2017年4月30日日曜日

昔の人は健脚だ~! 青崩峠オフその2

さてさて、前の記事(「武田軍も越えた?青崩峠は遠い・・・☆ 青崩峠オフその1」)でせっせと歩いてきた秋葉街道も、いよいよ「登山道」になってしまったわけですが・・・


ここを武田軍は本当に登って行ったんだろうか・・・?

そんな疑問もほのかにココロに芽生えつつ、ともかくも一人ずつしか歩けない急な上り坂を登っていきました(><)


この急坂の上り口で、上から降りてくる100人規模の団体さんに遭遇しました。
ちょうどこの日は地元の遠山郷の観光協会の「青崩峠古道歩こう会」の開催日だったようです。

浜松側からの峠越えで、私たちのスタート地点近くがゴールの行程だったようですが、かなりご高齢の方も多く、しかも視覚障害者の方もいらっしゃるので、この先かなり道も悪い場所があるし距離もあるのに、大丈夫かなぁ・・・?


急坂を上ってからいくつかの沢を渡ったところに「中央構造線の露頭」があるというネット情報を得ていたので、地図を見ながら探して見ました・・・が、案内板は見当たらず、やっと見つけた手がかりがこれ。よ、読めない☆(><;)

で、矢印の指し示した方向を見てみると・・・


ネット情報に一致する崖面。
どうもこの崖面に露頭があるらしいのですが、まったくわかりません☆


すぐそばの斜面には「青崩神社」という札の掲げられた、古びた神社。
旅人が通行の安全祈願をしていた社なのでしょうか、お社の傍らには山神さまの石碑がありました。


さらに登っていくと、斜面一面にまるでスキー場のゲレンデのように広がる細かく崩れた青い岩盤の崖!

そして、登りきったあたりに切通しが見えてきます。
真田と松代の間の地蔵峠にも似た雰囲気かな・・・?(→記事はコチラ


切通しまで登りきるとそこは・・・


信州と遠州の国境、青崩峠到着~!
後方にはこれまで通ってきた信州遠山郷あたりの秋葉街道・中央構造線断層谷が見え、そして前方には遠州・浜松方面の谷と山々。

三方ヶ原合戦の時には、武田軍もここから遠州に向かって駆け下って行ったのでしょうか・・・!


さて、峠の上でお昼ご飯・・・と思ったのですが、峠の上は簡単な木の展望テラス?はあるのですが、みんなで腰をかけるほどの広さはないし、広く展望が開けてるわけでもないので、お昼時ではありましたが、そのまま行程を続けることに。

青崩峠から細い山道をしばらく下ったところで、兵越峠からの山道が合流します。
そして合流点のすぐそばには・・・


なんと石畳と石積みを巡らした削平地!

地図で見ると兵越峠越えの道は峠からまっすぐ水窪川に沿って南下するのが自然な気もするので、峠越えのために隊を2手に分けたとしたら、ここで合流するとは考えにくいですが・・・見事な削平地なのでちょっとだけ妄想しちゃいました(^^;)


案内板によるとこの場所は「建次屋敷跡」といって、秋葉街道が盛んな時代(ということは江戸時代?)に茶屋があったものの、その茶屋は盗賊により悲惨な目にあったという話があるようです。。。


建次屋敷を過ぎると、人がすれ違うのがやっとくらいの幅の見事な石畳が、斜面に一筋くねくねと続いています。


途中、人の背丈よりも高い石垣(石積み)のある段々の削平地もありました。
もしかしたら、何か建屋があったのかもしれませんね!




石畳はさらに続いています。
よく見ると、道が埋もれないようにか、端が石でしっかり土留めされているようでもあります。


石畳を一気に降りてきたなというあたりで、道の傍らに何か杭のようなものがにょきっ!と建っていて、そのそばに平べったい岩。
杭をよく見ると太い文字で「武田信玄公腰掛岩」と書いてあります。

どうやら三方ヶ原への進軍途中に、信玄が休憩のためこの岩に腰掛けたという伝説があるようです。

そういえば、甲信をつなぐ「信玄棒道」の方にも数ヶ所「信玄腰掛け石」なるものがありますが、これも同様のものかもしれません。


「腰掛岩」からまもなく、「塩の道」の大きな石碑のある小さな広場。湧水がありましたが、飲めるのかな・・・?

