大谷吉継公の居城として知られる敦賀城は、笙の川河口を埋め立てて奉行所を設置し三層の天守閣が造営されるなど、広い城域であったようですが、関ケ原の戦いで吉継公が西軍について敗北した後東軍に引き渡され、元和の一国一城令で廃城となったということです。
今ではすっかり市街地と化してしまって城は姿を消してしまっていましたが、縄張り図を見ながら、城域だったであろうという真願寺に行きました。
・・・が、「城址」らしきものは影も形もみあたりません。
お寺の外壁がなんとなく石垣と白壁で「お城ちっく」ではありますが、これはあくまで後世の(というよりも現代の?)ものらしく、お寺の門前に「大谷吉継 敦賀城跡」と刻まれた石碑が建っているのみです。
とりあえず、城址のモニュメントですので、ここで城ガール隊の城攻め恒例(?)「おおたににゃんぶ」殿と「いしだみつにゃん」殿の記念撮影~☆
特に縁の地でもありますし、石碑の足元にうれしそうに(?)さりげなく写ってるのがわかりますか?(笑)
境内に入ってみると、本堂の脇にそっと「敦賀城礎石」と刻まれた石とともに礎石が残っています。
これは敦賀城乾門の礎石だということです。
HPその他の資料によると、現在敦賀城の面影を偲ばせる遺構というのは、この真願寺の「乾門礎石」と、北側の堀跡といわれる真願寺そばの闇加川、敦賀城裏門の移築といわれる来迎寺表門、八幡神社の境内の表門の礎石くらいしか残っていないようです。
あとはわりと最近に遺構が発見されたということで、敦賀西小学校の正門横に大きな城跡碑が建てられているとか。
真願寺以外はいずれも今回行かなかったんですが (^^;)
さりげなく目立たなく、「敦賀城 中門」と書かれた木札が建っている?
しげしげとしばらく眺めてみましたが、結構簡素な門構えで普通のお寺の山門っぽい感じもしましたが、真ん中の写真、門から続く外塀のあたりが堀っぽく見えなくもないか・・・?
縄張り図とは全く一致しませんが。
次に右側の写真、「堀跡」であるという闇加川に沿って歩いてみました。
こちらは縄張り図に一致しているようです。が、途中で住宅地に阻まれてしまい、縄張り図をたどっていくことは難しい状況でした。
この写真は、金ヶ崎城から真願寺に向かう途中で立ち寄った敦賀市内の永賞寺境内にある、関ヶ原の合戦の9年後に建てられたという大谷吉継の供養塔です。
実際歩いてみると、敦賀城自体は跡形もなくなってしまっているけれど、市内のあちこちに縁の場所はあるみたいなんですね。
大谷吉継は賤ヶ岳での活躍や石田三成とのエピソード、関ヶ原での見事な散り際など、戦国武将として非常にメジャーな存在だと私は思っているのですが、それでも実は、敦賀城を居城としていたことや、そもそも敦賀城の存在を知りませんでした。
今回城ガール隊の誰かがぽつりと言っていました。せっかく有名な武将のいた地なのだから、もっともっとそういった場所も含めて敦賀や敦賀城をアピールすれば、もっと訪れる人も多くなるだろうし、敦賀のことも知ってもらえるのに、敦賀の人って奥ゆかしいよね・・・と。
本当にそうだなぁ、としみじみ思いました。
真願寺周辺にてうろうろと遺構を探し求めた後、今度は「つるがみなと山車会館」へ。
「山車」と書いて、私の住んでいる埼玉あたりでは「だし」と読みますが、敦賀では「やま」というのだそうです。敦賀まつりで使われるこの「山車(やま)」を展示しているのがこの会館です。
山車はただ置いてあるだけでなく、下の台座ごと動くようになっていて、収納庫の扉が開いてこちらに向かってせり出してくる様はなかなかの迫力です☆
また、ロビーにひっそりと敦賀城を取り巻く地理関係を表した絵図面や発掘調査についての展示がされていて、私なんかむしろ山車よりもそちらの展示にかぶりつきになってました(笑)
で、城に興味を持つ「城ガール隊」の一行だと知ると、敦賀城と町のことを話してくださったり、ひとり一部ずつ封筒入りの資料を用意してくださったり、キャラクターのシールをくださったり・・・
すごく親切に相手をしていただけました。
資料も、なんと敦賀城と大谷吉継のものばかり。なんと敦賀城の発掘調査に関する資料まで入ってる・・・! あまりこの会館のPRにはならないだろうに、なんてやさしいんだぁ~!
最後は集合写真まで撮っていただいた上、駐車場まで送りに出てくださいました。
「つるがみなと山車会館」の皆さん、本当にありがとうございました!
でも、「皆さん、学生さん?」にはマイッタなぁ~☆
確かに大学卒業したてくらいの年齢のメンバーもいたけど、ほとんどのメンバーは・・・なんだけど(笑)
さて、山車会館の後は敦賀を離れて、福井は丸岡城へ向かいます。
その報告は、また次回。(^ω^)ノシ