2013年2月10日日曜日

青梅三田氏の防衛線?(勝沼城)

そんなわけで(どんな訳で?笑)、ちょっとお散歩のつもりだったはずなのに、雨も降りそうな夕方近くについフォロワーさんのリプに誘われて、いきなり勝沼城という青梅の山城の1つに駆け上ろうという暴挙に出てしまいました・・・

勝沼城は前回のブログでもちょこっと触れた、青梅三田氏の居城だったお城です。
縄張りはこんな感じ。


光明寺というお寺の裏にあって、城域の斜面が墓地にすっかり侵食されてしまってるような外観です。

青梅三田氏というのは青梅近辺を地盤に山内上杉氏の一武将として台頭、やがて天文年間(16世紀前半)頃には高麗郡・入間郡方面までを領有して勢力を伸ばすようになった有力領主です。

やがて山内上杉氏の勢力が衰えると小田原の後北条氏の傘下に入り他国衆に列せられていた三田氏は、永禄3年(1560年)に越後の長尾景虎が上杉憲政を擁して関東に進出してきた際、再び上杉方につきます。

そして景虎撤兵後、上杉方についた関東の諸将の多くが再び後北条氏の傘下に入る中、三田氏は上杉方として後北条氏に抵抗を続け、最後には永禄6年(1563年)に詰めの城である辛垣城にて攻め滅ぼされました。

この辛垣城と今回まわった今井城、勝沼城の位置関係が、みごとに一直線!
それも丘陵地の南面に、川を前面に立地している・・・つまり南側=小田原方向というわけです。



ちょっとわかりづらいですが地図の上に赤ペンで手書きしてある①が今井城、左のほう②が勝沼城です☆

この地図だと高低差がよくわからないんですが、この辺が生活圏なんでなんとなくわかるのが、「いかにも南の平野部からの攻めに対して横一直線に『とおせんぼ』してる感じだな~ということ。

でも、この背後の丘陵地、青梅のこのあたりではそれほど急峻ではないので(詰めの城にあたる辛垣城あたりはかなり高い山になっているけど)、背後取られたら一発アウトなんじゃないですか~?


ま、いずれにせよ勝沼城は「関東の覇者」といわれる後北条氏に抵抗しまくった「地元の名族」三田氏の本拠ってわけなので、どんなところかな~♪とちょっとわくわくな感じで乗り込んだわけですが・・・

着いたときには、お日さまはもう山の端に隠れ始め、そうでなくてもお寺の裏山で杉の木が鬱蒼と茂っている感じの山の中のこと、なんとなく薄暗くなりかけててちょっと怖い感じ。

とにかく光明寺の裏側、師岡神社の奥の墓地の脇に車を止めて、墓石を横目に草ぼうぼうの細道を駆け上がり・・・

1郭のすぐ南下にある馬出し様の小郭からの眺めはこれ。


すぐ南側を今井城の方へと続く霞川が流れていて、天然の堀の役目を果たしています。
後は・・・





1郭の土塁に1郭から2郭への虎口と、よくわからないけど土橋。
そして、この土橋の下から山の下へ向かってまっすぐ落ち込んでいく堀。

時間がなくてじっくり歩けなかった(文字通り駆け抜けた)ので、いろいろな遺構をちゃんとみることができなかったのが惜しかったです。。。

家からそんなに遠くないし、これはもう一度来なくちゃいけないな・・・(^^;)
次は、ここから三田氏が移っていって立てこもった「詰めの城」辛垣城のハイキングもセットで、ね。