2017年4月30日日曜日

高根城で往時を妄想・・・☆ 青崩峠オフその3

前の記事(「昔の人は健脚だ~! 青崩峠オフその2」)でついにタクシーを呼んでしまった「青崩峠越え」オフ会一行。

タクシーは5~6km離れた水窪の町から来てくれたのですが、朝に平岡から秋葉街道まで乗せてくれたタクシーの運転手さんと同じくとても親切な話好きで、高根城までの道すがら秋葉街道の旧道がどこを通っているかなど、町の様子についてもいろいろ教えてくれました。

そして、一行が何時の電車に乗る行程なのか(飯田線は本数が少ないので)聞き出しながら走っているのが・・・あれあれ?どんどん山の中に入っていくけど、これって本当に高根城に向かっているの???予習していた場所と違うみたいなんだけど・・・!Σ(-□-;)


で、タクシーが到着したのが、上の看板の右の方に書いてある「現在地」の場所。
通常、観光客は駅や町に近い左側の駐車場の方から城に登ることが一般的なんですが、「現在地」からだとお城の主要部は一方通行で見て駅方面に出れる・・・!

電車の時刻の制約があるオフ会一行への、運転手さんのお心遣いでした(^^;)


「現在地」から本丸への行き方まで教えてくれた親切な運転手さんに見送られて、高根城攻め開始!

高根城は今年(平成29年)のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」のロケ地になったからか、「井伊直虎ゆかりの地」と書かれた幟があちこちに立っています。
主人公直虎の井伊家の領地や城は全然別の場所、浜名湖に近い井伊谷なんですけどね~☆


南北朝期の応永21年(1414年)にこの地の豪族である奥山氏が後醍醐天皇の孫の伊良(ゆきよし)親王を守るために創築したという伝承もあるようですが、城内の案内板によれば、発掘調査の結果、出土遺物から15世紀前半に奥山氏によって築かれたと考えられるとのこと。

その後、15世紀末ごろから今川配下に組み入れられたものの、永禄年中(1558年~1570年)に信州の遠山土佐守に攻められて落城したと「遠江国風土記伝」に伝わっています。

そして、元亀3年には武田軍の在番可能な城となっていたことが武田勝頼の高遠城あて28ヶ条の軍役条目から判明しており、遠江から武田勢力が一掃されたことにより廃城となる天正4年(1576年)までの間に、武田氏の手によって、現在見られる姿に大きく改修されたようです。


さて、高根城の麓にある案内板の縄張り図によると、右方向の水窪の町方面から登ると大手口。標高420m・比高150mの通称「三角山」の山頂部にあるので、峠越えした後の疲れた足には坂道の階段を登るのが結構きついよ~!と聞いていたのですが・・・

一行がタクシーで降ろしてもらった搦め手側の「現在地」から「馬の背小道」を登って尾根に出ますが、思ったほど登らずに尾根に出たと思ったら、少々進んだところでいきなり二重堀切がお出迎え☆

次の写真は、その二重堀切越しに三の曲輪(柵で囲ってある部分)を見たところ。
遺構を傷めないように脇の土塁上に木道で通路が作られていて、これは本来この場所にあったものではないとのことです。


そして、反対に三の曲輪から二重堀切を見下ろすと、前の写真のような感じ。
侵入者はバシバシ射落としますよ~!(笑)


1本目の堀切を横から見るとこんな感じ。断面V字の薬研堀・・・?
2本目の堀切は右側の三の曲輪を取り巻くように奥がカーブしています。


案内板によれば、この二重堀切は中央に設けられた約4mの土塁を含めて幅約29m。深さは最深部で7~8mあるそうで、この堀切をもって高根城の場内と場外が区切られていたそうです。


三の曲輪は周囲を柵で囲んでいます。
この柵を含め、高根城では井楼櫓や城門などが建てられていますが、これは平成6~11年に行われた発掘調査の結果を元に復元考証されているのだそうです。

ということは、高根城が城として機能していた時代にはこんな感じだったということなんだなぁ・・・しみじみ。



三の曲輪と二の曲輪の間の堀切。ばしっと切れてます☆
二の曲輪も柵で囲まれてます。三の曲輪よりも多少高いかな?


三の曲輪から二の局輪の方を見ると、通路の奥が階段を登って一段上がるようになっており、その向こうに何か小さな建物が建っています。

また、よく見ると上がったところの左側がら二の曲輪に登れるようにはしごがかかっているのが見えます。


この階段やはしごも形は安全のため当時のものとは違ってますが、設置場所は当時と同じところに作られているそうです。

そして、きっと二の曲輪の柵ごしに見下ろす三の曲輪。当時もこんな感じだったのかな?!



