「大」遠征に参加することにしたのでした(笑)



さて、今回の城ガール隊遠征、日程は2日間です。

1日目は参加者15名が朝9時に敦賀駅集合で、金ヶ崎城→敦賀城→つるがみなと山車会館→福井に移動して丸岡城、と攻めて参ります。


関東からだと遠いこともあって、私は前の日に仕事を終えてから新幹線&特急で現地に前乗りしていたので、同じく関東から前乗りして前夜一緒に飲みに行ったさとみんさんとともに、みなさんをお出迎え。

続々と城ガール隊精鋭の面々が集結する様は圧巻です!(笑)

私にとっては初顔合わせの方も多かったんですが、日頃Twitterでつぶやきあっていることもあって、初対面な感じはあまりしません。

すぐになじんで3台の車に分乗してLet's GO!


まず最初は金ヶ崎城です。




昔々日本史の授業で、織田信長の朝倉攻めと浅井長政の裏切り、お市の方の機転で信長が挟撃の窮地を逃れた話・・・なんていうのを習ったような記憶があります。

信長は琵琶湖の西側を北上し、手筒山城、金ヶ崎城、引壇城を落として越前一乗谷に向かうべく木ノ芽峠に進出したところで、長政の裏切りを知って撤退しました。

このとき信長が木下秀吉・明智光秀らを殿軍に残したのが、この金ヶ崎城だということで、この一連の撤退戦を「金ヶ崎の退き口」または「金ヶ崎崩れ」というそうです。


縄張り図を見ると、手筒山城のある山から峰続きで海に向かって突き出した部分が金ヶ崎城です。


駐車場は城のある山を取り巻く道路から一段下がったところにあり、道路への上り口脇にはレンガ造りの古そう~な小屋が・・・

この小屋、その昔の敦賀港の港湾施設だったようで、とすると海は今よりももっと山に近かったか・・・?

すぐに急な階段があって、その先には鳥居。



この金ヶ崎城は平安末期にはすでに存在していたらしく、足利尊氏の上洛時に後醍醐天皇の命を受けて新田義貞が奉じて籠城し非業の死を遂げた、恒良・尊良両親王を祭った「金ヶ崎宮」です。

境内はなにやらきらびやかに飾り付けられていて、宮司さんたちが歩き回っています。

売店で聞くと、ご朱印帳を書いている宮司さんが「今日はちょうど御船遊管弦祭(おふなあそびかんげんさい)の日なんだよ」。

両親王をなぐさめる月の宴を開いた故事にちなんで、古式ゆかしく神楽殿で白拍子の舞を奉納したり、お神輿を船に載せて渡御するのだそうです。

ちょうど時間的にあわなかったので祭りを見ることはできなかったのですが、年に一度しか開かないというお宮の扉の中をのぞかせてもらったり、お神輿を間近でながめたり(ちょっとだけ触らせてもらったり)・・・


さて、お宮の脇を抜けてさらに奥へと行くと、かなり急な上り道。
右手になにやら曲輪への入り口らしきものがあり、のこのこ入っていくと大きな土塁に囲まれた曲輪状の空間。

右側の写真がその出入り口を中側の「土塁」上から見たところです。
そして、土塁の上にあたる場所に「尊良親王御陵墓見込地」の石碑が・・・




「見込み」ということは、御陵墓ではないんですね~☆


また元の道に戻って階段道をぐんぐん登っていくと、この城跡で一番高い場所に出ます。

「月見御殿跡」です。




月見御殿跡に立つと、目の下は絶壁で、すぐに海です。

そういえば、売店の宮司さんがご朱印帳を書きながらいろいろと話してくださったんですが、今回車を停めた駐車場のあたりや右側の写真に写っているセメント工場のあたりはすべて海だったので、今以上に三方海に囲まれた城だったんだそうです。

標高85mのこんな絶壁、上り下りすらままなりません。
だから、確かに3方向海によってがっちり守られてはいます・・・が、反対に逃げることもできないというわけで。

新田義貞がこの城によって足利軍と戦ったときには兵糧攻めにあったようなんですが、
残りの陸側1方向を押さえられちゃったら、確かにそれこそ「袋のネズミ」になっちゃいそうですね。

「金ヶ崎の退き口」の時、結局秀吉はここから出て殿軍として戦いながら見事退却に成功するわけですが、ここで戦ったとしてどうやって城から抜け出すんだろう?

敵軍を引きつけて時間稼ぎをしなきゃ「殿軍」のイミはないので、戦い自体は城を出て退却しながらしかなかったんだろうなぁ・・・などなど考えながら海を眺めておりました。。。



月見御殿から下って内陸側の手筒山城方面に向かって尾根を行くと、尾根伝いの防御と思われる三の城戸、二の城戸、一の城戸の三つの堀切が出現します。

写真は三の城戸。両側に切れ込んでいる堀切を通る土橋。

土橋の向こうに続く道は横にうねって、土橋の上を通る人を攻撃しやすくなっているのがよくわかります。

今回の行程で初の土橋に喜んで、ここでみんなで恒例のポーズ。

「土橋!」



・・・なのですが、これまたご朱印帳の宮司さんによれば、一番はっきりと遺構が残っているのは二の城戸なのだとか。


下の写真、左側は堀切を下から走り登ってくる城ガール隊員。
やっぱり遺構を見ると活き活きしてます♪





そして、まもなく二の城戸へ。

・・・すごい! しっかりとした堀切が残ってました!

右の写真、堀切の底から斜面を登っていく城ガール隊員たちです。
人と比較すると、堀の大きさがわかるでしょうか?



ところがところが・・・

実はこの二の城戸の大堀切の近くの斜面に畝状竪堀が数条あるらしい、というのを縄張り図等から探してきた人がいて、それを探しに行くべく、斜面の藪の中に突入!

人の通らない斜面なので、足元が落ち葉や倒木だらけでずるずる滑るし、ふかふかで踏ん張りがきかないし・・・

中には数m滑落する人も出たりなんかして(^^;)

それでも、見つけました!写真の通りの畝状竪堀。
苦労して確認できただけに、感動もひとしおです☆

隊員の立っている様子で、出っ張りとへこみがわかるでしょうか。


こういうのを見つけるのも、城ガール隊の醍醐味です。

ただし、誰でもがむやみやたらに入っていける場所ではないので、ちゃんとした装備と状況判断があってのことですが・・・


金ヶ崎城の城域はこの二の城戸の先にある一の城戸で終わりのようです。
そのまま金ヶ崎宮まで直行で降りて、次の行程、敦賀城はまた次回ブログにて・・・(笑)