2015年2月17日火曜日

見張り台なのかな?小瀬戸城

ワタシの地元、飯能には「小さな城郭」遺構がいくつも残されています。

そのうちのひとつ、飯能第二小学校の裏手の通称「とのやま」に残されている遺構が、今回の城攻めターゲットの小瀬戸城です。




私たち地元民のオトナからすれば、それこそ「うちの裏山」程度のどこにでもある丘陵の一部。

でも、第二小学校の卒業生に聞くと、子供の頃には結構「とのやま」をかけめぐって遊んだり、授業の一環でも「とのやま」の中に入り込んでいたので、堀切遺構があることも(それが城の遺構だとは知らなくても)、当時から知っていたのだそうな☆

で、どこから登ればいいのか「なんとなく」教わった上で、いざ城攻め出発!





教わったとおりに小学校の東側のフェンスに沿って進んでいき、プールを左に見ながらフェンスの途切れるところまで行って、そこでフェンスの折れに沿って左に向きを変えてぐいっと斜面を登り、2~3m進んだところ(この写真のあたり)に、右の斜面に入っている道があるはず・・・

が、道らしきものがどこにも見当たらない!

しばし、この道を行ったり来たり・・・悩んだ挙句に意を決して「このあたり」とアタリをつけて藪の中へバリバリと分け入り、倒木を踏み越えて歩くことしばし。。。

急に藪が開けて、下草が刈られて手入れのされた斜面に出ました。
ここまで来たら、丘陵の上の方に向かう道もちゃんと現れます。






どうも、子供の数が減って授業でも山に入らなくなったことと、地元の人たちが山に入るときには違う道を使っているために、以前の道が使われなくなって、藪になって埋もれてしまったようです。

ここまで来れば、あとは道をたどりながら、方向を間違わないように斜面に直登し、細長い尾根の上にたどり着くと・・・☆





・・・すぱーん!と尾根が気持ちよ~く掘り切られてる!





堀切の真ん中は、なんとなく土橋といえなくもないような・・・?

この堀切を南側に渡ると、多少南に向って傾斜のある削平地になっています。





この城のあたりの字名は「小瀬戸」といいます。

「瀬」の「戸」というとおり、名栗川がS字状にくねっているところに左右から尾根が突き出して狭まっている場所がいくつもあるのですが、この小瀬戸城はそのうちのひとつ、標高190mほどの細長い尾根筋を掘り切って、尾根の先端を郭としている、とても簡単な造りの山城です。

本郭はLの字のような形をしており、東西20m、南北40m程度の小さな規模で、周囲は、麓にある第二小学校や小瀬戸の集落に向って落ち込む急斜面。

そして城のすぐ下にある第二小学校の敷地あたりは、地元でも「屋敷跡だった」といわれていて、城の西側の麓に武蔵七党猪俣党の岡部氏に関連する宝篋印塔もあったりするので、「新編武蔵風土記稿」の小瀬戸村の箇所に「岡部六弥太忠澄の後胤岡部小右衛門此所に土着せしが・・・」とある、その岡部氏の屋敷ではないかと考えられています。

「岡部忠澄」というのは猪俣党の庶流岡部氏の当主で、源頼朝・義経に従って平家物語の一の谷で薩摩守平忠度を討ち取ったとされる武将。

また、「飯能市史 通史編」によれば、岡部氏の一族はその後足利尊氏に仕え、その後永享の乱に巻き込まれたのち扇谷上杉氏に仕えます。そして、扇谷上杉氏の滅亡後には後北条氏重臣松田氏に仕え、さらに後北条氏滅亡後には徳川氏に使えて関が原の合戦、大阪の陣などで戦功を挙げ1500石の旗本として幕末まで続いたとのこと・・・

へぇ~~~☆

確かにこのあたりから奥の原市場のあたりには、「岡部」さんという苗字のおうちが結構ありますけどね。。。

小瀬戸城の規模は、そんな有力武将関連にしては小さいので、戦国時代の小瀬戸の集落の「村の城」か、小学校が岡部氏の屋敷だったとしたらその「物見」の役目を果たす「見張り台」のような気がします。

なんにしても、この名栗川流域にはこんな来歴のはっきりしない小さな城がいくつもあります。
なぜ、そこにあるのか・・・?考えながら城攻めしたいですね~!