2017年1月31日火曜日

「戦国を生き抜いた武将たち」展・・・からの鎌倉古道

埼玉県立嵐山史跡の博物館で、平成28年(2016年)11月1日(火)~平成29年(2017年)2月19日(日)の間、企画展「戦国を生き抜いた武将たち」を開催しています。

天文15年(1546年)の河越合戦から天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで戦国大名としての後北条氏が滅亡するまでの時期の、北武蔵で活躍した北条氏一族と国衆たちの動向をとりあげていて、戦国時代・武蔵国・後北条氏が大好きなワタシにとって、めっちゃうれしい企画!

なんとか仕事の休みをとって、嵐山史跡の博物館へとんでいきました~♪



平日の午前中なせいか、館内はがらがら。
受付のお姉さんにいろいろお聞きしても、いやがらずに対応していただきました(^^;)

例によって館内は撮影禁止。なので、まずは配布されている展示目録をGETし、図録を購入しえ両方で概略をチェック。

ついでに、つい数日前に開催されたシンポジウム「関東の戦国末期を再考する」の資料集も、教えてもらって購入。

シンポジウムあったなんて知らなかった~(><)


さて、企画展。北武蔵の「戦国時代」を享徳3年(1454年)の享徳の乱の始まりから天正18年(1590年)の小田原攻めの終結までとして、天文15年(1546年)の河越合戦を境に前期・後期に分類し、その後期部分についての
 ①小田原北条氏による支配  ②北武蔵の国衆たちの動向
 ③出土資料からみた戦国時代の城 ④小田原合戦と武将たち
をとりあげています。

特にワタシ的には①と②にへばりつきになりました☆

まず、①「小田原北条氏による支配」。
北条家の領国経営について、北条好きにはおなじみの小田原衆所領役帳や、諸役を賦課するときの基準数値が書かれた「御検地音書出」、軍役内容を定めた「着到状」などでの展示・説明がありました。

ここでワタシ的に一番ツボだったのは、交通・通信網がどうであったかの説明の部分で展示されていた、大永4年(1524年)4月の伝馬制札(北条家印判状)。

写真は不可ですが、展示されていた「翻刻」によりますと、文書には以下のとおり・・・

「制札  たいまの宿
  右、玉縄・小田原よりいしとゝ もろへわうふくのもの、とらの印判をもたさる者ニ、てん馬おしたていたすへからす、もしおさへてとるものあらは、きつとめしつれ、おだわらへ成共、玉なわへ成共、こすへき者也、仍如件」

つまり、「玉縄(鎌倉市)・小田原から石戸宿(北本市)・毛呂宿(毛呂山町)を往復する場合、北条家の虎の印判を捺印した手形を持たない者は伝馬をしてはならない」といった内容が書かれているようです。

そして、文書の最後には日付とともに「禄寿応穏」の虎の印判がばーん!

これはもしかして・・・以前毛呂竜ヶ谷城の記事で触れた「当麻宿・関山文書」の原本?!
と、よくよく展示解説をみると(複製)の文字。原本は埼玉県立文書館にあるようです。

機会があったら原本を見に行きたいですね~!その前にまずは読めるようになりたいですけど☆

②の「北武蔵の国衆たちの動向」では、特に武蔵松山城の上田氏、岩付の太田氏、忍の成田氏、羽生の木戸氏にフォーカスし、判物や書状などを展示しつつ、それぞれの城と城主・主家の変遷についてわかりやすく説明されているのですが、どの城も城主・城代や主家がその時期時期で変わっていて、北条と上杉の最前線「境目」感が満載です!