ここまでで人しか通れない山道は終わり。ここからは車の通れる舗装路に出ます。


道沿いの林の中に立派な祠があるな~と思ったら、案内板に「木地師の墓」とありました。

「木地師」とは、ろくろを用いて椀や盆などの木工製品を加工・製造する職人のことで、良質の木地の素材が豊富にとれる土地を求めて点々と移動していたようです。

そういえば、秋葉街道も青崩峠を越えた浜松側。天龍区のあたりは天竜杉の産地でしたっけ!

そのまま進むと、またも道の傍らに由緒ありげな祠。
これも木地師の・・・?と思いながら案内板に目を通すと・・・


なんと、磐田市のイメージキャラクター「しっぺい君」のモデル「しっぺい太郎」のお墓!

「しっぺい太郎」は長野県駒ケ根市では「早太郎」と呼ばれています。
磐田市見附天神と駒ケ根市の光前寺に語り継がれている民話ですが、その昔、遠州見附の天神で怪神に娘を生贄に捧げる習わしが続いていたところ、怪神が苦手とする信濃光前寺の隼太郎犬を借りてきて退治してもらったということです。

そして、深手を負った早太郎が光前寺に戻る途中で息絶えたのがこの場所だそうな・・・

早太郎のお墓のすぐそばには、この山の中にしては立派なお社と社務所と東屋。
諸国行脚の途中で脚を患った鎌倉の北条時頼(謡曲「鉢の木」で有名?!)を治療した庄屋を祭ったという、足神神社です。


社務所が開いていたので、さっそく御朱印を頂戴しました♪
聞くと、この日はたまたまイベントがあって社務所を開けていたとのこと。

峠で行違った「青崩峠古道歩こう会」のスタートが神社の境内で、神主さんが激励のご挨拶をされたのだそうです☆らっきーでした!

社務所の隣の東屋で、峠の上からお預けになっていたお昼ご飯にやっとありついて・・・

疲れた足を休めて一息ついたので、さて出発。東屋からちょっと下がると、そこでペットボトルになにやら水を汲んでいる人がいます。


しめ縄の張られた湧水があるのですが、「足神様のご神水」だそうです。
まろやかな軟水で、年間1万人以上もの人が水を汲みにやってくるそうです。

穴の奥の方でちょろちょろ~としか出てこないので汲むのに苦労しますが、ワタシたち一行もなんとかペットボトルに補充しました(^o^;)

足神神社からしばらく下ったところで、青崩峠直下から足神神社の脇を通って流れている翁川を渡る橋のそばに、「さば地蔵→」とかかれた木の杭発見。


海のない信州方面に海産物を運ぶ人々が、道中で荷物が腐らないように祈願して建てたともいわれる、お魚を抱えたお地蔵様のようなのです・・・が、矢印の方を見ても道からずっと離れた場所に祠が見えるだけ。残念!(><)

そして突如、ぽっかりと山肌に開いたトンネルと、そこから伸びている新しくて広い道!
兵越峠方面から迂回してきた国道152号線と草木トンネルです☆


ワタシたちオフ会一行がせっせと峠から歩いてきた旧道も、やがて草木トンネルに続いている新しい道と合流。

この合流点からJR飯田線の水窪駅まで約10km。この先はこのオフ会の一行にとって胸が躍るような見どころも特段ないのですが、交通機関がないのでひたすら歩くしかない・・・!



下界に降りてくると、コンクリートの照り返しも相まって、峠越えで疲れた体にだんだん暑さがこたえてきます・・・

それでも途中の田園風景を楽しみながら、てくてくてくてく・・・・4~5kmほど歩いたところで、そろそろひと休みしたくなって、高根城まであとどれぐらいかかるのかなと、ぐーぐる先生にお伺いを立てて見たら。

「あと2時間」?!?!

この時点で2時を回ってしまっていて、峠越えの疲れも出てきているので、このままでは高根城まで行き着けない!

公共交通機関もないし、どうしよう?

と、考えながらさらに歩いていると、ふと目に入った水窪町のコミュニティバスの停留所?に貼ってあったバスを運行しているタクシー会社の連絡先。

ちょっとお金はかかるけど電話でお迎えをお願いして、高根城までタクシー利用で飛んでいくことにしました☆

という訳で、当初予定通り歩き抜くことはできませんでした。が、古の軍勢が歩いたであろう街道筋はしっかり堪能できたかな♪

それにしても、昔の人は健脚だったんだなぁ(^^;)
高根城の記事は、次に続く・・・ 「高根城で往時を妄想・・・☆ 青崩峠オフその3


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