二の曲輪に大きな木が一本立っています。
木の幹につけられた案内によるとこの木は、発掘調査の合間によく虫取りをしていた中井均先生(滋賀大学教授・織豊期城郭研究会代表)にちなんで「中井の木」といわれているそうです☆

二の曲輪から見下ろすと、先ほど遠くに見えていた小さな建物が見下ろせます。
木橋、城門そして柵です。


この木橋や城門は発掘調査で検出された遺構そのものの上に復元されたものです。
三の曲輪側から通路沿いに本曲輪へ行こうとする敵兵をここで足止めするとともに、二の曲輪からばしばし撃ち落すことができますね♪

なお説明版によれば、城門の本丸側で検出された石積み遺構は県内で唯一の武田氏の石積み!


この城門を突破すると、いよいよ城内で一番高い本曲輪!
本曲輪に入るといくつかの建物が建っていますが、このうち神社風の建物は復元されたものではないそうです。

ただし、建物裏の土塁は往時の遺構のようで、崩れないように表面がコーティングされていました☆



本曲輪内に大きくそびえているのが井楼櫓。これは検出された遺構の上に復元されたものです。このほかに倉庫のような建物とその裏手の柵、そして曲輪周囲の塀と大手口および裏口の城門が検出・復元されています。


復元された塀の狭間からのぞくと、二の曲輪下の城門がよく見え(撃ち落せ)ます!

案内板にあった本曲輪概略図によると、遺構の検出はなかったものの礎石の散乱状況から、神社風の建物があったあたりに礎石建ちの主殿があったと推定されているようです。


大手口の城門を出ると、目の前に水窪の町がどーんと広がっています!

山々の向こうの信州から青崩峠を越えた秋葉街道は、真正面の谷間から水窪に入り、高根城の真下を通って浜松方面に抜けていきます。

つまり高根城はこの秋葉街道を押さえる位置にあって、信遠国境の要となっている城というわけですね☆


さて、大手口の城門といかにもコーティングで守られている感満載の土塁を後に、最初の案内板にあった「登城の小道」を、一気に水窪の町に向かって降りていきます!


・・・搦手口から登ったときと比べて、格段にハードでした(^^;)
青崩峠越えでへろへろのところにこちらから登るんじゃなくてよかった☆改めてタクシーの運転手さんに感謝です!



最後、木の階段を降りきると車が20台くらい置ける駐車場。車や電車で来る場合には、やはりこの駐車場のある大手口方面から登るのが便利だし、一般的なんでしょうね。。。

さて、本日予定の行程はこれで終わり。最寄り駅はJR飯田線向市場駅になります。
・・・が、向市場から電車に乗るには時間的に空いてしまったので、特急の停まるひと駅信州寄りの水窪駅まで歩くことにしました。


そういえば高根城までのタクシーの中で、水窪の商店街が古い街道だって運転手さんが教えてくれてたっけ・・・!

向市場駅と水窪駅の間にあるその商店街に行ってみると・・・?


・・・商店街のはずなのに、ほとんど商店がない(><)
道自体はなんとなく昔の風情を残しつつ商店街の中を抜けて行き、やがて車道がクランクで曲がっていくところにまっすぐ「塩の道」という階段が。。。


案内板によると、この道が「塩の道=秋葉街道」で間違いないようです。
風情のある階段を登って高台の道をしばらく歩くと、さらに上に登っていく道と、下に下る道との分岐に出ます。


秋葉街道は、この上に登る細いほうの道を行くようです。
古い道はやはり川沿いではなく、地盤のしっかりした高台を通っているんですね。

が、水窪駅は川の方に下って行く道なので、ワタシたちはここで秋葉街道ともお別れ。


川まで降りてしばらく川沿いの道を駅方向へ向かって歩いていると、高根城まで乗せてもらった「水窪タクシー」の看板が。
あれ?ここが事務所だったんだね~♪と話しながら歩いていたら、その声が聞こえたのか中から出てきたのが当の運転手さん!なんかほっこりしてしまいました(^^)v

そうこうしているうちに歩行者専用の橋を渡り、対岸の高台にある水窪駅へ。


橋の上からは、秋葉街道が通っている高台の(ちょうど山の中腹の家が立ち並んでいる)あたりもよく見えます。
実際にはそこまで行く前に、川のほうへ降りてしまったのですが☆


そして、無人駅なのに特急が停まる水窪駅。
しかも夕方の特急伊那路4号は、終点の豊橋で新幹線に接続しているそうです。

これで一路関東へ帰還。
「信州側から青崩峠を歩いて越えて遠州・高根城を攻める(?)」秋葉街道歩きオフ、予定していた全行程を歩きとおすことはできなくて残念でしたが、それでも「その1」「その2」の記事で書いたとおり、自分的にはよく歩きました~!

それにしても、昔の人は健脚だったんだなぁ・・・☆(苦笑)


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