特に面白いのが忍城で、ほかの城は城主・城代と主家がリンクして変遷しているところ、忍城の場合は、城主の成田氏が築城して以来忍城を中心として領国を形成し、山内上杉氏、小田原北条氏、越後上杉氏と主家を変えながら、国衆として戦国時代を生き抜いています。

また、岩付城の場合は、天文16年(1547年)~永禄7年(1565年)に城主だった太田資正が扇谷上杉氏→小田原北条氏→越後上杉氏と主家をめまぐるしく変えています。

そういえば、太田氏関連ということで展示されていた「栄俊筆 松橋血脈裏書」という文書が、非常にインパクトがありました☆

これは東松山にある巌殿山正法寺(坂東三十三観音第十番岩殿観音)という真言宗の古刹の、中興開山となった栄俊が、戦火によって消失した堂塔伽藍を再興したことを天正2年に宗派の「血脈」の裏に書き付けたもの。

この戦火は太田美濃守(資正)と北条氏康による永禄5年(1562年)の松山城攻防戦の際のことらしいのですが、その戦いに至るまでの経緯も、北条氏綱の武蔵進出・河越合戦から越後上杉氏の小田原攻め、氏康の三田氏攻めなどに触れていて、かなり生々しくてしばらく釘付けになってしまいました。。。

さて、展示を最後までじっくり見終わったら、埼玉県立嵐山史跡の博物館は菅谷館の中に建ってますので、せっかくだからちょこっと寄ってみることに。

●菅谷館


菅谷館は、鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡といわれています。
また、長享の乱以後は山内上杉氏の拠点となり、天文15年(1546年)の河越合戦以後は小田原北条氏によって使われていたようです。

以前にも何回か訪れていますし、本日パンプスのため(←)、菅谷館はとりあえず重忠公の像にご挨拶と、本丸に登城のみで撤退☆


扇谷・上杉両上杉氏の「境目」であったせいか、はたまた北条氏の手が入っているのか、「菅谷城」と呼んでもおかしくない堂々たる堀や土塁に、いつきても感動です!

本丸の堀の折れがきれいだ~☆
しかも、前回来たとき以上(前回記事コチラ)に草がきれいに刈られていて、堀だけでなく林の奥までばっちり見える!



本丸土塁もばっちり見えて、思わず登りたくなっちゃいます!(禁止されてます!)


う~ん、パンプスで来たことを後悔・・・


●鎌倉古道


菅谷館からは、以前も辿った館のそばを通る鎌倉街道上道(前回記事コチラ)を通って、地元方向へ。

愛車に乗り込んで菅谷館の脇から鎌倉街道に入り、都幾川を渡って、まずは帯刀先生源義賢(木曽義仲のお父上)のお墓にお詣り。


残念ながら、実はこの後に用事があって時間がないので、すぐそばの大蔵館はパス。。。

源義賢公のお墓からさらに鎌倉街道を南下、将軍沢から峠を少し登ったところにある鎌倉古道の掘割状遺構に行ってみると・・・


前回来た時にはめっちゃ藪藪で「ココロの目」を駆使して見ていた遺構が、藪がなくなってめちゃくちゃ見やすくなってる~!!Σ( ̄□ ̄;)


全長200mほどの遺構ですが、今が見るチャンスかも☆

そのまま車道(街道)を南下すると、足利尊氏と宗良親王を奉じた新田義宗(新田義貞の三男)の戦い(武蔵野合戦)の最終決戦地といわれる笛吹峠。

先ほど資料のところで出てきた岩殿観音(坂東三十三観音第十番巌殿山正法寺)と、同じく坂東三十三観音の第九番都幾山慈光寺を結ぶ「巡礼街道」とのクロスポイントでもあります♪


車道が鎌倉街道、交差して林の中を通るのが「巡礼街道」です。

ここでひとやすみしたら、さらに鎌倉街道を毛呂山に残っている鎌倉古道遺構まで一気に南下。


ここも前回来た時には(前回の記事はコチラ)「ココロの目」を駆使しなきゃ・・・な大藪だったのに、今回はなんと見やすいこと!


冬だから・・・?いや、この綺麗さはきっと地元の方々がお手入れしてくださっているものと思われます。

地元の方々にも鎌倉古道のことが知られるようになってきたのならいいなぁ・・・
このまま良好な保存がされていきますように!

というわけで、駆け足の展示会&菅谷館・鎌倉街道でした。
鎌倉街道遺構は、もし古道好きの方がいたらいつかご案内したいですね~♪


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